報酬は現物支給を希望します。
決して一目惚れではない。
たとえその髪が噂通り蜂蜜色に輝いていたとしても。
たとえその肌が噂通り真珠のように白くなめらかで透明であったとしても。
たとえその唇が噂通り薔薇のように赤く色づいていたとしても。
たとえその体が噂通り豊満な胸とくびれた腰と突き出た尻と細い足首を象っていたとしても。
彼女の真の価値は中身にあると思っている。
『素晴らしいですわ。そんなにも由緒正しいものをお持ちだなんて。それだけ素晴らしいものをお持ちですもの、それら以外で貴方様が手にされたものは他に何があるのでしょうか? さぞご立派なものをお持ちなのでしょうね』
感嘆し、うっとりと褒め称えながら、それらは全部『他者の手柄』に過ぎず、自分の力で手に入れたものは何があるのかと、美しい微笑みの刃を向ける鋭利さに俺はやられた。
ビュレイス伯爵が愛人に生ませたエディアナは、その容姿からか噂話に事欠かない存在だった。
曰く、母親譲りの美貌だが内面は母親と違って無垢な魂で、下々の男の手垢に塗れさせるのはもったいない。美しいものは価値のわかる人間の手元に置いておくべきだ。
なんてことはない。要は庶民の男と結婚させるくらいなら自分の愛人にしようというもので、流れ聞く下世話な内容にうんざりしたものだ。
そんな”お人形”にどんな価値があるのかと俺は内心馬鹿にしていた。
だが、貴族社会での繋がりを重視している兄の来客からの下衆な秋波を見事に躱し、且つチクリとした楔を忘れない言動が色眼鏡で見ていた俺の目を覚まさせた。
家督を継ぐ長男でもない俺は、将来の食い扶持を自分でどうにかしなければいけなかった。
もちろん父親が持っている二つの爵位のうち男爵位を受け継ぐ可能性は高かったが、あくまで可能性だ。それに男爵になれば嫌でも苦手な社交界に出なくてはいけない。もちろん侯爵家に生まれた者としての教育は受けてきたが、俺は貴族社会独特の雰囲気がどうしても好きになれなかった。
だから俺は成人を迎える前に近衛兵に志願したのだ。
一般兵士とは違い、王宮での警護や王族の外遊や外出の護衛も務めるので近衛兵には知恵と武力だけでなく、相応の品位も求められる。
だからか、大体は爵位を継承出来ない貴族の次男以降が率先して志願する職なのだが、当然ながら倍率も高くそれなりの実力が必要になる。しかし幸いにも俺の性に合っていたのか、王女の護衛に回される程度には認められていた。
ただここでも侯爵家の人間であることが災いしてか、王女とのあるはずもない恋物語を捏造されたりと頭の痛いことも多々あった。
それでも王宮での仕事は楽しかったし、実家に帰る特段の理由もなかったので自然と家への足は遠のき、母にうるさく帰宅を催促されない限りは帰ることもなかった。
あの日もそうだった。
『新しい接客使用人を受け入れたので、あなたにも紹介するから早急に帰ってらっしゃい』
接客使用人とはまた……どこぞの貴族の、行儀見習いという建前での結婚相手探しに手を貸すとは酔狂なことを始めたものだと、もし帰らなければこちらに出向かれて氷の礫のごとく小言を言われること請負の手紙に溜息を吐きながら久しぶりに邸に足を向ければ……信じられない人物を紹介されたのだ。
「ビュレイス伯爵からお預かりしたエディアナよ。エディアナはロディウムのことは知っているかしら?」
「もちろん存じ上げております。女性なら誰もが憧れる近衛騎士でいらっしゃいますもの。私のような者がお目通り叶うなんて信じられません。ロディウム様、先日より幸運にも侯爵夫人に接客使用人として雇っていただきましたエディアナと申します。至らぬ点も多いかと思いますが、精一杯努めさせていただきますのでよろしくお願い申し上げます」
母に紹介され、恥じらうように言葉を紡ぎ、美しい所作で礼をする彼女に噂話に眉を潜めていたのも忘れて見惚れてしまった。
そのことに一瞬後に気づいて内心舌打ちするが、表面上は軽く頷いて牽制しただけだった。
「いや、私はほとんど帰ってこないからいない者と思ってくれていい」
暗に結婚相手として見るなと告げたようなものだが、彼女は言葉もなく花が綻ぶように微笑った。
なぜそのような笑顔を向けられるのかわからず、噂通りの頭の緩いお人形なのかと眉を顰めた俺に母は冷たい一瞥をくれた。
「何を言ってるのですか。確かにあなたは王女の護衛という重責を担っていますが、アシュリー家の一員でもあることを忘れてはいけませんよ。折々にはきちんと帰っていらっしゃい。……行きましょうエディアナ。今日の予定は?」
「はい。本日は……」
自分が帰ってこいと言ったくせに、本当に紹介だけしてさっさと引き上げようとする態度に呆気に取られながらも、俺はその母に微笑みながら付いていく彼女と母を見送るしかなかった。
……その後だ。俺も付き合わされた兄の来訪客への美しい刃を見たのは。
『え? ロディウム様ですか? はい。先程初めてお会いいたしまして……お噂通りシファール様のようで驚きました。私のような学のない女でもその名前を知らない者はいないと言われている英雄ですが、お会いしましてロディウム様がなぜ王女様の護衛をお任せされたのかよくわかりました。とても誠実で頼もしいお方ですもの。聞き及びました所では近衛兵から筆頭騎士へと昇格されたとか……その身一つでそれだけ努力されて認められるだなんて素晴らしいと思います。……まあ嫌ですわ、お恥ずかしい。ご本人を前にして私みたいな者が偉そうに……お気を悪くさせてしまったなら申し訳ございませんロディウム様。無知な女の戯言と寛大なお心で聞き流してくださいませ。……まあ、お茶もなくなっておりますね。気が利かず申し訳ありません。すぐにおかわりをお持ち致しますね』
失礼します、と恥ずかしそうに笑って退席したその背中はけれども凛としていて、己の失態を恥じているようには到底見えなかった。
彼女は社交界の華の兄と較べて俺を無骨だの無粋だのと腐していた相手に対して、さらりと俺を褒めてみせたのだ。それも救国の騎士になぞらえて。
俺がシファールと例えられているなんてついぞ聞いたことが無い。
ただ、身分もないただの一兵卒から英雄になった男は知恵者の猛者であり、国を救わんとするその真摯な姿勢に兵や民が呼応して姫を守り国を救ったとされているだけに、そんな男と同じだと言われたことが嬉しかった。
両親は早々に諦めているようだが、周囲は侯爵家の人間であり、また王の覚えもめでたい俺と縁を持ちたいがために社交界に引っ張りたがる。あわよくば娘をと露骨な者もいるくらいだ。
そんな状態だから常から賛辞は受けていたが、どうせ世辞と聞き流していた。
それなのに、なぜかエディアナからの言葉だけはその後もずっと胸に温かく残っていた。
それからだ。休暇のたびに自然と邸に足が向くようになったのは。
別に何をするわけでもなく、エディアナと個人的な会話をするわけでもない。
ただ時折交わす会話や、俺だけしか知らないような姿を見るのが楽しかったのだ。
休暇と言えども毎日の日課である走り込みや基礎運動、素振りは欠かさない。
その日もまだ日が出たばかりの冷たい空気のなか準備運動をしていれば、視界の端に動くものを見つけた。
時間的に下働きの者かと思ったのだが、それにしては人目を避けるように足早に歩いている。そもそもこんな所に用などあるはずもないと不審に思って様子を見ていれば、どうも下働きには見えない。姿勢が良すぎるのだ。そしてその姿勢に見覚えがあった。……エディアナだ。
目を凝らせば確かに彼女で、何をしているのかと観察していれば……なんてことはない。目的は俺と同じだったのだ。
走るのではなく、早足で一定の距離を歩き、体を伸ばし、また歩く。
そんなことを数往復して部屋に戻る頃には真珠の頬は綺麗に色づいていて、汗を拭う所作で化粧すらしていないことにやっと気づいたくらいだ。それなのに美しさは普段とまったく変わらなかったことに密かに驚いていた。
何回目かのときにとうとう俺に気づいた彼女が驚いて恥ずかしそうに謝罪したが、俺は彼女の行動を賞賛した。
「不摂生な生活よりいいじゃないか。何も恥じ入ることはないだろう?」
食べもせず鶏ガラのような体や、食べすぎて動きもしない豊満すぎる体等をコルセットで調節して凹凸を作るよりよほど健康的で、好感を持ちこそすれ非難するようなことは何もない。
ただし、注意することは忘れなかった。
人目につかないためと陽に焼けないように早朝にしていることはわかるが、その分危険もあること。何かあればすぐに大声を出して助けを求めること。
それに起き抜けにすぐに動くのではなく、きちんと体を温めて、水分補給をしてからすることの念を押した。
「体を維持するために体を壊しては元も子もないだろう?」
そう俺は彼女を心配して至極真面目に言ったつもりなのに、彼女はいつもの優雅な微笑みはどこへやら、見たこともないぽかんとした表情のあと小さく吹き出してくすくすと笑いだしたのだ。
「……申し訳ありません。せっかくロディウム様がご心配してくださったのに笑うだなんて無作法をいたしました。……つい分を忘れて嬉しかったものですから……」
しかしそれも短い時間のことですぐにいつもの優美な微笑みに変わったのだが、このときの飾り気のない純粋な笑顔こそが彼女の素であったのだと、あとになってわかった。
そんな俺の変化に家族が気づかないはずがない。
特に昔から目敏い母親にはすぐに察せられてしまった。
「最近いつになく帰ってくるかと思えば、エディアナと早朝の密会をしているとか」
密会という言葉に危うく茶を吹き出しかけたが、よく知っている笑みを浮かべて見てくる母親に背筋が冷たくなった。母がこんな顔をしているときは何かあるのだ。
「……人聞きの悪いことを言わないでください。ただお互い体を動かしているだけです」
ただの朝の運動だ。疚しいことは何もしていない。
「……その言葉も聞きようによっては十分外聞が悪いと思いますけれどね」
まるで蛇が獲物を甚振るような態度に、この母親に育てられれば大概のことは流せるようになるものだと、つい遠い目になってしまう。
けれどもそんな俺にお構いなく、母は優雅に紅茶に手を伸ばした。
「……まあ、そんなことはどうでもいいのです。やっぱり私の目に狂いはなかったということですから」
音も立てずに置かれたカップを見ながら、どうでもいいのなら止めてほしいと思っても無駄だ。
「……どういうことでしょう」
人払いをした用件は一体何だというのか。早く本題に入って欲しい。
エディアナの名前が出てきたということは彼女も何か関係しているのだろうが、思い当たる節が何もない。
だが次の言葉に思わず身構えた。
「ロディウム。あなたはエディアナを他の男に穢されても良いと思っていますか」
「……どういうことです?」
声が低く、剣呑になっていることが自分でもわかった。
(彼女が穢される? あの可愛らしい乙女が? 他の男に?)
想像しただけで、相手もいないのに今は帯びていない剣を抜きそうになる自分がそこにいた。
「そのままの意味ですよ。プロッド商会はそう遅くないうちに潰れるでしょう。多額の負債を残して。そうなればエディアナすら売るのがあの家です。ビュレイス伯爵の本心はどうかわかりませんが、夫人や一族の手前援助するとも思えませんし、あっちはあっちでエディアナを高く売ることに腐心するでしょう。先に手を打っておいて良かったと我ながら自画自賛します」
「……どういうことです」
エディアナが本人の意思とは関係なく周囲の思惑でどうにかされる状態に陥るということはわかった。
だが先手を打っていたとはどういうことか。
「……あなた達はビュレイス伯爵からの申し出でエディアナがこの家に来たと思っているようですが、実際は私がビュレイス伯爵夫人に掛け合ったのですよ。愛人の子とは言え、このままプロッド商会にいてはどこかの貴族に買われるかもしれない。そんなことにでもなればビュレイス伯爵家としても恥になる。けれども私のところで預かってから然る家に嫁がせれば伯爵家の懐の深さの宣伝になるのでは、とね」
駒として有用に使ってはどうか。そう持ちかけたのだ。
「……母上はビュレイス伯爵家を嫌っているかとばかり思っておりましたが」
それなのになぜ。
俺の素朴な疑問に母は澄ました顔のまま、また一口紅茶を飲んだ。
「嫌いですよ。あんな家。それでも不肖の息子に丁度よい娘がいたのだから仕方がないでしょう?」
「……はい?」
カップを置いて、楽しいのか嘲笑っているのかよくわからない笑みをうかべて息を吐いた母親の言葉に虚を突かれた。
不肖の息子、が指すのが自分だということはわかる。だが丁度よい娘とは一体どういうことか。
眉間に皺が寄った俺を母は兄に向けるような目で見た。……要は出来の悪い子を諭す目だ。まあ母からすればほとんどの人間は出来が悪いように見えるのだろうが。
「……世間ではエディアナの容姿ばかりが取り沙汰されていますが、あの子はとても聡明な子です。そうだろうと思って引き取った私の予想以上に。その上恋愛ごとに興味のないあなたすら射止めたのですからビュレイス伯爵夫人に阿った甲斐もあったというものです」
この母が人におもねるなど何があってもないと思うが、反論は心の中だけに留めておいた。
それよりも……言われて初めて気づいたことの衝撃に言葉も出なかった。
「……相変わらず朴念仁なのはあなたの美徳ですが、その美徳に気づいてついて来てくれて補佐してくれるような娘はなかなかいないのですよ。……あなたも自分でよくわかっているでしょうが。その点エディアナはこれ以上ないくらいにあなたを助けてくれるでしょう。あの子なら男爵領くらい一人でも十分治められるでしょうしね」
預かるようになってから領地を治めることについての話をしてもきちんと理解していたし、領民や領主との関係も理解していた。
「あの子と結婚すればあなたは好きなだけ王宮で騎士として勤められるし、あの子ならたまに顔を出さないといけない社交界でも領地の運営でもあなたの顔を立てて完璧に立ち回ってくれるでしょう。あなたにとってもアシュリー家にとってもこれ以上ない人材です」
だから。
「さっさと手柄でもなんでも立てて彼女を他の男に取られないようにしなさい。王命なら誰も逆らえませんからね。もちろん求愛して応えてもらえるだけの誠意も見せるのですよ。彼女はああ見えて頑なです。ああ、一応言っておきますが時間はそれほどありませんよ」
この機を逃したのなら絶縁だと思え。そんな無茶苦茶なことを言うだけ言うと母は出ていった。
その後、母に言われたのか、エディアナが食事に呼びに来るまで俺はずっと頭を抱えていたが、己の気持ちに気づいてから見る彼女に違う意味で頭を抱えたくなったのは言うまでもない。
時間がないと言われても、猶予も状況もわからなければ行動に移せるはずもない。俺は自分が世事に疎いことを嫌というほど知っている。
しかも手柄を立てろなんて簡単に言われても問題が起こらなければ立てようもないのだ。俺は途方にくれるしかなかった。
だが、幸か不幸か天は俺に味方した。
王女の嫁ぎ先である国へ挨拶に向かう途中で、王子を排斥しようとする勢力に襲われた。事前にきな臭い情報を掴んでいたこともあって王女を無事守り抜けたこと、思いもよらず敵の首魁を討ち取ったことで王から褒美を賜ることになったのだ。
俺は褒美の金銭や拝領を断り、唯一つだけを願い出た。
その内容に周囲からどよめきがあがったが、王は笑みを深くして頷いた。
「よかろう。そなたの願いを認めよう。それでは先程言った領地の拡大分は結婚祝いとしてエディアナ・ビュレイス……いや、エディアナ・アシュリーとなる者へ贈ることにしよう。夫の働きは妻の働きでもあるからな」
この一言が全てだ。
俺は万感の思いで深く頭を垂れた。
もしかしなくても両親から何か話がいっているのかもしれない。拝領とはそれほど簡単にことが進むわけでもないのだ。事前にやり取りがあるのが普通なのだから。
しかしそれよりも大きな収穫は、王が彼女をビュレイス伯爵家の一員であったことを言明し、これからはアシュリー侯爵家の人間であると公言したことだ。
これで彼女がプロッド商会のゴタゴタに巻き込まれることはなくなった。
出生や内情など関係ない。王がそう言った事実だけが全てだ。
今後社交界で彼女は”愛人との間の庶子”と蔑まれることもなく、ビュレイス伯爵の子として、またアシュリー家の一員としての立場が保証される。そのうえ王自らより領地まで下賜されたのだ。もう誰も公に彼女を貶めることはできない。
それなのに。
勇んで帰ってきた俺を彼女は不思議そうに見上げるのだ。
挙句の果てには困ったような顔をして。
短い回数だが、俺なりに好意を示してきたと思っている。
彼女も繕った笑顔だけでない、本心からの笑顔を見せてくれていた。
それなりに好意を持たれていると思っていたのだ。
それなのに。
まあ結局は彼女の中に隠されていた頑ななまでの自己評価の低さと諦観故のすれ違いだったのだが、お互いの気持ちが通じ合ってからの日々は毎日が充実していた。
例え毎日顔を合わせられなくても、会ったときに溢れる感情が愛しく思う気持ちを倍増させる。
それにエディアナは俺と違って流麗な字で頻繁に手紙を送ってくれる。
内容は一見するとなんてことのないものだろうが、そこには俺に対する気遣いと領地への心配りが込められていた。
そのことに嬉しく思うも、詩心のない俺が気の利いた文を書けるわけもなく、返事は無難にエディアナが好きそうな菓子や似合いそうな小物を一言添えて贈るだけなのだが、そんなものでさえ彼女は心から喜んでくれていることを教えてくれる。
「好きだ」
帰るたびに一番初めに口にする言葉はあの時から変わらない。
あのときの返事は散々なものだった。
けれども今は。
「私もロディウム様のことが大好きです」
万人に向けられる優美な微笑みではない、はにかんだような笑みを浮かべて抱きしめ返してくれる彼女がそこにいた。
たぶんエディアナ18歳くらい、ロディウム28歳くらいです。




