第三十四話 奇怪
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「くぁー!」
足だけを川に浸して両手を広げて寝転がるセッカ。
ヨヅキは隣で、裸足になってセッカと同じく足を浸している。
膝から先を左右交互にゆったり揺らして、セッカは何度も深呼吸をする。そのまま寝てしまいそうな気の緩み方。
水のなかに入れた足がフワフワとする感覚に、セッカは完全に身を委ねていた。
ヨヅキは足を浸したまま、村から持ってきた革袋の口を上流に向けて、水中に入れる。
『今日はもう、ここで休むか……』
と、今にも夢のなかに入ってしまいそうなセッカを見てヨヅキは考える。休憩する場所として立地的には決して悪くない。
水があって、開けていて、木の椅子があって……
「なあセッカ……」
「んー? どひたの、よゆきぃ……」
「この世界の椅子って、自然にできるものなのか?」
「ひょんにゃわけないにゃーん…………ふぇ……?」
セッカがヨジヨジと上体を起こし、ヨヅキの見ている先のものに焦点を合わせる。
ヨヅキの肩幅ほどの距離を開けて地面に刺さっている背の低い木材二つ。上面は平らに均されていて、そこに乗っているのは親指くらいの厚さに加工された木板。他の茶色い木よりも色は白っぽくなっている。
よくよく見れば、木のささくれがところどころに生えている。が、それは経年劣化によるものだと断定できるほどの小ささだった。
手作り感満載の椅子――しかしそれこそ、二人にとっての僥倖となる。
ヨヅキは川から上がって、椅子に近寄る。
「これは……」
上に乗っている木の板を上から軽く二度押して、軋みがないかを確認。
手作りながらも押しても歪みが一切ない丈夫な椅子――ヨヅキはその真ん中に静かに尻を触れさせる。
両足にかけていた体重を少しずつ木の板に預けていき、
「……おっ。座れた」
「おー……!」
椅子としての役割を忠実にこなしているそれに、セッカは目を見開き、脇を閉じてパチパチと手の平どうしを何度も衝突させる。
その速度はだんだんと遅くなっていき、やがて停止。セッカは頭のてっぺんをカクリと横に向ける。
「でも、なんでこんなところに椅子があるの?」
「それは、『だれかが座るため』だろうな。して、セッカ。うれしい報せだ」
「なに? 急に」
ヨヅキは腕を組み、左腿の上に右腿を乗せた。
「この椅子は簡易的なものではなく、そこそこ丈夫につくられている。私が乗ってもビクともしないほどにはな。だれかが旅の途中で椅子をつくったのだとしたら、ここまで丈夫にする必要はないだろう」
「えーと……つまり?」
「これは何度も利用するから丈夫につくられていると考えられる。つまり、この近くには…………」
その瞬間……
「がぁぁぁぁぁぁあああ!!」
すべてをかき消して森に木霊した、高い叫び声。
完全に気を抜いていたセッカも、水に入れていた足をすぐさまとり出す。
「今のは……悲鳴か?」
「助けてあげないと!」
「……ああ」
***
疲労で動かなくなっていたはずの足も、一時的ではあるが水のおかげで軽やかさを取り戻していた。
森のなか――道なき道を、心に追いついていない足で何度も転びそうになりながら全力で駆ける。
「クッ……! 間に合って……!」
だれかの悲鳴をきいて森のなかを急いで走ることに、セッカは既視感を覚えていた。
その先に待っているのが、真っ赤なヒトではないことを切に願い、奥歯を噛みしめ、声の方角へと向かう。
「ち、近寄るな……バケモノ!!」
「近いぞ……」
『もう少し…………もう少し…………もう、あんな景色は見たくない……!!』
セッカの速度に合わせて、少し前を走るヨヅキだったが、
「待て」
セッカの逸る気持ちを押しとどめるよう、急に止まった。
手を横に広げて、草に紛れるように屈んだヨヅキ――止められたセッカの焦りは、上がった息と、抑えられない声量にうつしだされていた。
「なんで止まるの!? はやく、たすけて…………」
「シ……」
ヨヅキがセッカに、唇の前に人差し指を立てて見せる。
困惑と焦りが交差するなか、しかしセッカは息をのんでヨヅキに従う。
ヨヅキは、セッカの背を支えて、草の隙間から自分が見た景色をセッカにも見せて共有する。
傍らに木の枝を置いて、腰を抜かして後ずさりする、青ざめた少年。
歯をガチガチとならして、口から零れる唾液も、目や鼻や額から出るほかの液体も拭かず、頭が上下するくらい、シューシューと激しい呼吸をしている。
そして、少年の目の前には、木に迫るくらい高く、二足で立つ人型。なにより特徴的な――黒いドロドロ。
勝手に出てきた液体で溺れてしまいそうなほどのグジュグジュ音と、なかなか開かない喉から出てくる隙間風のような息の音で、二人は、その少年の見ている黒いドロドロの正体がわかった。
「あれはおそらく、セッカが前に言っていた…………」
「……!!」
セッカは走り出していた。
「ダメーー!!」
あの黒いドロドロに話が通じるかどうかは関係ない。
その叫びは、少しでも黒いドロドロの気を反らそうとしたゆえか、はたまた、自分の過去を想ってのことか。
その少年を助けようとするあまり、セッカの走りは空中を泳ぐよう――無様に、みっともなく、腕を前に伸ばす。
その気持ちに、身体は追いついてくれない。足は縺れるし、「アー……!」「アァ……アァー!」と、心の声と口の声がバラバラに絡み合って、言葉の形を成していない音が出てくるし…………セッカは夢中だった。
自分に見向きもせず、一歩、また一歩と少年に歩み寄る怪物。
きっと、あのままだと、あの少年は殺されてしまう。村の人たちと同じように。
どうすれば、あの少年は助かるか――
黒いドロドロは関節のない右手を振り上げる。
死を察した少年の顔は一気に脱力する。
セッカは、その顔が、だいっきらいだった。
「…………!」
どうすれば、あの少年は助かるか――
セッカに、そのこたえはわからなかった。
それなら、できることはただひとつ。
「おまえ、なにして……」
「逃げて!」
少年の前に突然現れたのは、ボロボロの姿をした銀髪の少女。
腰を抜かした少年に背中を見せて、両手を広げ、怪物に向き合っている。
セッカに後悔はなかった。
今の自分にできることは、この少年の前に立って、盾になり、守ってあげること。
流れる涙はない。
数日振りに見た、人を恐怖させるための奇怪な笑顔と、絶対に勝てないとわかる体格差。あの村はこの怪物にやられたのだと、ハッキリわかる。
でも……
だれかの前に立って守る――
それができたセッカは、誇らしげに笑っていた。
怪物は突然、目の前に現れた、奇怪に笑う生物に、自らの頬らしき毛皮をポリポリかいて、『まあいっか!』と、再度、腕を大きく振り上げた。
口がちぎれそうなほどに口角を上げて、腕の先端、拳らしき部位を肥大化。
それでもまだ誇らしく笑う少女に、怪物は地面ごとカチ割る勢いで、拳を振り下ろ
「私のトモダチに…………なにをしている?」
触れる寸前……ピタリと停止。
風圧で髪がバサリと舞うだけで、目の前に迫った死をもたらす狂気にも、セッカは瞬きひとつしない。堂々とその場で背筋を伸ばしていた。
なんてことはない。魔力も殺意もこもっていない、まるで文字に起こしただけかのような言葉。
人を殺したいという欲求以外、なにもかも黒に浸食されたはずだが、その闇のなかに一声で植えつけられたのは、与える側だったはずの圧倒的な恐怖。
上がってしまった口角を戻そうと思っても、その身体はもう動かない。振り下げ始めた腕を引っ込めることもできない。震えることさえも許されない。待っているのは――
「ッ!? ヨヅキ……!」
黒いドロドロの向こう側からきこえた大好きな声と、こちらに近づく、散歩をしているかのような落ち着いた足音。
セッカの顔には憂いが浮かび、思わずつぶやいた。
後ろを見れば、まだ腰を抜かしている少年。
ヨヅキの前まで走ってすぐに助けてあげたいところだが、こちらを向いたまま静止した怪物で、セッカは少年の前をはなれられなかった。
『なんとかして、二人とも助けないと……!』
セッカは躊躇なく、一歩、踏み出す。黒いドロドロが釘づけになるよう、精いっぱいの雄叫びを上げて、その一歩を突進へと昇華。
「やぁぁぁぁぁぁぁ!」
ドロドロの足に肩で突撃。
粘性のある黒にほんの少しベチャリと沈むだけで、目の前の怪物はびくともしない。セッカのいた場所に拳を振り下げる途中のままで、視線もしかり。
自分に反応すらしない相手に、セッカは絶句。しかし、ほかに手段などわからない。セッカは自分の喉を犠牲に、「あっちいけ!! あっちいけ!! ……あっちいけ!!」と静寂を貫く森に焦りと叫びを木霊させ、何度も何度も、通じるはずのない拳を叩きつける。
その背中を見る少年の顔に震えはない。唖然とした顔に、あらゆる体液を上から塗りつけたような不自然な表情。
瞼にたまった涙が陽光に照らされたためか――少年の目はキラキラと光っていた。
「あっちいけ! あっち……いけ! んんんんー!! ヨヅキも……逃げて!!」
叩いても反応のない怪物。動き始めたとき、少しでも行動妨害できるよう、セッカは足の指で土を削りながら、ドロドロにしがみつく。
ヨヅキに呼びかけても、こちらに近づく足音は止まらない。
『どうしよう。なにしても、動かない…………。……わかってた。自分にはだれかを助けられる力がないことくらい、村が壊れたあの日から……その前から、もうわかってた。あのときとは違って……今、すぐそこに、自分の力で助けられる人がいるはずなのに。…………こうやって、しがみつくことしか、できない。あの村みたく、もうだれも死んでほしくないっていう願いは、かなえられないのかな……。自分のせいで、また……。この男の子も、ヨヅキも、死んじゃう……』
――足音が消える。
「言っただろう……セッカ――」
「え」
黒いドロドロの背後に立ったトモダチは、そのまま怪物の身体へと手を伸ばす。
右手の平を軽く触れさせ……直後――
(パーン!)
水中で鼓膜が貫かれたかのような破裂音を出し、怪物は細かい飛沫となって、盛大に爆散した。黒い液体はドボドボと刹那の土砂降りのように降り注ぎ、地一面を真っ黒に染め上げていく。
彼らの影を飲み込む、珍奇な黒い雨。
しかし三人のなかで、この世ならざる光景を情景の中心に据えるモノはいなかった。
闇から晴れた視界の向こうに立つトモダチは、黒い雨中で、セッカに言った。
「――私は、死なない」




