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しばし三人で談笑の時を過ごした後、エルヴィンは酔いを醒ましながら、自宅を目指して夜の市街地を歩いていた。今もイーストサイドでは殺人鬼が蠢いているかもしれないが、我関せずとばかりにサースタウンは静かに寝静まっていた。
橋の近くでは不審者を見たという訴えも多くなってきたが、大抵は酔っ払いがうろついただけの、他愛も無い騒ぎに過ぎない。サースタウンの人々は枕を高くして寝ていた。
(フォックスとして復活か。……考えてもいなかったな)
エルヴィンは空を見上げて思案する。
若い時分に、彼は夜な夜な友人達と結託してはイーストサイドで幅を利かせる悪党たちを夜な夜な成敗してきた。ヘイアン国に伝わる白い狐面を被り、大立ち回りを演じる彼の事を、人々はいつしか『フォックス』と呼んだのである。
しかし、今はもう昔の話だ。もう無茶は利かなくなってきている。もういい歳なのだ。それに、フォックスはもう五年も街に現れていない。昔の調子に乗っていた自分を思い出し、エルヴィンは独りで思わず苦笑する。
(あの頃は確かに若かったな。思えば、自分達の立場も弁えず、馬鹿ばかりしていたものだ)
――クロエもがっかりするぞ。
ハロルドのぼやきが脳裏に蘇る。口調はいつものように冗談めかしていたが、目は真面目だった。エルヴィンは左手を掲げ、薬指に輝く銀色の指輪を見つめた。
(クロエめ、何て言うだろうかな)
年を取ってみれば、馬鹿馬鹿しい事をやってきたものだと思うが、そんな彼をいつも優しく笑いながら見守っていた。エルヴィンがどう言おうときっと、彼女はその笑みを崩すことなく、彼の意志を応援するのだろう。
(だが……誰より楽しんでいたのもあいつか)
エルヴィンは頬を和らげ、そのまま左手を高く掲げると、高らかに指を鳴らす。全身が揺らぎ、その顔は白面の狐へと変わり、コートの袖口襟元から覗く肌も柔らかな金毛に包まれた。ヘイアンに伝わる妖狐をそのまま人にしたかのような姿だ。
メイデンブラッド。彼もまた、ハイプリステスに潜む怪物、メイデンブラッドなのだ。
しかし、彼が俯いたまま右手を顔に当てがった瞬間、今度はその全身が影に包まれ、一瞬にしてその姿は、狐面を被った警邏の姿へと変わってしまった。首元や手先を包んでいた金毛も、再び消えている。化けたのだ。
「たまには年甲斐の無い事をするのも悪くない。な?」
エルヴィンは月に向かって独り言ちると、一気に跳び上がった。建物の屋根やベランダを頼りに、彼は屋根へと昇る。馬鹿と煙は高い所を好む。エルヴィンは今、若い頃の馬鹿に戻っていた。
屋根から屋根を飛び移り、彼は一直線にイーストサイドを目指す。運が良ければ、殺人鬼の一人や二人に会えるかもしれない。そうしたら、さっと引っ捕らえてやる。酒に酔って少し昂った気持ちに突き動かされるまま、彼はニコラウス連絡橋の前に飛び降りた。
(さあ、行くか……)
その時、エルヴィンの耳が微かな悲鳴を捉えた。まだ若い女の声だ。『娼婦殺し』が出たのか? エルヴィンは眉間に皺を寄せると、一直線に連絡橋を渡り切り、悲鳴が聞こえた路地へと向かって走る。すぐに悲鳴は聞こえなくなった。不安が彼の脳裏を過る。
(もう死んでしまったか? なら、せめて犯人だけでも……)
エルヴィンは酔っ払いが寝そべり、娼婦が客の目を惹き続けている路地を鮮やかに駆け抜け、悲鳴の途切れてしまった路地へと駆け込んだ。
「……ほう。貴様か……」
首の肉を喰いちぎられ、傷口から泉のように血を溢れさせた女が倒れている。胸元や腕の肉も抉られていた。その目の前には、全身を血で汚した男が立ち尽くしている。
頭には黒い山高帽、黒いコート。無精髭を生やして、いかにも怪しい出で立ちだ。エルヴィンは余りにも無残な死体を見て、怒りがふつふつと湧き始める。喩え幾つになっても、彼は正義の徒なのだ。
「お、おいおい。ちょっと待て」
男はエルヴィンに気付くと、血まみれの両手を突き出し、慌てたように首を振った。しかし、エルヴィンは牙を剥いて拳を固める。殺人鬼の話など、ひたすらに打ちのめしてから聞けばいい!
「黙れ。俺は人殺しを許しはしない!」




