第十九話 せめて揺り籠の中で
一話にまとめる関係上ほとんどラフィータの視点に絞って書いています。一言付け加えると、あのキャラは場面外で今何してるんだろう、とか考えながら読んでいただけると面白いかもです。
雨が叩きつけるように降っている。
天候は荒れ方を増していた。青空は暗雲にとって変わられ、殴りつけるような突風が空中のバネテッカを木の葉のように吹き飛ばしている。
ラフィータは頬に痛みを感じた。手で軽く撫でてみると血が出ているのが分かった。少女と交錯したときに傷を負ったらしい。流れる血が雨水と混ざり合って喉元へと垂れていく。
(風の刃を纏うスキルか)
少女の剣は緑色の光を放っている。エルメスの全身を切り裂いたのもスキルの効果だろう。少女の固有スキルか武器単体にエンチャントされたものかは不明だが、何にしろ警戒しなくてはならない。
「ラフィータ、駄目だ……! かなう、相手じゃ……」
瀕死のエルメスが弱々しい声を上げる。
ラフィータがエルメスの方へ目を向けようとした。
その何気ない動作が開戦の火ぶたとなる。
土砂が弾け飛ぶ。
少女が大地を蹴り、猛烈な速度でラフィータにせまる。
ラフィータは即座に反応した。
彼は後ろに飛びすさりながら障壁魔法を発動させる。
障壁の展開に抜かりはなかった。あらかじめ魔法陣にマナを循環させておき、発動と同時に陣内部に生じるマナの乱流を完全に把握して制御下に置く。熟達した魔術師ですら舌を巻いて唸らざるをえない。神業的な『最短』をラフィータは実行した。
しかしそれでも、間に合わないものは間に合わない。
空間に生じかけていた障壁に少女が飛び込む。魔法陣からの『指令』を受けて硬質化しかけていたマナの膜を少女は強引に突き破ってしまう。
ラフィータはそれを予想していた。
今、生じさせた障壁は遮るためのものではない。
突然、少女の勢いがガクンと低下した。
原因は未だ障壁に変化できずにあるマナにあった。少女を取り巻くマナは陣からの『指令』によって今も性質変化しようとしている。障壁になろうとするマナは、その変化の過程で『硬質化』という段階を踏む。表世界に物質として顕界し、流動的な液体から堅固な固体へ変わるのだ。その際、マナは擬似的に粘性を帯びる。
早い話、少女は凍り付こうとする水のかたまりに飛び込んだようなものだった。
固形化しようとするマナは少女の自由を奪い、彼女ごと障壁化しようとする。
ラフィータは剣を振りかぶって少女に斬りかかった。
「な……!?」
甲高い音が鳴る。
少女が剣を水平に掲げてラフィータの剣を迎え撃った。
動けぬはずの少女がなぜ?
理由は単純だった。
斬りかかる直前、少女は体内でマナを急速に膨張させた。そして体外に放出された少女の体内マナは莫大な圧力をもってラフィータのマナを強引に押しのけ、少女を覆うバリアを形成したのだ。
(そんな突破方法があるか……!?)
指令は少女のマナを障壁化できない。
頼みの綱の拘束はこうして解かれた。
少女が剣を交えたまま上からのしかかるように力をかけてきた。ラフィータを組み伏せようとしている。桁外れのパワーがラフィータを襲う。膝が一瞬で屈しそうになる。全身が悲鳴を上げている。
(『フィロスの鉄槌』……!!)
雷撃魔法が少女に殺到する。
少女の力がわずかに弱まるのが分かった。
ここでラフィータは自分から膝を崩した。彼は尻もちをつく直前で大地を強く蹴り、素早くバックステップする。少女がラフィータを追おうとして体勢を崩すのが見えた。彼女の足は地面にぴっちりとくっついて離れない。去り際の置き土産が発動したようだ。
(直接マナを叩き込む魔法はもう通じない)
少女が足下にマナを噴出する。それだけで吸着魔法が解除されてしまう。
(展開を考えろ。現象自体が残留する魔法は……。雷撃、噴霧……)
ラフィータがめまぐるしく思考を巡らす最中のこと。
油断していたわけではない。
それでもやはり反応が遅れた。
まさに、閃光の如く。
少女の姿が霞み、次点でラフィータの目前に鉛色の刃があった。
血の気の引く思いがした。
ラフィータは瞬時に障壁を展開する。
悪魔のような一振りがまだ軟らかな障壁をバターのように切り裂いていく。障壁は盾にはならなかったが緩衝材にはなった。勢いの落ちた少女の剣がラフィータの胸を袈裟切りに撫でる。胸当てが断ち切られ、皮膚に剣が食い込んでいく。
(やばい……)
少女の体に押される形でラフィータが背中から地面に転がる。
ラフィータは即座に立ち上がる。その立ち上がりざまを少女が襲ってくる。一合目はなんとか受け流した。しかし続けざまの二合、三合目はどうしようもなかった。
ラフィータは吹き飛ばされ、空中を弾丸のように突っ切る。
少女は追撃をかけるつもりでいる。体勢を崩したラフィータには畳み掛けるような攻撃をさばく技量はない。
(『北天の加護』……!!)
ラフィータは障壁魔法を発動させた。
彼の背後に障壁が生じる。障壁は地面に対しななめにそびえていた。
ラフィータの体は障壁の斜面にぶち当たり、ななめ上へと打ち出された。ラフィータは空中でくるくると回転しながら、同時に障壁を水平に展開して無事そこに降り立った。肩で息をしながらラフィータは思った。これで追撃を逃れられる……。
そう上手くはいかなかった。
ラフィータは己の目を疑った。
「『堕炎崩墜』……」
少女が剣の切っ先をラフィータの方に突きつけている。
次の瞬間、少女の剣から炎の『柱』が立ち伸びた。
炎柱がラフィータの元に伸びてくる。
赤い破城槌のようなそれがラフィータのいる場所に直撃した。
直前で生じさせた障壁が炎の濁流に飲まれ、数秒持たず溶けるように消失した。
――――ラフィータは障壁が消える様を下から確認していた。なんてことはない。足場として使っていた障壁の一部を消失させ、地面へ自由落下することでスキルの直撃を避けたのだ。
(なんて火力だ。受け止めきれないぞ……)
ラフィータは少女の方を見た。炎柱はいまだ立ち伸び続けている。その柱の根元に彼女はいるはずだ。
「――――?」
ラフィータは違和感を感じた。
何かおかしい。
そう思ったときには敵は既に行動を開始している。
ななめ上へといまだ立ち伸び続ける炎柱の、その中ほどの側面が突然揺らめく。そこから赤いベールを裂くようにして少女が勢いよく飛びだしてきた。
炎柱は立ち伸び続けている。その発生元たる剣は今、柄が地面に埋めるようにしてしっかりと固定されている。ダミーだ。
ラフィータが少女の意図に気づいたのは己の頭上に影が落ちてからだった。
はっとして上を見たラフィータの元に少女が矢のような速度で降り落ちる。少女はラフィータの目前に着地した。完全に虚を突かれた。ラフィータがとっさに自分の前方に障壁を展開するも、マナの展開と陣回路の練り上げに時間が足らず、結果として障壁の側面展開が間に合わなかった。彼の前方にかろうじて生じた障壁を少女はあざ笑うように迂回する。彼女は障壁の穴に転がるようにして侵入し、ラフィータに対面した。
ラフィータは剣を振った。それは少女の手甲でなんなく弾かれた。
腹に拳を一撃入れられた。内蔵の全てを破裂させるような衝撃にラフィータの意識が飛びかける。少女はそのままインナーの襟首を掴んできた。ラフィータが抵抗しようとしたところ、視界がぐるりと回転した。足払いをかけられて地面にたたき伏せられたのだと気づいたのは、少女の手がラフィータの首をむんずと掴んだときだった。
少女の指が首に食い込む。
ラフィータは雷撃を発動させた。全身全霊、死にものぐるいで。
あたりが光の中に沈む。凄まじい雷撃だった。少女は体内マナを噴出することで、雷撃に変化するラフィータのマナを根こそぎ吹き飛ばそうとしたが、ラフィータはそれを見越していた。彼はマナを槍のように鋭く尖らせることで濁流のように迫る少女のマナに対抗した。槍は幾本も伸び、その先端で雷撃が生じる。顕界してしまった雷撃はマナの波動で消すことができない。少女は地を這う雷に飲まれた。
少女はたまらずラフィータの首から手を離した。
その瞬間を狙い、ラフィータが少女の腹を足で思いきり突き飛ばした。
宙に投げ出された少女が着地する。
ラフィータは立ち上がろうともがいた。殴られた腹が激しい痛みを訴えるが構ってはいられない。猶予はない。状況は何も改善されていない。このままではやられる。
少女もそれは分かっていただろう。ラフィータは満身創痍だ。今こそ追撃をかけ、この戦いに終止符を打たんとすべし。
しかし少女は襲いかかってこなかった。
原因は少女の背後からやってきた。黄土色の雲霧。バネテッカの大群が雪崩となって少女に牙をむく。少女は一度ラフィータの方に足を向けようとしたが、ラフィータが障壁魔法を展開し始めたのを見て取りやめた。少女が横に飛んで群れの襲撃を回避する。群れはラフィータを正面から飲み込んだ。
何万と重なり合った羽音がラフィータを包み込む。と、その中に一つ重厚な羽ばたき音が混じっているのにラフィータは気づいた。大きな影が前からせまってくる。彼は先方の意図に気づき、即座に障壁を解除した。
大気がうねりを上げる。
鯨が海面を割るように、バネテッカの群れから巨大な魔獣が姿を現す。魔獣は巨大な翼で空気を掴み空高く舞い上がった。魔獣は奇声を上げる。その響きが森の隅々まで鳴り渡っていく。
「マスター! 無事ですか!?」
白髪をはためかせたアーサがラフィータをガガモットの背中に引っ張り上げてくれた。
「お前って奴は。最高のタイミングだ、あとで褒めちぎる。キースとエルメスは」
「ち、治療しました。キースさんは絶対安静が必要です。エルメスさんは援軍を連れて来るそうです」
「援軍……。数で押さえ込むつもりか。あまりよくない……」
「あの、マスターも治療します」
「いや、いい」
「でも……」
「二人の治療にマナを大分使ったはずだ。あまり残っていないだろう。残りは本当の危機に備えて温存しておけ」
ガガモットの背に乗ったラフィータは傷む腹を押さえつつ眼下を眺めた。敵はラフィータの方を見上げている。その手には剣が握られていた。先ほどの場所から動いた様子もないのに、どうやって。いつの間に拾い戻したのだろう。
(しかし、そうか。ガガモットがいるのか……)
ガガモットの体をちらりと見る。羽毛に覆われた筋肉質な肉体。空を飛び続ける疲れ知らずの体力。ラフィータの脳内がちりちりと発熱する。ひらめきが具体身を帯びていく。
ラフィータが現状を打開する一手を模索する最中。
少女もまた一手を打ってきた。
少女が移動を開始した。
少女の姿が森の中に消えていく。
「あ……」
それを見たアーサの顔つきが険しくなった。
ラフィータは眉をひそめた。思い当たる節は一つ、まさかと思った。
「アーサ、キースは」
「あの方角に……」
「くそ……! ガガモット!!」
ガガモットが急降下する。
速力を溜めた魔獣が弾丸のような速度で地上を滑空する。
「キースは……」
そこでラフィータの表情が凍り付く。
直感が告げた。まずいと。
そのときは何がまずいのか分からなかった。
あとにして思えば簡単なことだ。
消えていたのだ。あれだけ存在感を放っていた少女のマナの波動が。
一瞬のことだった。
ラフィータから見て、右前の茂みが弾け飛んだ。
葉をまき散らして飛び上がった少女が空中のガガモットに猛然と斬りかかった。
雷撃発動、障壁展開。
狭い森の中で旋回は命取りだ。だからラフィータはガガモットの頭を下げさせる。
ガガモットが高度を下げたため、少女の軌道上には魔獣ではなくラフィータが陣取ることになる。
剣と剣が激突する。
ラフィータは体を限界までねじることで少女の勢いを受け流そうとした。実際、それは成功した。少女の体がラフィータの真横を通り過ぎてゆく。願わくば、このまま……。
「『風絶ちの死』」
そんなことを許してくれる相手ではなかった。
少女の剣が緑色の光を帯びる。急激に高まるマナの波動が固まりかけた障壁を根こそぎ吹き飛ばす。
獰猛な眼光がラフィータを射貫く。
見えない斬撃が嵐となってラフィータを襲った。
何十もの刃が彼の体を切り裂く。アーサも悲鳴を上げた。鎧を透過した刃が彼女の体に牙をむく。
して、刃が襲うのはラフィータとアーサにとどまらなかった。
ガガモットが絶叫する。
魔獣の肉体に風の刃が刻み込まれ、鮮血が霧のように噴き出す。
ラフィータの視界がぐらりと揺れた。
翼に傷を受けた影響か。ガガモットの背が大きく斜めに傾く。魔獣は沈みゆく船のように高度を下げ、地面すれすれを滑空する。――――ガガモットは奮起した。翼が力強く波打ち、魔獣の体がぐんと水平に持ち上がる。
それがいけなかった。
ガガモットの体が浮き上がったのと同時、ラフィータの体もぐいっと持ち上げられる。ラフィータの体が傾ぐ。彼はロープを引いて姿勢を保とうとして、
ロープを引く腕にあるべき抵抗が返ってこない。
それはラフィータの不覚だった。風の刃が切り裂いたのは魔獣の体にとどまらなかった。切断されたロープを引っ張ったラフィータの腕にはあまりに軽すぎる感覚だけが返ってきた。認識錯誤。強い抵抗を期待していた腕は体をさらに傾げさせた。ラフィータがガガモットの背からずれ落ちていく。ラフィータは魔獣の羽根を掴もうとして、しかし手が届くことはない。
背中の重さが消えたことに気づいたのか。アーサがはっと振り向いた。落ち行くラフィータを見た彼女は驚愕し、とっさに腕を伸ばしてきた。
指先が確かに触れ合った。
ただ、それだけだった。
マスター……!!
アーサの悲痛な声を最後に聞いた。
ガガモットがラフィータの頭上を通過していく。その景色を視界に収めながら、ラフィータは大地に勢いよく叩きつけられた。
少女は獣のように襲いかかってきた。
地面に打ちつけられたラフィータが体勢を立て直す暇はない。
彼がとっさに掲げた剣に少女の一撃がみまう。
その一太刀が重く重く、ラフィータをえぐりとる。
隕石の直撃でも受けたような、恐ろしいほどの衝撃だった。
ラフィータが弾丸のように吹き飛ばされる。何度か見た光景だったが、前とは違う点が一つ。少女は空中を突っ切るラフィータを同等の速度で追尾していた。
ぶれまくる視界に少女の姿が映り込む。
少女の剣がぐわっと伸び上がる。ラフィータは剣を持っていない。衝撃で吹き飛ばされた。
しかしラフィータは少女の剣を受け止めて見せた。
足で。
靴裏に仕込まれた魔法陣を盾にして。
障壁魔法による勢いの減衰もあってか、鉄製の魔法陣は断ち切られずにすんだ。しかし衝撃までは打ち消せない。ラフィータは更に加速して、とうとう地面に打ちつけられて派手に大地を転がった。彼は即座に立ち上がろうとしたが酔いに苦しむ。脳を鉄の棒でかき回されているような不快感が彼を苛む。彼は危うく嘔吐しかけた。
(アーサ……。無事でいて……)
ラフィータは地に膝を着いた状態のまま辺りに視線を巡らせる。そこで気づいた。右目が見えない。風の刃で切り裂かれたのか。いつからだろう。意識した途端に痛みを覚えた。痛みと言うより眼窩に煮えたぎった油を流し込まれているような熱さだ。ラフィータはうめく。バクバクと鳴る鼓動がやけにうるさかった。にじみ出る脂汗が泥と混じって肌に張りついて気持ち悪い。鉛のように重い四肢は身体強化をしてようやく動かせるレベルまで痛めつけられている。
ラフィータは瀕死に陥っている。
体内マナにもゆとりは少ない。
巨大な木の根を飛び越えて、少女がラフィータの目前に姿を現した。ゆるい斜面の上に立つ少女は疲労を感じさせない凜とした立ち姿でラフィータを見下ろす。彼女の藍色の双眸がラフィータを舐め尽くすように観察する。そして理解した。ラフィータに戦う力はない。少女は言葉もなく剣を構えた。少女がラフィータのもとに近づいてくる。
ラフィータはやっとの思いで立ち上がった。彼はふらつきながら歩き、間近の木に背中を預けて少女と向き合った。
「待ってくれ」
ふとラフィータが言った。
少女の歩みは止まらない。
「やられたよ。ぎりぎりまで待ち伏せて、急襲する。初歩的な戦法にまんまとひっかかった」
ラフィータは言葉を紡ごうとして咳き込んだ。彼は口に手をあてて、苦悶の表情を浮かべている。
「心の整理をしたい。合図をしたら、斬りかかってくれ。なあ、頼むから……」
「お前の死は私がもたらすもの。私がもたらす、私のもの。指図されるいわれはない」
少女が立ち止まる。
彼女の四肢にマナが巡る。強化された肉体で、一瞬で片を付けるつもりだろう。
「そうか……」ラフィータはごくりと唾を飲んだ。
敵の動きはなめらかだった。
少女はバネが弾けるように飛び出し、ラフィータの頭上に剣を振り下ろす。
ラフィータは静かに息を吐いた。
「っ!」
――――顔を歪ませたのは少女だった。
莫大な閃光が彼女の視界を焼く。それは閃光ではなく、威力の増した雷撃魔法。少女は思っているだろう。瀕死のラフィータがなぜこれほどの威力の魔法を、と。答えは簡単だった。『白狼丸』。咳き込んだかに思わせて口に含んだ丸薬をラフィータは直前で飲み下したのだ。
雷撃は彼女を倒すには殺傷力が足りない。
それでも、少女の体が一瞬だけ硬直した。
ラフィータはその一瞬をほしがっていた。
ラフィータが腕を振るった。彼が握っていたのは一本のロープ。ガガモットに結びつけられていたロープを魔法で縮小させていたのを、本来の長さに伸ばしたのだ。ロープは少女の左腕に生き物のように巻きついた。ロープの先端は吸着魔法でロープの側面に張りつき、小さな輪を形成した。すかさずラフィータがロープを魔法で収縮させる。ぎりぎりと締まるロープが少女の腕を拘束した。
少女が右腕で剣を振りかぶる。少女にとって雷撃は痛いが、命を刈り取るほどではない。ラフィータを殺してしまえば雷撃は止まる。だから――――
「――――!!!」
ラフィータが怒声を放った。
彼は少女の背後を見すえている。
少女がはっとして振り返ろうとして、
降り落ちた刃に肩をざっくりとえぐられた。
キースは合図に答えた。
彼は少女の頭上から降り落ちて少女に一撃を加えた。
傷は深い。少女は剣を取り落とした。その剣をキースが足で弾き、続いて少女に二撃目を加えようとしたが、その動きがぎこちない。胸の傷が治りきってはいないのだ。キースは少女の跳び蹴りをくらい、大地をゴロゴロと転がる。気絶したのかもう動かない。
その間にラフィータが障壁魔法を展開する。
少女が体内マナを噴出して障壁をかき消そうとしたが、間に合わなかった。白狼丸を飲んだラフィータが鬼のような速さで魔法を展開したのと、少女が右肩に怪我をしていたことが合わさった結果だった。
二人の間を障壁が隔てる。障壁はロープに拘束された少女の左腕を飲み込んでいた。
完全に固形化した障壁はマナの波動では吹き飛ばせない。少女は破れかぶれに障壁を蹴りつける。障壁が軋み、凄まじい衝撃が大気を震わせる。
と、戦場に大きな羽ばたきの音が聞こえてきた。少女がそのことに気づいたが、しかし彼女にはどうすることも出来なかった。
ラフィータはすうううと息を吸い込んだ。
そして絶叫する。
「ガガモットォ!! 飛べぇぇぇぇえええ!!!」
巨大な魔獣がラフィータの目前を通り過ぎる。ラフィータは魔獣の脚部に飛びついた。
ガガモットが飛翔する。魔獣は天蓋のように連なった木々の葉をたやすく突き抜け、雨降る大空へと舞い上がる。その足には満身創痍のラフィータと、そして障壁越しに腕を拘束された少女がぶら下がっている。ラフィータはロープを伝ってマナを流し、雷撃魔法を少女の腕に炸裂させた。のみならず『解離法』という四肢の動きを奪う魔法を発動させた。あいにく少女の四肢を痺れさせることは出来なかったが、これでも妨害程度にはなる。打てる手は全て打つ。
風が強く唸っていた。雨は滝のように降り続け、空には雷光も見え隠れてしている。
嵐の空をガガモットが飛ぶ。翼が突風をものともせずに上下する。魔獣はただ上空を目指した。高く、ひたすらに高く。昇る、昇る。舞い上がる。
少女の目が大きく見開かれる。
彼女はラフィータの目論みに気づいたようだ。
ラフィータは障壁越しに少女の視線を受け止め、冷徹な表情で言い放った。
「ああ、そうさ。たたき落としてやる」
上空から敵をたたき落とし、落下死させる。
あまりに強大すぎる敵に対し、ラフィータが打てる唯一の手だった。
少女が抵抗を止めた。死が刻々と近づいているのに、彼女は不気味なほどの無表情でラフィータを見つめている。死が怖くないのか。それともすでに諦めているのか。感情が読めない。
ラフィータは少女から視線を外して眼下を見渡した。暗がりに包まれた空の下、森の木々は枝葉を荒ぶらせ、しけた海面のように波立っている。降り続ける雨が彼の視界をはばんだ。ラフィータは目をこらして探した。少女を墜落させる場所。木々などのクッションがない、確実に少女を抹殺できる場所――――。
「あなたは強かった」
ラフィータははっと少女の方を向いた。
少女が何かをつぶやいている。荒れ狂う強風と障壁のせいで少女の言葉はラフィータに届かない。
「敬意を示す。卓越した魔法の戦士よ」
少女が右腕をすっと掲げる。
ラフィータの目が驚愕に見開かれる。血が止まっている。キースによってつけられた傷が塞がっている。
「治癒スキル……!?」
「強者との邂逅、充足。そう、これが心殻の解放……。でも、まだ足りない。足りないの。だから……」
少女の体内でマナが高まる。
(何をするつもりだ)
「最後の試練を受け取りなさい」
ラフィータは障壁魔法に意識を割き、衝撃に備える。
少女は口元に笑みをたたえてつぶやいた。
「『彼我従属』……」
――――何も起こらない
かに思えたが――――
曇り空の下で、地上にきらりと光が見えた。
光を纏ったそれは森から打ち上げられた。重力を無視して舞い上がったそれは加速に加速を繰り返し、やがて音速に迫る速度に達する。
ラフィータは少女の意図に気づいた。
彼はガガモットから飛び降りた。
判断は一瞬のこと。それでもかわすことは出来なかった。
少女が体をぐいっとひねる。
次の瞬間、地上より飛来した少女の剣が障壁を粉砕した。
剣の勢いは止まない。剣はラフィータのわき腹を大きくえぐり、そのまま彼の背後にいたガガモットの翼を貫通した。
「ごふっ……」
ラフィータの顔が痛烈に歪む。意識が遠くなる。彼はロープを手放した。視界がぐるぐると回転する。彼は落ちている。遙か上空から、真っ逆さまに地上へと。ガガモットの悲鳴が遠くに聞こえた。
(このままじゃ……死ぬか……)
途切れ途切れの意識の中でラフィータは思った。
冷たい雨が体を打っている。吹き荒ぶ風に弄ばれ、体はくるくると回転する。地上に向けられた頭部。逆さまの視界で見た空がどんどん遠ざかっていく。落ちているのに、まるで昇っているようだった。
(いいか、もう。ここで。どうせ。死ぬために旅をしているようなものだった。だから……)
ラフィータは静かに目を閉じた。
彼の脳裏に走馬燈が流れた。
迫害されていた幼少期。母を守る日々の終わり。初めての仲間。黄金のような日々は短く。巨悪がやってきて全てを奪い去り、感情の全てを過去に封じ込められ。成り行きで課された修行の日々。死ぬことを許されず、漠然と生きた数年。感染、裏切り、師匠の遺言。旅立ちと、出会い。
出会い。少女との出会い。白髪の、不器用で、見ていて不安になる。でも、自分についてきてくれる。話しかけてくれる。笑ってくれる。無邪気で、温かくて。少しだけ、ほんの少しだけ、自分を救ってくれる…………。
「……ーサ」
ラフィータが目を開く。
「アーサ……!!」
心からの叫びだった。
「まだだ……! まだ死ねない……!」
ラフィータが地上を見すえる。着地まであまり猶予はない。
減速の手立ては即座に思いついた。ラフィータは体の周りに障壁を出現させる。真下にも障壁を出現させる。固形化はさせない。少女の剣の勢いを奪ったように、半固形化の状態で。頭から沼に突っ込むような感覚。体を上から押しすくめられ、体の側面をやすりで削られるような摩擦がかかる。傷ががばっと開き、全身が悲鳴を上げる。
少しは減速した。だが、その減速は唐突に終わりを迎えた。
(マナが足りない)
ラフィータのマナがついに尽きた。ゼロというわけではないが、落下時の衝撃から身を守るために身体強化することも考えれば、以後障壁を展開することは悪手となる。ラフィータは呼吸を整えた。
そんな彼の耳に巨大な羽ばたきの音が聞こえた。
まさかと思ったそのとき、彼の真横に灰色の巨体が並んだ。
「ガガモット、お前……」
ガガモットがラフィータに体を押しつけてくる。ラフィータはそのたくましい背中にしがみついた。ガガモットが雄たけびのような奇声を上げ、翼を最大限に広げた。穴のあいた翼から血が飛沫のようにまき散らされるが、ガガモットは翼をたたもうとしない。羽ばたくことはできないようだが滑空ならできる。垂直落下から軌道がそれ、二人はやがて急な螺旋を描くように落下し始めた。
そこでラフィータが気づいた。ガガモットは常にある一点から目をはなさい。魔獣の視線の先には今なお落下する少女がいた。
(治癒スキル……。自分から落下を招いたことといい、まさか生き残る自信があるのか……?)
もしそうなら最悪の展開が予想できた。ラフィータとガガモットが地上に着地したとして、瀕死の二人はその場から動けない。治癒スキルによって立ち直った少女は二人をたやすく殺すだろう。ハクマ支部の冒険者では少女を止めることができない。そうなればキースが、エルメスが、そしてアーサが……。
この分水嶺にラフィータは迷わず舵をきった。
彼はガガモットの背を必死に昇り、魔獣の首にしがみつく。そして腕を魔獣の顔の真横に伸ばし、指で道先を示した。
「けりをつけようガガモット!! この博打、生きて勝つぞ!! 付き合え!!」
少女は大地に叩きつけられた。
豪雨によってぬかるんでいたとはいえ、衝撃は相当なものだった。四肢がバラバラになるような感覚を味わい、少女の意識は一瞬とびかけた。それでも生きている。心臓が脈打ち、鼓動が息づいている。マナによって強化された少女の体は落下の衝撃に耐えきった。
少女は起き上がろうとしたが、体がぴくりとも動かなかった。いくつの骨が折れたのだろう。折れてない骨を探す方が楽かもしれない。筋肉はずたぼろに断裂し、ほとんど屍肉と化している。少女は治癒スキルを発動させた。体が火にかけられたように熱くなり、じくじくと細胞が修復されていく。
少女は仰向けのまま空を見た。雨風にまみれた暗い嵐の空。少女の顔に雨が強く降りつける。荒れ狂う天気とは対照的に心は落ち着いていた。心。少女は驚いていた。心など感じるのはいつぶりだろうか。殺意の衝動に飲まれたままずっと戦いを強いられてきた。戦っては死に、見たこともない場所でよみがえり、人を殺し、そして殺される。そうしてずっと生きてきた。しかし今日、その日々が終わる予感を感じた。彼は強かった。幾度とない窮地を切り抜け、力量差を覆し、少女をここまで追い詰めた。心から感服した。初めての経験だった。
(でも、足りない)
少女は胸の奥でくすぶる衝動に気づいていた。幾度となく彼女を喰らい尽くした暴虐の殺意。いっときは弱まったそれが再び彼女に語りかけるのだ。殺せ、殺せ。全てを殺せ、殺し尽くせ、と……。
少女は求めていた。自分の全てを終わらせる最後のピース。殺戮への執着をねじ伏せる詰めの一手を。
「――――あ」
だからだろう。
視界にぽつりと映った黒い影。それを見た少女はうっすらと笑みを浮かべた。
影がぐんぐんと近づいてくる。
空を覆うような巨体が少女に向けて突進してくる。速度を微塵もゆるめず、まるで隕石のように。
少女は歓喜した。ときめきすら覚えるほどに胸が高鳴った。
少女は上体を起こし、腕を広げて終わりを迎え入れる。
桃色に上気した頬で、彼女はぽつりとつぶやいた。
「ああ、すごい」
次の瞬間、頭部に障壁をまとったガガモットが少女に勢いよく激突した。
幼い少女が少年の前を歩いている。
少女は片手に花束を持ち、少年の手を引いていた。少女と少年。二人の幼い足どりは周りから見れば実に頼りないものだった。ふらついていて、一歩一歩が亀のようにのろい。それでも二人は立ち止まることはなかった。少女が歩みを止めようとしないからだった。
通りには雨が降っていた。二人は頭から足までずぶ濡れだった。傘を差した大人達が胡乱げな目つきで二人を見ていた。どういう道筋を辿ったのか少年には分からない。ただ、握った少女の手が温かかったことだけは覚えている。
気づけば少年はぬかるみの中に立っていた。目の前には小さな石碑がたっている。石碑には名前が刻まれていた。少年の目はその名前に釘付けになった。視界が一気に狭まり、心臓が強く脈打った。
「――――は亡くなりました」
少女は少年に言ってのけた。
少年は「嘘だ」と言った。否定して欲しかったが、あいにく少女は首を横に振った。
「真実です」
少年は少女を突き飛ばした。
少女が地面に倒れ込む。ぬかるんだ大地は少女の衣服をたちまち汚した。少年はかまわず少女の襟首を掴み、彼女をひどく罵った。こんなことをしても何にもならないと少年は分かっていた。それでも言葉を止めることができない。自分を見上げる少女の瞳に涙がたまっていくのが少年にはたまらなくつらかった。
母さんは死んでない! と、最後の言葉が雨中の墓地にしみこんでいく。
少年はそれ以上何も言わなかった。
何も言えなかったのだ。これ以上自分を偽り続けるには、少年はあまりに賢すぎた。
少年は少女の襟首をそっと手放した。
少女の手が少年の頬を撫でた。少年はとっさにそれを振り払った。他人の哀れみに死別の悲しみを埋めたくなかった。この悲しみは自分だけのものだと少年の生来の気高さが主張した。
「お前に何が分かる」
少年は腰を上げて墓地をあとにする。
少女の声が彼の背中を追ってきた。
「ラフィータ、また明日。いつもの場所で、待っています。待っていますから」
降りしきる雨の音がラフィータの意識を取り戻させた。
ラフィータはゆっくりとまぶたを開いた。全身が鉛のように重い。ほとんど血が巡っていないのか、雨に打たれて体温を奪われた体はまるで動く気配を見せなかった。腕は力なくだらりと垂れ下がり、まるでくたびれたパン生地のようだ。足は――――。そこでラフィータは気づいた。足の上に何かが乗っかっている。目を賢明にこらすと、やがてそれの正体が分かった。
長い銀髪を泥にまみれさせた彼女はラフィータの視線に気づくとうすく笑って見せた。ひどく疲れ果てた笑みだった。
「気づ……いた」
「お前……」
ラフィータは巨木の根元に腰かけて幹に背を預けていた。少女はそんなラフィータの足に体を預けるようにして寝転がっていた。戦い合っていた敵同士、どうしてこんな状態になったのか。ラフィータは即座に答えを知った。上空で貫かれたはずのわき腹の傷が癒えていたのだ。
「無茶……するから」
少女はスキルでラフィータを治療したらしい。
「どうして」
「もう、殺さなくて、いいから……。一人くらい、救えた、ら……」
少女の言葉尻が小さくなっていく。ラフィータは声をかけようとしてそれを取りやめた。
「これは……」
ラフィータは目を見開いた。
彼の視線は少女の首元に注がれていた。彼女の首には見知った紋様が輪となって浮かんでいた。ドールの首に浮かぶ呪印と同じものだった。
亡者とは大地から生まれる人間。ドールと違う点は亡者が殺しても甦ることだ。まるで魔獣のように何度でも大地から生まれ直す。それを完全に討伐するには亡者を『屈服』させる必要がある。ドールと契約を結ぶように亡者を支配することで、亡者を無害なドールへと堕とすことができる。
少女はラフィータに屈服したのだ。
「目が……見えない……」
「え」
少女の手が何かを求めて弱々しく動く。
ラフィータはその手に自分の手を重ねた。そしてぎゅっと握りしめた。反射的な行動だった。
「寒い……。寒いの……」
少女がもぞもぞと動く。ラフィータは疲れた体にむち打って少女を自分の側に引きずり上げた。彼の肩に少女の頭があたる。彼は少女を後ろからそっと抱きしめた。鎧にはばまれてはいたが、感触が届いたのか。誰かに背中を預けた安心感からか。いずれにせよ少女の表情は少しだけ和らいだ。
「私……。これから、死ぬの……?」
「死なない。大丈夫だよ」
ラフィータの言葉は嘘だった。
少女はこれから死ぬ。少なくとも呪印の副作用で少女の人格は死滅する。今も少女の人格は破壊されている真っ最中だ。そうしてただのドールに成り下がり、一から命を始めることになる。
長らく沈黙があった。
「よかった……」
ラフィータは少女を抱く腕の力を強めた。
少女はラフィータの首筋に頭をもたれさせてきた。
「少しくらい、眠っても、いいよね……」
「……うん」
「ふふ。やっと、解放された、の。やっと……。これから、償い……。誰か、護る……ため。護るため、戦え……」
少女がうわごとのようにつぶやく。
ラフィータはその一言一句をしっかりと心に刻み込む。
「ねえ、あなたの……名前……。教え、て」
「ラフィータ。ラフィータ=クセルスアーチ。君の名前は」
少女はラフィータに名を告げた。
名を告げたあとで、彼女がゆっくりとまぶたを閉じていく。もう『彼女』が目覚めることはない。その目が再び開くとき、そこには別の誰かが息づいている。
「…………」
ラフィータは内心で最後の言葉を探したが、何を言っていいのか分からず口をつぐんでいた。そうこうしているうちに彼女は目を閉じきってしまって――――、やがて安堵の表情を浮かべたまま『彼女』は逝ってしまった。
ラフィータは自問した。いまわの際についた嘘は果たして正解だったのかと。答えは出なかった。
「僕に君の何が分かる……」
投げやりな言葉を聞く者はいなかった。
それからほどなくして雨が上がり、雲の切れ間から光が差した。
木の根にうずくまるラフィータと少女を発見したのはやはり冒険者だった。亡者と少年が寄り添い合って眠りにつく絵面は冒険者の度肝を抜いた。安らかに眠りにつく少女と悲哀の表情を浮かべた少年。差し込んだやわらかな光に照らされて、二人の姿は一種の神々しさすら感じさせたという。
冒険者によってギルドへ搬送されたラフィータは医療系の魔術師によってすぐさま治療を施された。彼の容態は重篤だった。限界近くまでマナを使い切った体は極度に疲弊している。そこに白狼丸の副作用が追い打ちをかけた。下がらぬ高熱と何度塞いでも開く傷口が治療を難航させた。ギルドは全力を挙げてラフィータを治療した。亡者を討ち取った英雄を失うわけにはいかなかった。
治療を受けたのはラフィータだけではない。森の中で倒れていたキースとアーサもまたギルドの治療班のもとに運び込まれた。白狼丸を服用していたキースは当然として、アーサの容態も芳しくなかった。風の刃によって身を切り刻まれた状態にあって、彼女はスキルで自分を治療せずガガモットの治療を優先させた。結果、マナの枯渇した彼女は血を流したまま森の中で失神した。失った血の量はもう少しで致死量に達していた。極めて危険な状態だった。
長い夢を見ていた気がする。甘くて切ない永久の夢…………
ラフィータはふと目を覚ました。見上げる天井からそこがギルド館であることは察しがついた。堅牢な石造りの建物はハクマの街にはそう多くない。
ラフィータは寝台の上に寝かされていた。けだるさを押しやって起き上がろうとして、自分の手が何かを握っていることに気づいた。白い手だった。まばたきして、それから目線を上げると赤みがかった白髪が見えた。
少女は寝台の横で椅子に座っていた。うつむいているのは眠っているからだった。頭に生えた猫耳がだらんと垂れ下がっている。疲れ切っていると彼女の耳はいつもそうなる。
と、少女の頭がぴくりと動いた。彼女ははっとして辺りを見渡して、肩を落として長い息を吐いた。それから寝台の方に目を移して――――彼女は固まった。
彼女は目を見開いたまま何も言わなかった。夢でも見てると思ったのかもしれない。
「アーサ」
ラフィータはかすれた声で彼女の名を呼んだ。
その瞬間、少女の抱いた感情はいかほどのものだっただろう。
少女の瞳にぶわっと涙が溢れて、こぼれ落ちたそれが彼女の頬を伝った。こみ上げた嬉しさと安堵が彼女の心を真っ白に染めた。彼女は何かを話そうとしたらしいが、声が上手く出ず唇が震えただけだった。
「うぅ……」
アーサは寝台の横からラフィータに覆い被さった。そしてそのまま静かに泣き出した。ラフィータは彼女の背中をぽんぽんと撫でながら「よかった……」とつぶやいた。
二人はしばし抱き合った。やがてアーサが本格的に泣き始めて、その声に気づいたギルド職員がラフィータの目覚めに気づく。駆け込んできた医療術師が膝に手を当てて安堵のため息をもらした。その後、アーサは別室に無理やり隔離された。彼女が最後まで抵抗したのは言うまでもない。
慌ただしく作業する術士達だったが、ラフィータの質問には丁寧に答えてくれた。彼は五日間も寝込んでいたらしい。
エルメスは無事とのことだった。治療を受けていたキースは二日前に峠を越えて快方に向かっているらしい。それを聞いたラフィータは二度目の安堵を感じて、寝台に深く身を預けてまぶたを閉じた。
開け放たれた窓からそよ風が吹き込んでくる。晴天の下、じりじりと照りつける陽が大地を熱している。湿気を含んだぬるい風を肌に浴びているうちに、ああ、もうすぐ夏なんだと、ラフィータは思った。どうしてかは分からないが、それがとても嬉しかった。
「暑いですよねえ。冷晶魔法、使いましょうか」
ラフィータは術士の申し出を断った。心まで溶かすようなその熱さをもう少しだけ吸い込んでいたかった。
「よっす、ラフィータ」
キースが片手を上げてラフィータに挨拶する。その後ろでエルメスが静かに笑っていた。場所はギルド館の一室だった。医療術士の尽力によって傷の塞がったラフィータだったが、体力的な不安からまだギルド館に寝泊まりしている。アーサも特例としてギルド館に泊まり込んでいた。
「見舞い品を持ってきたよ。近頃暑いから早めに食べてね」
キースが果物の入ったかごを台の上に置いた。
「ファナ、早く入ってこい」
そこでエルメスが部屋の入り口に向けて言った。
「…………」
少女が部屋の入り口から顔を半分だけ出した。少女はラフィータと視線が合うと、顔をすっと部屋の向こうに隠してしまった。エルメスが無言で部屋の入り口に向かい、少女の背を押すようにして再び部屋に入ってきた。銀髪が特徴的な少女だった。前髪のすき間から大きな藍色の瞳が見え隠れしている。
少女は無表情のまま床を見ている。誰とも目を合わせようとしない。
「挨拶くらいできる」
エルメスが厳しい口調で言う。彼の手が少女の華奢な肩をぽんと叩いた。少女がエルメスの顔を見上げる。彼女はやがてこくりと頷いて、ようやくラフィータの方を向いた。
「こん……にちわ……」
少女の視線はあらぬ方向に向けられていたが、最終的には挨拶をした。
「こんにちわ」
ラフィータが応えると、少女はエルメスの背後にくるりと回って彼の背中に顔を隠してしまった。
「うーん……」エルメスがうめく。
「進歩はしたよね、エルメス」キースが言う。
「まあ……。うーん……」
エルメスは納得がいっていないようだったが、キースにさとされてとりあえず少女の頭を撫でた。
「ファナの様子はどうなの」
「見ての通りだ。引っ込み思案でいけない。言葉もなかなか覚えないし……」
エルメスは頭をかきながら少女を見下ろした。
ファナと呼ばれた少女はあいかわらずエルメスの背中に顔を押しつけている。少女の首には黒い紋様が浮かんでいた。
あのあと問題になったのが屈服した亡者の身柄だった。亡者の処遇はこれを屈服させた冒険者に一任される。ラフィータは一晩迷った末に亡者と契約をしないことにした。すると困るのは元亡者の少女だった。たとえ人格を抹消された無垢の存在でも、彼女は歴とした犯罪者である。このままでは彼女は法にのっとり断罪される。
ラフィータはそれを嫌った。なので彼女の引き取り手を探した。結果、エルメスが少女と契約を結んだ。
「長い目で育てるさ」
エルメスは少女の頭をぐりぐりと撫でながら言った。
「ねえラフィータ、少し外に出ようよ」
キースの提案でラフィータは少しだけ外出することにした。
キースとエルメスがギルド職員と会話している最中、ラフィータは銀髪の少女に近づいて、彼女だけに聞こえるような声量で言った。
「ティアラ」
少女は目をぱちくりとしてラフィータの方を見てきた。彼女はばっちりと目を合わせてくる。が、やがて彼女は不思議そうに首を傾げた。
ラフィータは静かにほほえんだ。
「頑張るんだよ」
ラフィータはそう言って少女の肩にそっと手を置いた。
「……うん」
少女はこくりと頷いて、エルメスのもとへ歩いて行った。
「マスター、何を話していたのですか」
「少し確かめただけだよ」
アーサは首を傾げた。
ラフィータはアーサをじっと見つめた。
「どうかしましたか」
ラフィータは思い出していた。亡者との戦闘で剣を受けて上空から落下した時のことを。あのとき彼は死を選ぼうとした。だが選べなかった。アーサが心に浮かんだ。彼女のために生き延びようとした。そのことが彼の心の奥底にとどまり続けていた。自分がそんなことを思うとは夢にも思わなかった。驚いたし、怖くもあったけど。嬉しさだって感じていた。
「ううん、何でもない。それよりもさ、なんだか久々にコジャッタを食べたい気分なんだ。どうかな」
「わあ、いいですね。行きましょう。早く、早く」
アーサが尻尾をふって喜んでいる。彼女はラフィータの服をつまんでぐいぐいと引っ張った。その子供のような仕草がおかしくて、ラフィータはついついふき出したのだった。
ファナ(元亡者)をラフィータのドールにしようか悩みまくって禿げ上がった。アーサにはラフィータ、ラフィータにはアーサ。これでよかった、多分。
次話はお祭りの話、男女の話
なんだかんだ二十万字近くまで来ましたが、うーん。わりかし手応えあるような気がしてたんですけどね……。世知辛い世の中です。