sliver
一
美堂薫子は、全身に重たい枷をつけられたように地面から動くことができずにいた。ずぶずぶと底なしの沼に吸い込まれていくように脳髄に疲労が染み渡る。
せっちんの消失を受け入れるのに、どれほどの時間を要するのか想像もつかない。
命の火を燃やし尽くしたせっちんに、薫子は敬意を表している。だからこそ言ってあげたかった言葉は、彼女の決意と矛盾するものだった。
「素粒子はね、恥ずかしがり屋なのだ」
電波の隔たったラジオから出るようなこもった声が、どからともなく聞こえた。
校庭に転がっていた貝殻に光が反射していた。それは薫子のポケットから落ちた藍色に染まった貝のアクセサリーであった。
「見られるとひっこんで仕舞うのだ。こんな風に」
薫子は壊れものを扱うように貝殻を拾い上げる。中に収まっていたのは二本の触覚のある小さな蝸牛だ。
「もしかして……、丑之森、螺々?」
かすかな期待を込め、貝に語りかける。
薫子の推量は外れたらしい。蝸牛は貝の奥深くに身を潜ませた。貝殻は、陽菜に成り代わっていた螺々が身につけていたアクセサリーだった。
貝を大事に仕舞込んでから、立ち上がってみた。ふらつくことはあっても、出血は既に止まって固まっていたし、アナフィラキシーショックによる呼吸困難は嘘のように立ち消え、空が広く閉塞感が和らいでいく。
もしや、せっちんが体内で傷を癒してくれたのではないかと、あらぬ期待を持って薫子は歩きだした。クロの亡骸に手を合わせ、眼鏡を拾った。
行き先は、既に決まっている。歩かされていようといまいと、どこまでも歩き続けてやる。
埃にまみれた校舎の窓と、体育館の間を通り突き当たりまで進む。
草生い茂る空き地には、何らの建築物も認められなかった。せっちん像も、トイレもなく薫子はがっかりした。
代わりに崖下に大きな横穴がぽっかりと開いている。坑道のようだったが、先は見通せない。
薫子は一度、天を仰ぎ、娑婆の光景を目に焼き付ける。
「結局一人になっちゃったけど、ここに戻ってくる時は二人になってるはずよ」
二
洞穴に光源はないため、薫子は目を閉じ聴覚を頼りに内部に進んだ。
深閑とした闇に心を脅かされるも、ハートの衣は厚くしなやかで、薫子の進むペースは衰えを知らなかった。
どれほど時間が経過したのかはっきりしない。十分か、それとも一時間か。
砂利を蹴る音がふいになくなり、靴が窮屈そうな摩擦音を立てた。大地が均衡を取り戻したが、冷や汗がこめかみを流れる。
薫子はおもむろに目を開いた。蝋燭の炎が、奇道を形作っている。足下は透明なガラス板のような材質。目当ての場所にようやく近づきつつある。
「お疲れさまです、美堂さん」
暗がりから、不吉の塊のような長身の男の影が浮かび上がる。
間の抜けた挨拶から、一呼吸置いてから影を凝視した。
「道案内してくれる? お互いここじゃやりづらいでしょ」
出会い頭に戦闘の合意は済んだ。
「賛成です。こちらへ」
伊藤嘉一郎は慇懃に腰を曲げてから、先導を始めた。
「螺々を殺したのはあんた? 理由は聞かなくてももうわかってる」
螺々は、西野陽菜の代役として葬られたのだろう。この世界の陽菜は既に死んだことになっていたのだ。
「そういえば、似たようなことをあんたに訊いたことがあった気がするわ」
「よくあることですよ。人生は繰り返しの連続なのですから」
左右には、等間隔を置いて透明な扉がついているが、伊藤は見向きもしない。
薫子は親を失った迷子のように、彼の広い背中を見つめ続けていた。
「君がここにいるということは、せっちんは敗れたようですね」
美術室の大扉の前に立った時、薫子は唐突に危機感を募らせた。野生の勘が告げている。ここに入ったら、生きて地上に帰ることはできないかもしれない。
「私は、せっちんに寺田君を託された。もう後には退かない」
伊藤は鼻につく嘲笑をしながら、真鍮性の取っ手を回した。
「今の君は」
薫子は自身の土と血に汚れ、穴の空いた制服を今更ながら恥じた。そして伊藤を男として意識していると早とちりしてさらに落ち込んだ。
「とても歯ごたえがありそうだ。僕のために犠牲になってくれませんか? 美堂薫子」
美術室に乱立するロダンの雄々しい芸術は、闇の下でも存在を誇示し続けた。
伊藤は容姿はその中でも見劣りしない。かといって、残念ながら中身を伴わない芸術は醜悪という点で見劣りした。
「あんた、本物のサイコ野郎だわ。ここで引導を渡してやる」
かすかに膝が震えている。他人を犠牲にすることでしか生きるこのできない人間と対峙する恐怖を改めて実感したのだ。
「君はさっきせっちんに託されたと言いましたが、本当ですか?」
「文句ある?」
薫子は肩を回し威嚇する。
「ご存じかと思いますが、せっちんは寺田君の元にいたある少女をモデルにしているようです。ですが、それが君である証拠はどこにあります? 君は自分が部外者であることを否定するためにせっちんを利用している」
伊藤の言も一理ある。
薫子が神隠しにあっていた時期、幸彦の元に身を寄せていた確たる証拠はどこにもない。推論に推論を重ねた砂上の楼閣を突かれた。
「君は寺田君の錨になろうとしている。もろい世界へつなぎ止めるために躍起になっているように見える」
「今日はよく喋るわね。必死なのはあんたも同じでしょ? ペド野郎」
伊藤にとって西野陽菜は得難い人材だったのだろう。
代役でもいいから、彼女に会いたいという願望は幸彦と通じるものがある。それでもこの男の場合単に肉欲を得たいという邪な欲望から端を発するため、軽蔑に値する。
「彼女は、常に恐れていました。この砂上の楼閣のような世界を。そして、自分自身を。だから」
話を聞いていられないと薫子は猿のように跳躍し、伊藤の脳天に両手を組んだハンマーを炸裂させる。頭骨は瓦を割るように砕けるイメージを描いていた。
が、しかし、薫子の予想に反し、伊藤は高所にある薫子の腕をやんわり取っていた。
「消して上げたんですよ。こんな風に」
伊藤が喜悦に目尻を歪ませる。
伊藤の手刀が、薫子の胸を障子を破るように簡単に貫く。鮮血が飛散した。
三
薫子の背中から、伊藤の血染めの指先がのぞいている。
肋骨を砕き、肺のかなりの部分を抉っていた。心臓を潰さなかったのは、薫子の苦しむさまを瞼の裏に焼き付けんがためだ。
薫子を見上げたままの伊藤の涼しい目に血の混じった唾をはきかけ怯ませると、両足の靴底で伊藤の顔面をスタンプした。
激痛を感じている余裕はない。一刻も離れなければという焦りで一杯だ。蹴りの勢いを利用し、伊藤の腕を引き抜く。風穴の中をぬるぬると伊藤の腕が蠢く感触は、例えようがない。一番近い表現は心太だろうか。思ったより抜きやすかった。
抜くまでしか考えていなかったため、仰向けに倒れ込む。まな板の鯉のように上半身をばたつかせる。
「あああっー! 私のバストが! 最近垂れてきちゃったり、肩が凝るし、男の目が気になるけど、パパからもらったバストがー!」
見苦しい悲鳴を上げ、のたうち回る薫子を伊藤は冷たく見下ろしていた。
「美堂さん、大丈夫。何ともありませんよ」
「へっ……!?」
薫子は薄目で、胸を確認した。せっちんとの戦いで縦縞の細い穴がいくつか開いている他、固まった血がこびりついているだけだ。制服の下に手を入れると、寄せては返す弾力は健在だった。
「よ、よかったー」
薫子は安堵から床に寝転ぶ。
伊藤は正確に薫子の胸を貫いたつもりでいたため、誤算に打ちのめされた。
伊藤の目には、奇妙な光景が写っていた。薫子の胸が抜ける瞬間、二人の薫子がだぶるように幻像されていた。
さなぎから、蝶が孵るように二人のうち穴の開いた方はすぐさま消滅し、片や残った方はスカートから黒のショーツが丸見えになっているのに気づかず、はしゃいでいる。
初めはキャスト能力を疑ったものの、暴食の虎はせっちんが破壊している。だとするならば、より伊藤の望む展開に近づきつつあるようだ。
「あんた、私に何かした?」
薫子は胸を両腕で押さえ、まるで汚されたように目に涙を溜めている。
「僕が聞きたいですね。まあ、体に聞くことにしますよ」
伊藤がリーチの長い右腕を伸ばす。薫子は後方に大きく飛び跳ね、二メートルはある彫刻の真上に着地する。接近戦以外に戦法を持たない薫子にとっても、伊藤の力は未知数である。しかし、ここを突破する以外に道はない。
攻めあるのみ。
薫子は蛇のように彫刻の合間を縫い、伊藤に肉薄する。
「美しい……」
腰に手を当て考え込む伊藤の横っ面を、穿つ勢いで拳打する。
頬骨に拳がめりこみ、伊藤の体は鞠のようにはねて彫刻の陰へと飛んでいった。
何らかのアクションを予期していた薫子は、呆気に取られた。
「下着の色は……」
時をおかず、鼻血を白いハンカチで拭いながら、伊藤は幽鬼のように起きあがる。
「慎ましい色と形がいいですね。検討してもらえませんか」
「何であんたの好みに合わせないといけないのよ」
伊藤は卑屈な笑みを浮かべる。さっきは薫子の下着に見惚れて攻撃をくらったらしい。
「僕が選んであげますよ。きっと君も」
言い終わる前に、今度は鼻がつぶれるくらい強く殴った。伊藤は彫刻にもたれて動かなくなった。
やりづらい。このまま無視して先に進みたいが、完全に戦闘不能にしないことには安心できない。
案の定、幾分、顔の造作が変形した伊藤が前屈みになりながら立ち上がる。
「ねえ、美堂さん、君、友達は多い方ですか?」
伊藤は瀕死とは思えない瞬発力で、薫子まで間合いを急速に詰めた。
そのまま腕を突き出す。体重を乗せておらず、ただ自然に腕を前に出しただけのように見える。
「がああっ!」
伊藤の五指が、薫子の喉を万力のように締めあげる。首の骨を砕かないように加減し、わずかに呼吸できるような隙さえあった。
薫子は違和感を募らせる。何故、伊藤の攻撃は面白いように自分を捕らえるのか。何らかの能力が原因のようだが、キャスト以外にも能力を持つ人間が存在するのか。しかし、薫子も人の身で超常のキャスト達と渡り合ってきた。もしかすると伊藤と自分は近い存在なのかもしれない。
「羨ましいなあ、僕はこう見えて友達が少ない方なんです」
伊藤は、空いている方の手で薫子の眼鏡を外した。
「し、知るか……」
膝蹴りで股間を狙うが、足が上がらない。股関節が固まったように動かないのだ。
伊藤は無念そうに首を振った。この世界の薫子は、ようやく超人の高みまで上り詰めようとしたが、やはり物足りない。
伊藤の力の正体は、素粒子の干渉である。
例えば、宇宙から降り注ぐニュートリノという素粒子は、目には映らず物体を透過し、特殊な装置でしか観測できないほど小さい。
一つ一つは、なきに等しい粒子が作用を及ぼすのは粒子は人間が関知するより遙かに大きな力を有しているためと思われる。
薫子の範囲にある素粒子の流れを殻を作るように途絶させた。それだけで薫子は世界の加護を失う。
相反する粒子がぶつかり消滅すると、同時にいくつかの粒子を生み出す現象を粒子の相互作用という。
伊藤が思うに、粒子の消滅と生成こそ世界を生み出す鍵なのではないか。そのサイクルから外れた物体は、通常の物理法則から切り離される。まるで裸の魂がそこにあるかのように対象を料理できるのだ。
伊藤がこの超常の力を得たのは、高校時代、稗田のあれとの出会いに遡る。
亜矢子を失ってしばらく後、伊藤はある変化に気づいた。
徒競走で生まれて初めて一着を取ったのだ。それも二位以下を大きく引き離して。まるで相手がわざと負けてくれたような疑念すら沸いた。それだけに止まらず、試験、絵画、人間関係、全てが円滑に回りだしたのだ。不気味に思い、稗田阿礼に相談すると、意外な答えが返ってきた。
「ハレルヤ。きっとそれは神のご加護に違いない。きょうび、神に加護を頂いているのに気づく人間は詩人か、革命家くらいのものだろうね。君はそれに気づき、なおかつ他人のそれを奪うことができる。もはや君に敵は存在しないのかもしれない。だが、今この時もふりそそぐ素粒子を受信することで、我々の世界が成り立つとしたら、神の意志を知る君は幸福になれるかしら。だって、操つり人形の糸に気づいた人形なんて笑えたもんじゃないだろう?」
稗田阿礼の言う通りだった。これまでの人生で伊藤の思い通りにならなかったことはほとんどない。女を口説くのも、わけなかったし、金も湯水のように手に入る。物質的な幸福で感覚は磨耗し擦り切れた。いつしか彼は他人の不幸だけが、自身の幸福と信じるようになった。年端のいかぬ少女を汚すこともその一環に過ぎない。
彼は世界から断絶している。
この深い絶望の能力を、彼はSliverと名付けた。




