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せっちん!  作者: 濱野乱
澪標編
89/97

君の知らない物語


伊藤嘉一郎と幸彦は、夕飯の買い出しにアパート近くの大型スーパーへと向かった。伊藤は何度か訪れたことがあるのか、スムーズな運転で目的地にたどり着く。

 

スーパーの駐車場にポルシェが止まっただけで、警備員は目の色を変えたし、さらに怪しげなアラフォー紳士と、白髪の若者のペアは殊更耳目を集めるのに事欠かなかった。


「先生は、どこからいらしたんですか」


幸彦はビスケットを買い物かごに入れながら、頭一つ背の高い教師に尋ねた。


「と言うと?」

 

伊藤は質問の意図を計りかね、間をおかず訊き返した。


「先生はキャストじゃないのに、こうして次元をまたいでここにいる。螺々さんみたいに不思議な能力を持っているんじゃないかと気になって」


本当は、何をしに来たのかと問い質すべきだった。

伊藤はいつものように人を煙に巻くような笑みを浮かべ、幸彦の耳元に口を近づけた。


「命令すればいいじゃないですか。君は支配者なのだから」


幸彦は全身の毛が総毛立ち、かごの取ってを離してしまう。


「おっと」


床に触れるか触れないかの寸前に、伊藤はかごを器用にキャッチする。

 

それから伊藤がかごを持って買い物を続けた。今日の料理担当は伊藤なので、便宜上都合が良い。


「僕からしたら、寺田君が支配者であるという事実に疑いを持ちますよ。だって君はいつだって傍観者だった」


幸彦は激痛をこらえるように胸を押さえた。


「今は違います。僕はここにいる。もう逃げたりしない」

 

口ばかりの決意でないと、胸を張り幸彦はその場に踏み止まる。


「それはこの時代に西野さんが還らないという確証を得たことによる開き直りではありませんか? 恥ずかしがることはありませんよ、旗色が悪くなり、翻意するのは人間として当然の」


「違います!」


幸彦は伊藤の行き過ぎた邪推に、人目もはばからず怒声を浴びせるに至った。


「失礼」


伊藤は聞こえるか聞こえないかの声で短く謝り、幸彦を置いて歩きだした。


幸彦の気持ちはいつでも変わらない。心は過去に置いてきた。


そこに付け込まれたというのなら、申し開きもない。それでも前を向ける機会があるのならと虫のいい考えを抱いてしまっている。


幸彦の時を止める遠因になった薫子が、再び彼を突き動かそうとは運命の皮肉と言う他なかった。


「幸彦君はそのままでいいんだよ」


幸彦の背後から、血の気のない細腕がざわざわとからみついた。

 

「先のことなんて考える必要なんてない。ずっと一緒にいようよ。私が側にいてあげる」


甘い囁きはしかし、鉛のように体にのしかかる。


「寂しいの。私を一人にしないで」


「僕は君と一緒にいられない」

 

幸彦は何とか勇をこして魔性にあらがった。



「どうして? プレゼントが気に入らなかった? でも”器”しか持ってこられなかったんだよ。中身は丑之森だし。いらないよね……、やっぱり」


「そういうことじゃないよ」


唾液が少なくなり、喉がひからびようとするかのようにがらがらと響いた。


「僕らにもう過去の物語はいらないよ。逃げ込んだ所で救いはない」


幸彦のわき腹を漆黒の爪が食い込む。臓腑まで届くかと思われる程の勢いに脂汗が溢れる。


「私たちの秘密もバラしちゃって。全部終わらせるつもりなんだね。でも、そんなの絶対に許さない。責任は取ってもらう」


幸彦の体が支えを失い、床に投げ出される。杖がカラカラと転がり止まった。


「はあ、はあ……」


動悸は運動した後のように激しく、頬から大粒の汗が垂れていた。


シャツの下の肌には、爪痕が生々しく残されていた。


 二


世界は一幅の絵物語である。

薫子たちはレンズを通して、それを眺めているに過ぎないという。

 

生きている実感の欠如。


これまで会社員に奉仕することを疑問に思わなかった薫子にとっては高い壁のように君臨していた。

 

会社を休み、かれこれ二週間が経過しようとしていた。有給はとっくに消化していたし、出社するよう催促の電話は鳴りやまないが、それでも薫子はアパートを出る気がしない。


「私にできることって結局何なのかしら」


ベッドで、こ○亀を読んでいた丑之森螺々に問いかけた。


「生きる意味を人に聞くなよ。馬鹿か。ミジンコを見習え! 立派に生きている」


「あんたってさ」


薫子は螺々を押し退け、ベッドの端に腰かける。

  

「迷いなく生きている気がして。参考までに聞いてみようかなって」


「まあそういう機構だからな」


人外の螺々に模範解答など期待できない。だからこそ、尋ねる気になったのだ。

この閉塞状況を打破するきっかけが欲しかったのかもしれない。

 

「私が求めるのは真の平等だ」

 

「へえ……」

 

螺々の口から一見穏健な言葉が飛び出すのを、薫子は信じがたい面もちを聞いた。


「格差の原因は何だと思う、薫子」


真っ先に浮かぶのは貧富だった。遺伝的要因も重なるだろうが、それが一番大きいと見る。


「無一物から成り上がる者もいる。幸福の針路はそれぞれ違うしな。個体差があるのが人間のおもしろい面でもある」


画一された幸福は存在しないのかもしれない。コマーシャル的な幸福は探してもそうそう見つかるものではないし、それを受け入れる裁量は個人に任されるべきであろう。


「私は一つ壮大な実験をしてみようと思うんだよ、薫子。果たして人類が同じスタートラインに立ったとき、どう振る舞うのか」


薫子は螺々が稗田阿礼のなれの果てであるとは知らなかった。それでも螺々の思想に危険な臭いを感じ取る。


「粒子の動きが予測できないように、人間の動きは統御できない。もし統御できるとすれば、一瞬で滅ぶだろうな。統御しないで平等を為すにはリスタートしかない。そこでこの螺々ちゃんの出番だ。まずは環境を変える。全てが螺々ちゃんになれば、世界は螺々ちゃん一色になる。お前も螺々ちゃんにしてやろうか!」


「いやあ!」

 

螺々は薫子の胸をもみしだいた。

薫子は螺々の凄みに怖じ気付き、バスルームに立てこもった。ドアノブがこじ開けられそうになるのを背中で押さえる。


「つまり、あんたが他人の体を乗っ取って、全人類を制服しようって計画なのね」


「ハラショー。社畜にしては理解が早い」


丑之森螺々は他人の肉体を乗っ取る力を持っている。自分以外の他人に家の鍵を預けるのが不安なように、許せない問題だ。


「怖がることはない。全人類が螺々ちゃんになっても元々あった個が消えるわけではないのだ。今の私が西野陽菜であることに代わりはないように。人類の進歩という、ただ一つの目的のために動くだけだ。将棋に例えると分かりやすい。スタートは同じだ。これが私の提唱する天国だ!」


 

ある意味幼稚な理論だが、実現可能な化け物が語る分、質が悪い。


さりとて幽霊の正体見たり枯れ尾花。薫子は落ち着きを取り戻し、眼鏡をかけ直す。


「あんたの論は穴だらけよ。人は駒みたいに単純じゃない。それに平等って言うけれど、将棋は駒を取り合うゲームよね。あんたは戦争でもおっぱじめるつもり?」


「必要とあらば。この天国ですら過程に過ぎん。より良い種を選別し、超人を生み出すためのな」


「語るに落ちてるわ。そんなの実現するわけない。実現するものですか」


薫子は取り乱す自分を誤魔化そうと髪を触った。螺々は予想以上に危険な存在かもしれない。螺々という化け物が何人いるのか正確な数はわからないが、膨大な数に及ぶであろう。優性思想を持つ分、ある意味支配者よりも厄介ではないか。


螺々はドアノブを回すのをあきらめ、冷蔵庫につま先だちで移動する。薫子の大事なハー○ゲンダーツを奪うためだ。

 

「そう強がってみても、天国は実現しつつあるのだがな。君がその証明だ。超人、美堂薫子」


 三


薫子が恐々とリビングに戻ると、螺々は幸彦の撮った写真集を開いている。アイスは既に腹の中に収まり痕跡すらなかった。

 

螺々が体育座りしていると、年端も行かない小娘にしか思えない。居る場所もないので、薫子も隣に座る。

 

アイスの匂いに気づいた薫子が詰め寄ろうとした所で、伊藤と顔色の悪い幸彦が戻ってきた。


薫子は意図的に会話を切り上げ、夕食まで幸彦と会話して時間を潰した。


「ちょっと具合悪そうね。いつもそうだけど」


薫子は幸彦の額に手を当てたが、払いのけられる。


「ほっといてくれよ!」

 

螺々が疑義を呈するようにちらっと、幸彦に視線を投げかけが、すぐに本に目を戻した。


薫子は幸彦の尋常ではない様子を見て、大人の冷静さで対処する。 

 

「ねえ、ちょっといい?」


薫子は部屋の隅に幸彦を連れだし、小さく耳打ちする。


「……、わかったよ」


不服そうだったが、承諾してくれた。幸彦に何かあったのだろうと、薫子は感じていた。それでも彼自身の悩みを聞き出すには至らなかった。


 




翌日は梅雨にしては、からっとした陽気となった。


薫子と幸彦は、青山霊園に向かった。最後の戦いを前に薫子がどうしても訪れたかった場所である。


「西野のこと調べてるんだってね」


電車の中、幸彦がそう言いだした時、薫子は胃がきりきりするのを感じた。


「新聞記事以上のことはわからなかったけど。寺田君はどうなの?」


「僕のせい……、ってことにしたいんだけど」


「含みのある言い方やめなさいよ」


「わからない」


会話の途中、停車駅で学生が乗り込んできた。幸彦はしばし目を奪われていた。


「わからないから知りたかったのかもしれない。今更そんなの意味ないのにさ。西野は消えちゃったんだから」


幸彦は押し黙ってしまった。

 

もつれた糸を解きほぐしていく。

痛みを伴い、血を流しながら事実と向き合うために。

過去は過去と断絶していいものだろうか。二人の気がかりであった。


「これまで見てきたものに偽りなんてないわよ。でも私たちは前を向かなきゃいけない。それは貴方もわかってるわよね」


「ああ、わかってる」


「わかってるならそれでいい。一緒に戦いましょう」


幸彦の表情は硬かったが、薫子はそれが決戦を前にした緊張によるものだと考えていた。


霊園の中の低い立地に、目的の墓はあった。墓石には雪乃の名前が刻まれている。参拝者が他にも来ていたらしくまだ色鮮やかな生花が上がり、線香がもうもうと煙を上げている。

 

「親父だよ。昔は墓参りなんかしなかった癖にさ」


幸彦は憮然と供えられていた花を自分が持ってきたものに入れ替えた。


「ねえ、寺田君のお母さんは……」


「出所してると思う。でも行方は知らない。親父は連絡とってるみたいだけど」


幸彦と雪乃の母親は虐待致死により懲役七年の実刑判決を受けたことは、薫子も過去の新聞を調べて知っている。現在の居場所を探して話を聞くか迷っているうちにタイムアップになった。


幸彦は母親を許していない。それ以上に自分を許せないから今に至る。

 

「つみに、じこうはない」


何者かが二人の間を裂こうと疑念を差し向ける。


黒い単を着た幼女が不遜にも、雪乃の墓石に腰掛け二人を見下ろしていた。

 

薫子は、下手に刺激しないように動きを最小に押さえた。幸彦にも同じようにするように目で合図を送る。

 

「あんぜずとも、ここでやりあうつもりはないわい。いったであろう、しゆうをけっするにふさわしいばしょがあると」


せっちんの言を正直に受け入れることはできない。目的のためなら、だまし討ちも厭わない覚悟を持っているのだ。


「悪いけど、私たちは貴方たちと同じ場所に立てないわ。だって貴方は」


「そなたのそうぞうどおりじゃ。わらわは、”こばやしゆきの”のうつしみではない。そうであろう? ゆきひこ」


幸彦はうつむいた。

 

「わらわは、ゆきひこのつみのしょうちょう。いつわりのいもうと」


薫子はこれまで見つけた足跡を口にする。

 

「せっちん、貴方は昔の私なの?」


せっちんは答えず、時間が過ぎた。大木の枝を押し倒すような強風が吹き、薫子は髪の乱れを押さえた。


「……、そのこたえは、おのずとわかる。ゆきひこがなにをせんたくするのかも」


意味深に言い残すとせっちんの体は風船が萎むように急速に縮み、跡形もなくなった。


 せっちんの気配が消えると、薫子は額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。

 

「私と寺田君って同い年なのよね」


「うん」


「私は家出をして、寺田君の所にいたのね。妹として」

 

岡山から東京にたどり着いた薫子は家に帰ることを拒んだのだろう。父親との生活は困窮していた。いくら頭で理解していても、幼い心には耐えがたかった。幸彦は共に暮らす方便として、妹をかたらせたらしい。そして薫子はカヲリとも出会い、その影響を受けた。

 

「全然覚えてないけど、貴方といると落ち着くのってそういうことだったんだってわかった。実は初めて会った時、やっと会えた! って気分になったの。でもこれは恋とか運命じゃないわ。それが不思議だった。以前に会ったことがあったからなんだわ」


しかし、それは裏表のある心理でもある。雪乃の死に、薫子が関係している。薫子が雪乃を演じなかったら、最悪の悲劇は避けられたかもしれない。


「君は何も悪くない。悪いのは全部僕だ」


幸彦は本物の雪乃を放置していた。母親の育児放棄されていると知りながら見て見ぬ振りをしてきた。お金を集めていたのは、元々、雪乃のためではなく、薫子のためだったようだ。


「君が僕の前から消えてから、僕は妹を迎えに行ったよ。このままじゃいけないって。でも手遅れだった」   


雪乃は死に、そして西野陽菜もまた幸彦の前から消えた。


「僕と関わると皆、不幸になる。自分の名前が皮肉にしか思えなかった。だから人と距離を置いて生きてきたんだ。でも半年前、あれを見つけた」


半年前、廃校になった丸岡でレンズを発見し、ナノを目覚めさせた。

 

ナノは幸彦を、こう説きふせたという。

 

「私が幸彦君の願いを叶えてあげる。過去は未来の影響を受けるんだよ。その逆もまた然り。死んだ人間の運命も変えられるかも」


幸彦が責任を感じていることは誰に言われなくてもわかる。


個人的な欲求で、世界を危険に晒しているのだ。そこに苦しみを抱かないほど彼は鈍感ではない。

 

「誰も貴方を責めないわ。私も過去を乗り越えたわけじゃないし。それはおいおいね」

 

薫子は全てを知ってなお、胸の空白を抱えていた。自分は雪乃? 薫子? 一体何者なのだろう。何者であれば誰かに選ばれたのだろう。


こんな状態で、もはや個であることに迷いを持たないせっちんたちに勝てるのか。


正直、このまま最後の戦いに臨むのは不安であった。

 

しかしここで自分が折れたら、幸彦の心も耐えきれなくなることを見越していた。


薫子は努めて気丈に振る舞いながら、帰路に就いた。

 


 三


夜も更け気温が下がってきたのを見計らい、伊藤は窓を閉めた。午前中、薫子と幸彦が二人で出ていって、戻る兆しは未だない。


螺々はベッドに横たわり、既に寝息を立てている。伊藤は体を屈め、彼女の切りそろえられた前髪を梳いた。背後に気配を感じ、手を止める。


「ねー、食べないの?」


薄い緋襦袢を着たナノが、目を三日月に細めていた。襟ははだけ肩が露出していたし、裾も短く、禁欲的な以前の印象とがらりと雰囲気が変わった。


「ええ。もったいなかったんです」


「ポチって、陽菜を大事に大事にしてきたもんね。本当はしたいこと一杯あったのに。嫌われちゃうのが怖かったのかな」

 

伊藤は螺々に目を落とす。西野陽菜という少女は彼にとって特別な存在だった。自由奔放、その反面、致命的な弱さを抱えていた。亜矢子とは似ても似つかないが、シンパシーを感じずにはいられない少女だった。


いつしか孤独な男の目から涙が落ちていた。

 

「こんなことになるなら……、陵辱してきちんと壊しておくべきだった……!」


伊藤の後悔は、陽菜の苦しむ姿をもっと堪能したいという身勝手なものだった。彼女は最高の供物だったのに、目的を達する前に、目の前から消えてしまった。

 

「僕を置いていかないで。君は亜矢子とは違うはずだ」


伊藤は少女たちの物語に心引かれる。彼にとって、手の届かぬ世界であり、それを壊すのが彼の最大の愉悦。


「全く、困った先生だなぁ」


ナノは血の気のない手が伊藤の手に重ねられる。


「壊しちゃえよ」


犬に命令するように、是非を決定する。


「私が協力してあげる。この世界が憎いんでしょ? 少女たちの世界に復讐するの。やろうよ」


伊藤はナノにかしずき、乾かぬ瞳で見上げた。まるで届かぬ星に目をこらすように魅入られてしまった。




薫子と幸彦がアパートに戻ったのは十時を過ぎていたけれど、伊藤たちは律儀に食事を取らずに待っていた。


二人にはせっちんと会ったことを黙っていた。薫子は幸彦に気をつかったのだ。


伊藤は、赤ワインのグラスを傾ける。殴りたくなるほど気障だ。


「僕は美しい少女の下僕です。博士が望むなら、火の中、水の中、泡の中」


「よーしっ! いい返事だ。ポチ! わはは!」


ワインを飲んで真っ赤にさせた螺々が、大声で笑ったので薫子は気が気ではなかった。隣近所の迷惑を配慮したのである。だがいずれにしろこの狂騒は今宵で終わるだろう。最後の晩餐を心おきなく堪能させようと、薫子もやかましく言わなかった。


「ありがとう」


螺々を布団に寝かせた伊藤の背中に、薫子は何の前触れもなく礼を口にしていた。


「博士のことなら別に。好きでやっていることですので」


「違うわよ。陽菜のこと」


伊藤は首をもたげ、薫子の方にふりむく。


「貴方は多分、陽菜を大切にしていたんでしょうね。寺田君の分まで。手を引いたのだって、寺田君のためだったんじゃない?」 


結局、複雑な恋愛模様を薫子が把握することはなかった。西野陽菜という空白のピースは、今後、埋まることがあるのだろうか。

伊藤はとぼけたように笑って、螺々に布団をかけた。


「買いかぶり過ぎですよ。僕はそれほど殊勝な人間ではありません」

 

「うん、知ってる。今のは建前。次が本音」


薫子は伊藤の無神経さに我慢ならなくなっていた。恐らく確信犯であろう。 


「いつまで独身女の家に長居してんだよ。どっか行けや」


「おや。失敬」


螺々の布団に当然のごとく入ろうとした所で首を掴んで廊下に放り出し、リビングへのドアを閉める。


螺々が口を開けて寝ているのを確認すると、電気を消し、ベッドに戻る。幸彦は押し入れで眠っている。


酒も入っていたこともあり、薫子もすぐ眠りに落ちた。伊藤は大人しく正座し、物思いに耽っている、と思われた。


数時間後、薫子は肌寒くなって目を開けた。ベランダの窓が開いて、カーテンが物憂げに揺れている。カーテンを透かして人影の気配を察知した。


「起こしてしまいましたか」


暗がりに浮かんだ伊藤のシルエットが何かを抱き抱えているのが、おぼろげに見えた。目をこすり真意を訊ねる。


「何してるの……? あんた」 


布団に螺々の姿がない。薫子は飛び起きる。油断していた。伊藤は螺々をさらうつもりのようだ。 


「あのさ、盛ってホテル行くって言うなら止めないわよ。同意がないのは頂けないけど、ここでおっぱじめられてもたまんないしね」


伊藤は否定的な沈黙で答える。


「だよねー。正直でよろしい」


薫子は肩を回しながら、ベッドを降りる。


「やっぱりあんたのこと買いかぶってたわ。クソ野郎。螺々は連れていかせな   」


薫子の唇は威勢よく動いているが、声帯が硬直したように音が途切れて聞き取れない。


「すみません。騒がれると面倒なので、”添削”させてもらいました。それではごきげんよう。彼の地で相見えるのを楽しみにしています」


伊藤の不可解な言動に翻弄されているうちに、逃走を許してしまった。


声が出せるようになるまで、その場に止まらざるを得なかった。


それだけ普段当たり前にできていることができなくなるというのは恐ろしいことだった。


「おい、あいつを止めないとヤバいぜ」


遅まきに虎がベッドの下から這い出てきた。


「じゃあ時間融資してくれればよかったじゃない」

 

薫子は下唇を噛む。


時間を止めれば、伊藤が不可解な力を使っても対処できた可能性はあった。あくまで可能性に止まるのが悔やまれる。


「いやー、何かあいつ不気味すぎんよ。あのままやってたら絶対負けてたね、お前」


「私もそう思う。螺々はどうなっちゃうの?」


虎と付近を捜索するも車ごと消えており、追跡は困難を極めた。


成果もないままアパートに戻ってきた。幸彦は寝たふりをしていたが、一人ある決意を固めていた。


頭を抱えたまま朝を迎えてしまう。新しい世界の終わりが迫る。

 

 


櫛の歯のように細いフェンスを越えた屋上の縁に、これみよがしにローファーが揃えてあった。


朝日がローファーに反射し、その光にナノは目を細める。


「こうしてイカロスの翼をもがれた女の子はいなくなったとさ。これが私がキャストとして生まれた理由。陽菜の死を否定するための役者。でもその役目も終わり。私は私として生きる。陽菜なんて子はもう存在しない」


ナノは軽蔑したようにローファーを蹴り落とした。 


「ねえねえ、悔しい? 陽菜がどうして死んだのかわかんないでしょ? 」


「彼女がどうして死んだのか。僕にもわかりません。その物語が欠けているから、恐らく、寺田幸彦や美堂薫子も同じ喪失感に苛まれているのでしょう。君は、君たちは故人の思い出を糧に、別の世界を作ろうとしているのですね」


伊藤はナノの隣に静かに佇む。彼の脳裏から、亜矢子の輪郭がぼやけて消えるのがわかった。

 

「悲しむことはないよ。アルバムをめくるようにいつでも私たちが側にいる」

 

マンションの真下の駐車場に、黒い染みがレースのように広がっている。


眼下の光景に、伊藤は勃起した。


亜矢子を殺めた時か、それ以上の興奮が脊椎を貫く。危うく、目の前の事象を全て忘れ、地上に墜落しかける。


「ポチは本当に変態だね。何興奮してんだよ。ばーか」


ナノが悪態をつき袖を振ると、伊藤は大げさな身振りを加えて自己主張を繰り出す。


「彼女は僕を呪っていたのでしょうか」


ナノはあえて答えを与えようとはしなかった。それが伊藤を最も喜ばせると知っているからだ。


しかし興奮は潮が引くように去りゆくものだ。決して長くは続かない。新しい刺激を用意してくれる支配者に従うのは、彼にとっては当然の運びだ。


熱を帯びた口調で身悶えする伊藤に、ナノは白皙の手を差しのべる。


「ねえ、ポチ、私を壊したい? したくなったでしょ」


伊藤はその手を取り、身を投げ出すように激しく口づける。ニーナを吸収し無欠となったナノは魅力的ではある。


本音では、ニーナの長い指が恋しい。あの薬指に触りたいと常々考えていた。


それがもう叶わないと知ってからは、ますます魅せられた。


「私のお願い聞いてくれたら相手になってあげる。美堂薫子を殺して」


ナノがニーナを取り込み、完全体になるには時間が要る。いずれにしろ、守護者たちが消滅し、原始の光に引き寄せられた時の衝撃でこの世界は消滅する。そして新しい日が昇るのだ。


時間的制約と、好敵手の存在。伊藤はこれ以上ない好条件に心躍らせた。


駐車場に群衆が目立つようになってきた。その中から見知った顔を選び出す。



前菜に過ぎないが、彼女を味わうこともやぶさかではなくなっていた。多少肉質は落ちるが、無くなれば愛おしむこともできるだろう。


伊藤は美堂薫子を狩ることに決めた。




薫子とクロは、しらみ潰しに町中を捜索していた。明け方、最後にたどり着いたのが、以前わ螺々と伊藤が訪れたマンションだった。


付近では既に警察による規制線がしかれており、それを囲うように人だかりができている。騒然とした群れの空気に、薫子は脅かされることなく白々しい顔で立っていた。


マンションに隣接する駐車場では黒い油のような染みがこびりついている。


「西野陽菜は死に新しい物語が生まれる。これまでとは違う物語が。これは終わりの始まりかもしれねえな」


電信柱の陰から虎が断言する。


薫子は正視に堪えず両腕を垂らし、人だかりを去った。


側溝に光るものを見つけ、手に取る。青い光を放つ巻き貝の髪飾りだった。螺々の持ち物だ。


薫子は悼むようにそっと手のひらに覆い隠す。


見上げる先には、マンションの屋上。そこに人影を確認することはできなかった。


タクシーでアパートに戻り、鍵をかける。


幸彦の姿はそこにはなく、「一人で話をつけに行きます」とだけ書き置きが残されていた。ああやっぱりと、薫子は驚かなかった。


靴を揃えずリビングに移動し、ベッドに倒れ込む。埃が舞う。薫子は掃除まめな方ではない。伊藤のおかげでキッチン周りはきれいになっているが、幸彦に私物を触らせなかったせいで段ボールからセーターの袖がはみ出ていたり、部屋の秩序は悪化の一途を辿ることが目に見えていた。


「会社……、行かないと」


伸びをし、クローゼットを開ける。スーツを探そうとした手が止まる。 


ストックの少ない私服の間に異彩を放つ装束を見つけてしまったのだ。


「悪趣味にもほどがあるわ」


薫子は吐き捨て、セーラー服の上下を床に放り投げた。ハンガーが堅い音を立てる。


螺々が用意していたのだろう。これを着ろとメモがついている。この時、螺々の字を初めて目にした。


螺々に背を押されているような気がして、薫子は努めて見ないようにクローゼットにセーラー服を押し込む。


全ては終わったことだ。


幸彦や、伊藤は過去に囚われまた過ちを繰り返すのだろう。罪と罰、永劫の物語を。


「もう勝手にしろ。私は暇じゃない。働かなくちゃ生きていけない。私を必要としている人はこの世界に多分いる。誰も知らない物語が私を待っている。税金も家賃も払わなきゃいけないし、土曜日には合コンもある。ハイスペックの旦那を捕えてタワーマンションの高層階に住む。毎年一回海外旅行に行く。過去で飯が食えるか。ばーか!」


マシンガンのような虚しい遠吠えは長く続かない。


しかし定型的な願望を口にしても空しさが募る。彼らと自分、何が違うのだろう。結局今でも分からずじまいだ。


不倫相手からもらったカルティエの時計をゴミ箱に捨て、高温のシャワーを浴びた。螺々が使ったせいでお気に入りのシャンプーは残っていなかった。


処女のようなまっさらな肌に新品の下着をつけ、セーラー服を身にまとう。ややきつめのサイズだったものの、着ることができた。


髪を素早くすき、眼鏡をつける。姿見の前で一回転。


「美堂薫子、十七歳でーす。キラッ☆」


馬鹿馬鹿しい神話を壊すためには馬鹿馬鹿しい装束に限る。といった所か。



「鏡よ鏡よ、鏡さん、人はどうしてJKに惹かれるの?」


姿見の陰にいたクロが元の虎のサイズに戻りながら裏声で答える。


「それはかけがえのない一瞬だからだよ。戻らない時間の針を懐かしむからだよ」


その価値は、えてして金で買えるものを上回る。しかしそれは取り返せないからこそ貴いのかもしれない。


「戻らないものに執着しても仕方ないのよ。そうでしょ?」


荷物を持たず薫子は外へと飛び出した。

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