百三十七億年の孤独
この話が私の夢か私の一時的狂気の幻でなかったならば、あの押絵と旅をしていた男こそ狂人であったに相違ない。だが、夢が時として、どこかこの世界と喰違い別の世界を、チラリと覗せてくれる様に、又狂人が、我々の全く感じ得ぬ物事を見たり聞いたりすると同じに、これは私が、不可思議な大気のレンズ仕掛けを通して、一刹那、この世の視野の外にある、別の世界の一隅を、ふと隙見したのであったかも知れない。
江戸川乱歩 『押し絵と旅する男』
一
都内のマンションの駐車場で、丑之森螺々は腰に手を当て空を見上げていた。ちぎれ雲が、空にかかっている。マンションは七階建てで、かなりの築年数が経過している。白い外壁には小さくない亀裂ができていた。
駐車場にある自販機でブラックのコーヒーを買い、それを飲んだ。缶を捨ててから、向かいにあったイタリアンの店に入っていった。
五分もしないうちに店から出ると、駐車場に止まっていた黒のポルシェの助手席に乗り込む。
「建物の立地は変わらないが、テナントは変わってるからな。当時を知る人間はいなかった。でも私にはわかる。この場所で間違いない」
運転席の伊藤嘉一郎は黙々とエンジンをかけた。
五十メートルほど走り、二つ目の交差点の信号で停止する。神保町方面に車は向かっていた。
「出版社に、つてがあります。当たってみますか」
伊藤の大学の後輩が出版社に勤めているらしい。
螺々は適当に頷いてから車窓に目を向けた。
美堂薫子が小豆島から東京に戻ってから二日が経過していた。当初、薫子はおみやげを持ってきて、陽気に振る舞っていたが、明くる日からは塞ぎがちになった。
支配者と目される寺田幸彦と行動を共にしていたことに驚きを禁じ得なかったが、全ての真相を知る時が来たのは、彼らと合流して間もなくのことだった。
「ナノや、他のキャスト達は、宇宙が誕生した時の始まりの光なんです」
薫子を初めとした面々は一様に驚いたが、伊藤だけは落ち着き払っていた。
「何故今更、そんなことを我々に話す? もう事態は手遅れなほど進行しているいうことか」
「いいえ。まだ最後の刻は訪れていません。だって」
幸彦は、薫子の部屋の時計を指す。
「時間の逆行はまだ始まっていないから」
「ねえ、ちょっとわからないんだけど」
薫子が口を挟んだ。
「あの子たちが始まりの光だとして、どうして過去に干渉できるの?」
説明しようとした幸彦に先んじて伊藤が薫子に顔を寄せた。
「美堂さん。我々が観ている宇宙の映像などは、過去の光を撮影しているに過ぎないんですよ。宇宙は広く、いくら光速とはいえ我々の目に入るのはごくわずかなんです」
「わかったわかった! 顔が近い。で、どうなるの?」
その後、物知り博士こと螺々ちゃんが、相対性理論や宇宙のインフレーションなど薫子の理解が及ばない話をし出したため、収拾が困難になりそうだった。
「つまり、キャストたちの最終目標は、宇宙の収縮にありそうですね」
伊藤が纏めると、さもありなんと螺々は頷くが、薫子は脳のオーバーヒートでひっくり返っていた。
「我々、ゲストは魔の光に魅入られたか……、光が意思を持つなんて眉唾ものだが、前例がないわけじゃないしな」
螺々は意味ありげに伊藤を見やるが、彼はいつも通り澄ました顔で聞き流した。
「よくわからないけど、放っておくとどうなるの?」
薫子は話に半ば飽き、クロと猫じゃらしで遊び始めた。
「さあな、宇宙そのものが消滅するか、あるいは戻った時の反動で膨張するか。いずれにしろ、より混沌とした状況になることが推測できる。寺田君、君はこうなることを承知でナノと契約したのか」
螺々は厳しく幸彦を詰問した。幸彦は苦しげに、されど目を背けず正面を向いた。
「僕は……、運命を変えたかった。そこをナノに利用されたけど、僕が一番悪いのは確かです。こんな僕が言うのは変かもしれませんけど、ナノを止めて下さい。お願いします」
薫子は幸彦の頬を両手で掴む。
「違うでしょ」
「え?」
「またあんたはそうやって傍観者を決め込むつもり?ここまで来たからにはあんたも参加しなさい」
「そうだぞ!」
薫子の指摘に螺々も同意する。
「それにまだ肝心なことが聞き出せていないしな。寺田幸彦はいかにして支配者になったかという根源的な問いが。私の見立てではこの辺に隠し持っているんじゃないかと睨んでいるんだ」
猫じゃらしで幸彦の頬を太腿をくすぐる。
「違うわよ、きっとこの辺りよね」
薫子も参加して幸彦を悶えさせた。
「ちょ、ちょっと二人とも……、どこ触って……あー」
ちょっかいに耐えられなくなった幸彦が倒れると、螺々は真顔になった。
「百三十七億年の孤独か。こいつらはどんな気持ちでここまで辿りついたのだろうな。千年ぽっちの私では想像もつかん」
感慨深く言って、螺々は猫じゃらしでクロを呼ぼうとした。愛想を尽かされたのか、クロはキッチンの方に移動してしまう。宙ぶらりんの猫じゃらしが、その場に取り残された。
二
それから数日間、二手に分かれて情報収集に奔走した。螺々と伊藤は西野陽菜の情報を、薫子と幸彦は雪乃の最後の情報をできる限り精査した。その行為自体も、時間の逆行ではないかと内心で恐れてもいたが、するべき事が見つからなかったのだ。
「実は私、東京に帰る前に岡山にも寄ったの」
岡山は幼少の折、薫子が父親と暮らしていた場所である。螺々と二人きりになった時を見計らい報告した。
「何かわかったのか」
「当時、近所で暮らしていた女子中学生がまだ同じ所にいてね、私のこと覚えててくれてたみたい」
その元中学生によると、薫子が彼女の家を度々訪れて、時代劇を観ていたという。薫子の家にはテレビがなかったのだ。
「それとね」
薫子は、叔母から送られてきた段ボールから古びた写真を取り出し螺々に突きつけた。それは薫子の高校時代の集合写真だった。
「ほう……」
螺々は写真に釘付けになった。昔を懐かしんでいるのかと思いきや、
「で、お前はどれなんだ」
ところが、螺々は写真の中から薫子を見つけられなかった。薫子は落胆した。
「そうよね、詐欺師が獲物の顔を覚えてるわけないか」
「何拗ねてるんだ。仕方ないだろ、子供の時のお前と会ったのは私じゃない。別の丑之森螺々だ。待ってろ、今見つけてやるから」
薫子が疑義を挟む前に、螺々が写真の一点を指した。
「もしかして、これか?」
螺々が指していた先にいたのは、十代後半の生徒の中で一際小さな少女だった。体に合う制服がなかったため、一人だけパーカーを着て他所を向いている。
「ご明察。あんたの実験の影響で発育が遅れていたらしいわ」
螺々は実験に立ち上えなかったことが歯がゆかった。恐らく実験に関わった螺々は以前、伊藤に殺された西洋人の姿をした個体だろう。
「それと、これ見て」
続いて出てきたのは、新聞記事のコピーの切り抜きだった。内容は小林雪乃の死を扱ったものだ。
「これがどうしたと言うんだ」
螺々は訝るように切り抜きに目を凝らす。
「遺体は死後三十日を経過しており、って書いてあるでしょ」
「あ、ああ……」
「遺体が発見されたのが、十二月二十五日。前の世界で、雪乃ちゃんは十二月に入っても生きてたわ」
薫子の意図にようやく気づき、螺々は表情を引き締める。
「よしんば、寺田幸彦の妹を名乗っていた別人がいたとして、それを立証するてだてはなさそうだが」
「でも、これだけ証拠があれば」
螺々は記事を強引に屑篭に放った。
「いいから。もう余計なことは抱え込むな。世界は無数に存在する。前の世界はキャストが介入してたまたまああなっただけかもしれん」
臭いものに蓋でもするように螺々は話を打ち切ろうとする。
薫子の人生に関わる話だ。無碍にされて頭に来た。
「所詮、あんたに人の気持ちなんかわかるわけないわよね」
螺々は無造作にフローリングの床にひろげてあった一冊の写真集を手に取る。
「そうだな、私にあるのは情報だけで、固執する過去があるわけではない。少し、君や寺田君のことが羨ましいのかもしれない」
薫子は自然と首を伸ばし、注意を奪われていた。
写真集は幸彦の名義で出版されている。廃校をテーマにした写真集らしい。その表紙は見覚えのある校舎が被写体となっていた。
「丸岡高校は廃校になっていたんだ。どうりで見つからないはずだ。てっきり存続していると思っていたからね。見るか?」
薫子は、螺々からひったくるようにして夢中で写真集のページを繰っていた。日当たり、校舎の立地、窓の向き、手入れを忘れられた中庭、年月を経ていたものの、まるで自分の母校のような郷愁さえ湧く。
「おや、懐かしいですね」
幸彦と夕飯の買い出しに出かけた伊藤が戻ってきて、無遠慮に薫子の隣に腰掛ける。一緒に写真に思いを巡らすのも奇縁だろうか。
「あんたが中学教師しているのはこういうわけだったのね」
「ええ。丸岡の制服をブレザーにチェンジしていれば今でも存続していたかもしれませんね。いえ、僕の趣味というわけではないのですが」
過ぎ去った年月は人を変えると言うけれど、伊藤はどうなのだろう。彼の容姿は十年を経た今でも鑑賞に耐えうるものだった。東京駅で初めて会った時は気づかなかったが、少し頬がこけていたり、首に皺があったり些細な変化はある。味わいが深くなったと人は言うかもしれない。
目の前伊藤がどこから来たのか薫子は知らないが、彼もまた清算していない過去の奴隷であることを忘れてはならない。
「人が生きるのには、理由が必要なのですよ。生徒の制服は重要です」
教師に似つかわしくない不穏な台詞をはくと、伊藤はキッチンで料理を作り始めた。悔しいが、その牛肉のソテーはこれまで薫子が食べたどの料理をも凌駕していた。
「考えてみたんだが」
食事を終えると、螺々は口の周りをソースまみれにしたまま前置きをした。するとすかさず伊藤が汚れを拭う。薫子がいない間に、二人の息は揃ったらしく、まるで無駄がない。執事と主のような関係ができあがっていた。
「我々はどうも過去にいるというよりも過去を覗いているという状況に置かれているんじゃないか」
一同は怪訝な顔で螺々の高説に聞き入った。
「だっておかしいだろう。過去を生きるキャスト……今は守護者だったか。そいつらが大手を振って歩いている。それがどういうことかわかるか」
「さあ?」
薫子は螺々が飲んだお酒の瓶を台所にしまっている最中だった。誘惑に負けて空の瓶に口をつけてしまう。
「ナノは確か光のキャスト。前々からおかしいとは思っていた。どうして光速で動く物体が我々の目に映る」
薫子は話にちんぷんかんぷんだったので、袖をまくり、洗い物を始めた。
「私が言いたいのは彼らを見るためのレンズがどこかにあって、これまでそれを見ていたという可能性があるということだ」
「それって……」
薫子は血相を変えてキッチンから走って来ると、螺々に詰め寄る。
「そのレンズを壊せば」
「ああ……恐らくキャストたちは死ぬ。これが私の考えだ。現状を打開するにはそれしかない。寺田君、どうだ?」
話を振られた幸彦は、肩身が狭そうに床に体育座りをしていたが、はっと、顔を上げた。
「心当たりがあります。僕を信じてついて来てくれますか」




