あなたの罪を数えましょう
ハクアは、分厚い辞典を重たそうに抱き抱える。彼女の能力、罪業の書の真価が発揮されようとしていた。
「ハムラビ法典は、世界最古の法典ですぅ。罪を明文化したことは画期的でした。人は自分の罪に目を背け、誤魔化す卑怯な生き物ですぅ。それを突きつけ、認めさせる。法とは、絶対無比の暴力なのですよ」
美堂薫子の周囲から、硬球が雨霰と降り注ぐ。攻撃の方向、手段、全てが不明。一撃目は耐えたが、いくら小さい球とはいえ、蓄積すれば受ける傷は浅くはなくなるだろう。
「う、うわあああああ!?」
薫子は回避も防御もできず思わず目を閉じた。予期したこめかみの痛みがそれ以上増えることはなかった。無数の硬球は縫われたように宙に停止していたからだ。
「た、助かった……」
窮地を救った虎が薫子の側に控え、後ろ足で顔を掻いていた。
「そうとも限らねえと思うけど」
安堵したのも束の間、危機を脱したわけではないと気づく。
「あ、あれ」
薫子の体も、時間停止の影響を受けたように動けない。せいぜい、首を動かすのがやっとだった。
「ねえ、ちょっと、私の時間まで止まってるんだけど」
「いや、俺の能力は関係ねえよ。ハクアの能力の方が優先順位が上らしい。つまり、その攻撃は時間を止めても防げない」
淡々と事実を述べる虎。薫子は唾を飲み込んだ。
「どうすればいい?」
虎は薫子の問いに答えるように、ハクアの脇に移動した。
「時間停止を解除したら、できるだけ球をよけろ。それからハクアの能力の謎を解き、こいつを戦闘不能にするしかない。俺には戦闘能力はないから、お前が戦うんだ」
残念な事実に耳を疑う。
「結局、肉を切らせて骨を断つしかないってわけか。貴方、強そうな見た目の割に使えないなー」
「仕方ねえだろ。今の俺は時間融資しかできねえんだよ。誰かさんのせいでな」
かつてキャストはゲストの写し身だった。虎を責める立場にはいないことに気づく。
「そろそろ、融資を止めた方がいいぜ。後が怖いからな」
この時間融資という能力に、リスクがあるのは薄々勘付いていたものの、甘える癖がついていた。訊かなかった薫子も悪いが、融資というからには返済を前提としているのは明白だ。相応の代償があると見ていいだろう。どのみち、虎の手助けなしではハクア攻略の糸口は見いだせない。
「いいわ。時間を元に戻して」
腹を決め、時間停止を解除、加速させる。
薫子は、時間停止中に軌道をできるだけ記憶し横に大きく倒れ込み、致命傷を避けた。
「ん?」
ハクアは薫子の鮮やか過ぎる動きに気づいた。反射神経がいくら優れていても、罪業の書の攻撃は回避できないと任じて疑わない。あまりに被弾が少なすぎる。
「お前、今何かやりましたか?」
勘の鋭いハクアが虎に視線を巡らす。
「怖い目するなよ。守護者同士で喧嘩は御法度だろ」
キャスト同士が争った他の世界とは、一線を画すこの世界では同士討ちは支配者権限により禁止されていた。
かつての混沌は、進化のプロセスを体現していた。より優れた個体が支配者によって選別され、このNew orderへと到達したのである。
「俺は戦わない。お前の相手は薫子だ。ほら、来るぞ」
薫子は硬球を拾って、いくつも投擲した。矢のような勢いでハクアに迫る。
「ちっ!」
ハクアは辞典でうなるような初球と、後続をはじく。薫子の左手から、二球、それが今防がれた分だ。
それと同時にアンダースローの右手から膝狙いの本命が放たれていた。
「はーい、ストップ」
薫子が柏手を打つように両手を叩くと、球速が急激に衰える。ハクアは右に走ろうと膝を曲げたまま動かなくなった。
「ごめんね」
薫子は、放物線を描く高い球を投げ、ハクアと平行になるように走り出した。
時間停止が解除されると、ハクアは仰天した。薫子が予想より早く距離を縮めている。しかし優先すべきは球の回避に集中することだ。
「なっ!」
かろうじて低い球を避けた矢先、頭上からは、硬球がゆっくりと落ちてくる。威力はほとんどない。しかし、一瞬目が奪われる。
薫子は落下位置の正面で、拳を固めていた。
裂帛の右アッパーを顎に食らい、ハクアは甲子園の土に沈んだ。
二
土埃がもうもうとして晴れぬ中、ハクアは甲子園の土に仰向けで倒れている。眼鏡は薫子が殴った際、落下してレンズが割れてしまっていた。
「だんだん、わかりかけてきましたよ」
帽子を胸に置き、ハクアは薄く目を開けた。
「暴食の能力は存在と時間を奪うだけだと思ってましたが、どうやら今回は違うみたいですね」
口から血反吐を飛ばし、上半身を起こした。そして無人のスタンド席をぐるりと見渡す。
「丑之森螺々が潜んでいる可能性も考えましたが、気配はありませんね。と、するならば、何故ありえない方向から球が飛んできたのかを考察するしかありません。違和感を覚えたのは、美堂薫子の素早すぎる動きですぅ。何らかの能力で加速した……、というより虎が時間を止めて、美堂薫子がその隙に、球を投げていた。違いますか?」
薫子は虎と目を見交わした。十分過ぎるヒントを与えているが、隠し通すのはもう限界だ。
「それだけわかれば十分ですぅ。吾輩の能力は、その程度の底の浅い手品とは次元が違うのですから」
虎は鼻梁に皺を寄せる。
さすが百戦錬磨のハクア、わずかなヒントから虎の新しい能力を見破り、ダメージを受けながら精神はいささかも衰えない。
不機嫌そうに片目を閉じ、立ち上げるハクア。
「最後の忠告です。本気で来なさい、美堂薫子。手を抜くと承知しませんよ」
薫子が全力を出せば、ハクアの顎を砕くことも可能だった。それをしなかったのは、人としての意地だ。
「そっちこそ。出し惜しみしてるなら遠慮しなくてもいいわよ。私は全部受け止めるから」
ハクアに本領を発揮させ、それを倒す。拳で語り合うしかない不器用な二人の意気がついに一致した。
「仕切り直しね。どうする? 合図は」
ハクアは薫子の的外れの提案を笑い飛ばす。
「まだそんな寝ぼけたこと言っているんですか。是非もなし。死んだ方の負けですぅ」
薫子の後頭部に重い衝撃が加わる。またしても不可解な一撃に、今度という今度は意識が闇のしとねに横たえられた。
「だから言ってんだろ、時間停止しても避けられねえってよ」
意識を取り戻した薫子の脇に虎が寄り添っていた。
「私、どのくらい寝てた?」
自分の眼鏡を拾う。ハクアの姿はどこにも見あたらなかった。
「一分と十二秒」
正確な時間把握に舌を巻く。その情報を信頼するならハクアはまだそう遠くまで行っていないはずだ。
「いったー、何か後ろから殴られた気がするんだけど」
「原因はこれだな」
虎は前足で金属バットを転がした。
薫子はゆっくりと首をならした。幸い、骨は折れていないし、湾曲もない。かなりの衝撃を受けたため、手足に力が戻るのに時間を要した。常人なら二度と目覚めないほどの威力は不条理という他ない。
「ハクアも、せっちんみたいに分身を作る能力があるのかしら」
一瞬だけ分身を量産すれば球を投げたり、背後から襲うことも可能だろう。
薫子の当て推量はしかし、あえなく却下される。
「いや。それだと時間停止の影響を受けないのが説明がつかないんだ。まるで後出しジャンケンで負けているみたいな気味の悪さだ」
イカサマを疑う口振りに、薫子は笑みを隠せない。
「打ち所が悪かったか? 次はどうなるかわからないんだぞ」
「いえ、貴方はやっぱり頼りになる私の相棒だわ」
上機嫌で虎の毛並みを撫でると、立ち上がる。一歩踏み出した際、右足のパンプスが踵から脱げた。
履き直すと、踵が指の第一関節分余っている。昨日までジャストサイズだったはずだ。
「ハクアは逃げたわけじゃないんだぞ。罠を張って待ちかまえているはずだ。急がないと」
最近の不摂生の影響で痩せたのが原因だと結論づける。
虎に急かされた薫子は自身の変化を深く考えずに甲子園を出た。
ハクアが止めを刺さなかったのは、正面から薫子を叩きのめす機会を狙っているからだと思われる。裏を返せば、必殺の一撃を狙うのが不向きな能力という仮説も成り立つ。
「誘いに乗ってやろうじゃない。悔いなんか残してあげないんだから」
この戦いはハクアの存在を救うための戦いだと薫子は考えている。ハクアを守護者というくびきから解放すれば、彼女もまた薫子のように道を選ぶ勇気を得るかもしれない。
「やっぱり自分の道は自分で決めなきゃ。支配者の作ったルールなんてもういらないわ」
三
甲子園の前の道路をオープンカーに改造した黒のリムジンが走っていた。
虎が咆哮すると、タイヤの回転もぴたりと停止する。
薫子は、もっけの幸いと虎を後部座席に乗せた。
乗客の二人は、高齢の夫婦だった。リタイア後の楽しみを邪魔して申し訳なく思いながらも彼らを安全な所に下ろして発車した。
「おい、何でこの車に乗った」
幹線道路で渋滞に捕まりながら、ハンドルを握る。バックミラー越しに苛立つ虎は映っている。
「これはクラシックカーよ。目立つからハクアも狙い安いでしょう」
渋滞から抜け出して人気のない場所に移動する必要がある。信号が変わるとほぼ同時にわき道に入る。
「何かすっげえ嫌な予感がする。今すぐ降りた方がいい」
虎の忠告を薫子は聞き流す。徒歩で探すとなると、日が暮れてしまう。
煉瓦づくりのビルを右折する際、減速する。
長い直線道路が続いた。対向車はない。攻撃の絶好の機会をあえて与えた。
「さあ、来るなら、来なさい」
「言わずもがなですぅ」
ハクアは煉瓦づくりのビルの一室にいた。ガムテープで目張りし、部屋は薄暗い。もちろん、身を隠すためではなく必殺の一撃を放つための布石である。
「さて、暗殺などあまり愉快な仕事じゃありませんね。さっさとすますですぅ」
そそくさと窓辺の木の椅子に座り、辞典を開く。
「えーと、犯行現場は六階、凶器は」
薫子の耳に風切り音が察知された。方角は後方、すかさず時を止める。
ライフル弾が、ビルの六階付近から射出され、車に迫っている。その軌道は後部座席を直撃すると予想された。
「やったわ! これでハクアの居場所が特定できる。これをかわして反撃よ」
薫子は歓声を上げたが、虎は無念そうに首を振った。
「やれやれ。理解するのが遅すぎたな」
「遅すぎるなんてことはないでしょう。さっきもかわせたし今度も」
その時、バックミラー越しにライフル弾がだぶって見えた。振り向くと、弾が続けて二発撃たれたとわかる。
「……、一発だろうが、二発だろうがどうってこない。少しの間場所を代わって、アクセルを踏んでて頂戴。弾をはじいて、運転席に戻るわ」
不幸中の幸いか、五十メートルほど直線が続き、交差点も対向車もない。薫子の運動能力なら問題ない。
「違うんだ。この能力は、そういうレベルの話じゃない。やはり車に乗るべきじゃなかった。こいつは」
ハクアは時が止まる直前、ビルの狭い部屋で辞典を閉じていた。
「アメリカのケネディ大統領は、テキサス州ダラスで遊説中に暗殺されました。捕縛された狙撃犯はオズワルドという男でしたが、彼も逮捕後すぐに亡くなっています。陰謀説が濃厚ですぅ。そして、移動中の大統領を襲った弾は、合計三発! これは確定された事象。誰も逃れることはできません」
時の停止が解除され、薫子は後部座席に立ち上がり、急加速した弾速は、ハヤブサの影のように薫子に迫る。
移動しながらの車上にもかかわらず、コントロールは異様に正確だ。吸いこまれるように薫子を狙ってくるようだ。
「くそっ、たたき落とすしかない」
狭い車上では、回避も困難だ。打ち落とす方が確実と判断した。
寸分違わぬ拳のラッシュで、弾の軌道は脇にそれる。指の皮が少しはがれた程度ですんだ。
「どうよ! これで」
「薫子! 前だ!」
振り向いた時には既にライフルの弾が額すれすれに到達している。
「えっ!」
薫子の額が容易に打ち抜かれ、裂かれた頭蓋から、ゼラチンのような脳漿が飛び散り鮮やかに車上を染めた。
驚愕の事態に目を見開いたまま、薫子の意識は断絶した。
ケネディ暗殺の銃弾が、前方からという説はほぼ否定されているそうです。前から飛んだ弾が、体を後ろに傾ける力はないとか。その他にも最もらしい根拠があるので、興味のある方は調べてみてください。
でも絶対ありえない! と言い切る力も私にはないので、このような形になりました。
正直、あり得ない方向から飛んできた方が絵になるので採用した次第です。
言い訳みたいになってしまいました。すみません。




