歯車
美堂薫子は無人のホームで寝返りを打った。静けさの中で、スーツが思いの外大きな音を立てて擦れる。
背中が痛むのでうつ伏せになったものの、固い地面であることは変わりない。仕方なく肘を使い、体を起こす。
「んー、あっちゃー、飲み過ぎたかな」
天地は揺れ、記憶も定かでない。宇田ちゃんたちと飲んだ記憶と混同していた。酩酊感が喉を締め付ける。酔っぱらったまま駅のホームに倒れていても納得できた。
薄目を開けると、大阪という駅の表示を発見する。
周囲には湿気のある重い靄がたれ込んでいた。薫子の眼鏡に水滴がついて曇ってきた。
何故、自分が大阪にいるのか理解をし始めると、薫子は狂騒に支配された。
「え? 嘘でしょ。丑之森、伊藤、ハクアはどこ?」
邪険にしていた彼らに縋ろうとする自分を惨めに感じたものの、異常な状況下では藁をもすがる。本当にここは大阪なのかすら確証が持てなかった。
その場から逃げだそうとした薫子は、錆び付いた機械のように動きを止める。自分以外の足音が、間延びし拍子で聞こえてきたためだ。足音に重なるように地面をこするような音もしていた。
「やあ、お目覚めだね。気分はどう?」
旧知の間柄のように薫子を気遣ったのは、水色のパーカーにデニム、杖をついた男だった。
「寺田……、幸彦」
薫子は左手を胸の前に引き寄せ、腕時計を確認した。十四時を過ぎている。大阪に居る妥当性には弱かったものの、まだ完全に現実から遊離したわけではなさそうであった。
「心配しなくてもここは大阪駅だよ。ハクアに頼んで君を連れて来てもらった。……手段を選ばなかったことは申し訳ないけれど」
「一体、何の用? 貴方も私に会社に行けって脅すの?」
幸彦は薫子から一メートルの距離まで移動した。
「その必要はないよ。僕は何もしない」
「ずいぶん確信的だけど、私が自分の意思で戻るみたいな言い方じゃない」
幸彦は重々しく首を振る。
薫子は彼の釈然としない態度に堪えきれなくなり、喉を震わせた。
「ねえ、教えて。私は別の世界で貴方に会ったことがあるの? それと、西野、陽菜と……」
杖を握る手に力を込める幸彦。
「今更、美堂さんがそんなことを気にする必要はないさ」
内容とは裏腹に、彼の声に多感なものが臭わされた。
「支配者のNew orderは完成した。ここは悲しみもなく、痛みもないやさしい世界。固定された秩序の下で僕らは生きるんだ」
薫子は幸彦のひ弱な腕を思わず掴んだ。何て頼りない。今にも折れて砕けそうな石英のようだ。
「何かわかってきた気がする。貴方は支配者と組んで過去に干渉したんだわ。せっちんは、雪乃ちゃんの代わりなんでしょう?」
薫子は新幹線での違和感の正体に思いを寄せる。今の薫子が生きているのは二千十年六月。せっちんたちキャストが現れ、全てが狂い始めたのが一九九九年十二月のことだった。あれが起点だったとすれば、ここは終着点だと言われても合点がいく。薫子まで過去に遡って巻き込まれた理由は今のところ謎である。
「それのどこが悪いわけぇ?」
靄から駒下駄の高い音を鳴らして現れた振り袖の少女に、薫子は厳しい目を向けた。
「支配者のNew orderがあれば、生者と死者の区別はなくなる。西野陽菜も、小林雪乃が死んだ事実も存在しない。誰も傷つかないHappy world♪」
ナノは薫子の怒りをわざと助長するように呪いを吐く。
「オバサンの叶えたい夢もここでなら叶うのに。ねえ、パパに会いたいんでしょ? 会わせてあげようか」
感情の堰が切れた薫子はナノに拳を振りあげる。それより素早くナノは、薫子の喉元にガラス片の切っ先を突きつけていた。
「別にいいんだよ。オバサンをここで殺しても。そうすればオバサンも守護者の仲間入り。オバサンの代わりはいくらでもいるの。安心して死んでいいんだよ」
「もうよせ、ナノ」
幸彦はナノの肩を引き寄せた。ナノは徒っぽい仕草で袖を振り、幸彦の背後に回った。
「まるで歯車みたいね、私たち」
自嘲気味に薫子は笑う。
「今までと大して変わらないだろ。大人しく暮らしていれば危害を加えられることはない。東京に帰るんだ」
労働者は資本家にとって部品に過ぎない。そうした事実に目を伏せれば、それなりの暮らしはできる。しなければ大方の人間は生きていけない。誰もがそうした暗部に手を触れようとしない。今までもこれからも。
「あれ、私、こんなに馬鹿だったかな。でも馬鹿だから許してね」
薫子は幸彦の顔面を殴りつけていた。彼は杖を落とし、尻餅をついた。
「幸彦君ッ!」
ナノがあられもない悲鳴を上げ、しゃがみこむ。
「やかましい。騒ぐな」
薫子は低い声で二人を恫喝した。
「確かに知らない方がいいことってあるみたいね。知ったら動き出さずにはいられないもの。あんたは間違ってるわ、寺田幸彦」
幸彦の表情はフードに隠れて伺えない。
ナノは、自身が痛めつけられたように端正な顔を歪めた。
「大人しくしてればつけあがりやがって、くせーことほざいてんじゃねえぞ、クソババア。ぜってー殺す」
「相変わらず短気な娘ね。年の功を教えてあげる。かかってきなさい」
いつの間にか恐々としていた薫子は威風堂々、ナノに立ち向かっている。恐怖は微塵もない。戦わなくては守れないものがあると気づいたのだ。それは自身の尊厳に限らず、会ったこともない雪乃や、面識のない全ての者たちへの尊厳に波及する問題だった。
いわば、義憤。それに尽きる。
両者、動かない。三メートルの距離を開け、ナノは緩く左手にガラス片を持ち、薫子に向けていた。薫子は両足を広げ膝を軽く曲げ、脇を締めて拳を上に構えている。
長期戦になれば不利になるのは薫子の方だ。こめかみに溜まった汗がうっとおしい。しかし先に隙を見せた方が負ける。
薫子にとって幸いなことに、臨戦態勢はそう長く続かなかった。
「その勝負、待った!」
降って沸いた横やりに、両者同時に脇見をする。
靄をかきわけ、帽子に眼鏡の幼女が悠々と現れた。
「この勝負、吾輩が預からせてもらうです」
突如死闘に割って入ったハクアに、ナノは見境のない殺意を顕す。
「しゃしゃり出てて来んじゃねえよ。お前から解体してやろうか、嫉妬」
「美堂薫子の処遇は吾輩に一任されていたはず。しゃしゃり出てきたのは、そっちですぅ。文句があるなら吾輩が相手になるですよ」
臆することなく、ハクアはナノを見据える。
薫子は気圧され、髪の毛一本揺らすことさえ躊躇する。 この二人が戦えば、両者無事では済まないことは想像に難くない。
「チッ……、命拾いしたね、オバサン。いこ、幸彦君」
益がないと判断したナノが折れ、幸彦を抱き起こすと腕を絡めて靄の中に飲み込まれていった。
「はー、助かった」
薫子は膝の力を保てなくなり、座り込んだ。
「何、気抜いてるです? お前」
ハクアは、白い眼で薫子を見下ろす。
「え? だって」
「預かるとは言いましたが、依然、お前の命は吾輩の掌にあることをお忘れなく」
突き放すような言い方をされても、薫子はハクアを無条件に信頼していた。それゆえ次なる言葉を信じがたい心持ちで聞いた。
「美堂薫子。お前の覚悟を汲んで、決闘を挑むです」
意を決したようにハクアは宣言する。
「後腐れのない決着を吾輩は望んでいます。甲子園で待ってるです。必ず来るですよ」
真意を問いただすことなく靄は一瞬で晴れ、駅の喧噪が再現される。アーチ型の天井と、ホーム。まばらな人の靴音、くすんだ生活臭、薫子の唇は乾いていた。まるで白昼夢から覚めたように唐突に世界が広がった。
「そりゃないやろ、友達やがな~」
関西弁のサラリーマンが、携帯を耳に当てたまま薫子の脇をがやがや通り過ぎる。
ここ関西の都、大阪で薫子の新たな戦いが始まろうとしていた。




