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せっちん!  作者: 濱野乱
澪標編
70/97

茶番

牛丼店で腹ごしらえした丑之森螺々は美堂薫子を引き連れ、業務スーパーのドアをくぐった。


「うしし……、ビールが一ダース切れてたんだ♪」


薫子は、この機を逃すまいと酒類コーナーにまっしぐら。猫並の身のこなしで買い物客の隙間を縫う。


「ふん、馬鹿め。食生活の乱れは肌の乱れとなって現れるのを知らんのか。今日から野菜を……、あれ? いない」


螺々は薫子の姿が横から消えたのにしばらく気づかなかった。


広いフロアーをうろつくと、幼い子供連れの母親の姿が目立つ。

薫子が棚の陰からその光景を曰くありげに伺っているのに気づいて、声をかけそびれた。


トマト、ブロッコリー、鶏胸肉を次々買い物かごに入れる。薫子の体調管理が今の螺々の仕事のようなものだった。


「おい、帰るぞ。酒は一本までにしておけ」


薫子がどうしても手離そうとしない発泡酒を会計に入れ、帰途につく。 

「これから家計簿もつけるからな」

抜け目ない管理体制に、薫子はすかさず噛みつく。


「ちょっと、何で私の生活管理しようとするのよ」

螺々は、待ってましたとばかりに唇を歪める。


「お前の預金通帳を見せてもらった。貯金に積極的でないな? 今の会社に移って給料が減っただろ? これからどう生活するつもりだ。手取り十七万円で家賃八万円、残りは九万円。そこから生活費を引いたらいくら残る?」


「わ、わかってるわよ! 都心は高いんだから仕方ないの。そのうち何とかするから」


薫子は部の悪い話を打ち切ろうと、うるさそうに手を振った。


「具体的なプランを聞いてるんだ。転職するなり、節約するなり」


「うるさーい! 私の人生に干渉するなー!」

薫子は電柱に手をついてうなった。


螺々は何も憎くて口を出しているわけではない。薫子の荒れた生活を立て直すことは、螺々の目的にも叶うことなのだ。自分本位な所は絶対にぶれない。


「良い年して自己管理ができないお前が悪い。いいか、私の言うとおりに……」


その時、湿った風が髪をくすぐった。気づかぬ振りをして、スカートのポケットを漁る。


「すまん、煙草買い忘れた」

「人のことはうるさく言うくせに。ブツブツ……」

「先に帰っててくれ。小言はデザートの後にしてやる」


薫子の背を無理矢理押し、角を曲がるのを見届けた後、螺々は神経を研ぎすます。


路地から小さい影が飛び出してきた。三毛の野良猫だった。気の張りすぎだろうか。

薫子を帰す口実にしたが、煙草はこの体になってから絶っている。戦闘の際、臭いで窮地に陥るのを避ける念の入りようだった。



「うんうん、良い心がけだね♪」


振り袖に、駒下駄、蒼空色の髪をした童女が野良猫を抱き上げた。現在の螺々を鏡で映したような立ち振る舞いに、おぞけがする。


「おい、主の窮地に助太刀しないとはどういう了見だ?

螺々は腹立ち紛れに、ナノのもち肌の頬をつねった。


「螺々が、”強欲”を使ったから出そびれたんだよ。キャストは普通、一度に一体までしか使えないの。今の螺々が異常ってこと忘れないでよね」


今の螺々は、西野陽菜のキャスト、”色欲”のナノ、”怠惰”のニーナ、そして本来の螺々のキャスト、”強欲”を所持している。薫子を退けたのは、強欲の廻転能力によるものだ。


初めから支配者寄りのナノたちは当てにしていなかった。その上、常に情報が筒抜けになっている可能性もある。もはやナノたちはお荷物以外の何物でもない。


「ほんと欲張りだよね。まさか西野陽菜の体を奪うなんて、びっくりだよ」


「その割に嬉しそうだが?」

ナノは鈴を転がすように笑う。

「そんなことないよぉ。でも嬉しいのは、本当かな。だって、支配者の"New order"がついに完成したんだから」


螺々は、この世界がこれまでの世界と異なることに気づいていた。今や丸岡高校は日本のどの県庁所在地にもない。螺々と、薫子以外のゲストの所在も不明である。


「君は誰の味方だ? もっと協力的でないと困る」

ナノは進退窮まったように袖で顔を覆った。


「これでも螺々の意向に沿うように努力してるつもりだよ。でもゲストの命令より、支配者権限が優先されることもあるんだ。そこんところはわかって欲しいな」


西野陽菜は有名無実な存在だった。支配者の影武者というところか。それは今でも変わらない。騙される方が悪いのだ。


「では私の命令は常に後回しになると解釈していいな」 


ナノは一歩進み出て、螺々と至近距離で見つめ合った。


「そこまで言ってないじゃん。ねえ、たとえばだよ? たとえば、螺々が私にその体を貸してくれたら……」


螺々は反射的に身を強ばらせる。ナノに抱かれた猫が毛を逆立て、滑り降りた。

螺々の次の返答次第では、即死闘にもなりうるが。


「それはだめだー!」


ふわりとした白いワンピース姿の少女が自販機の陰から勢いよく飛び出してきた。ニーナだ。

「”陽菜”を殺しちゃだめだ! ナノ。そんなことしたら、あたしたち」


逼迫したニーナを前に、螺々とナノは顔を見合わせ、うり二つの表情で吹き出していた。 


「やだー、ニーナ。冗談に決まってるじゃん、冗談。ねー? 螺々」 


「当然じゃないか。我々は運命共同体。仲良くやっていかなくちゃ」

螺々はナノの肩を旧知のように気安く抱く。


ニーナは疑るように、上目遣いで二人の形ばかりの言葉を聞いた。


姉妹の亀裂は、螺々が間に入ったことで決定的になりつつある。ニーナは陽菜を非常に大切にしており、その考えは螺々に中身がすげかわっても同じようだ。対してナノは、陽菜の立ち位置を奪いたくてたまらないらしい。陽菜の口調を真似るようになったのがその証拠だ。螺々に陽菜を奪わせたのも、その後でナノが居座った際にニーナを丸め込みやすいからだろう。


二人のキャストとしての行動理念は、似ているようで全く異なっていた。そこに付け込めるかどうかが、鍵になる。

螺々は、腕時計に目を落とした。


「ああ、そろそろ薫子の所に戻るよ。目を離すとすぐ酒に逃げるからな」

「大変だ。でもオバサンの少ない楽しみ奪っちゃカワイソー。あんまりイジメないであげてね」

ナノは心にもないことを言って、ニーナの隣に並んだ。

「やい! 丑之森螺々。あたしは、陽菜を守っただけでお前を守ったわけじゃないからな。絶対、追い出してやるから覚悟しとけ。ばーか」 


敵愾心をむき出しにしたニーナに指さされ、螺々は両手を上げ退散した。

「おおー! 君には敵わんな。お手柔らかに頼むよ」


遠ざかる螺々の背中に、ナノは鋭い敵意を向ける。

「丑之森螺々。あいつそろそろ邪魔臭くなってきたなぁ。イカロスの翼が何のためにあるのか教えてあげなくっちゃね」

 

 二


薫子は、アパートの自分の部屋の前で買い物袋を落とした。


扉の前に、見知らぬ男が座り込んでいた。蒸し暑い中でも分厚いパーカーを脱がずにフードまで被って面相を隠している不審者だ。


「あのー、ここ私の部屋の前なんですけど……」


男が目を上げた。男の前髪は総白髪だったけれど、琥珀色の瞳はどこか世間ずれしていない。薫子は少し警戒を下げた。


「上がっていきます?」

薫子は一度辺りに人がいないのを確認してから、ためらいがちに男を招き入れた。男は片足を悪くしており杖をついている上、憔悴しており、歩くのも薫子の助けが必要だった。

「……、くしゅん!」


玄関に入った途端、男が小さくくしゃみをした。玄関には、薫子の靴が何足も山積されており、恥をかかされたようなものだった。


「お酒しかないけど」

「お構いなく」


薫子の部屋はお世辞にも整頓されているとは言いがたかった。洗濯物は基本部屋干し、私服は畳まないで洗濯機の上に投げ捨ててある始末だ。


男はため息をつき、手際よく洗濯物をたたみ始めた。


「あっ! 何してるの、やめて!」

薫子が気づいて、男の行動をヒステリックに咎めた。


「この部屋、何かほこりっぽいから」

男は薫子の前を素通りし、窓を全開にした。これもまたタブーだったりする。


「虫が入ってくるでしょう。開けない開けない」

押し問答の末、窓を閉めさせる。落ち着いて後、本題に入る。

「貴方、私に芝居を見せてくれた人よね」

薫子が断定すると、男はフードを外し、ぼさぼさの髪を振るった。部屋に負けず劣らずのほこりが舞う。年齢は判然としない。薫子と同じくらいの年代のような気もするし、背を丸めた老人のようにも見受けられた。そうかと思えば、あどけない少年のように所在なさそうに目を動かすこともあった。


「覚えててもらえてうれしいよ。だから入れてくれたんだね」

「うーん、てゆうか、どうして私の部屋の前にいたの」

男は薫子のベッドの上に腰掛け、腐った魚のような目で薫子を見上げた。


「この辺を歩いていれば、きれいな女性が助けてくれるような気がして」


てらいもなく言ってのける。

その割、男の身なりは指摘するまでもなく零落したものだった。デニムの裾は擦り切れていたし、元は真っ白であろうスニーカーは土埃に覆われていた。

「そんなザマじゃ、女くどくのも大変でしょ。芝居は続けられそう? 劇作家さん」

「僕はそんな大層な身分じゃない。それにもう芝居は終わったんだよ」


薫子はビールを取るため、冷蔵庫を開いた。そのままタブを持ち上げ、ぷしゅ。口をつける。


「一本にしようと思ったけどやーめた。貴方も飲む?」

男は力なく首を振る。

「いや、いい。もう酔っているようなものだから」


飲み干したビール缶をシンクに叩きつけ、薫子は男の肩を突き飛ばす。男は薄っぺらい板のように簡単に後ろに倒れる。

「私、どういうわけか貴方のことを知ってるわ。寺田幸彦君」

「人違いだよ。僕は誰でもない。君と同じように」


薫子は動じない男の鼻筋に拳を振り下ろし、寸止めする。


「じゃあ誰でもいいわよ。それでも私は貴方が、寺田幸彦であることを知っている。でもそれ以上のことがわからない。私が美堂薫子であることに自信がないように。それを確かめたくて、部屋に上げたの」

薫子は幸彦の脇に腰を下ろした。


「君が誰かなんて、そんなに重要なことかな? 君は明日、会社に行ってタイムカードを押すよね。それはもう決まったことだし、君が選んだ仕事の範疇だ。君が自分の人生にケチをつけるのは勝手だけど、それを芝居と混同してもらっちゃ困る」


薫子は辛抱強く幸彦の話を聞いてから、言い返す機会を窺う。


「螺々とか、せっちんが、私の前に現れるのは何のため? ここは現実なの? それとも」


自分は芝居を観ていたはずなのにそれが何時の間にか舞台の上におり、第三者に観られている。それは漠然とした不安だったものの、薫子の生活を脅かしている。

幸彦は、何だそんなことかという風に、ため息をついた。


「それは彼らが、現実を生きているからだよ。彼らからしたら、君たちが芝居を演じていると思っているかもしれない。会社に行き、したくもない仕事をし、同僚と酒を飲み交わす。これはルーティーンだけれど、芝居に捉えられなくもない」


「詭弁だわ。皆、そうやって生きてるのに」

薫子の声は張りつめる。まるで自分が生き方を否定されたようだった。暗にそれを認めてしまったようで、悔しさが滲んだ。


「美堂さん、彼らは生きているよ。君たちの分まで。それは誰にも非難できないじゃないか」


演者であるキャストが、”見る”立ち場に回ったとしたら、薫子は一体何を見てどう生きるのだろう。


「私は、これからどうしたらいいの?」

幸彦は杖をつき、部屋の入り口に移動していた。 

「自分の存在に自信が持てないなら、君の人生は誰のものなんだい。僕には教えられないよ、だってこれは君の物語なんだから」


薫子は一人、頭を抱えた。やはりこのままでは会社に行けない。迷いを持ったままでは。

螺々が部屋に戻ってきた時、薫子はビールの缶の中身を飲まずにシンクに流している最中だった。


「ねえ、丑之森。私の頬をつねってくれる?」

螺々は言われた通り、薫子の張りのなさそうな頬をつねった。

「痛い……、マジで」

「当然だ。生きているんだから」

螺々も隣に並び、ビールを流し始めた。


「生きてる実感が湧かないの。どうかしたら、それを貴女たちのせいにしてたのかもしれない。ごめん」

薫子は夥しい量に連なった缶をゴミ袋に詰め始めた。


「生きたい。でもそのやり方を社会は契約以外の方法で教えてくれたことがないわ。私が見つけないと。生きる意味を。変よね、この年で自分探しなんて」


螺々は薫子の自立心の火が消えないうちに、残りのビールを処分した。冷蔵庫に野菜を入れるスペースができた。


薫子と螺々は、共に買ってきた野菜を切り、チンジャオロースを作った。薫子は久方ぶりに包丁を握り、手を動かすことで脳が冴え渡るのを感じた。


「これからどうするの?」

テーブルを挟んで、薫子は訊ねた。 

「残りのゲストを探そうと思う。その中に真の支配者がいる。そいつを見つけて叩く」

螺々はあえて無理強いすることなく薫子の自由意志に任せた。案の定、答えはすぐ返ってきた。

「私も行っていい?」

「好きにすればいい。君の人生だ」

薫子は螺々の手助けをするつもりはなかった。螺々は善悪の彼岸を超えた人種だったし、恐らく支配者の力を手に入れたら、ろくな使い方をしないだろう。


今、それはどうでも良い。

薫子は、寺田幸彦に自分の生き方を証明したいのだ。これまでの生き方は決して間違っていないと声を大にして言うつもりだ。


そして変わり果てた寺田幸彦。彼はもしかしたら……。まだ予断の段階だ。薫子は胸に締まっておくことにした。


善は急げと有給を取る。この現実を茶番にしないために戦うことを心に決めたのだった。

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