わんおぺ(後編)
美堂薫子はスーツのジャケットを脱ぎ、左手で旗のように振り回しながら、公園の砂利を走った。パンプスは履いておらず、千五百円のストッキングが痛もうが気にならない。
「喧嘩上等! ぶっ飛ばす!」
四囲を圧倒する罵声を浴びながらも、丑之森螺々はセーラー服の両腕を垂らしたまま薫子を迎え撃つ。
「四手……か」
薫子が至近距離で剛の拳を突き出しても、螺々は身じろぎどころか、瞬き一つしない。
顎狙いの拳は、螺々の体十五センチで停止した。意図してそうなったわけではない。薫子は本気で螺々を気絶さようとしていた。
「動……、かない」
まるで分厚い膜があるかのように拳が押し返される。目に見えない何かが薫子の侵攻を阻んでいた。
”この”薫子は、能力戦のセオリーなど体に馴染みのない単なる会社員だ。不可解な状況に陥れば、待避するという基本も知らない。
「おーい、お前本当に死ぬぞ」
螺々はからかうように腕を少し上げた。
缶が再び薫子のこめかみに向かって、左右から飛来した。薫子、拳を引く。バクテンで缶を回避。缶は地面に落下した衝撃でぺしゃんこに潰れる。
「おー、よくかわしたね。参ったなぁ。今のでしとめるつもりだったんだが」
「なめないでよね。貴女の考えていることくらいお見通しなんだから」
薫子の目は充血し、息は既に上がっている。二日酔いと寝不足で体力の低下は、強がるまでもなく如実に顕れていた。
「まあ次で終わりにしよう」
「ええ、貴女の負けでね」
前触れなく螺々の視界が暗がりに包まれる。薫子のジャケットが頭に被せられたのだ。バクテンで回避するさい、螺々の頭上に放っていたのが時間差で降ってきたのである。
「貴女の能力、視界が塞がれたら使えないんですってね。これなら遠慮なく殴らせてもらえそうだわ」
「んぐー(しまったー)」
螺々は薫子がこれほど戦えると予想していなかった。二つの世界を経て、戦闘経験値が少しは蓄積しているようだ。嬉しい誤算だった。だが自分がやられては元も子もない。新品のローファーでその場に飛び跳ねる。
薫子は拳の痛むのも構わず、螺々の側頭部をジャケットの上から殴りつけた。加減はそれなりにしたものの、岩石を砕くような強烈な一撃を前に、螺々の小柄な体は紙のように吹き飛び、地面に倒れこむ。
「はあ、はあ……、これでどう?」
薫子は膝に手を置き、息を整える。
安堵したのも束の間、ぷすーっという風船の空気が抜けるような音がそこかしこから聞こえてきた。不規則な風のうねりが断続的に髪の隙間を通過する。
「なあ、薫子。墜落する飛行機に乗った経験はあるかい」
螺々は寝ころんだまま脈絡のない会話を始めた。
「馬鹿言わないで。あったらこんなところにいないでしょう」
「私はあるよ」
風のうねりが強まる。木々の枝が折れんばかりにしなった。
「乱気流の層に機体が突っ込んでえらく揺れたんだよ。ちょうどこんな風にな」
薫子の体をもみくちゃにする圧倒的な暴風が四方八方から襲った。子供に無頓着に扱われる人形のように、為す術なく不可視の弾丸に殴られる。倒れようが、起きあがろうがお構いなく肉体が引き裂かれんばかりに別方向に引っ張られる。
戦闘前から螺々は、空気の渦をいくつも滞留させていた。それは乱気流を作り出すための呼び水だ。
薫子を挑発するため、すぐに乱気流を起こすわけにはいかない。空気の渦を保護する目的でもう一層の圧縮した空気の膜を作る必要もあった。薫子の拳を止めたのも圧縮した空気の固まりだ。
二度目に缶を飛ばしたのは、薫子に当てるためではなく空気の膜を連鎖的に破壊するためだった。しかし、予定通りうまく膜が割れなかったため、カバーの空気膜を足踏みすることで連鎖的に破壊し、気流の乱れは頂点に達した。螺々の周囲は気流の流れをコントロールしているため巻き込まれる心配はない。
「拳→バクテン→目くらまし→フィニッシュ拳。四手で十分だな、獣と変わらん」
螺々は不規則な風に煽られるスカートを押さえ、退屈そうに分析を終えた。
薫子の体は五メートル以上軽々舞い上がり、砂場に垂直落下した。うつ伏せで顔を砂に埋める。意識はほぼないといっていい。
「どうだ、死ぬ時は死ぬもんだろ」
返事がない。ただの屍のようだ。
螺々はサッカーボールを蹴るように薫子の頭を蹴った。
「……うわっ!?」
薫子は、砂まみれの顔で螺々を見上げた。その喉元に冷たいガラス片をぴったりと押し当てる。
「おい、どうする。どうやって死にたい? 喉をかっ切るか? それとも」
薫子の右手首を掴んで持ち上げる。
「腕をねじ切ってみるか? 直接触れると簡単にちぎれるぞ。鶏のささみをちぎるみたいにな」
薫子はようやく事態の困窮に気づいた。遠い世界だと思っていた死が自分の身に降り懸かろうとしている。
「や、やだ……、それだけは」
「聞けんなあ! 我々は命を取り合いをしていたんだぞ。生か死か。敗者に選ぶ権利はない」
語気荒く凄むと、コンビニで倒された女のように薫子は泣き出しそうに眉間を歪める。
緊張と、緩和。もし死んだら、薫子はどうなるのだろう。やりなおしは効くのか、また高校生からやり直すのか、それともカヲリになるのか定かではない。螺々はそれを確かめようとしているのだろうか。
薫子は下を向いたまま、螺々の腕を掴んだ。
「あんたの言うとおり、選択肢は確かに多くない。労働者にも権利は認められているって言うけれど、それは建前」
薫子は螺々にタックルし、砂場に押し倒した。
「ぐあっ!?」
螺々の今の体は陽菜のもの。平均以下の体重に腕力しかない。それは螺々が操っても変わらなかった。
「逆らえば首を切られる弱い立場の方が多いのよ。生か死か。常に私たちは値踏みされ、選別されている」
螺々は物問いたげだったが、黙って組みしかれていた。
「生死の境を彷徨うのは日常茶飯事。このくらいの脅しには屈しない。会社員なめるな、この野郎」
薫子の目に、ここ数日ぶりに光が戻った。
「なるほどな。完全に腐ったわけではないらしい」
今回、螺々は薫子を殺すつもりで、強欲のキャストの能力を使ってみた。それでも薫子は生き延びている。奇跡は信じない。あるのは必然だけである。
この世界の薫子がゲストであることは確定的になった。支配者を倒すために、薫子の力は欠かせないものになるだろう。その後に待つ天国にも薫子は欠かせない人材だ。
「ちょっと君たち。そこで何してるの」
巡回中らしき警察官が、砂場の外に立っていた。彼の目は薫子にめくられた制服からのぞくピンクのブラとショーツに注がれていた。警察官も人間だ。螺々は別に何とも思わず、薫子は興奮から一気に冷めた。
薫子は全身のバネをフル稼働させ、コンマ数秒で私物を回収すると、その場を逃れた。もちろん螺々を小脇に抱えて。
「官憲如き、能力を使えば楽だったじゃないか」
「あんな危ない力、簡単に使わせないわよ。顔も見られたし」
二人は牛丼屋のチェーン店に足を運んだ。
エプロンをした銀髪おさげの幼女が中央のカウンターで注文を取っている。
「牛丼並盛り、つゆだくでお願い」
「私も同じ奴。あと生卵追加だ」
薫子が素早く注文すると、螺々もそれに倣う。
「承知したですぅ。ショウガでも齧って待ってるといいですよ。ヒッヒッヒ」
薫子は店員に言われた通り、ショウガの壷を手元に引き寄せた。
「一人で店を切り盛りしてるのね。偉いわ」
店員の慣れた客さばきに、薫子は我がことのように感嘆した。
「私もこのままじゃいけないわ。明日は仕事行かなきゃ」
螺々は耳を疑う。
「それは困る。君は私と」
「それなんだけど」
薫子は強引に話を遮る。
「私は単なる会社員。貴女に力は貸せない。悪いけど」
挑発行動は逆効果だった。かえって日常の大切さを薫子に教示したに過ぎなかったようだ。
「ええい、わからずやめ。私はあきらめないぞ。君を必ず社畜から脱却させてみせる。そして支配者と戦ってもらう」
「それは難しいわね。今日息抜きに出歩いてわかったの。今の仕事は好きじゃないけど、もう少しがんばろうって思える」
薫子の表情は明るい。空元気かもしれなかったが、長足の進歩だった。
逆に螺々は険しい顔で黙り込んだ。唯一の頼りを失いかけ、早くもゲームを詰みかけている。
「どうしたものかな……考えようによっては社畜はキャストよりも手強いぞ」
螺々はしょうがを噛み、天井を仰いだ。




