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せっちん!  作者: 濱野乱
空蝉編
61/97

New order5


電車に乗り込む際、カヲリはつい後ろを振り返る癖がついていた。


その際、見知らぬ誰かと目が合うと非常にきまずい思いをする。


独り言が勝手に湧き上がることもある。話す相手はもういないのだから、唇を噛んで堪える


家屋の連なる車窓の景色を見て、一刻も早く学校に着くことを願う。


一人の時間が長すぎるのだ。サンタ大使の仕事があれば気が紛れるのだろうが、既に任は解かれている。香澄に相談した所、


「君は十分がんばったじゃない。もう休んだら?」


他意のない労いも皮肉に感じられた。


何を頑張ったというのだろう。頑張ったらハクアを助けられただろうか。自分の頑張りは、その程度なのだ。


虚ろな心と体では、時間は矢のように通り過ぎる。椅子にもたれていただけで、正午を回った。


お昼時、マイが大騒ぎし、アイコがそれに突っ込みを入れる。陽菜は騒ぎに目もくれず、幸彦に向け秋波を送るようにため息を漏らす。


カヲリは弁当箱に適度に箸をつけると、すぐ蓋をした。場の空気を読むことに長けたマイがそれを見逃すはずがなかった。


「あれ? カヲリン、もうおしまい? いらないんならウチ食べたーい。だって、カヲリンのお弁当いつも美味しそうなんだもん」


「うん、いいよ。マイちゃん」


マイの机に弁当箱を押しやる。


カヲリ以外の面々の表情が凍り付いた。


「おい、どうした、ムシューダ。食い意地だけが取り柄のあんたが!」


実直なあまり本音を叫ぶアイコ。


「あんまりだよぉ、アイコちゃん。カヲリンにも食欲ない日くらいあるよね? 女の子の日とか」


外聞の悪い話題に限って大声のマイ。


「もしかしてオシャレに目覚めちゃった? 色気づいちゃって、可愛いんだ。やせたら一緒に買い物行こっか、カヲリ」


人をおちょくって、その反応を楽しむ陽菜。


皆、自分にはもったいない最高の友人たちだ。


「なんでもないから。ちょっと」


その場に止まれば、みっともない姿を見せてしまいそうで、カヲリは教室の外に飛び出した。


行く当てもなく、無目的に階段を一階まで下り、中庭の両扉に手をかける。新鮮な空気を吸えば気分も変わるかと思ったが、弱々しい日差しにげんなりする。


桜の木の根本に座り込む。湿っぽい。人目を避けたかったが、何故か見つかってしまう。


「上から見てたらふらふらしてるし、何してるの? こんな所で」


灰村香澄が上履きのまま中庭を横切ってくる。靴底が汚れるからやめて欲しかったが、制止の機会を逃した。


「すみません」


カヲリは暗い顔でうつむく。空元気も湧かなかった。


「あら、年上の彼氏と喧嘩別れした?」

 

香澄も桜の木の根に腰掛けた。


「来栖先輩から聞いたんですか?」


「違うわよ、噂話。そういうの集めるの趣味だから」


いわくありげに黒皮の手帳をめくる。三浦が恐れていたのも納得いった。やはり香澄がのし上がってこれたのは、その美貌だけではないようだ。


「年上をたらし込むとは、さすがエトワール選にノミネートされるだけあるわね。見直したわよ、畜生」


「どうせ私は畜生です。エトワールになる資格なんてない」


ハクアに守ってもらうばかりで守れなかったし、雪乃むやみに傷つけてしまった。


「皆から好かれる私になんかなりたくない。もうエトワールなんてどうでもいい」


「どうでもいい、か……」


カヲリの虚ろの意味を考えるように、香澄は頬に手をやった。


「ねえ、前に未来がエトワールになれた理由、話したわよね?」


未来に欲望がないという話だったか。今ではそれも誤謬に過ぎないとカヲリは知っている。


「私だってあの娘が聖女だなんて思ってないわ。ただ、見返りを求めない、なりふり構わない強さを持っていたのも事実よ」


「見返りを……」


カヲリは顔を上げた。


「君もそういう感じがする。今思い悩んでいるのも、自分の損益を越えた話なんでしょう。だから君には資格がある。エトワールになる資格が。それを投げ出して逃げるなんて私が許さない」


凝り固まったカヲリの心を解きほぐしたのは、意外なことに、香澄の叱咤だった。


「胸を張りなさい。ライバルとして認めてあげるんだから」


「は、はい」


カヲリが目を赤くして礼を言うと、香澄は寂しげに笑う。


「私にも、君みたいな強さがあったらな」


ふと見せた陰りには、少女の弱さが透けて見えた。


 (2~)


 小林雪乃は天を仰いだ。


天窓を囲うように、黄金色の龍のレリーフがとぐろを巻いていた。


窓枠や扉も、人を脅かすような深紅に覆われている。雪乃がついた丸テーブルも同じ警戒色だ。中華風の衝立の向こうから、絶えず話し声が聞こえてくる。

 室内には、四人用丸テーブルが六つある。

 衝立の向こうのテーブルでは、中年男性がひたすら開運ブレスレットを知人に勧めていた。その話が十分以上経っても終わる気配がない。やれ、腰痛が直っただの、事業がうまくいっただの話すかと思いきや、ブレスレットをつけてもアレルギーが起きないことをいたく気に入って自慢しているのだった。


雪乃は聞きたくないことが耳に入れていたのだが、仕舞にはそのブレスレットが欲しくなってしまっていた。そのおじさんにとって、そのブレスレットは特別なのだ。たとえ他人から見てどんなにくだらないものだったとしても。 


「雪乃」


ブレスレットがどんなものか、首を伸ばしかけた矢先、兄がやさしげに微笑みかけてきた。

 「好きなもの食べていいからな」

 二人はそれなりに値の張りそうな中華飯店の二階にいる。兄妹の両親が、離婚する以前によく連れてきた店だった。

 「フカヒレでも、北京ダックでも気にするな」

 「フ、フカ、ヒレ!?」

 雪乃は涎を垂らして白目を剥いた。

 肝心な所で臆病なため、タンタン麺を注文した。幸彦は水餃子を頼んだ。

 料理が運ばれてくると、幸彦は真摯な表情で切り出した。

 「なあ、雪乃」

 「ふ、あに……」

 猫舌のため、注意しないと火傷をしてしまう。雪乃は麺を掬って、慎重に息を吹きかけるのに夢中だ。

 「僕と一緒に暮らさないか?」

 麺をすする。思ったより辛くない。

 「二人で? それは、いかんじゃろ」


幸彦と目を合わせないように、スープに口をつける。

 「お前、向こうの家でうまくいってないんだろ」 

 雪乃が母親の再婚相手に暴力を振るわれていることを、幸彦は知っていた。直接聞いたわけではないが、ほぼ間違いない。


「うまくいっとらんのは、兄ちゃんも同じじゃろ。女の居候のくせに」


「そこももう出ていく。一緒に行こう」


遅れて雪乃の舌に痺れに似た辛みが広がってきた。


「なあ、兄ちゃん。約束覚えとるか?」


それは兄と妹が離ればなれになる時に交わした約束だった。


「兄ちゃんは大学で勉強して起業する。私は弁護士になってそれを支える。それには金がいるんじゃ」


「わかってるよ」

苦しげに幸彦は首肯した。


「あんなろくでなしの親でも、養われてやるのは子供の義務じゃ。その見返りに私らは自分の夢を叶えるんじゃ。忘れたか」


「忘れるわけ、ないよ。忘れてなんか」


幸彦はテーブルに肘をつき、目頭を押さえた。


「だからもう少しの辛抱じゃ。短気を起こしたらいかん。兄ちゃんも、父ちゃんの所に帰るんじゃ。私も私の場所に帰る」


幸彦は言い返せない。ここに来るまで説き伏せるのは容易と侮っていたこともある。


いつから雪乃は堂々と自分の意志を語るほど強くなったのだろう。もはや彼女は、か弱く家族に依存していた幼子ではない。


それでも、雪乃は限界のはずだ。たとえ、物質的に恵まれていようともあの家に雪乃の居場所はないのだから。


「お前、強いかもな。兄ちゃんより」


雪乃は得意げに笑う。 


「初めてじゃな、兄ちゃんから一本取ったの。私、頑張ってみる。カヲリも外人もみんな頑張ってるから」


兄妹の晩餐は一時間程で終了した。最後に封筒に入れたお金を渡し、幸彦と雪乃は駅の向かいのホームで別れの挨拶をする。声を懸命に張らないと聞き取れない距離だ。


「ムシューダさんと仲直りするんだぞ」


「向こうが悪いんじゃ。私は謝らない」


強情に胸を張る。まだまだ子供だ。


「兄ちゃんが困る。これ以上嫌われたくない」


「自業自得じゃ。女癖の悪い困った兄ちゃん」


「もう誰とも付き合わないよ」


「えっ?」


雪乃の立っていたホームに水色の電車が滑り込んできて、会話は断絶せざるを得ない。雪乃は窓から手を振っている。


「さよなら、僕のもう一人の妹。兄ちゃんは目が覚めたから、もう大丈夫だ」


香澄のマンションに真っ直ぐ戻る。

玄関は前日までにきれいに掃除しておいた。部屋の中も同様だ。


なのに、部屋にはお菓子の袋、脱いだままの洋服、食べかけパスタのトレー、一日で雑然としていた。


「私の部屋なんだから勝手でしょ」


エアコンの庇護の元、香澄はバスタオルを頭に巻き、ベッドに横たわってテレビを観ている。受験生とは思えない緊張感のなさだ。


「何も言ってないじゃないですか」


「言わなくてもわかるわ。半年暮らしたんだから」


幸彦は雪乃に宣言した通り、今夜部屋を出る。荷物は驚く程少ない。大きめのリュックに難なく私物は収まった。


「妹に話したの?」


「いえ。話してないです。そっちの方が効果があると思って」


香澄はテレビに目を置いたまま、幸彦の足下に何か放り投げた。真空パック入った印鑑と、通帳だ。


「一ヶ月分の生活費二十三万と、お年玉貯金十四万入ってる。私の全財産、持ってけドロボー」


幸彦は拾わず香澄のいるベッドの片隅に浅く腰掛けた。


「もらえませんよ」


「上げるとは言ってないわ。倍にして返して


香澄はテレビを消し、ベッドに仰向けになる。ちょうど幸彦の膝に頭を載せた。幸彦が髪を梳くと、形の良い耳が露わになる。


「本当にやるの? 児童相談所に行く手があるわよ」


「向こうは社会的信用もある会社役員さまですから、外面を取り繕うのが本当にうまい。仮に雪乃を引きはがせたとしても、また同じことの繰り返しです」


香澄は目を閉じ、気持ちよさげに息を吐いた。


「巻き込んでしまってすみませんでした。ここで暮らしたこと、墓まで持っていきます」


「当たり前よ。君みたいな奴の情婦だと思われたら、外を歩けないわ」


幸彦は密かに笑いを押し殺す。


「ねえ、最後に一ついい?」


香澄の緊張をはらんだ問いに、幸彦は手を止めた。


「こうして同じ部屋に寝起きして……、その、一度も手出ししてこなかったわね。そんなに私って魅力ない?」


幸彦がしたのはキスまでで、滅多なことがない限り、体に触れたことすらなかった。


「結構我慢するの、大変でした」


正直な感情の発露に、香澄は満足げに口元を緩めた。


「もう遅いし、出ていくの明日にしなさいよ」


「早く出ていけって言ったの先輩ですよ」


「気が変わった、命令。朝まで手を握ること」


幸彦はベッドに滑り込み、香澄の隣に寝転がった。シングルのため、肌の触れ合う面積が多い。


「怖い」


「じゃあずっとここにいたらいいわ」


「でも僕がやらなきゃ」


香澄は震える幸彦を胸元に抱き寄せた。

 

「僕が妹を誘拐しないといけないんです」

 

 


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