New order2
米 コロラド
郊外にある研究所は、厳重なセキュリティーを誇るかと思いきや、門番は七十を超えた腰曲がった老人一人だけだった。片足を悪くした退役軍人と、自己紹介を受けた。
研究所の外観は、白い壁に一切窓が備え付けられていない。中流層が背伸びをして買う別荘のように中途半端な庭と、木柵、プールがついている。うだる暑さに、椰子の木がへたるように揺れていた。
コバルトブルーの水面から、イルカのように体をくねらせてプールサイドに上がる男がいた。
「博士のご専門は、大脳生理学でしたね」
赤と白の鮮やかなパラソルの下、白人女性記者がベンチに座って、カクテルを飲みながら訊ねた。
「ああ。イルカの脳の研究をしていたが、日本では下火でね」
「それで、ソ連へいらした」
「首輪をつけられるのに嫌気がさして、貴国に亡命したのが三年前。ここの空気はあまり肌に合わないがね。暑過ぎるんだ」
博士は、バスタオルで滴る漆黒の髪を拭いた。博士は東洋人らしい平坦な顔をしていたが、背丈は人並み外れて高く、現地の人間と比べても遜色ない。その割、肩幅が狭く、背を丸めているから、雑踏に彼の姿を見つけるのはたやすい。門番に礼を言う時は、ひどく姿勢を低くした。おじぎという奴だ。
「最近の研究成果を聞かせて頂ければ」
記者は、熱ぽい口調でペンを握る。
「ドアマンに顔を覚えてもらう方法を探している」
握りしめていた ボールペンが記者の指からつっと転がり、プールに沈んでいった。
「ホテルのドアマン? それはまたどうして」
「人になかなか顔を覚えてもらえないのが悩みなんだ。ついこの間、ワシントンのホテルに泊まった時のことだ。チェックインした後、ふとそこらを散歩して戻ってきてみると、ドアマンが立ちはだかるんだよ。お客様、当ホテルは初めてですか、ってね」
記者は白い歯を見せ笑った。
「それは災難でしたね。でも、たまたまではないのですか? そのドアマンの物覚えが悪かったとか」
「いや、昔からさ。日本にいた時から。特徴がないんだろうよ」
「見つかりそうですか? その方法」
「じゃあ一つ、実験に付き合ってもらえるかい。君の脳では、私をドアマンに顔を覚えてもらえない間の抜けた奴だという認識ができているだろう」
「間の抜けたとは思っていませんよ。面白いとは思いましたけど」
「結構。付箋は一つでも多い方がいいからね。そこで私は君の中に根に貼ることができたわけだ」
博士はボールペンで、記者の細い顎を撫でた。ボールペンには、記者のイニシャルが彫ってある。博士の手にこれがあるということは、プールに落ちたと思ったのは錯覚だったのかもしれない。
「一度脳を通過した情報は、そうやすやすと消えてくれない。忘れたと思っても、深層で根を張る。そして地図を作る」
「それはトラウマとか、強烈な体験に限るのでは?」
「忘れない。君は私を忘れない」
暗示をかけるように繰り返され、記者は不気味がった。咳払いをし、話題を変える。
「芸術は不滅の魂と言われることもありますが、博士は科学を不連続な断面だと捉えられることを、不満に思ったことはありますか?」
「ないね。連続したものはそもそもあり得ない。君が観たモナリザと、ダ・ヴィンチの描いた時代のそれは必ずしも一致しないだろ。ダーウィンの進化論も当てにならないぜ。イレギュラーは突然顕れる」
博士がペンを握らせると、記者はぐるぐると、メモに取り留めのない図形を描いていた。博士は真横から、それを楽しげに眺めている。
「君、ヴィクトル=ユゴーは好き? レ・ミゼラブルの」
「りゅ、ゴ」
記者は呂律が回らなくなった舌で、オウム返しした。
「あいつって、嫌みだよなあ。読んでりゃわかる。あいつは自分の偉業を称えて欲しかったんじゃないか。今の私のように、誰かの記憶に残りたかった。永遠に」
落としたボールペンを博士が拾い、もてあそんだ。
「人は物語を生きる生き物だ。誰かの頭に寄生しなければ、ものを考えられない薄汚い生き物なんだよ。私はそれを天国と呼んでいる」
女性は弛緩した腕をだらりとたらし、涎を垂らし、こぎざみに痙攣していた。飲んだカクテルに神経毒が混ぜられていたのだ。
博士は、彼女を軽々と抱き抱えた。そのまま洞穴のようにぽっかり開いた建物に足を踏み入れる。
「さあ、まずは綴り字から始めよう。アルファベットを訓練しなくちゃ。できるよ、君と私なら。ふふ……」
(2~)
「先生のことが、好きです」
瞼を開けても、前後の状況を理解するのに手間取った。暗所だ。部屋の輪郭が浮かび上がらせるのに、明かりが不足している。
伊藤嘉一郎は、干からびた喉から渋々、下知した。
「すみませんが、城ヶ崎さん、ベッド脇のスタンドをつけてくれませんか」
「……、は、はい」
頼りない返事と共に、傘付きのスタンドが灯り、ほの白く部屋が照らされる。
スタンドをつけたのは、十代中頃の少女。キャミソールに白いシャツを羽織っただけの薄着である。
彼女はシングルベッドに再び足を伸ばして座った。その膝の真上に、伊藤が頬を載せる。
「あの、先生?」
「はい」
伊藤は、ねぼこけ眼で少女の太股をまさぐった。少し肉付きは足りないが、水気のある肌にずぶずぶ沈んでいたい。少女は羞恥に震えながら、語尾をすぼめた。
「好き、なんです」
この少女、城ヶ崎綾は、丸岡高校の一年生だ。書がとても達者で、伊藤はその腕に感嘆した。聞くところによると、小学校低学年から鍛錬を欠かさなかったそうだ。凡人の自分には地道な努力しかないと、控え目な態度に徹するところも物珍しさに拍車をかけた。
声をかけてきたのは、綾の方からだった。
高校に入っても友達ができない。自分に自信が持てないという相談を受けた。
伊藤は、ごくありきたりなアドバイスを授けた。
「君は物事を貫徹する才能を持っている。僕は途中で、絵筆を捨ててしまった。誇ってください、君は僕より我慢強い」
一ヶ月後、綾が複数の友人と連れ立つ姿を目撃した。
ひとまず安心だろう。後は当人の問題だ。伊藤はそれきり彼女のことを忘れていた。
夏休み前、綾が目の前に現れた。伊藤は彼女の名前がすぐには出なかった。
「先生のおかげです。これから友達とプールに行きます」
送っていくよ、と車に乗せてそのまま今いる自宅マンションに連れ込んだ。
綾が、さらって欲しそうにしていたから。
「あの日からじゃないんです。お会いした時から、ずっとお慕いしていました。先生のご迷惑になってはいけないとずっと言わないでおこうと思ったんですけど、もう我慢できないんです。ごめんなさい」
綾の髪が伊藤の鼻先にかかる。
彼女は確かに我慢強い。ただれた関係を半年近く続けてようやく不満を口にしたのだから。誰かとは大違いだ。
「先生? 笑ってらっしゃいます?」
所在なさげな綾に、申し訳なく思う。
「いえ、思いだし笑いです、失礼」
伊藤が女子生徒と関係を持つ基準は、厳格だ。”彼女”に面影が似ているかどうか。残念ながら、綾はその点、外れの部類に入る。
「帰りなさい。もうここに来てはいけない」
関係を打ち切るタイミングも決めていた。相手が本気になった時に突き放す。
泣き出すか、責めるか、去就に人間性が計られる。人間の内面性に触れるこの時が、最も興味をそそられる瞬間だった。
しかし、
「わかりました。もうここには来ません」
それほど思い詰めていたわけではなかったのか。当てが外れたように興奮が冷めかけた。
「でも、親にここに来ていたこと言うかもしれません」
失望も束の間、従順な羊の仮面がはがれ落ちそうになっていた。意外な反撃に、伊藤は歓喜する。
「その結果、僕がどうなるか、君は考えて上で言っているんですね」
「もちろん。もしそうなったら、私が先生を養います。我慢強いのだけが、取り柄ですから」
悪あがきのような見苦しさを感じさせない、清々しいまでの脅迫。今の彼女なら、自分を奈落に突き落としても笑って、手を振るだろう。
伊藤は綾をたまらなく愛おしく感じ、両腕を押さえ、上に覆い被さった。今この時だけは、このか細い少女に魅了されてしまっていた。
「せ、先生……、怖いです、よ」
眉間に皺を寄せているのも、食虫花の演技に思えてくる。もっと彼女の内側を探りたい。
首筋に舌をはわすと、綾は声を殺して弓なりに仰け反った。
浅くなる呼吸をもっと狭めてやりたくなった。花弁のような唇に顔を近づける。
玄関のドアが開けられる音がした。
察しのいい綾は顔を背け、邪険にするように伊藤を押しのける。
足音が近づいてきても、伊藤は綾の上で手をぶらぶらさせていた。
「私、帰ります。追いかけないでください」
怒ったように伊藤の腕をふりほどくと、綾はシャツを放り捨て、私服のニットと、デニムをはいた。寝室を抜け、廊下の曲がり角を曲がった。訪問者に出くわす。
「ういー、何、もう帰るの? 夜はまだまだ長いよー」
綾の前に臆面もなく立っているのは、セーラー服にカーディガンをひっかけた小柄な少女だ。ショートボブにあどけなさの残る顔立ち、好奇に見開かれた目が綾をなぶる。
綾は下を向き、ろくに目も合わせず、玄関まで大股で向かった。
足元に間接照明があるものの、廊下は薄暗い。
綾に見過ごされた西野陽菜は、ビニール袋を軽く振りつつリビングまでスリッパをけたてて進んだ。
リビングは神経質な伊藤らしく物が少ない殺風景な部屋だ。食器棚の陶器はどれもそれなりに根の張る代物だが、同じデザインで見栄えはしない。豪勢なキッチンにも生活感がなく、水滴シミ一つない。ベランダから見下ろせば、突風が容赦なく吹き上げた。ここは八階の角部屋だ。
電気をつけず、ドイツ製の黒い革製のソファに、陽菜はどしりと腰を沈めた。ここに来る時の定位置だった。
「追いかけなくていいの?」
幽鬼のような静けさでリビングに来た伊藤をからかう。彼は無言で水道からグラスに水を注いでいる。
「追いかけて欲しそうだったけど。まだ間に合うよ」
「もういいんです、彼女のことは。潮時でしょう」
絞り出すような伊藤の声は陽菜の失笑を誘った。
「ああいう真面目な娘に、手を出すあんたが悪いんだよね。自棄になってチクるんじゃね?」
「覚悟、しています」
陽菜は膝をぱしっと叩いて立ち上がると、水を飲む伊藤の側に駆け寄る。
「何が覚悟よ。わかってんの?」
「ええ」
身長差があるため、陽菜は背伸びして伊藤の胸に額をつける。
「私とずっと一緒にいるって言ったよな。約束破る気か?」
「すみません」
伊藤は陽菜の背中にこわごわと手を回す。
「父さんに言って、学校やめさせてやる。生きていけなくしてやる。淫行教師」
「そうしてくれると助かります」
引導を渡されるなら、陽菜の方がいいと伊藤は半ば本気で考えていた。
「馬鹿」
やせて見える割に、厚い胸板を虚しく叩く。
「どうして私は誰かの特別になれないんだろう」
それから何をするでもなく二時間がたち、十一時を回った。
伊藤はソファーでウイスキーの水割りを作り、陽菜はキッチンでタマネギの皮を剥いていた。
「すごいでしょ。手で剥けるんだ」
伊藤は微笑で答える。
「笑うところじゃないでしょ」
「すみません」
陽菜は包丁を探そうと、新品同然の鍋の山を漁った。
「僕がやります」
「できるって」
背後から無理やり腕をつかまれ、陽菜の手首が露出する。癒えない傷跡が線状に何本も走っていた。
「見るな」
ぶっきらぼうに言って、陽菜は袖を戻そうとするが、伊藤が止めた。ひざまずき、傷跡に口づけする。
「ごめんね、嘉一郎君」
弱気な謝り方に、伊藤ははっと、目を上げる。
「私じゃ、”彼女”の代わりになれないんだね。ごめんね、何の役にも立てなくて。やっぱり私、ダメな子だ。ならいっそ」
リビングの壁には、額入りの油絵がかけられている。長い黒髪を両脇でおさげにし、ロイド眼鏡をかけた幼い少女が額の中で生きていた。手を膝の上に置き、木造の椅子に座っていた。背景には、崖から臨んだ海岸線の明るいグリーンが光る。少女の目は、この世を呪うように細められていた。
「捨てるくらいなら、殺してよ。そのくらいできるでしょ」
伊藤は陽菜の白く繊細な喉元に手をかけ締めあげた。
明くる日、伊藤嘉一郎は、学校に依願退職を申し出た。
騒然とする職員室を出て、普段通り颯爽と廊下を歩く先に、綾が待ち構えていた。
「どうしてですか? 先生。私、親にも友達にも何も言ってないですよ。辞める必要なんかないのに。そんなに私、信用ありませんでしたか」
綾はしでかしたことの恐怖に耐え切れず、語尾を弱めた。
「そんなことはありません。信じていましたよ。君は我慢強い子ですから。今までありがとう」
伊藤は綾に歩み寄り、頭を下げた。
綾は座り込み、頭を抱えた。ごめんなさいと、何度も謝りそのたびにしゃくりあげていた。
背中に手を回し、彼女が落ち着くまで伊藤は側で慰めの言葉を囁いた。
数メートル先の廊下の曲がり角から、二つのオペラグラスがその光景を覗いている。
「どういうことー? ポチが退場しちゃうよ、ナノ」
解せぬ答えを訊ねようと、ニーナがオペラグラスを目から離す。足下では、ナノがしゃがんで熱心に観察を続けていた。
「あいつは、ああいう奴だよ。そんなにあいつがいなくなるのが不満? ニーナ」
ニーナはむくれた顔を手で覆う。
「ば、馬鹿、ちげーし。ただ、今までと違うから、何でだろと思って」
「あいつは、"気づいた"みたいだからもういいよ」
「何の話?」
ナノの独り言に、ニーナは頑張って食らいつこうとするが、いつものように軽くあしらわれてしまう。
「こっちの話。ニーナは余計なこと考えなくていいんだよ。その方が可愛いんだから」
「う、うっせえな。馬鹿にすんな。あたしだって……」
ニーナの意を汲まず、ナノはさらに身を乗り出す。
「いけ! そこだ! 指を入れろ! もたもたするな」
ナノが我を忘れて叫ぶと、ニーナは呆れて、両腿を擦りあわせた。
「前から言おうと思ってたけど、ナノって結構スケベだね」




