便利な体
灰色の岩場を手探りで進んだ。当てのない旅路、心細さからか首を普段より余計に回す。
矮躯を吹き飛ばす突風が、せっちんを襲う。
山肌の向こうから大きな目玉と、盛り上がった唇を持つ巨人の顔がせりだしてきた。
せっちんは為す術なく巨人の指に摘まれ、開かれた地獄の釜のような口に運ばれた。紅い口腔内に放り込まれるまで、無言を貫いた。
巨人の背後にいた、せっちんが目をそらす。
「なにゆえ、どうようするのじゃ」
抑揚のない声で、せっちんをなじる者も、またせっちん。
巨人に飲まれたのは細胞を使い果たし、豆粒サイズ縮んだクローン二号だ。
死闘を終えたクローンたちは、カヲリのアパートの駐車場に帰還していた。二号からしたら、オリジナルや小石が巨大な世界に映っていたのである。
オリジナルのせっちんが食すようにクローンを回収したのは自然な成り行きとはいえ、自我の芽生えかけていた一号は複雑な胸中を抱えていた。
「なあ、これでいいのか? ”らら”は、なにをしようとしてるんじゃ……」
疑問を口にするのが憚られる空気だ。オリジナルのせっちんが、侮蔑するような笑みを浮かべている。
「そなたが、かんがえるひつようはない。まったく、よけいなかんじょうをもちよって」
見下げ果てるようなオリジナルの態度に、一号の不審は強まる。
「くろーんにだって、”ごぶのたましい”じゃ。かをりと、はくあに、ほうこくさせてもらう」
「それはこまる」
と、言うが早いか、オリジナルは狐の狩りのようにクローンの首筋を噛み、動脈から血を溢れ出させた。
一号の最後の思考は、カヲリへの思慕で占められていた。幸いかな、穏やかに逝けただろう。
オリジナルの犬歯はこりこり骨を砕き、筋肉繊維を食いちぎる。スープをすするように脳漿を貪り、爪先まで始末するのに一分もかからなかった。
「くろーんの、うんようもかんがえものじゃ。へたにしこうがあるぶん、かってをしよる」
せっちんは、唇の端に残った血の滴をなめとり、人心地ついた。
「ゆきひこ。じき、あいにゆくからな。まっておれ」
朝陽が、上り始めた。
(2~)
「風邪を引いた」
鼻声で不平を漏らしたのは、灰村香澄だ。
腫れぼったい目で、ベッドから壁の一点を見つめている。
部屋の窓から冬にしては明瞭な日差しが入り込んでくる。
一九九九年十二月十八日土曜日
同居人の寺田幸彦は朝の支度に大忙しで、香澄におざなりに対応せざるを得ない。
「昼食は用意しておきますから、薬を飲んで休んでてください」
「ちょっと、私の予定を勝手に決めないでくれる?」
枕を幸彦の背中に投げつけたものの、いつもの勢いは長く続かず苦しそうにせき込んだ。
部屋は狭く、奥行きに乏しい。二人いれば生活用品であふれ返りそうだが、幸彦の采配のおかげでこぎれいに纏められている。
百均で購入したラックがベッドの脇の壁際にあり、そこから幸彦が体温計を取り出した。
「熱、計りましょう」
香澄が子供のように頷くと幸彦は側を離れ、冷蔵庫を開け閉めした。
「遅刻するわよ」
「ええ? 何ですか」
幸彦は、コンロに乗せた鍋で日本酒を温めていた。
「私に構ってると遅刻するって言ったの」
「……、いいですよ、学校なんかもう」
投げやりに言って、温め終わった日本酒に溶き卵を入れた。
「不良」
「先輩も同類じゃないですか。同棲なんてしてるし」
「君が転がりこんできたんでしょ」
「そうでしたっけ?」
とぼけたように幸彦は言う。不誠実極まりない。出会った当初は、もっと純粋で可愛げがあったのだが、いざ生活を共にしてみれば、幻滅することしきりだ。まず約束は破る、そのくせ香澄の生活態度のアラを細かく指摘するから始末が悪い。
それでも離れたがたいのは何故だろう。香澄は、熱でふらつく頭で答えを急いだ。
「はい、できました」
幸彦から受け取ったコップからは、アルコールがほのかに香っている。
「卵酒ね。呆れた。私を酔わせてどうするつもり?」
「具合がよくなりますよ」
「死んで欲しいの? 私に」
幸彦は笑わなかった。香澄もまた真剣な表情でコップを握っていた。
「まさか。僕の住むところがなくなります」
「憎たらしい。本当に死んでやろうかしら」
もし自分が死んだら、幸彦は悲しむだろうか。いっそ死んで確かめてみたくなる。
「毒味が必要なら、僕が飲みますけど」
徒にそう言って、コップに顔を近づける。香澄は慌ててコップを死守する。
「大した不良だわ。朝から酒飲み登校を目論むとはね」
「バレなければいいんです。手段の是非は、後からどうとでも書き換えられる。人間の体っていうのは便利にできているんですよ。それで風邪を治してください」
香澄は卵酒を二口煽り、火照った頭を幸彦の胸に預けた。
便利な体だ。本当に。
(3~)
カヲリ=ムシューダが、母に疑問をぶつける。
「どうしてお父さんと結婚したの?」
思慮を欠いたような娘の問いかけに、たくましい腕っ節を持つこの母は、迷惑がりながらも答えを返す。
「お互いに便利だからさ」
ムシューダ家の朝は早い。カヲリの弁当の下拵えや、朝食の準備に時間が割かれる。
「愛し合って結婚したって、言って欲しかったな」
「それだけじゃやっていかれないよ。あんたには、まだ早いかもね。そら、できた」
カヲリは制服姿で真白いナプキンを首から下げて、テーブルについている。母がスクランブルエッグと、ウインナー、ブロッコリーの載った皿を運んできた。
「頂きまーす」
皿の料理と食パン三枚を腹に収めると、怪訝そうな母の視線とかちあった。
「どうかした? 母さん」
「いや……、何ていうか。あんた髪そんなに長かったっけと思ってね」
「キノセイダヨーセイチョウキダモン」
黒々とあふれだした毛量は肩をゆうに通りこし、長さは背中の中程にまで届いている。事情を話せないため、誤魔化し切るしかない。
「まあ、いいけどね。それよりさっきは何であんなこと聞いたんだい?」
「いや、母さん、寂しくないのかなって」
今年は、結婚二十年目の節目にも関わらず、両親は別居状態にある。母は父が出ていっても以前と変わらない生活態度を貫いている。その心境がカヲリにはわからない。
「寂しいよ」
「えっ! そうなんだ」
間の悪いことを訊いたと、カヲリは目を伏せる。
「さっき結婚が便利って言ったけどさ。形式に寄りかかって、相手のことを考えなくなった気がするね。要するに、楽をしてたんだ。それがいけなかったのかもね」
「便利かなあ、それ」
「いつでも考える必要もないからね。その点、恋と違って緊張しない」
「そうかあ。でもお父さんもお父さんよね。お母さんのことも考えないで」
「ほんと、あの馬鹿はどこに行ったのかねぇ」
家族三人の入った小さな写真立てを、母が握りしめた。
「お前はどうなんだい? カヲリ」
「どうって?」
新生活が波乱続きで、家族のことを腰を据えて考えたことはなかった。少し恥ずかしくなる。
「父さん、早く帰ってくるといいね。私も会いたい」
「帰ってくるよ、きっと」
母は自分自身に言い聞かせるようにしていた。
朝食終え玄関を出る際、台所で洗い物をする母に心おきなく挨拶を交わす。
「行ってきます!」
カヲリの溌剌とした大声は、アパート全体に反響してしばらく止まなかった。
敷地を出て、塀の側で足踏みする。
「お日様気持ちいいな、うひひ……」
不気味な笑い方をしていると、道を掃いていた近所の人に目撃された。
カヲリは機先を制し、挨拶をする。
「おはようございます!! 良い天気ですね!」
「あ、カヲリちゃん? だったの。髪長いから別人かと……」
怪しまれること限りなし。
知ってか知らずかカヲリは、スキップでその場を離れた。
「青い空、白い雲、生きてるって素晴らしいわぁ」
頭の中では、サザエさんのテーマが流れている。
詩的な欅通りを過ぎて、カヲリは信号機に足止めを食う。だが今はその赤信号さえ、かけがえのない運命の采配に思えてならなかった。
「ひでえ頭の女をはっけーん」
ローファーの規則正しい靴音がしたと思うと、美幼女ハクアが隣に並んだ。細腕の中に黒い子猫がすっぽり隠れている。
「どこ行ってたのよ。いなくなったから心配するじゃない」
「親子の再会に水差すほど吾輩、野暮じゃねえです」
ハクアが大げさに過ぎる表現を使ったのには、理由がある。
カヲリは死の淵から生還したのだ。憤怒に勝利した代償として、重態に陥ったところを救ったのは、意外にも天の邪鬼な虎だった。
虎がいなければ、とっくにこの世から別れを告げていたことになる。そう考えると力を酷使し、子猫に戻ってしまった虎にますます愛着が増した。
「飼い主として認められてよかったですね」
「うん。でも悪いことしちゃったのかな。こんなに小さくなっちゃって」
ハクアの腕の中で眠る黒猫をそっと撫でる。
「キャストは、ゲストが幸せならそれでいいんです。お前は今、幸せですか? カヲリ」
信号が青に変わり、カヲリは向かいの歩道まで、一気に走り抜ける。
「しあわせー!!!」




