Vent8
「はー……、床冷てー…」
懐かしい床に還ってきたようだ。母の懐を知らない自分を快く迎え入れてくれる。
ハクアにとって、死は屑籠である。
荒野をうろつき、戦いを終えては、屑籠へ放り込まれる。
どの地平にいても同じことだ。死は何より軽い。それでも目を開け、呼吸を感じる自分を嘉しているのは、不思議な気分だ。
「あぶない、ところでした……」
ハクアはうつ伏せの姿勢のまま、白茶けた唇を震わせる。
「帽子の中に、カイロを仕込んでおいたです。カヲリを校門で待ってる間、冷えましたから」
憤怒の能力で体温を奪われ、一時的な仮死状態に陥ったものの、カイロによる保温でかろうじて一命を取り留めていた。
照明代わりの蝋燭の火は、一本残らず消えている。帽子のライトも作動しなくなっていた。
一切の光源のない世界で、感じるのは床の氷のような冷えによる痺れ。
右手の人差し指の爪先で、床をこする。その音を聞く限り、この床の材質は恐らくガラスではない。ガラスより薄く、弾性に富む。アクリルとも違うし、プラスチックとも異なる。未知の材質、つまり、キャストの仕業に他ならない。
「やっとたどり着いたわけですね」
歓喜に沸くのは確かだ。
この場所は、支配者の深奥に近い。感じるのだ、声なき声の波動を。
支配者に一矢報いる機会は今をおいて他にない。希望的観測ではなく、今なら隙がある。
カヲリは無事だろうか。あの土偶から逃げ延びているだろうか。
選択肢は少ない方がいい。
「吾輩がどっちを選ぶかなんて、決まっているじゃありませんか」
足音が近づいてくる。ぺたぺたと、まるでサンダルのように床を叩いている。近づくたび、篝火のような橙の明かりが辺りに反射している。
まだ、体の硬直が回復しない。敵なら万事休す。
軽い衝撃がハクアの鼻先、頬をぶったというか、蹴った。
「どういうことだ、おい……」
舌足らずな声が逼迫の震えを発した。
「こいつ……、しんでるじゃねえか!」
声の主の検討はついた。せっちん、だとは思うが、雪乃のような気もした。念のため、死んだ振りを続ける。
「おそかったようじゃな。しかし、なんで”らら”は、こんなまねを……」
謎の声の主は、興味深いつぶやきを漏らした。
螺々の名前がどうしてここに出てくるのか。伊藤の言葉がふいに、脳裏をよぎる。螺々に気を許してはならないという意味を吟味する必要があるようだ。
「さて、ながいはむようじゃ。”にごう”と、ごうりゅうせねば」
きびすを返す気配、倒れているハクアを見殺しにするつもりのようだ。判断としては正しいが、詰めが甘い。本当にせっちんだろうか。
手の届かない場所に行かれる前に、かろうじて動く右手で、ひっかく動作を行った。
「いっ!?」
くるぶしをかすり、悲鳴を上げさせることに成功した。
せっちんとうり二つのクローンが、ハクアの前にしゃがみこむ。
「い、いきてるのか? おいっ!?」
ハクアはうつ伏せのまま、ばた足で安否を伝える。
「このぼんくら。吾輩を早くカヲリの元に連れていくです」
口走るとハクアは力つき、意識を失った。
(2~)
地に足がつくのは、素晴らしい。己の筋肉、骨と骨のベアリングを確かめることができる。
雲間を歩く仙人は、仙骨を持つという。それでもきっと、仙人は生きる喜びを知ることがないだろう。
カヲリは一号館校舎を出て、深夜の湿った空気を味わった。
救急車のサイレンが耳をかすめた。が、学校からは、遠ざかっていく。無関係のようだ。
背中にはハクアを負ぶっている。帽子を目深に被り力なくうなだれているものの、会話ができるまでには回復していた。
二人の背後には、せっちんクローンが落ち着きない様子で控えている。
全員が危地を脱したことは疑いようがない。
ハクアを発見した一号は、カヲリと合流し、さらに別動していた二号もそれに加わった。
旧校舎の出入り口を見つけたのは、クローンたちだ。
カヲリたちが引きずり込まれたのと同じ大鏡が、旧校舎内にもあり、そこが接点となり、元の校舎に戻る仕掛けになっていた。水鏡に吸い込まれる体験は、油に飛びこむのに似ており、二度と味わいたくない。
外に出るとカヲリはまず、腕時計を確認した。
時刻は、午前二時十九分。驚くほど時間が経過していない。
「カヲリ、突っ立ってないで歩いてください」
「あ、うん。ごめんね」
ハクアに背中をつねられ、静寂に沈んだ敷地内を進んだ。
「解せないことがあります」
安堵からか、カヲリはあくびをかみ殺した。
「カヲリは何故、支配者に呼び出されたのでしょうか」
「そりゃ、邪魔になったから殺そうとしたんでしょ? 私たちが団結しているのが気に食わないのよ」
「そうでしょうか? それならナノたちがまず襲ってくるはず。あんな隠し部屋にまでおびき出す必要もないです」
ハクアの疑問ももっともだ。あの場所は、支配者の重要な拠点だろう。それなのに、こうして生還している。
「それにあのキャスト、吾輩に止めを刺しませんでした。敵意も感じませんでしたし、まるで自動で動いている機械のような……」
支配者の命を受けているなら、それに逆らうことなど有り得ない。不可解な状況の積み重ねが、ハクアの推論をある一点に固めていく。
「あの招待状を出したのは、支配者ではないのかもしれません」
「えっ!?」
カヲリが驚愕に震えると、何事かとクローンたちが集まってきた。
「じゃあ一体誰が?」
「……、答えを出すのは早計ですぅ。猶予をください」
ハクアにしては珍しく、言葉を濁した。ただごとではないというのが伝わった。
「わ、私、貴女の変化に気づかないほど鈍感じゃないんだからね」
「何言ってるです? お前」
「こっちは借りがあるんだから、できるだけ早く話してよ。待ってる」
背中から返事はなかったが、首にしがみつく力が少し強まった。
四人は、グラウンドに足を踏み入れた。突っ切れば、校門まで早い。
ライン引きが放置してあり、一号がそれを使って白線を引いて遊び始めた。
「置いてくですよ、ぼんくら」
ハクアが咎めるが、夢中なっているらしく聞き入れない。
グラウンドの土霜が張っているらしく、カヲリが踏み込むたびに小気味良い音がなった。
二号が最後尾で、立ち止まっている。カヲリは気にせず歩き続けた。
雲下の陰りに入ったのか、視界がとみに暗くなった。
ハクアをおぶり直しふと目を上げ、思考が凍り付く。
頭上を漂っていたのは、雲ではなかった。
風船のように浮力を得た土偶が、閉じた瞳をカヲリに据えている。
大きさは、ゆうに三メートルを越え、膨張しつつある手足から、蒸気の芽が生えるところであった。
(2~)
「にげるんだよおおおおおおおっ!?」
警鐘を叫んだのは一号だったが、それより前に駆けだしたのは、二号である。遅れて、一号がライン引きを倒しながら、逃走を開始した。
カヲリは、動けなかった。
巨像となった土偶の威容に気圧されたうえ、これは逃げきれないと悟る。
瞬時に判断を固めた。迎え打つ。是非もない。
ハクアは、憤怒のキャスト、cold playが複数のヴァリエーションを持つ個体と考えていたが、それは間違っていた。
土偶の体に糸状の細かな筋が走り、やがて放射線状の大きな亀裂に変わる。
カヲリはまばたきせずに、微細な情報を得ようと努めた。
亀裂から泡のようなものがあふれ出てくる。泡が気化し、黒雲を作る。浮力が黒雲に吸い取られたのか、土偶の高度が下がっていた。体を石片に変え、バラバラになりながら落下してくる。
「何ぼさっとしてるです! 死にてえんですか!」
ハクアのかすれ声に、弾かれたように足を向ける。
頬を滴が掠めた。
「雨……? があああああっ」
カヲリは走る最中、よろめいた。頬が真っ赤に腫れ、煙が上がる。
殺人的な豪雨が始まった。
降り注いだ高温の雨を吸い込んだグランドから、気化した水蒸気が霧のように止めどなく立ち上る。
「あっちいいいいいっ!? いやあああああ」
目を閉じ、がむしゃらに足を動かす。一度でも倒れたら、確実に地獄のスコールの餌食になる。土偶の作り出した黒雲は、カヲリの全身をなぶるような雨を降らせる。
肌に密着した服が、熱を帯びてうずいた。脱ぎたい。だが、立ち止まれない。ハクアはカヲリの背中に顔を埋め、じっとしていた。声を出す余裕もないらしい。
雨は、三十秒も立たないうちに止んでいた。
カヲリはわずか、数十メートル走ったところで、膝をおっていた。全身から湯気を立ち上らせ、意識は朦朧とし、肌は火傷に近いひどい赤みを帯びている。
「カ、カヲ……、後、ろ」
カヲリの前方で倒れていたハクアの声をかろうじて拾う。
背後から、ブーメランのように回転する飛行物体が迫っていた。瓦一枚程度の大きさの石片。土偶の欠片だろう。
カヲリの後頭部を確実に狙っているようだった。振り向きざま、拳で弾きとばす。が、
石片の熱さは、雨の比ではなかった。拳が一瞬で、水膨れを起こす。
「……、うらあああっ!」
力で押し切った石片は粉々になり、四方に散った。
それが精一杯の抵抗だった。意識を保てなくなり、前のめりに倒れる。
安穏とした眠りは長く続かなかった。
今度は、火傷による激痛でのたうち回る。景色が白けて、音も聞こえない。いっそ殺してくれ、カヲリは願った。
「おい! しっかり!」
一号が、ホースから水道水を引いて、カヲリにかけていた。二号も同じようにハクアを救護している。
クローンたちは、せっちんと同じように、自身の分子配列を組み替え、熱に強い体にして、雨に耐え切った。それでもオリジナルの数万分の一の細胞から作られた二人には、一度が限界だ。次はない。
直撃を受けたカヲリとハクアにはもう、生命の種火がほとんど存在していなかった。もはや、死を待つだけ。
命を司るクローンには、それがすぐにわかった。そこで二人が取った行動は、
「のうりょくを、つかうしかねえ。やるぞ、にごう」
二号はかけ声に頷いた。
クローンのへその辺りから、赤い紐のようなものが生えて、カヲリとハクアのへそに直結した。
能力、運命のアカイイト。
それは、せっちんの万能細胞を他者に移植する能力だ。
通常他者の細胞を移植しても、適応せず癌化などの拒絶反応を起こす。違うジグソーパズルのピースを他のジグソーパズルに当てはめるようなものである。
それゆえ、この能力は対象者に合った細胞を作る精密作業が求められる。仮に成功しても、完全に細胞が適応するとは限らない。しばらく経ってから、拒絶反応を起こす場合もある。それで命を落とした者もいる。
窮余の策だ。使わずにすめばそれに越したことはない。リスクが高すぎる。
移植作業は、三分ほどで終わった。クローンにできたのは、火傷による皮膚の損傷の応急手当に過ぎなかった。内部の臓器にまでは、手が及ばない。
「ハクア……、生きてる」
カヲリは横向きになって、腹を抱えるような姿勢で倒れているハクアを呼んだ。
「これが、生きてるって言えますかね」
「同感」
皮膚のセンサーが痺れて働かなかった。視野も上半分が暗幕に遮られたように効かなくなっている。
「誤算でした。こんな化け物がいたなんて……、吾輩の目は曇っていたんですかねえ」
自嘲気味に笑うハクアに、笑い返す者はいない。
「これじゃお嫁に行けないよ……」
「吾輩がもらってやりますよ、あきらめなさい」
カヲリは笑おうとして、顔の筋肉がうまく動かないことに気づく。もはや寒さすら感じない。
「おい」
クローン一号が二人を恫喝するような低い声を出す。
「すまん」
「何でお前が謝るです? ぼんくら」
「わらわたちのせいじゃ。しったいじゃ、つぐないようもない」
一号は膝を地面につけ、頭を下げた。二号も同じ姿勢を取る。
「かくなるうえは、わらわたちが、おとりとなろう。そなたらはそのあいだに、にげるのじゃ」
カヲリは、石がこすれるような音が風に運ばれるのを耳にする。建築物を構築する前奏曲だ。
「あいつは、むてきの、きゃすと。こんどは、こんかいのようにはいかん」
土偶のパーツが着々と組み上がる。心なしか、先ほどより、脚部が太くなっているようだった。
「確かに無敵かもしれねえです。水を構成する水素は可燃性、酸素は助燃性。爆発も起こせたはず。それをしなかったのは、熱水を降らせた方が、効率がいいと判断したから。あるいは……」
ハクアは弱々しい吐息を漏らす。
「こいつは、遊んでいるのかもしれません。吾輩たちをいたぶって、殺すために」
全身に倦怠感が襲う。その場にいる者たちは、そろってうなだれた。ただ一人を除いて。
「殺されて、たまるものですか」
クローンとハクアは、カヲリに目を向けた。
「一号の意見は却下よ。こいつは一号たちを殺した後に私たちを追ってくる。市街地に出られたら、犠牲者が出るかもしれない」
今のカヲリたちの足では、逃げきれる公算は低い。援軍も期待できない。
「お前の意見を聞きましょう。カヲリ」
ハクアはぬかるんだ土にあぐらをかいて、体を向ける。
「こいつは、ここで倒す」
二号がすぐさまカヲリの無謀に反駁する。
「むりじゃ、こいつは、ばくはつのしゅんかんしか、じったいか、しないんじゃ。そんなのどうやって……」
「考えるのよ。時間はない。知っていることを話して。一号、二号」
カヲリの鬼気迫る迫力に圧され、クローンたちは、頷いていた。




