Vent5
「こんな夜だったね。そういえば」
カヲリが物思い、空を見上げる。ちぎれかけた雲が、月を覆うところだった。
「いつの夜も馬鹿は馬鹿のまま。日付が変わっても人間の中身が変わることはありません」
ハクアは消え入りそうな声で、カヲリとの対話を始めた。
「それじゃ、永遠に人は変わらないみたいね」
「ええ、特にお前みたいな女はね。カヲリ」
「試してみる?」
「どうぞ、お好きに。ここは通しません」
固い決意を胸に、ハクアは門の通行を妨げることを宣言した。
木々のざわめき、肌の乾燥具合、拳のリーチ、条件を確かめる。意地は押し通す。そのためにここに来た。
カヲリのスニーカーがアスファルトを蹴る。十メートルの距離を詰め、ハクアを昏倒させるべく拳を振り上げた。
ハクアは自身の頭ほどの大きさの辞典をカヲリの拳の軌道に合わせ、突き上げた。
魂が削りあう鈍い音が二人の耳朶を打つ。
カヲリの拳のハンマーとの衝突。力のシーソーゲームに、二人は歯を食いしばり耐える。
均衡は長くは続かない。
まるで鉄を殴ったような衝撃が、骨を突き抜ける。カヲリは反動に耐えかね、たたらを踏んだ。
体重差のあるハクアは、紙のように吹き飛んだ。否、わざと勢いを殺すために跳ね、校門のフェンスに片足で着地した。
「この馬鹿力。これじゃあ男が逃げるのも納得ですぅ」
右手を振り、舌を出すハクア。余力を十分残している。
一方、カヲリの息は上がっていた。全力を出したつもりだったが、手心が加わったのは否めない。
「お願い、何も聞かないで行かせて」
「そりゃ聞けねえ相談ですぅ」
ハクアはフェンスを足場に跳躍し、ひねり回転を加えながらカヲリの頭部に回し蹴りを放つ。空を裂く音がするまで反応ができなかった。
「ぐっ!?」
からくも防御に成功したが、トリッキーな動きに翻弄される。戦闘ではやはり、ハクアの方が一枚も、二枚も上手だ。
着地したハクアは、すぐさま掌ていを繰り出す。その手をつぶさに掴む。互いに両手を組み合わせ、押しあいになる。
「どうして聞いてくれないの」
「馬鹿も休み休み言えってあるじゃないですか」
ハクアは息を吐きながら、カヲリの右手の指を折ろうと力を込める。
「休めないから馬鹿なんですぅ。休み方を知らないから馬鹿なんですぅ」
「何が言いたいのよおおおおお!!!」
カヲリも負けじと、ハクアの小さな指に対抗する。ダンベルも持ち上げられないような、子供の手のどこに怪力が潜んでいるのだろう。
「夜は眠るための時間です。馬鹿の時間はその日で終わらなければなりません。目を覚ましなさいッ! カヲリ」
一喝。
カヲリは怯み、わずかに筋肉が弛緩する。
稲妻のような膝蹴りをみぞおちに、大きく振りかぶった辞典の一撃を肩に、正確なインパクトが、カヲリをついにひざまずかせた。
「……、私のことなんか、どうだっていいでしょ」
すねたようにカヲリは、うめく。
「それは吾輩が決めることです」
カヲリは間もなく、支配者とまみえる。命の保証はない。覚悟を決めてここまできたつもりだ。
ハクアにも、せっちんにも、何も告げずにアパートを出た。
ハクアたちを危険に晒すことを避けたかった。それ以上に、二人に支配者と戦って欲しくないのである。
ハクアたちを生んだのは、他ならぬ支配者だ。親に対するような感情が芽生えても不思議ではない。
支配者との対決を先送りにしているのも、引け目のようなものを感じているからではないのか。
「お前が何を考えているかは知りませんが」
ハクアは、満身創痍で目の光の弱まったカヲリを斟酌することもなかった。
「吾輩は、お前の変化に鈍感でもありませんし、心配されるほどやわでもありません。馬鹿にするのも大概になさい」
侮辱に対する怒りで、ハクアの心は煮えたぎっている。
誤算だった。ハクアを見くびっていたのはカヲリの方だ。観念して、口を割った。
ここに至る経緯を説明すると、ハクアは腕を組んで、足を踏みならしていた。
「お前は本当に馬鹿ですねえ」
「馬鹿、馬鹿って、何回も言わないでよ」
「仕様がないじゃないありませんか。支配者に一人で立ち向かおうとするなんて、開いた口が塞がらないですぅ」
そう言って、肩を回すハクア。
「まあ、ここでだべっても意味ねえです。行きますか」
「ちょ、待って」
迷いなくフェンスに手をかけるハクアを呼び止める。
「いいの? 支配者と戦っても。それに一人で来いって言われてるし」
ハクアは、酷薄な浮かべる。
「吾輩、この日を待っていたです。螺々のようなまどろっこしいやり方ではなく、本丸に切り込む。上等じゃねえですか。支配者の息の根は、この”嫉妬”のハクアが止めてやりますぅ」
気負いは全く感じられない。カヲリは苦笑した。
フェンスの上に登ったハクアが手を差し出す。
カヲリは右手を伸ばして、ハクアの手に触れた。
「ひっぱり上げますから、力を入れてくださいよ」
「……、ごめん、入らないみたい」
先ほど、ハクアとの戦いで、拳を痛めたらしい。手痛い失態だった。
「やば、時間ない。急がないと」
腕時計に目を落とすと、約束の二時まで残り十分もない。
ムカデのようにはい上がり、フェンスを越える。物音に注意して、一号館に直行した。
カヲリ。吾輩、ちゃんと支配者を倒す目的があるです。
そうなの?
吾輩が戦うのは、とあるお方を救うため。
そのためなら、吾輩の命は惜しくないですぅ。
正面玄関前にたどり着くと、残り時間は五分を切っていた。
「虎は連れていかないですか」
「時間がないわ。それより校舎の鍵、どうしよう」
ハクアは両開きの扉の前にしゃがみ込む。
「ピッキングは任せなさい。どれどれ」
懐中電灯を片手に、作業に入ろうとしたハクアの指が突然止まる。
「鍵……、開いてるです」
校舎内部には、陰の気が立ちこめていた。
足を踏み入れるのを躊躇させるのにはそれだけで十分だった。一人だったら、逃げ帰っていたかもしれない。
息せき切って、階段を駆け上がったかいもなく、大鏡の前に人の気配はなかった。念のため柱の影に隠れていたハクアに、懐中電灯で合図を送り、呼び寄せた。
「いないわよ。どうしてかしら」
「イタズラか、あるいは……」
ハクアも困惑している。
時刻は二時の針を指そうとしていた。月は雲に飲まれ、校舎の光は閉ざされた。
その刹那、
大鏡に異変があった。かつて鏡のあった木枠の内側が、油膜のように淀み始めたのだ。勢いよく水の跳ねるような音に、カヲリが振り返る。
カヲリは波打つ鏡に右手を伸ばす。水が伸縮したかと思うと、手にからみつき引きずり込もうとしてきた。
「ハクア!」
排水口に水が吸い込まれるような強引さで、鏡はカヲリの腕を飲み込もうとする。踏ん張りようにも、抵抗が足りない。全身が引き込まれる前に、ハクアに左手を伸ばす。
掴んだか否か自信がない。
意識が途切れるまで、ほんのわずかしかかからなかった。
(2~)
蝋燭の火が頼りなく揺れる。
カヲリが目を開けた時、広がったのは、薄ぼんやりとした火の動きと、蝋の溶ける臭いだった。
鏡に飲み込まれた所までは、記憶がある。
横向きに倒れており、四肢は動く。
暗闇に閉ざされた空間に皿に置かれた蝋燭が転々と、道標となって続いている。奥に空間があることは確かだ。
「ハクア……、どこ?」
心細さから、名前を呼ぶ。
現在地に思いが及ばない。床の表面は滑らかで、靴の底がこすれると、神経を逆撫でるような音が鳴った。
幸いなことに、懐中電灯が手元に落ちていた。スイッチを点け、辺りを照らす。
「これは……!?」
カヲリは息を飲んだ。
ガラスのような透明な材質で通路は構成されていた。すぐ左手には、壁があり、その中の部屋が透けて見えた。狭い範囲しか照らせないが、机と椅子のようなものが並べてある。まるで教室を模したかのような異質な空間だった。
扉があるが、鍵がかかっている。それとも、元から開かない作りなのか。
状況が飲み込めないが、ハクアと合流するのが先決だ。
懐中電灯の電池を節約するため、足下の蝋燭皿を手に取る。
どこからか風が吹き込んできて、火を揺する。冬の空風に似ていた。
カヲリは風を額に受け、目を大きく見開いた。
この場所のどこかに、いる。
まだ遠くに感じるが、風は保健室と同じ冷気を含んでいた。
支配者が直々に招待したのだ。何もないとは考えていない。
気を持ち直し、歩き出す。しばらく行った突き当たりもガラスのような壁が立ちはだかる。割れないこともないが、試す勇気はなかった。
「ハクア……、大丈夫かしら」
やはり一人で来るべきだったのか。だが、ハクアは、自分よりよっぽど頼りになる。ここを脱出することを優先して考えるはずだ。
元来た通路を戻り、まっすぐ進むと、二股に別れている。右手に折れ、さらに進む。
冷気がさらに濃くなる。毛穴の一つ一つを刺すように、向かい風が吹いてくる。この風は、本当に外からのものなのだろうか。自信がなくなってきた。
「君は知っていますか? 落語の死神を」
呼吸を忘れ、闇を凝視した。
進行方向から男の声が聞こえてきた。風の空耳と思いたいが、残念ながら濃い闇の向こうに何者かの気配がする。
「死神の力を借りて人の命を商う男の話なのですが、結局、彼は自身の命を軽んじていることに気づくのです」
カヲリの蝋燭が、かき消える。懐中電灯ならこんなことにはならなかった。失策だ。視界が塞がれた。
さらに背後から口を塞がれ、右手首をひねり上げられた。
「落ち着いて。息を吸ってください、僕は敵ではありません」
男の力はそれほど強くない。乱暴しようという意図は感じられなかった。
それでも、男の生温かい息が耳に当たると、生理的な嫌悪に身悶えする。カヲリの尻に固いものが押し当てられると、反射的に肘打ちをくらわせていた。分厚いタイヤをなぐったような感触と、男のうめきが交差する。
カヲリは距離を取り懐中電灯をつけ、男を照らした。
男の長い手足と、容貌が明るみになる。
「そんな……」
絶句した。相手は意外な人物だったからだ。伊藤嘉一郎が、懐中電灯を遮ろうと、顔に当てられた光を遮ろうと、手を翳している。スーツの映える引き締まった肉体、切れ長の目、夕方会った人物と相違ない。
「変態……、先生。どうしてここにいるんですか」
伊藤は顎に手を置き、例のごとくもったいぶった仕草で、カヲリをもてなす。
「はめられたようですね、僕らは」
カヲリがさまよい歩いている間に考えていることはシンプルにして一つだった。誰かと出会ったら、殴りつけろ。
「おっと、今、僕らが敵対する理由はありませんよ」
殺気に感づいたらしく腕を広げる。機先を制された。
「先生、さっき私の体、触りましたよね?」
「さあ、どうだったか」
「とぼけたって駄目です。それにここにいるってことは、支配者を知っているんですよね」
「さあ……、どうやら君は混乱しているようです。落ち着いて」
伊藤が革靴を踏みならし近づいてくると、カヲリも後ろに下がる。
「ここはどこなんですか?」
「君は夢を見ているんですよ。目をつむればすぐに終わります。僕の言う通りにしてください」
夢だったとしたら、尚更自分が許せない。翔でも、幸彦でもなく、目に入れたくないこの男が現れるとは信じがたい。
「ずっと言いたかったんですけど」
カヲリはまっすぐ伊藤を見据える。
「先生ってなんか気持ち悪いです。ごめんなさい、生理的受け付けないっていうか」
伊藤はカヲリの告白を聞いて、あきらかな動揺を見せた。笑みを浮かべたまま、頬をひくつかせた。
「い、いい……っ!」
と、彼は恍惚に身を震わせる。鼻息が荒くなっていた。
カヲリの恐れが増幅した。腕に蕁麻疹が出る。
「今、なんておっしゃいました? 先生」
「君の気持ちに感謝を述べたのですよ。僕を想ってくれてありがとう」
言葉が通じないのだろうか。カヲリの目が据わった。
「先生、先生を、殴らせてください。限界です。先生と同じ空気を吸ってると思うと耐えられません」
「僕もね、君の体をずっと観察していました。魅力的な臀部。顔の上に乗ってもらいたいとね」
「うおおおおおおおっ!?」
カヲリは天井を仰ぎ、絶叫しながら首をかきむしる。
意識を占めていたのは、この教師の全てを否定したいという衝動のみであった。
やらなければやられる。再起不能にしなければ。男として。
”男は心の中に変態を飼っている。そいつを飼い慣らせない男に未来はない”
カヲリの父は、フライパンを振りながらよくこう言ったものだ。
真のHENTAIを目の当たりにして、カヲリの注意はお留守だった。
光の筋が、一瞬通路を照らす。
背中に強烈な痺れを感じた時には、意識は暗転、前のめりに倒れた。
カヲリの背後から、ハクアがぬっと姿を見せた。手にはリモコンのような四角いスタンガンを握っている。
カヲリを気絶させたハクアは、下を向いて石のごとく押し黙っていた。伊藤が歩み寄るまでそうしていた。
「ハクア」
伊藤が甘く囁く。
ハクアはおもむろに、顔を上げた。目を潤ませ、唇に喜悦が漂っている。
「嘉一郎さま」
「ハクア」
「嘉一郎さま」
「ハクア」
「嘉一郎さま!」
羽が生えたように、ハクアは伊藤に胸に軽やかに飛び込んだ。抱え上げられ、目線を合わせる。
「やはり吾輩の姿が視えているのですね」
「もちろん。君のことは一瞬たりとも忘れたことはありません。僕の可愛いハクア」
断言されると、ハクアは真顔になった。
「今でも支配者と共にあるのですか?」
かつて、ハクアが彼とパートナーだった時、支配者の存在は秘匿されていた。何も知らないまま退場させられ、心残りだったのだ。
「そのことは、君と僕の信頼関係の妨げになるでしょうか?」
「意地悪ですぅ、嘉一郎さま。吾輩の答えを知っているくせに」
ゲストの幸せは、キャストの幸せ。
ハクアは伊藤のためなら身を捨てることを厭わない。
本当に、支配者といることで、伊藤は幸せなのだろうか。自分が答えを出していいか迷っている。
「嘉一郎さま、もしかして吾輩を救出しに来て頂けたのですか?」
「残念ながらそうではありません。僕は君たちと同じように、おびき出されたのですよ」
伊藤は、含んだ笑みを形作り、黒いカードを見せびらかした。それはカヲリが受け取ったものと同じだった。
「ここがどこか訊いてもよろしいですか?」
ハクアは邂逅を生かそうと、嘉一郎を急かした。
「ここは、寂しい墓穴です。参る者がいない野ざらしにして、墓標すらありません」
哀切をにおわす伊藤に口を挟むのはためらわれた。
「ハクア、昔のよしみで頼まれてくれますか」
「なんなりと!」
ハクアの耳に口を寄せ、素早く耳打ちした。
「丑之森螺々に、気を許してはいけません」
「吾輩が貴方以外に気を許すことなどあり得ましょうか。心配ご無用」
胸を張ったものの、降ってわいた疑惑に驚かされた。ハクアが思っている以上に、螺々を信頼していた証だった。
「ことによると、丑之森は支配者に一矢報いるつもりかもしれません。僕の思い過ごしなら良いのですが」
心苦しいが、今のハクアは、支配者に弓を引く立場にある。伊藤を説得するのは難しいようだし、ここは頷くにとどめた。
「ムシューダさんをここに置いておくわけにも行きませんし、詳しい話は……」
伊藤は口を閉ざし、通路の奥に目をやった。ハクアを地面に下ろす。
「失礼、来てしまいましたか」
ハクアは鋭い目つきで、伊藤と同じ方角を注視した。ずっと通路に漂っていた微風がぴたりと止んでいた。
「この感じは……」
保健室の窓辺で感じた能力の残滓と同じ波長が、すさまじい勢いで近づいてくる。
「嘉一郎さま……!?」
伊藤は姿を消していた。か細い声だけが影法師のように残される。
「敵は憤怒のキャスト”cold play"。死にたくなければ、逃げなさい。君ならば切り抜けることができるでしょう。決して戦おうとしてはいけません。あれは、そういう次元のキャストではないのですから」




