Vent2
虎は蒟蒻しか口にしない。
種の常識から外れるが、カヲリが産んだこの黒虎は蒟蒻一つで一日を恙無く暮らすことができる。
カヲリは肉を与えて口をつけなかったことを嘆いたがそれもそのはず、虎は肉食ではなかったのだ。
それを発見したのは、せっちんで、半ば馴らすことに成功している。
虎の散歩はハクアが担当だ。パトロールがてら、朝と晩、学校の敷地を連れ回していた。
「散歩が終わったら、蒟蒻をやるです。きびきび歩くですよ」
太い鎖を首輪につないで、ハクアは号令した。
虎の自慢の牙を要する顎はしっかりと口輪で塞がれ、苦しそうだ。能力を乱用されることを危惧したハクアが散歩の間だけつけている。
生徒が行き交う不揃いな足音も、静かな中庭にある花壇の草露も、教師が一人きりの時にふと見せる諦観も、ハクアは日常として受け入れ始めていた。
「グ!」
ハクアが下駄箱で棒立ちしていると、虎がすさまじい首の力で鎖を引いた。大の男でも引きずり倒されそうな推進力にも、ハクアは動じることはない。帽子のずれを直す余裕すらある。
「やはり、獣風情に風情のなんたるかを解する心は期待できないようですね。さっさと散歩を終わらせて、せっちんと将棋でもさすですぅ」
ハクアに自覚はなかったが、業が薄れつつある。毒気が抜け、まるで童のように遊びに熱中していた。
少し前の彼女なら腑抜けの腰抜けと、自身をなじっていただろう。
それだけに危機感が欠如していた。
油断。
用心深い彼女にとってさえ、それは例外なく忍びよっていた。
虎の気の赴くまま、校舎を巡回するのは毎度のことだが、今日は様子が違う。
ある目的地に向かって虎は邁進している。ハクアはそれを知りたがっていた。思いがけないものが見つかるかもしれない。獣の本能は侮れないのだ。
「お、止まったです」
虎が立ち止まったのは、校舎の南側にある。窓の下だ。しきりに鼻を動かし、後ろ足で立とうとする。
「何です? 雌豚の着替えでも覗くです? 一体誰に似たんだか」
虎は一分ほど、空を爪でかく仕草をしていたが突然身を乗り出し、頭を窓ガラスにたたきつけた。亀裂は瞬く間にガラスの原型を失わせる。
「わーっ!?」
一撃でガラスを割るなど、虎には造作もなかった。派手な音を立て部屋に粉雪が舞った。
「あーあ、何てことを。吾輩知らんです」
部屋から反応がなかったことから、幸い無人だったようだ。
念のため、地面に落ちていた野球ボールを部屋に放り込んでおく。
「さ、これ以上、長居は無用ですよ。全く、これだから獣は……」
部屋から吹き込んできた微風が、ハクアのおさげを揺らした。背筋に寒気が涌き起こる。
「この感じは、まさか」
ハクアは気を引き締め、窓辺にかけよる。わずかだが人のうめきが聞き取れた。
虎が巨体を押し込み、いの一番部屋に踊り込む。ハクアも迷わず後に続いた。
ハクアがまず目撃したのは、出入り口ドアの前で倒れている女子生徒だ。脱げた上履きにカヲリと、書かれている。
虎とハクアは身動きのないカヲリの側に殺到した。
「おい! しっかりするです! 一体何が」
ハクアが気付けのために頬をはたく。カヲリの紫がかった唇が僅かに痙攣する。
「よ、か、った……、ハク、ア」
カヲリの体温が下がっていると判断したハクアは電気ストーブをつけ、部屋の温度を上げた。虎が毛布をひっぱってきた。
「説明できますか? 何があったか」
「キャストよ」
ハクアの目の色が露骨に変わる。
「確かに、一瞬だけキャストの気配を感じましたが、それはあり得ません」
「どうして? 現に攻撃を受けたわ」
カヲリは虎を支えにして立ち上がった。
「お前の今の症状に当てはまる能力を持つキャストを吾輩が知らないからです」
「でも、灰村先輩が……」
カヲリは前後不覚になり、よろめいた。香澄の安否は如何に。
「これはどういうことかしら」
淡然とした声がベッドから上がる。カヲリが期待してやまなかった声だ。
「寒いと思って目を覚ましたら、窓は割れているし、見張りを任せた後輩は見あたらない。ねえ、カヲリ=ムシューダ、納得のいく説明をしてもらえる?」
香澄がこめかみを押さえて、ベッドから下りていた。
「先輩!」
カヲリは猛禽のような素早い動きで、香澄に抱きついていた。
「痛い! この畜生!」
「よかった、本当によかった。無事で」
カヲリが鼻水を垂らして頬ずりすると、香澄は辟易したように身をよじった。
「何なのよ、一体。離して」
「離しませんから、もう」
「君、そういう趣味なの? 気持ちはありがたいけれど、私にその気はない。うっとおしいから離れろ」
押し退けられてやっと香澄から離れたが、まだ名残惜しそうに目を潤めていた。
「はあ、頭痛がする。保健室で風邪をひくなんて本末転倒だわ」
「おぶりますか! おぶります」
「奉公心が芽生えて結構だけど、大丈夫? 保健医呼んできましょうか。そうしましょう」
しまいには呆れられたものの、カヲリは安堵から、座り込んでしまった。
香澄は頭痛を訴えたが、大事なさそうである。野球ボールが部屋に落ちていたし、ガラスが内側に散っていたため、追及は和やかに済んだ。
カヲリから話を聞き終えた香澄は、お昼を食べに教室に戻った。その背中を保健室前で目に焼き付ける
「ねえ、ハクア。私、支配者と戦おうと思う」
「藪から棒に何です? 前に言いましたよね、荒事はキャストの役目ですよ」
戦いに巻き込まないようにしているのは、カヲリが足手まといになるからだろう。そもそもカヲリが戦わなければならない理由などこれまでそうなかった。
「あの攻撃は無差別だったわ。私だけならともかく、無関係の人を巻き込むなんて許せない。とっちめてやる」
体温が急激に上がって代謝が活発になったためか赤い顔をしているが、それだけではない。義憤にも似た気持ちに燃えている。
「ま、勝手にするといいですぅ。吾輩、お前がどこでくたばろうと、どーでもいいですし」
「へっ?」
てっきりハクアが拒絶するか、渋々賛成してくれると思っていたため、面食らう。
「吾輩の今のゲストは、螺々です。螺々が死ななければひとまず活動できますし。念のため保健室を調べますから、お前と虎は、せっちんと合流して、事情を話してください。灰村とかいう女は、螺々に見張らせましょう。さ、解散」
ドライに指示を出し手を叩いたハクアは保健室に入り、戸を閉めた。
カヲリは、やるせない思いから口をへの字にした。ここ数日寝食を共にして、連帯感が勝手に芽生えていたと錯覚していたのだろうか。あまりに人を食った態度だ。
「いつからあんな生意気言うようになったですかねぇ。全く誰に似たんだか」
室内のハクアは、憎まれ口を叩きつつも、その目の奥は笑っていた。
カヲリと虎は、そんな不器用な愛想を知る由もなく廊下を歩きだした。
虎は大人しく、カヲリの脇を歩いている。鎖の誘導は必要なかったし、歩調も合わせてくれた。
それでも、カヲリは未だこの虎に馴れずにいた。鳴き声を発すれば、存在と時間を奪う能力を持つこの虎を警戒するのは当然だ。
自分から生まれたものとはいえ、偏見は拭えない。
「苦しそう。外しても大丈夫かな、口輪」
それでも、少しばかり距離は縮まった気でいた。先ほど、不覚を取った時、虎は励ますように身を寄せていたし、毛皮の体温でかなり楽になったのだ。
その礼も込め、不用意に虎の口輪に手をかけた。
「でも、この口輪、ダイヤル式の鍵つきだわ。用心深いなあ」
恐らくせっちんが作製したのだろう。鋼鉄製で非常に頑丈だ。
現状、どうすることもできないため後でせっちんと相談することにした。
前を向くと、廊下の曲がり角に一瞬だけ影が走ったのが、捉えられた。
虎と頷き合う。前進。
虎が真っ先に曲がり角に消える。獣の所作は足音を消すのに長けている。
「ヤバーい!」
どういうわけか曲がり角の先から、軽薄そうな女子の悲鳴が聞こえてきた。
カヲリは用心深く一端、立ち止まる。顔半分だけ出して、曲がり角をのぞき込んだ。
虎が仰向けで倒れている。攻撃を受けたわけではなく、自発的に手足を曲げて腹を見せているようだ。つまり服従の姿勢を取っている。
一人の女子生徒が、虎の腹を白い素足で撫でていた。土踏まずの部分で、あやすような動きが官能的だ。虎は気持ちよさそうに寝そべっている。
カヲリは身を乗り出し、その女子生徒を正面から見据えた。
女子生徒は、すらりとした美脚をセーラー服のスカートから伸ばし、腕には選挙委員と書かれた腕章をつけている。アフロディーテの理想を具象化したような整った目鼻立ち、赤みがかった髪をシュシュでポニーテールにしていた。
彼女に見覚えがあったが、すぐには思い出せなかった。
「全くこの子は! 女の子にすぐ尻尾振るんだから。こっちおいで」
嫌がる虎の鎖を無理矢理引き、自分の側に連れ戻す。
「動物は素直で可愛いな。あたし結構好きだぜ、動物」
少女が人懐い笑みを浮かべた。
「はあ……、えっ?」
カヲリは、とっさに身構える。虎は普通の人間には見えない。彼女の正体に思い至った。
「貴女……、ニーナね」
「ああん? 気安く呼んでんじゃねえよ。潰すぞ」
中指を立てて、カヲリを威嚇する。食ってかからんばかりの勢いは相変わらずだが、今日は負けていられない。
「どうしてうちの制服着てるの。盗んだの?」
「そんなしけた真似するかよ。支配者の予備の制服借りたんだ。胸の辺りが、ちっときついけどな」
採寸が合わないのか、セーラー服の裾から可愛い臍が垣間見えた。
「ちょうどよかった。貴女に聞きたいことがあったから」
カヲリは拳を突き出し、ニーナの鼻先に突きつける。柔らかそうな前髪が、風圧で揺れた。
「良い拳だ。踏み込みも迷いがねえ。素人の顔面なら余裕で潰せんな」
ニーナはカヲリの脅しにビクともしない。賞賛する余裕すらある。
「だが所詮お前も素人。あたしの敵じゃねえ」
カヲリは突如不吉な予感を抱き、ニーナから大きく飛びのいた。
「あはは、いいねえ。勘も良くなったじゃん」
少しばかり強くなってようやく分かる。到底叶わぬ相手だ。対峙して確信が深められた。毛穴から汗が吹き出る。この場を凌ぐ方法がわからなくなってしまった。
「おーい、聞こえてる?」
「えっ?」
意外なことにニーナは襲ってこない。無防備に片足を上げて靴下を履いている。
「勘違いすんなよ、あたしは別に戦いに来たわけじゃねえし」
「じゃあ一体」
「お前、あれと会っただろ?」
カヲリは疑問符を浮かべる。あるいは考えるふりをした。
「いくらあたしが馬鹿でも、お前の考えることくらい手に取るようにわかるぜ。隠してもムーダ」
徒に時を稼いでも、逆効果だ。腹を決めた。
「あの現象はキャストによるものなの?」
「そ。あれは支配者から生まれたものの一端だ」
「どうして私を攻撃したの、貴女の姉は」
ニーナが目をつり上げると、烈火のような殺気がほどばしった。寝そべっていた虎が即座にはね起き、歯を剥き出し、うなり声を放つ。
「あんなくだらない奴とナノを一緒にするな。殺すぞ」
カヲリは冷や汗を浮かべたものの、好機の感触を得た。このニーナという娘、真正面から戦えば厄介だが反面直情的で、訊いたことがすぐさま跳ね返ってくる。
隠し事の得意なせっちんや、ハクアよりよっぽど与しやすい。
「……、ごめんなさい。必死だったから
。勘違いは謝るわ」
「ふん」
ニーナの溜飲が下がったのを見計らい、訊ねる。
「ハクアは心当たりがないって言ってたけど、貴女は詳しいみたいね」
「お前ももう出会ってんだろ。遭遇っていう方が正しいのかもな。あれは自然災害みたいなもんだ」
腑に落ちない。本当に同じ情報を共有しているのか疑わしくなる。
「あれに意志や目的はないのさ。だから、逃げろ」
謎かけのようなニーナの言葉に、苛立ちすら覚えた。
「敵の正体もわからないのに、逃げろも何もないんだけど」
ニーナは大儀そうに頭を振った。
「お前さあ、台風とか地震に立ち向かったりすんの? 逃げるしかねえじゃん」
先程遭遇したのは、キャストというより、全く未知の存在なのかもしれない。混迷がより深まるだけだった。
「忠告してくれるんだ、親切だね。でも貴女のこと、それほど信用できない」
ニーナはつかつかカヲリの前に歩み寄り、髪を乱暴に掴み上げた。油断し切っており悲鳴も上げられない。
「わかんねえ奴だな。お前を殺すのは、このあたしが直々にやるんだ。他の奴らにはぜってえ渡さねえ。それまで殺されるんじゃねえぞ」
カヲリは突き飛ばされ、五メートルほど、廊下の端まで転がった。かすむ景色の向こうに、ニーナの後ろ姿が遠ざかっていく。
「ああ、めんどくせえ。腹減った。支配者の所に戻ろっと♪」
カヲリは意識がはっきりしてきても、冷たい廊下に横たわっていた。
虎が、心配そうに湿った鼻を寄せてきたので、撫でてやった。
「大丈夫、怪我はないわ。それより」
ある恐るべき事実に気づいてしまった。
「支配者は、この学校にいる。それも女子生徒の中に……」




