Vent1
「先生さよならー」
スカートのひだを翻し、走り去る女子生徒の後ろ姿を、伊藤嘉一郎は眩しそうに目で追っていた。
彼は短いスカートが好みではない。ふくらはぎが隠れているのはmustである。膝から下にかかり過ぎるのは趣がない。膝の中程が丁度良い。筋肉と骨の動きを感じるからだ。足の動きと、スカートの動きが連結する様が、まるで蒸気機関の運動のような機能美に通じるのである。
制服のスカートは丈で個性が現れるため、それを観察するのは、飽くなき楽しみだった。
「青春ですなあ」
伊藤の隣に立ったスーツ姿の中年男性は、さも感慨深そうに呟いた。彼は寺田幸彦の父親だ。既知ではなかったものの、廊下を歩きがてら打ち解けた。
「彼らは、大人が踏み込めない世界を持っています。それは開かれた世界ではありませんが、尊重すべきだと思いますね」
伊藤の控えめな意見に幸彦父は、不承不承頷いた。
「おっしゃることはわかるんですがね。つい口を出してしまうんですよ。失礼ですが、先生、ご結婚は?」
伊藤が未婚だと伝えると、意外そうな顔をされた。
「それだけルックス良かったら、女の方が放っておかないでしょう? 下世話な話、女子生徒にも人気がおありのようだが」
「気のせいですよ。彼女たちの腹の底は僕にもわかりません」
その時すれ違った女子生徒が手を振ってきたので、条件反射で振り返す。
「先生は、尊重されてるんですな、子供の領分という奴を。でも親はそうも言ってられません。言いたくないことも言わなくちゃならない時もある」
飄々としていた父の顔に年齢相応の、厳しさが顕れた。
「僕も、後悔することがありますよ。過去を振り返り、行動すべきだったと時折、考えるのです」
窓の外の眼下では、おさげに、四角い帽子を被った女の子が、鎖でつないだ虎に引きずられている。父親の目には映らない閉じた世界の住人たちだ。
「それで、婚約者を失いましたから」
突然の告白に、凍り付かないものはいなかった。
父はばつが悪そうに笑った。伊藤もまた笑みを浮かべ、窓から目を離す。
「話は変わりますが、駐車場のポルシェは先生のものですか」
「ええ」
「あ、やっぱり。先生に似合うと思いました」
「同僚からは、あまりよく思われていないようです」
「そんなの気にしてちゃ駄目ですよ。時計と車にこだわらない男を俺は信用しませんね」
父は胸を張る。男の虚栄、馬鹿馬鹿しいものだが伊藤も同感だった。
「光栄です。寺田君のことはお任せください。それとなく家に帰るように促します。彼は聡い子ですから、いつかお父上の考えを理解する時が来るでしょう」
父は照れくさそうに鼻を動かした。
「随分、愚息を買ってらっしゃるようで、恐縮だなあ」
「僕は彼が羨ましいのです。いえ、彼だけでなく生徒全般に言えることですが、まばゆい光を放つ鏡を持っている」
「鏡、ですか」
父は怪訝そうに眉をひそめた。
「放たれる光をまっすぐに跳ね返す。彼らの姿は僕ら大人のうつしみなのですよ」
父は沈黙したままだった。さかしい若造だと鼻を明かす機会を狙っているのかもしれない。
「美しく曇りのない鏡を僕は生涯愛しましょう。僕が僕自身であるために」
伊藤が口を閉じると、父は吹き出していた。
「いや、失礼。そんな気障な台詞、俺が言ったら、へそで茶をわかすことになりかねませんな。先生だったら許されるかもしれんが」
父はからかうような笑い声を立て、先を歩いた。
伊藤は窓ガラスに人差し指を押し当てる。蜘蛛の巣状に亀裂が広がる。映り込んだ自分を破滅させる暗い悦楽に身悶えした。
「鏡は壊れる瞬間がもっとも美しい。そうは思いませんか、支配者」
(2~)
灰村香澄は、夜道を闊歩していた。制服姿で、手にはビニール袋を提げている。
予備校には行かず、学校から直帰するルートだ。
香澄の暮らすマンションは、高校から数キロしか離れていない。
実家は東北で旅館を営んでいる。香澄が、関東の高校に通うため、一人暮らしを始めて三年が経とうとしていた。
それはゆくゆくは関東の国立大学進学を見越してのことだが、実家の息苦しさに辟易して飛び出したというのが、実状だった。受験に失敗すれば実家に連れ戻される。浪人は許されない。かかるプレッシャーは、他の生徒の預かり知らぬ苦しみ。
「ただいま」
ワンルームマンションの鍵のかかっていないドアを開け、香澄は小さく口を開いた。
すぐさま応じる声がある。
「おかえりなさい。ご飯にしますか、お風呂にしますか」
狭い室内のため、キッチンは目と鼻の先だ。学制服の少年が煮えたぎる鍋に目を落としている。
「新婚みたいにしないで。気持ち悪い」
香澄は顔をしかめて小テーブルにビニール袋を置き、制服を脱ぎかけた。ちらと、少年を盗み見る。彼は見向きもせず鍋の相手をしていた。
「ちょっと、何、人の食材使ってるのよ」
香澄は上半身だけ制服を脱いで、少年につま先立ちで近寄る。
「ご心配なく、僕の自腹ですから。今夜はモツ鍋にしましたよ」
香澄の控えめに主張するバストや、やさしい肩は見向きもされない。侮辱に等しい扱いだ。
「風邪ひきますから、着替えたらどうです」
香澄はかっとなって、目を釣り上げた。
「わかってるわよ! 見ないでよ、何考えてるのよ……」
ぷりぷりしながらルームウェアに着替えた。一つだけあるベッドに脱ぎ散らかして置いた制服を、注意される。
「皺になるからハンガーにかけてくださいよ」
「うるさい……、そうする」
素直に従いながら、話かける。
「寺田、バイトは?」
「休みました。気分が優れません」
制服を片づけ終わった香澄はビニール袋を漁り出した。
「奇遇ね。私も今日、嫌なことがあったからまっすぐ帰ってきたの」
香澄は、学校で感情的になり、カヲリに紅茶をかけたことを悔いていた。打ち明ける気はなかったが、幸彦がいることで肩の荷が下りる。
幸彦と香澄が同棲を始めたのは、半年ほど前からだ。
家事一切が不能だった香澄が、ゴミ屋敷状態だった部屋の相談をしたことがきっかけで、マンションに招くようになった。どうせなら住まわせて、家事と身の回りの世話をさせることにした。幸彦は、父親と顔を合わせたくなかったため、好都合だった。食費は折半で、家賃、水道高熱費は香澄が出している。
「いるとは思わなかったから、プリン一つしか買わなかった。あげないわよ」
「別にいりません。お一人でどうぞ」
つれなくされると、香澄の瞳が燃えた。
「半分あげる。ほら、寺田」
幸彦は、嫌そうに身を引いたが、結局折れてプリンを受け取る。
普段から幸彦は口数が少ないが、この日は輪をかけていた。頼みごとをするのにも、いちいち、ちょっかいをかけなければならなかった。
その後、日常の雑事に追われていると、すぐ就寝時間になった。二人でいる時は、十一時消灯だ。
「手、握っててくれる?」
ベッドの上で、香澄が囁いた。
幸彦はベッドの下の床に布団を敷いて寝ていた。暗闇で探るように手を伸ばす。
香澄ももどかしそうに手を伸ばしている。
指が触れ合うと、離れないようにお互いの手をしっかりと握りしめた。
「未来と別れたんですって?」
「はい」
カヲリが香澄を挑発したことで、既に事実は知れていた。
「私のせい?」
「いいえ」
即答に、思わず笑みがこぼれる香澄。
「そうでしょうね。君はそういう男よね」
「すみません」
「謝るな。それに君と私は何にもない。ただの同居人よね。何があるっていうの?」
淡い期待を込めて、次の言葉を待った。
「灰村先輩には、ご迷惑をかけていると思います。僕のわがままのせいで」
「……、そうね! 君と私の関係はこれからもずっと変わらないわ。ずっとね」
手をふりほどき、香澄は頭から布団をかぶった。
(3~)
来栖未来が、卓球部屋に来る時は、二通りの状況に限られる。
一つは、ストレスが臨界を超えて、体を動かしたくなった時。適当な知り合いを呼んで卓球に興じる。香澄も時折動員されて辟易していた。
二つ目は、幸彦を呼んで密通する時だ。
その機会は永久に失われてしまった。
だが、未来は胸のすく思いがしていた。不思議なことに、幸彦と会う時の不安定な心はなりをひそめている。
幸彦の顔色ばかりをうかがっていたし、肉体のつながりも惰性で続けていたのだ。楽になって当然だ。
一九九九年十二月十五日水曜日
重荷が去ったにもかかわらず、未来は早朝、卓球部屋で座り込み涙を止められずにいた。
「すっきりしたはずなのに、なんでこんなに苦しいの……」
幸彦の顔が今すぐ見たい。嘘でもいいから愛していると言って欲しい。彼の気をひくためなら何だってして見せる。お金はいらない。幸彦の望むようにこれまでしてきた。無理はしていないし、身なりもこぎれいにしている。何が不満なのか。こんなにも愛しているのに。来栖未来は寺田幸彦を愛している。嘘ではなく心根から彼に精神を捧げている。死ねと言われたら、今なら死ねる。陽菜さえ、いなければ、幸彦と出会わなければ、陽菜がこの世にいなければ……。
その時、卓球部屋のドアが素早く開かれた。未来はとっさに笑顔を作り、振り返る。
「ゆーくん!? 来てくれたんだ。待ってたよ……」
笑顔のまま、未来は凍り付く。
カヲリ=ムシューダが困惑した様子で佇んでいた。
「すみません、私」
未来は涙を袖で軽く拭い、機敏な動作で立ち上がると、カヲリに近寄った。
「ごめん、勘違いしてた。入って」
気を遣わせないように、未来は普段通りのサバサバした先輩の顔に戻る。
「早いな、カヲリ。どうしたんだ?」
「ちょっとした私用がありまして。早くについたんですけど、来栖先輩の背中が見えたから」
抜けているようでこの後輩は油断ならないと、未来は知っている。幸彦との関係もどこまで掴んでいるのか。
「なあ、お前、あのこと、誰にも言ってないよな」
カヲリは一度目をそらして、視線を戻す。
「言ってません」
油断はならないが、信用には足りる。未来はカヲリに対する警戒を下げた。
「やっぱり、バレたらいけない相手なんですか」
「まあ、な。でももういいんだ」
未来の弱気な姿は、カヲリの関心を引いた。
「エトワールだからとか気にしちゃ駄目ですよ。好きになったら、とことん!」
お前に何がわかる。
「私も最近、失恋したんですけど」
お前の幼稚なオママゴトとは違うんだ。十年越しなんだ。
「来栖先輩みたいな美人ならどんな相手でも」
こういう時何て言えばいいんだっけ。同情するなら銭寄越せだっけ。違う。お前なんかお前なんか、
「……、ムカつく」
カヲリの口から小さな悲鳴が漏れた。
未来は突然我に返り、問いただす。
「あれ? あたし、今何て言った?」
カヲリは返事を渋った。ひきつった顔で、言い逃れようとした。
「ちょっと何だよ、言えって。気になるだろ」
カヲリが困惑するのが、不可解でしつこく言い寄ると、間々あって返答があった。
「し、しゃちほこ……」
何の冗談かと思ったが、どうせ大したことも言っていなかったのだろう。鯱張るカヲリを困らせるのをやめた。
「あたしのことはもういいから。そろそろチャイム鳴るぞ」
カヲリはふかぶかと礼をして、部屋を後にした。
未来はカヲリの足音が遠のくと、卓球台に拳を叩きつけた。何度も何度も。拳が裂けるまで。
(4~)
家庭科室では、エプロンをした生徒が各々、準備に追われている。家庭科の調理実習の真っ最中だ。
カヲリもまた、制服の上にチェックのエプロンをして、ジャガイモを握っていた。
「カヲリン、カヲリン、ウチ何すればいいの?」
同じ班のマイが呼びかけるが、カヲリはあらぬ方向に目をやっている。見かねたアイコが、脇からニンジンを剥くように促すと、マイは舌を出してこう言った。
「ウチ、包丁苦手なんだよね。ぶきっちょ」
「お前の事情なんか知るか。評価につながるんだよ。連帯責任! わかってんの!?」
荒々しくアイコはマイを説得した。推薦でも狙ってるのだろうか。
陽菜はというと、ピーラーでタマネギを皮を剥こうとしていた。
「あー! 陽菜ー、タマネギの皮は手で剥くんだよ。知らねえの」
「うっせえな。私、育ちがいいから箸より重いもの持ったことないんです! あんたやって、パス。幸彦君の班で遊んでくるわ」
放り投げたタマネギが弧を描いて、カヲリの背中を直撃した。陽菜は混雑する室内を、ものともせず幸彦のいるテーブルに近づいていった。
「ムシューダ、あんたも突っ立ってないでなんかやってよ。お願いだから。カレーくらい作ったことあるでしょ」
アイコが泣きそうな声で懇願すると、カヲリが驚いた顔で振り向いた。
「え? 何か言った? アイコちゃん」
上の空のカヲリを、アイコはそれ以上、相手にしなかった。肩をやさしく叩いて、自分の持ち場に戻る。
マイは落ちたタマネギを拾って、もくもくと皮を剥き始めた。
カヲリも気を取り直し、ジャガイモの皮を包丁で剥いた。家で頻繁に料理をするため、包丁の扱いは慣れている。皮が一条の糸のようにみるみる垂れ下がってくる。
「見て見て! 幸彦君」
場違いなほど興奮した声で騒いでいるのは、陽菜だ。幸彦の班の他のメンバーは明らかに煙たそうに作業をしている。
「すごいでしょ! タマネギの皮剥けたんだよ」
自慢するほどの偉業でもないのだが、陽菜は幸彦に褒めてもらいたくてたまらないらしい。
幸彦は適当に受け答えをしながら、野菜を手際よく切っている。
「西野はやればできるね。じゃあ包丁は使える?」
陽菜はたまねぎをわざと顔に近づけ、涙目になる。
「やだー、こわーい。それは無理」
稚拙な二人のやり取りをやっかむ心の余裕がないほど、カヲリは憔悴していた。手元の注意もおざなりだった。
「ちょっと、ムシューダ! 手!」
アイコが甲高い声を上げるまで、カヲリは自分の異変に気づかなかった。まな板が血に染まっている。自身の指を包丁で傷つけていたと悟り、蒼白になった。悪寒が痛みに変わる。
「カヲリン、落ち着いて。指縛るね」
マイがハンカチで血を止めてくれた。手当の心得があるのか、迷いがない。
「ありがと、マイちゃん」
「傷残るといけないから、保健室行ってきていいよ。多分大したことないと思うけど」
「ここは、あたしとマイに任せて」
アイコにも迷惑をかけてしまい、カヲリは申し訳ない気持ちで一杯だ。
人員補充のためにマイは素早く陽菜の背後に忍びより、羽交い締めにした。
「な、何してんのよ! マイ」
「新妻ごっこは終わりよ、陽菜ちゃん。こっちでカレーを作りましょ」
マイが耳もとで囁くと、反抗的だった陽菜は死んだようにうなだれておとなしくなった。
カヲリが去り際、マイに何と言ったか訊ねると、
「陽菜ちゃんって、タマネギとジャガイモの区別つかないの。超お嬢様で、包丁握らせてもらえなかったんだって。でも可哀想だよね、好きな彼に料理を作って上げられないんなんて。だから言ったの、カレーの作り方教えてあげるって」
陽菜の精一杯の頑張りは、タマネギの皮を剥くことだけだった。それでも幸彦によく思われたいという、いじらしい一面だったのだ。
「あれ? マイちゃん、さっきカレーの段取り知らないって言ってなかった?」
マイは指を振り、疑問に答える。
「ちっちっち、ウチだって乙女ですよ、カヲリン。料理の一つや二つ、知ってるつーの」
このしたたかな娘のことは、一生わからない気がする。
保健室は校舎の一階にある。カヲリは転校してから入ったことがない。気後れしそうだったが、出血が収まる気配がない。処置してもらった方がよさそうだ。
「……、失礼しまーす」
保健室には保健医の姿はなかった。どこの学校にもある健康キャンペーンのポスターや、体重計、薬品のある棚、清潔そうなシーツのに一応安堵する。
カヲリは絆創膏を探して、薬箱を漁った。ほどなくして目当てのものを見つける。
ベッドを囲むカーテンが、カヲリの背後で勢いよく開いた。
「何だ、君か」
ベッドから落胆した声を発したのは、灰村香澄だった。顔色が優れない。
「灰村先輩も、ですか」
「も、って何よ。君と一緒にしないでくれる?」
香澄は枕元にあった文庫本を黙読し始めた。余計な詮索をするなと釘を刺されたようだ。
今から一時間ほど前、十時半頃だっただろうか。
カヲリは不思議な状況を目撃した。
廊下で、未来と、香澄が向かい合っていた。
未来が片腕を伸ばし、香澄の頬に近づける。香澄は背筋を伸ばして立っている。
突如勢いを増した未来の手の平が、香澄の頬を打った。皮膚が衝撃に反発する激しい音が鳴り、香澄は膝を折った。
「ごめん、香澄、ごめん」
未来は戸惑ったような声で、何度も謝罪した。香澄は目を見開き、打たれた頬を押さえていた。
カヲリは場の緊張に耐えきれず、逃げ出した。
香澄が保健室で伏せっているのも、あれが原因ではないか。
「誰にでも、虫の居所が悪い日があるわ」
香澄が本から目を上げずに言った。
「でも」
「未来に怒るななんて、ひどいことは言わないで。お願い」
カヲリには、為す術もない。たとえ違和感があったとしても、当事者ではないのだ。
「それに、私は少し嬉しい。未来があんな乱暴を働ける子なんて思わなかったから。新しい視野が開けた感じよ」
明るい表情が何よりの救いだ。香澄が未来の友人でよかった。取り返しのつかない事態は、回避された。カヲリの杞憂だったのかもしれない。
香澄は、あくびをかみ殺した。
「何だか、君と話していたら眠くなってきたわ」
「あ、じゃあ私はこのへんで」
「何言ってるの。番をしてなさいよ、襲われたらどうするの」
カヲリは苦笑して承った。この学校に、女王の寝首をかこう者などいるはずもない。
ベッドカーテンを閉め、保健医が来るまで座って待つことにした。
「そういえば」
調理実習を抜けてきたことを思い出した。カレーは完成しただろうか。陽菜が怪我をしていないか心配だ。
「灰村先輩、カレーはお好きですか?」
「……」
返事はないが、カヲリは独り言のように続ける。
「うちでは、スパイスから作るんです。父が作ってくれたんですけど、それが本当においしくて……、ご飯、三合、一人で食べちゃったな。お父さんのカレーが食べたい」
トルコにいる父は元気だろうか。もしや自分のことを忘れている頃合いかもしれない。手紙を書こう。ちょうどメモ帳が置かれているので、カヲリはしたため始めた。
筆が意図せず乱れる。ペンを握った手が震えていた。
「ん? 寒いな。窓が開いてるのかな」
ひとまずペンを置き、窓辺に寄った。わずかばかり隙間が開いている。しっかりと閉め、鍵をかける。
「これでよし」
香澄のベッドから、物が落ちる音がした。カーテンの仕切りの下、床に伏せた状態の本が落ちているのが見えた。
「先輩? もう寝ちゃってます?」
時計の針が規則正しい音を立てる。
カヲリは、カーテンの隙間に首を突っ込んだ。
鼻先に冷気が刺さる。窓は閉めたはずだが、部屋の気温は上がっていない。
「っ……!?」
カヲリは目を疑った。
香澄は目を堅く閉じ、ベッドに仰向けになっている。彼女の顔色は白粉をはたいたように、なめらかだった。
「きれい、だけど……」
香澄の肌に触れる寸前で、手をひっこめる。体温が感じられない。
「な、なんか、冷たい、まさか……、死」
カヲリは手で口を覆った。あり得ない。先ほどまで話していた人間が、無機物のように物言わなくなるなど信じがたかった。
慎重に、香澄の口に耳を寄せる。息もしていない。その際気づいたことがある。香澄のまつげに、霜がついていた。
カヲリは床に尻餅をついた。肩を上下させ、白い息をはく。
「病気、だったのかな、先輩」
病気のせいで体調が優れなかったのかもしれない。まだ助かる可能性はある。人を呼ばなければと気持ちが焦った。
「床、冷たい……、何でこんなに寒いの」
歯をがちがち言わせて、床を這った。香澄の異常に動揺していたのもあるが、それ以上に、普段では考えられない程、体の動きがぎこちない。まるで、体内から燃料である熱が奪われていくように体が固まっていく。
「おかしい……、いくら冬場だからって、こんなに寒いなんて、あり得ない」
怪我をした左手に目をこらした。絆創膏を剥がそうとしたが、くっついて剥がれない。
「外に、出ないと、人を呼ばないと。先輩を助けないと」
カーテンの下をくぐる。窓には結露ができていた。結露は、低温の窓ガラスに、水滴がつく現象だ。つまり、この部屋は間違いなく低温状態にあるのだ。
「まさか、キャストの能力じゃ」
この学校に現れる人知を超えた力を持つキャストたちなら、この異常事態を引き起こすことも可能だ。
真っ先に思い浮かんだニーナは、炎を操っていた。恐らく今回は関係ない。
憤怒のキャストは蒸気を出していた。やはり無関係に思える。既に消滅していることからみても、考えなくてよさそうだ。
ハクア、せっちんも、香澄を狙う理由がない。虎の能力とも違うようだ。
残りはナノというニーナの双子の姉だ。ニーナが炎なら、ナノは氷というのは安直だが、今現在、一番可能性が高い。
推察は後回しだ。今はこの保健室を生きて出ることに専念しなければ。
数メートルの距離を進むのに、かなりの時間を要した。いつしかカヲリのまつげにも、香澄と同じような霜ができていた。
やっとの思いで、ドアに手をかけ、力を込める。
「あ、開かない、そんな」
ドアの隙間が凍り付いているのか、動かなくなっている。
カヲリの膝は折れ、ドアに向かって、頭から倒れた。間接に力が入らない。無理に込めれば、折れそうな気配だ。
「まず、い、このままじゃ……」
カヲリは残った力を総動員し、スカートのポケットを漁る。金属の冷たさに、わずかに意識が覚醒する。
カヲリが取り出したのは、銀製の三センチ大の筒状の物体だ。
それは、せっちんに渡された犬笛で、もしもの時に吹けば必ず駆けつけると言われていた。
口元に犬笛を近づけたが、一息が吐けない。笛を鳴らすには、弱々しい吐息がもれた。やがて、笛が音を立てて、床に落ちる。
カヲリの目は既に閉じられており、指は笛を握ったまま固まっている。
目の縁にたまった涙が、一瞬で凍り付き、床を濡らす機会すら与えられなかった。




