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せっちん!  作者: 濱野乱
空蝉編
47/97

Vent1

「先生さよならー」

スカートのひだを翻し、走り去る女子生徒の後ろ姿を、伊藤嘉一郎は眩しそうに目で追っていた。

彼は短いスカートが好みではない。ふくらはぎが隠れているのはmustである。膝から下にかかり過ぎるのは趣がない。膝の中程が丁度良い。筋肉と骨の動きを感じるからだ。足の動きと、スカートの動きが連結する様が、まるで蒸気機関の運動のような機能美に通じるのである。

制服のスカートは丈で個性が現れるため、それを観察するのは、飽くなき楽しみだった。

「青春ですなあ」

伊藤の隣に立ったスーツ姿の中年男性は、さも感慨深そうに呟いた。彼は寺田幸彦の父親だ。既知ではなかったものの、廊下を歩きがてら打ち解けた。

「彼らは、大人が踏み込めない世界を持っています。それは開かれた世界ではありませんが、尊重すべきだと思いますね」

伊藤の控えめな意見に幸彦父は、不承不承頷いた。 

「おっしゃることはわかるんですがね。つい口を出してしまうんですよ。失礼ですが、先生、ご結婚は?」

伊藤が未婚だと伝えると、意外そうな顔をされた。

「それだけルックス良かったら、女の方が放っておかないでしょう? 下世話な話、女子生徒にも人気がおありのようだが」

「気のせいですよ。彼女たちの腹の底は僕にもわかりません」

その時すれ違った女子生徒が手を振ってきたので、条件反射で振り返す。

「先生は、尊重されてるんですな、子供の領分という奴を。でも親はそうも言ってられません。言いたくないことも言わなくちゃならない時もある」

飄々としていた父の顔に年齢相応の、厳しさが顕れた。

「僕も、後悔することがありますよ。過去を振り返り、行動すべきだったと時折、考えるのです」

窓の外の眼下では、おさげに、四角い帽子を被った女の子が、鎖でつないだ虎に引きずられている。父親の目には映らない閉じた世界の住人たちだ。

「それで、婚約者を失いましたから」

突然の告白に、凍り付かないものはいなかった。

父はばつが悪そうに笑った。伊藤もまた笑みを浮かべ、窓から目を離す。

「話は変わりますが、駐車場のポルシェは先生のものですか」 

「ええ」

「あ、やっぱり。先生に似合うと思いました」

「同僚からは、あまりよく思われていないようです」

「そんなの気にしてちゃ駄目ですよ。時計と車にこだわらない男を俺は信用しませんね」

父は胸を張る。男の虚栄、馬鹿馬鹿しいものだが伊藤も同感だった。

「光栄です。寺田君のことはお任せください。それとなく家に帰るように促します。彼は聡い子ですから、いつかお父上の考えを理解する時が来るでしょう」

父は照れくさそうに鼻を動かした。

「随分、愚息を買ってらっしゃるようで、恐縮だなあ」

「僕は彼が羨ましいのです。いえ、彼だけでなく生徒全般に言えることですが、まばゆい光を放つ鏡を持っている」

「鏡、ですか」

父は怪訝そうに眉をひそめた。

「放たれる光をまっすぐに跳ね返す。彼らの姿は僕ら大人のうつしみなのですよ」

父は沈黙したままだった。さかしい若造だと鼻を明かす機会を狙っているのかもしれない。

「美しく曇りのない鏡を僕は生涯愛しましょう。僕が僕自身であるために」 

伊藤が口を閉じると、父は吹き出していた。

「いや、失礼。そんな気障な台詞、俺が言ったら、へそで茶をわかすことになりかねませんな。先生だったら許されるかもしれんが」

父はからかうような笑い声を立て、先を歩いた。

伊藤は窓ガラスに人差し指を押し当てる。蜘蛛の巣状に亀裂が広がる。映り込んだ自分を破滅させる暗い悦楽に身悶えした。

「鏡は壊れる瞬間がもっとも美しい。そうは思いませんか、支配者ルーラー

 

 (2~)


灰村香澄は、夜道を闊歩していた。制服姿で、手にはビニール袋を提げている。

予備校には行かず、学校から直帰するルートだ。

香澄の暮らすマンションは、高校から数キロしか離れていない。

実家は東北で旅館を営んでいる。香澄が、関東の高校に通うため、一人暮らしを始めて三年が経とうとしていた。

それはゆくゆくは関東の国立大学進学を見越してのことだが、実家の息苦しさに辟易して飛び出したというのが、実状だった。受験に失敗すれば実家に連れ戻される。浪人は許されない。かかるプレッシャーは、他の生徒の預かり知らぬ苦しみ。

「ただいま」

ワンルームマンションの鍵のかかっていないドアを開け、香澄は小さく口を開いた。

すぐさま応じる声がある。

「おかえりなさい。ご飯にしますか、お風呂にしますか」

狭い室内のため、キッチンは目と鼻の先だ。学制服の少年が煮えたぎる鍋に目を落としている。

「新婚みたいにしないで。気持ち悪い」

香澄は顔をしかめて小テーブルにビニール袋を置き、制服を脱ぎかけた。ちらと、少年を盗み見る。彼は見向きもせず鍋の相手をしていた。

「ちょっと、何、人の食材使ってるのよ」

香澄は上半身だけ制服を脱いで、少年につま先立ちで近寄る。

「ご心配なく、僕の自腹ですから。今夜はモツ鍋にしましたよ」

香澄の控えめに主張するバストや、やさしい肩は見向きもされない。侮辱に等しい扱いだ。

「風邪ひきますから、着替えたらどうです」

香澄はかっとなって、目を釣り上げた。

「わかってるわよ! 見ないでよ、何考えてるのよ……」

ぷりぷりしながらルームウェアに着替えた。一つだけあるベッドに脱ぎ散らかして置いた制服を、注意される。

「皺になるからハンガーにかけてくださいよ」

「うるさい……、そうする」

素直に従いながら、話かける。

「寺田、バイトは?」

「休みました。気分が優れません」

制服を片づけ終わった香澄はビニール袋を漁り出した。

「奇遇ね。私も今日、嫌なことがあったからまっすぐ帰ってきたの」

香澄は、学校で感情的になり、カヲリに紅茶をかけたことを悔いていた。打ち明ける気はなかったが、幸彦がいることで肩の荷が下りる。

幸彦と香澄が同棲を始めたのは、半年ほど前からだ。

家事一切が不能だった香澄が、ゴミ屋敷状態だった部屋の相談をしたことがきっかけで、マンションに招くようになった。どうせなら住まわせて、家事と身の回りの世話をさせることにした。幸彦は、父親と顔を合わせたくなかったため、好都合だった。食費は折半で、家賃、水道高熱費は香澄が出している。

「いるとは思わなかったから、プリン一つしか買わなかった。あげないわよ」

「別にいりません。お一人でどうぞ」 

つれなくされると、香澄の瞳が燃えた。

「半分あげる。ほら、寺田」

幸彦は、嫌そうに身を引いたが、結局折れてプリンを受け取る。

普段から幸彦は口数が少ないが、この日は輪をかけていた。頼みごとをするのにも、いちいち、ちょっかいをかけなければならなかった。  

その後、日常の雑事に追われていると、すぐ就寝時間になった。二人でいる時は、十一時消灯だ。

「手、握っててくれる?」 

ベッドの上で、香澄が囁いた。

幸彦はベッドの下の床に布団を敷いて寝ていた。暗闇で探るように手を伸ばす。

香澄ももどかしそうに手を伸ばしている。

指が触れ合うと、離れないようにお互いの手をしっかりと握りしめた。

「未来と別れたんですって?」

「はい」

カヲリが香澄を挑発したことで、既に事実は知れていた。

「私のせい?」

「いいえ」

即答に、思わず笑みがこぼれる香澄。

「そうでしょうね。君はそういう男よね」

「すみません」

「謝るな。それに君と私は何にもない。ただの同居人よね。何があるっていうの?」

淡い期待を込めて、次の言葉を待った。

「灰村先輩には、ご迷惑をかけていると思います。僕のわがままのせいで」

「……、そうね! 君と私の関係はこれからもずっと変わらないわ。ずっとね」

手をふりほどき、香澄は頭から布団をかぶった。


 

  

 (3~)


来栖未来が、卓球部屋に来る時は、二通りの状況に限られる。

一つは、ストレスが臨界を超えて、体を動かしたくなった時。適当な知り合いを呼んで卓球に興じる。香澄も時折動員されて辟易していた。

二つ目は、幸彦を呼んで密通する時だ。

その機会は永久に失われてしまった。

だが、未来は胸のすく思いがしていた。不思議なことに、幸彦と会う時の不安定な心はなりをひそめている。

幸彦の顔色ばかりをうかがっていたし、肉体のつながりも惰性で続けていたのだ。楽になって当然だ。

一九九九年十二月十五日水曜日

重荷が去ったにもかかわらず、未来は早朝、卓球部屋で座り込み涙を止められずにいた。

「すっきりしたはずなのに、なんでこんなに苦しいの……」

幸彦の顔が今すぐ見たい。嘘でもいいから愛していると言って欲しい。彼の気をひくためなら何だってして見せる。お金はいらない。幸彦の望むようにこれまでしてきた。無理はしていないし、身なりもこぎれいにしている。何が不満なのか。こんなにも愛しているのに。来栖未来は寺田幸彦を愛している。嘘ではなく心根から彼に精神を捧げている。死ねと言われたら、今なら死ねる。陽菜さえ、いなければ、幸彦と出会わなければ、陽菜がこの世にいなければ……。

その時、卓球部屋のドアが素早く開かれた。未来はとっさに笑顔を作り、振り返る。

「ゆーくん!? 来てくれたんだ。待ってたよ……」

笑顔のまま、未来は凍り付く。

カヲリ=ムシューダが困惑した様子で佇んでいた。

「すみません、私」

未来は涙を袖で軽く拭い、機敏な動作で立ち上がると、カヲリに近寄った。

「ごめん、勘違いしてた。入って」

気を遣わせないように、未来は普段通りのサバサバした先輩の顔に戻る。

「早いな、カヲリ。どうしたんだ?」

「ちょっとした私用がありまして。早くについたんですけど、来栖先輩の背中が見えたから」

抜けているようでこの後輩は油断ならないと、未来は知っている。幸彦との関係もどこまで掴んでいるのか。

「なあ、お前、あのこと、誰にも言ってないよな」

カヲリは一度目をそらして、視線を戻す。

「言ってません」

油断はならないが、信用には足りる。未来はカヲリに対する警戒を下げた。

「やっぱり、バレたらいけない相手なんですか」

「まあ、な。でももういいんだ」

未来の弱気な姿は、カヲリの関心を引いた。


「エトワールだからとか気にしちゃ駄目ですよ。好きになったら、とことん!」

 

 お前に何がわかる。

 

「私も最近、失恋したんですけど」


お前の幼稚なオママゴトとは違うんだ。十年越しなんだ。

 

「来栖先輩みたいな美人ならどんな相手でも」


こういう時何て言えばいいんだっけ。同情するなら銭寄越せだっけ。違う。お前なんかお前なんか、


「……、ムカつく」

カヲリの口から小さな悲鳴が漏れた。

未来は突然我に返り、問いただす。

「あれ? あたし、今何て言った?」

カヲリは返事を渋った。ひきつった顔で、言い逃れようとした。

「ちょっと何だよ、言えって。気になるだろ」

カヲリが困惑するのが、不可解でしつこく言い寄ると、間々あって返答があった。

「し、しゃちほこ……」

何の冗談かと思ったが、どうせ大したことも言っていなかったのだろう。鯱張るカヲリを困らせるのをやめた。

「あたしのことはもういいから。そろそろチャイム鳴るぞ」

カヲリはふかぶかと礼をして、部屋を後にした。

未来はカヲリの足音が遠のくと、卓球台に拳を叩きつけた。何度も何度も。拳が裂けるまで。


 (4~)


家庭科室では、エプロンをした生徒が各々、準備に追われている。家庭科の調理実習の真っ最中だ。

カヲリもまた、制服の上にチェックのエプロンをして、ジャガイモを握っていた。

「カヲリン、カヲリン、ウチ何すればいいの?」

同じ班のマイが呼びかけるが、カヲリはあらぬ方向に目をやっている。見かねたアイコが、脇からニンジンを剥くように促すと、マイは舌を出してこう言った。

「ウチ、包丁苦手なんだよね。ぶきっちょ」

「お前の事情なんか知るか。評価につながるんだよ。連帯責任! わかってんの!?」

荒々しくアイコはマイを説得した。推薦でも狙ってるのだろうか。

陽菜はというと、ピーラーでタマネギを皮を剥こうとしていた。

「あー! 陽菜ー、タマネギの皮は手で剥くんだよ。知らねえの」

「うっせえな。私、育ちがいいから箸より重いもの持ったことないんです! あんたやって、パス。幸彦君の班で遊んでくるわ」

放り投げたタマネギが弧を描いて、カヲリの背中を直撃した。陽菜は混雑する室内を、ものともせず幸彦のいるテーブルに近づいていった。

「ムシューダ、あんたも突っ立ってないでなんかやってよ。お願いだから。カレーくらい作ったことあるでしょ」

アイコが泣きそうな声で懇願すると、カヲリが驚いた顔で振り向いた。

「え? 何か言った? アイコちゃん」

上の空のカヲリを、アイコはそれ以上、相手にしなかった。肩をやさしく叩いて、自分の持ち場に戻る。 

マイは落ちたタマネギを拾って、もくもくと皮を剥き始めた。 

カヲリも気を取り直し、ジャガイモの皮を包丁で剥いた。家で頻繁に料理をするため、包丁の扱いは慣れている。皮が一条の糸のようにみるみる垂れ下がってくる。

「見て見て! 幸彦君」

場違いなほど興奮した声で騒いでいるのは、陽菜だ。幸彦の班の他のメンバーは明らかに煙たそうに作業をしている。

「すごいでしょ! タマネギの皮剥けたんだよ」

自慢するほどの偉業でもないのだが、陽菜は幸彦に褒めてもらいたくてたまらないらしい。

幸彦は適当に受け答えをしながら、野菜を手際よく切っている。

「西野はやればできるね。じゃあ包丁は使える?」

陽菜はたまねぎをわざと顔に近づけ、涙目になる。

「やだー、こわーい。それは無理」

稚拙な二人のやり取りをやっかむ心の余裕がないほど、カヲリは憔悴していた。手元の注意もおざなりだった。

「ちょっと、ムシューダ! 手!」

アイコが甲高い声を上げるまで、カヲリは自分の異変に気づかなかった。まな板が血に染まっている。自身の指を包丁で傷つけていたと悟り、蒼白になった。悪寒が痛みに変わる。

「カヲリン、落ち着いて。指縛るね」

マイがハンカチで血を止めてくれた。手当の心得があるのか、迷いがない。

「ありがと、マイちゃん」

「傷残るといけないから、保健室行ってきていいよ。多分大したことないと思うけど」

「ここは、あたしとマイに任せて」

アイコにも迷惑をかけてしまい、カヲリは申し訳ない気持ちで一杯だ。

人員補充のためにマイは素早く陽菜の背後に忍びより、羽交い締めにした。

「な、何してんのよ! マイ」

「新妻ごっこは終わりよ、陽菜ちゃん。こっちでカレーを作りましょ」

マイが耳もとで囁くと、反抗的だった陽菜は死んだようにうなだれておとなしくなった。 

カヲリが去り際、マイに何と言ったか訊ねると、

「陽菜ちゃんって、タマネギとジャガイモの区別つかないの。超お嬢様で、包丁握らせてもらえなかったんだって。でも可哀想だよね、好きな彼に料理を作って上げられないんなんて。だから言ったの、カレーの作り方教えてあげるって」

陽菜の精一杯の頑張りは、タマネギの皮を剥くことだけだった。それでも幸彦によく思われたいという、いじらしい一面だったのだ。

「あれ? マイちゃん、さっきカレーの段取り知らないって言ってなかった?」

マイは指を振り、疑問に答える。

「ちっちっち、ウチだって乙女ですよ、カヲリン。料理の一つや二つ、知ってるつーの」

このしたたかな娘のことは、一生わからない気がする。

保健室は校舎の一階にある。カヲリは転校してから入ったことがない。気後れしそうだったが、出血が収まる気配がない。処置してもらった方がよさそうだ。

「……、失礼しまーす」

保健室には保健医の姿はなかった。どこの学校にもある健康キャンペーンのポスターや、体重計、薬品のある棚、清潔そうなシーツのに一応安堵する。

カヲリは絆創膏を探して、薬箱を漁った。ほどなくして目当てのものを見つける。

ベッドを囲むカーテンが、カヲリの背後で勢いよく開いた。

「何だ、君か」

ベッドから落胆した声を発したのは、灰村香澄だった。顔色が優れない。

「灰村先輩も、ですか」

「も、って何よ。君と一緒にしないでくれる?」

香澄は枕元にあった文庫本を黙読し始めた。余計な詮索をするなと釘を刺されたようだ。

今から一時間ほど前、十時半頃だっただろうか。

カヲリは不思議な状況を目撃した。 

廊下で、未来と、香澄が向かい合っていた。

未来が片腕を伸ばし、香澄の頬に近づける。香澄は背筋を伸ばして立っている。

突如勢いを増した未来の手の平が、香澄の頬を打った。皮膚が衝撃に反発する激しい音が鳴り、香澄は膝を折った。

「ごめん、香澄、ごめん」

未来は戸惑ったような声で、何度も謝罪した。香澄は目を見開き、打たれた頬を押さえていた。

カヲリは場の緊張に耐えきれず、逃げ出した。

香澄が保健室で伏せっているのも、あれが原因ではないか。

「誰にでも、虫の居所が悪い日があるわ」

香澄が本から目を上げずに言った。

「でも」

「未来に怒るななんて、ひどいことは言わないで。お願い」

カヲリには、為す術もない。たとえ違和感があったとしても、当事者ではないのだ。

「それに、私は少し嬉しい。未来があんな乱暴を働ける子なんて思わなかったから。新しい視野が開けた感じよ」

明るい表情が何よりの救いだ。香澄が未来の友人でよかった。取り返しのつかない事態は、回避された。カヲリの杞憂だったのかもしれない。

香澄は、あくびをかみ殺した。

「何だか、君と話していたら眠くなってきたわ」

「あ、じゃあ私はこのへんで」

「何言ってるの。番をしてなさいよ、襲われたらどうするの」

カヲリは苦笑して承った。この学校に、女王の寝首をかこう者などいるはずもない。

ベッドカーテンを閉め、保健医が来るまで座って待つことにした。

「そういえば」

調理実習を抜けてきたことを思い出した。カレーは完成しただろうか。陽菜が怪我をしていないか心配だ。

「灰村先輩、カレーはお好きですか?」

「……」

返事はないが、カヲリは独り言のように続ける。

「うちでは、スパイスから作るんです。父が作ってくれたんですけど、それが本当においしくて……、ご飯、三合、一人で食べちゃったな。お父さんのカレーが食べたい」

トルコにいる父は元気だろうか。もしや自分のことを忘れている頃合いかもしれない。手紙を書こう。ちょうどメモ帳が置かれているので、カヲリはしたため始めた。

筆が意図せず乱れる。ペンを握った手が震えていた。

「ん? 寒いな。窓が開いてるのかな」

ひとまずペンを置き、窓辺に寄った。わずかばかり隙間が開いている。しっかりと閉め、鍵をかける。

「これでよし」

香澄のベッドから、物が落ちる音がした。カーテンの仕切りの下、床に伏せた状態の本が落ちているのが見えた。

「先輩? もう寝ちゃってます?」

時計の針が規則正しい音を立てる。

カヲリは、カーテンの隙間に首を突っ込んだ。

鼻先に冷気が刺さる。窓は閉めたはずだが、部屋の気温は上がっていない。

「っ……!?」

カヲリは目を疑った。

香澄は目を堅く閉じ、ベッドに仰向けになっている。彼女の顔色は白粉をはたいたように、なめらかだった。

「きれい、だけど……」

香澄の肌に触れる寸前で、手をひっこめる。体温が感じられない。

「な、なんか、冷たい、まさか……、死」

カヲリは手で口を覆った。あり得ない。先ほどまで話していた人間が、無機物のように物言わなくなるなど信じがたかった。

慎重に、香澄の口に耳を寄せる。息もしていない。その際気づいたことがある。香澄のまつげに、霜がついていた。

カヲリは床に尻餅をついた。肩を上下させ、白い息をはく。

「病気、だったのかな、先輩」

病気のせいで体調が優れなかったのかもしれない。まだ助かる可能性はある。人を呼ばなければと気持ちが焦った。

「床、冷たい……、何でこんなに寒いの」

歯をがちがち言わせて、床を這った。香澄の異常に動揺していたのもあるが、それ以上に、普段では考えられない程、体の動きがぎこちない。まるで、体内から燃料である熱が奪われていくように体が固まっていく。

「おかしい……、いくら冬場だからって、こんなに寒いなんて、あり得ない」

怪我をした左手に目をこらした。絆創膏を剥がそうとしたが、くっついて剥がれない。

「外に、出ないと、人を呼ばないと。先輩を助けないと」

カーテンの下をくぐる。窓には結露ができていた。結露は、低温の窓ガラスに、水滴がつく現象だ。つまり、この部屋は間違いなく低温状態にあるのだ。

「まさか、キャストの能力じゃ」

この学校に現れる人知を超えた力を持つキャストたちなら、この異常事態を引き起こすことも可能だ。

真っ先に思い浮かんだニーナは、炎を操っていた。恐らく今回は関係ない。

憤怒のキャストは蒸気を出していた。やはり無関係に思える。既に消滅していることからみても、考えなくてよさそうだ。

ハクア、せっちんも、香澄を狙う理由がない。虎の能力とも違うようだ。

残りはナノというニーナの双子の姉だ。ニーナが炎なら、ナノは氷というのは安直だが、今現在、一番可能性が高い。

推察は後回しだ。今はこの保健室を生きて出ることに専念しなければ。

数メートルの距離を進むのに、かなりの時間を要した。いつしかカヲリのまつげにも、香澄と同じような霜ができていた。

やっとの思いで、ドアに手をかけ、力を込める。

「あ、開かない、そんな」

ドアの隙間が凍り付いているのか、動かなくなっている。

カヲリの膝は折れ、ドアに向かって、頭から倒れた。間接に力が入らない。無理に込めれば、折れそうな気配だ。

「まず、い、このままじゃ……」

カヲリは残った力を総動員し、スカートのポケットを漁る。金属の冷たさに、わずかに意識が覚醒する。

カヲリが取り出したのは、銀製の三センチ大の筒状の物体だ。

それは、せっちんに渡された犬笛で、もしもの時に吹けば必ず駆けつけると言われていた。

口元に犬笛を近づけたが、一息が吐けない。笛を鳴らすには、弱々しい吐息がもれた。やがて、笛が音を立てて、床に落ちる。

カヲリの目は既に閉じられており、指は笛を握ったまま固まっている。

目の縁にたまった涙が、一瞬で凍り付き、床を濡らす機会すら与えられなかった。

 

 

  

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