ありふれた格別
「すまない、よそ見をしていた」
倒れ込んだカヲリに、手が差し伸べられる。相手は、壮健な男性だ。四十代半ば、スーツ姿で口ひげを蓄えていた。髭には白いものが混じっている。
当初、眼光鋭かった彼だったが、カヲリの反応が薄いことに、焦り始めたようだった。頬が強ばっている。
「あの、君。そろそろ立った方がいい」
カヲリは呆然と男性の顔を眺めていた。ショックの余波によるものか、突然、見知らぬ男性とぶつかり、先ほどの修羅場の恐怖がフラッシュバックする。平静を装って香澄と向き合っていたが、そんな度量も元より存在しない。張りつめた神経が途切れたのだ。
「君、本当に、大丈夫か?」
「ひぐぅ……」
男性と、いなくなった父親の面影が重なり、泣きじゃくった。
たまりかねて 恐る恐る男性がしゃがみ込んだ。
「打ち所が悪かったか。本当にごめんな、ちょっと考えごとしていて。ああ……、どうしたもんかな」
男性が、考えあぐねている。カヲリは男性が悪いのではないと伝えたいが、言葉がうまく出てくれず難儀した。
「髪が随分、濡れてるね。そういや、俺、雨男だったな」
「雨……」
「そうなんだよ。デートも雨が多かった。若い時は、相合い傘ができてラッキーなんて、にやけてたな」
男性が少年のようなつぶやきを漏らすと、カヲリの硬かった表情もたちまちくつろいだ。
「君もね、あんまり傘を忘れない方がいいぞ。悪い男ってのはそこら中にいるからね」
「ふふっ、わかりました」
カヲリが落ち着きを取り戻したのを確認した男性は、肩に手を置いた。
「さ、こんな冷たい所に座ってるのは体によくない。立てる? ……、おっと」
カヲリは足をもつれさせ、男性の胸に飛び込んだ。煙草の苦みばしった臭いが鼻をつく。それも今は心安らぐ要素になった。
それも束の間、
「何やってるんだ」
厳しい詰問の声が、廊下に響いた。
カヲリがその方向に目を向けると、寺田幸彦が仁王立ちしている。軽蔑を込め、二人を射るように、目をつり上げていた。
我に返ったカヲリは、素早く男性から離れた。
「や……、違うの。寺田君、灰村先輩が、えっと」
カヲリの拙い言い訳など、幸彦の知るところではなかった。大股で、脇をすり抜けた。
「髪、早く拭いた方がいい。女っぷりが下がるぞ」
カヲリにやさしく声をかけ、男性は幸彦の後についていった。
「なー、お前、夏休みの宿題やったか?」
広々としたベランダで、男性がつぶやいた。他の生徒の目が届かないのは好都合だった。幸彦は、約五メートルの位置から、彼の背中を睨んでいる。
「いつの話をしてるんだよ。今は十二月だ」
「知ってるよ。だって仕方がねえだろ、お前、半年くらい家に帰って来ねえんだもん」
「あんたには、関係ないだろ」
幸彦の突き放すような言葉を聞くと、寂しそうに男性は口元を歪める。
「あんたはねえだろ、親に向かってよ。孔子さまも言ってたぞ、親兄弟は敬えとか。あー……、キリストだったか? まあいい。とりあえず、お前は間違ってる。Q・E・D」
父親の頭ごなしの叱り方は以前と全く変わっていなかった。自分が正しいと疑わない傲慢さに幸彦は辟易とした。
「なあ、幸彦、お前は賢い子供だ。だからお前を選んだんだ。俺を失望させるな」
幸彦は痛いほど唇を噛む。
「……、同じことを、雪乃にも言ったのか?」
「はは、雪乃かあ。懐かしいな。あいつも元気が良くて好きだが、情に流されやすいだろ。それじゃあ駄目だ」
「あんたのそういう所が」
幸彦は、荒々しく父親の胸ぐらにつかみかかった。歯をむき出しにし、普段の大人しい彼とは似ても似つかない。
「あんたの、独善的なところが、耐えられないんだ。僕らはあんたの道具じゃない!」
父は、おどけたように諸手を上げ、幸彦を見下ろす。
「そう興奮するなよ。半年ぶりの親子の対面で喜ぶのはわかるが」
「喜ぶわけないだろ。ふざけるのも大概にしろ。今日は何のために学校に来た?」
「ひでえな。可愛い息子の顔を見に来ただけじゃねえか。ああ、さっきの子、お前の知り合いか? なかなか可愛いな。おぼこくて。ありゃ、数年後に化けるぞ。今のうちに唾つけといたらどうだ?」
「もういい……」
幸彦は、父から手を離し、うなだれた。
「はあ、ったく、思春期は難しいね。どうだ? 吸うか? アタマが冴えるかも」
「いらない。ここは禁煙だぞ」
忠告を無視し、父は心置きなく紫煙をくゆらす
「お前、今どこで暮らしてんだ?」
「どこだっていいだろ」
「ははーん、女のとこか。情けないねえ、その年で女の世話になるとは」
幸彦は、顔の赤みを隠すように手で覆った。
「自分の食い扶持は稼いでいるから」
「ふーん。そりゃ立派」
父は、厚みのある茶封筒を差し出した。
「何だよ、これ」
「十万入ってる。これで彼女とうまいもんでも食え。どうせろくなもん食ってねえんだろ。お前のためじゃない、面倒かけてる相手への詫びだ」
幸彦は封筒を押し返す。
「あんたからの金は、受け取らないって決めてるから」
「意地張るねえ。嫌いじゃねえけど」
父は封筒をいそいそと仕舞った。まるで幸彦の面子を立てるようないけすかない仕草だ。
「本当に、そのためだけに来たのか? 連れ戻しにきたんじゃなくて?」
「帰りたいなら送ってくぜ。ツラ見る限りそのつもりもねえんだろうけど」
幸彦はベランダの手すりに手をかけた。
「お前、本当にどこにいんだ? 近所の来栖さんとこでもねえし、さっきの子の所じゃねえだろ。まさかとは思うが、西野さんのお宅にご厄介になってるっていうんじゃないだろうな?」
父の眼光がとみに鋭くなり、幸彦を威圧する。
「……、だったらどうだっていうんだ」
「あの娘はやめとけ」
短い拒絶に、父の本音が込められる。
「何でだよ、西野は、いい子だ」
「いい子だからだめなんだよ。あの娘は一生お前の重荷になるぞ。聞け、幸彦。あの子は格別だ。ありふれた格別を背負っている。言い換えれば、そのありふれた格別に向き合えないほど弱いんだ。お前、背負い続ける覚悟があんのか?」
「格別なんかじゃない。普通の子なんだ。みんな、誰もそれをわかってない。少し弱い所もあるかもしれないけど、そんなの誰だって」
父親は、舌打ちで幸彦の話を遮った。
「いいからわかれ。あの娘を肯定したところで、お前の世界が肯定されるわけじゃねえんだ。弱さを肯定するなって。太宰治、好きか、お前」
「僕らが傷をなめあってるって言いたいのか」
「それが一概に悪いことだとは言わないよ。結婚も所詮、傷のなめあい。俺も迷った経験者だからな」
父は遠くをに目をやった。
「だからこそ、お前には間違えて欲しくないんだ。いらんリスクを背負う必要はない」
幸彦は、父の心ない言葉に反論できない自分に苛立った。だが、陽菜への気持ちは変わらない。
そう言い聞かせていると、父親は、突然話を打ち切る。
「伝えることは伝えたぜ。仕事抜けてきてんだ」
「父さん、雪乃のこと」
「もうあれはあちらさんの問題。俺が口出すことはないね」
父は、幸彦の背を強くどついた。
「いつでも帰ってこい。親を困らせる息子にだけはなるな」
寺田家では、いつからか、あるべき家族の形を失っていた。
両親は共働きで、生活に困ることはなかったが、家庭内の不和は、幼い頃の幸彦にもそれとなく察せられた。二年前離婚し、家族はバラバラになった。
幸彦はその空白を見つめ続けることができずにいる。だから家を出た。
父は、母に雪乃を連れて行くように話をつけたらしい。
雪乃はその時、悟った。自分が見捨てられたという事実を。自分は有能に値しない、ありふれた格別だという現実をありのまま受け入れてしまったのだ。
母親に添いたいと言い張るが、それもまた自分を守るための虚勢かもしれない。母も内心は、雪乃を邪魔に思っている。心機一転やり直したいと口癖のように言っていた。
「放っておけるわけないじゃないか。僕らは家族なんだ」
父親がベランダを去った後、足下に、注意が向く。父親の捨てたとおぼしき煙草の箱を見つけた。
拾った途端、肩を掴まれ、縮みあがる。
音もなく現れたのは、伊藤嘉一郎だった。表情の読めない目で、幸彦の手元を見つめていた。見咎められる前に、釈明をする。
「これは、父のものです」
伊藤は皮肉げに口の端を曲げた。
「わかっています。君のことはね」
謎めいた言葉を返され、幸彦は他意を疑う。この教師のことはあまり快く思っていなかった。陽菜と近しいことを常に匂わせるせいかもしれない。
「西野さんが、君のことを待っています。行ってあげてはどうですか」
「わざわざすみません」
教師をメッセンジャーに使うとは、見上げたものだ。幸彦はまっすぐ美術室に向かった。 「西野? どこ?」
美術室には、人気がない。カーテンが仕切られ、絵の具の臭いが充溢する。たばかられるのに慣れている幸彦からすれば、驚きは少なかった。
「こっちこっち」
背後からの甘ったるい声に、反射的に振り返りそうになる。
「あ、待って。振り向かないで」
「どうすればいいの」
「目、閉じて」
幸彦は、陽菜の言われた通りにした。すかさず、手を握られ、共に場所を移動する。
陽菜が立ち止まるのに時間はかからなかった。直近の距離だったのだろう。
「もういい? すごく不安なんだけど」
「えー、どうしようかなっ。このままずっと手を握ってるのもいいよね」
陽菜の手の感触が、やけに差し迫ったものに感じられた。暖かいのは、もちろん、肌が呼吸に合わせて脈打っている。自分の体温も、陽菜に丸わかりだ。照れくさくなってきた。
「どうしたんだよ、西野。実は何にもありませんってオチなのか」
「……、ううん。そういうわけじゃないけど」
歯切れの悪い時は、彼女にとって大事な話の予兆だ。幸彦は急かさずに待った。
「開けて、いいよ」
幸彦の目に、イーゼルに架けられたキャンバスが飛び込んできた。
その油絵は、球体や円錐を組み合わせた奇妙な図形で構成されていた。色彩は、赤と黒を基調とし、全体的に重い構成だ。
幸彦は首を傾げたり、遠目にしてみたりして絵の真意を探った。
「そういう風な見方はしないの。まっすぐ、背筋を伸ばしてください」
「はいはい」
従って観察すると、図形の組み合わせが人の顔のように浮かび上がった。
「キュビズムって言ってね、ピカソとか、見たことない?」
「あるけど……」
美術に疎い、幸彦からすれば、摩訶不思議な絵の世界の妙味を捉えるのは、容易なことではなかった。恥ずかしながら、首を傾げる他ない。
「ちなみに絵のモデルは誰なの?」
「さて、誰でしょう」
名指しで呼び出された以上、答えは自ずと判明している。だが幸彦は口幅ったいのを恐れて、考える振りをした。
「もー、わかんないの? ちょーショック。私の隣にいるよ」
「僕の輪郭はこんなに鋭利じゃないし、火を吹いたりはしないんだけど」
陽菜は自分の顎に手を当て、顔を傾けた。
「なるほど、そういう見方もあるか。幸彦君冴えてるー!」
「素人目も役だってよかった。やっぱりすごいな、西野は才能があるよ」
幸彦は陽菜が喜ぶ言葉を選んで話す。けなしても最後はほめるのを忘れなかった。
「他に何か言うことはないの」
気分が高揚した陽菜がしつこく詰め寄る。つい、本音が漏れる。
「変な絵、かな」
「ひどーい!」
黄色い悲鳴が上がった。
「自分が絵のモデルになるなんて、夢にも思わなかった。信じられないんだ、今、この時間が」
ずっと続けばいいのに。という言葉を必死に飲み込んだ。それだけは口にできない。
二人は至近距離で互いの瞳をのぞき込んだ。
「いいんだよ、幸彦君。永遠を望んでも」 陽菜が妖艶にほほえむ。幸彦はとっさに目をそらした。
「僕らも、いつまで子供でいられるわけじゃない」
父に反発する自分に言い聞かせるようで、屈辱が蘇る。
その痛みを受け入れるように、陽菜は頷く。
「いいんだよ、子供のままで。私はずっと子供のままでいたい」
陽菜が背伸びし、幸彦の頬にくちづけをした。
時は永遠になった。
「ずっとこのままでいようね、幸彦君」




