ガールフレンド(仮)
車で信号待ちをしている間に、翔がカヲリの手を握ってきた。
暗い車内では肌の感覚が鋭敏になる。火花のような刺激で、はっきりと互いの体温を意識した。
高速道路を出ると車の速度は落ち、移動は滞りがちになった。時刻は二十一時を過ぎている。学校帰り、翔の人さらいに合い、今に至る。
助手席のカヲリは縋るような手つきで、翔の指に自分の指をからませた。信号が青に変わっても、二人は無言のまま手で会話を続けた。
後続の車にクラクションを鳴らされ、名残惜しそうに手を離す。
「カヲリ、お腹空かない?」
翔の運転する軽自動車は、カヲリのアパートに進路を取っている。帰宅時間を遅らせたかったので、信号停止はむしろ望むところであった。
「焼き肉食べてもいいですか・・・・・・」 運転に集中する翔の横顔をうっとりと眺めて、カヲリはつぶやいた。
「まってまってストップ。絶対、たくさん食べるでしょ。次の給料日まで待ってて」
「やった。楽しみにしてます」
狼狽える翔が可愛く思えて、笑みがこぼれる。
アパート側では外聞が悪い気がして、近くのコンビニで車を降りた。
翔と二人で、店内に入る。その間もぴったりと腕を組んでいた。
ペッドボトル飲料の冷蔵庫に来た時のこと、
「飲み物取れねえ、ちょっと離れろ」
「・・・・・・」
カヲリは聞こえなかったように、翔の隣に黙って寄り添う。
「・・・・・・、ったくしょうがねえな」
翔は片手だけで飲料を取り出し、床に置いていたカゴに入れた。その他、お菓子など数点を買い入れる。
レジで会計する時も、二人は互いの体温を共有しないと死んでしまうかのようにくっついている。
外に出ると、やっと体を離した。
「それ、食べなよ。足りないかもしれんけど」
「ありがとうございます。今日は、その・・・・・・、楽しかったです、ね?」
「何で疑問形なん?」
カヲリは、照れ隠しのつもりで翔の懐に飛び込んだ。
「いってーよ。じゃあな、気をつけて帰れよ」
カヲリが数歩歩いた所で、呼び止められる。振り向いた時、彼に唇がさらわれていた。
人目も構わず、二人は唇を重ねる。
「今日、何回もしたじゃないですか。もうおしまい」
飽きられるのが怖くなった。でもそれを口に出せば見くびられる。カヲリは彼との駆け引きを楽しんでいた。
「今週の日曜、空いてる? どっか行こうよ」
「二人で?」
「誰か呼んで欲しいか?」
「いいえ。二人きりじゃなきゃ行きたくないかも」
髪を撫でられ、カヲリは得意になる。
「急に生意気になったな、こいつ。陽菜ちゃんみたいにならないでくれよ」
それは翔の出方しだい。カヲリは天使にも、悪魔にもなれる気持ちでいた。
日曜に迎えに来てもらう約束をし、カヲリは手を振りながら、コンビニを後にした。
アパート前の駐車場に、幼女がたむろしている。せっちんと、ハクアが小石を積んで遊んでいるのだ。小石は二メートル以上の高さになっている。不揃いな小石が一個ずつ絶妙なバランスで積まれており、風が吹けば今にも倒れそうだ。
どのように積んでいるのか気になり、カオリは声をかけずに二人の建築作業を見守った。
せっちんがハクアを肩車し始めたが、ぐらぐらとふらついている。
「あ、あしくびが、せいぎょふのうにー(棒)」
「ちょっ! おま・・・・・・、ふざけ・・・・・・、ぬぶっ!?」
積まれた石の山の前でせっちんが倒れ込み、ハクアは顔面から石に突っ込んだ。石の崩落の勢いはすさまじく、駐車されていた車に少なくない傷をこさえた。
せっちんがハクアの足をホールドしていたせいで、悲惨な大事故は引き起こされた。足首をアンダーコントロールしていなかったことが悔やまれる。悲しい犠牲であった。
「んなわけあるか。勝手に殺すんじゃねえです」
崩れた石に埋もれたまま、ハクアが顔を上げた。眼鏡のレンズは傷一ついていなかったが、鼻の頭が少し赤くなっていた。
「防弾眼鏡で助かったですぅ。全く堪え性のない奴は、こういう遊びに向いてないんじゃないんですか? 今のは吾輩の勝ちでいいですね?」
ハクアが立ち上がり、服の汚れをスマートに払った。
すかさず、せっちんが吠える。せっちんも当然巻き添えをくい、頭に石をのせたままだ。
「なんでじゃ! そなたがへんなかたちの”こいし”をまぜとったのきづかぬとおもうてか。やりなおしじゃ」
喧嘩に突入しそうな気配を感じ取り、カヲリは二人の間に割って入った。
「こらー、喧嘩はだめよっ。二人とも女子なんだからもっとおしとやかにしなさい。笑顔で、うるとらはっぴー!」
カヲリがダプルピースをすると、幼女たちはぎょっと固まる。
「な・・・・・・、何です、こいつ。気持ち悪いんですけど」
怯えた表情のハクアが、せっちんの背後に身を隠す。せっちんは眉を釣り上げて、口を真一文字にしていた。
「やだー、ハクアちゃんたら、冗談うまいんだから。ほら、二人で賽の河原やってないでアパートに入りましょ♪」
幼女二人の肩を抱き、カヲリはうきうきと移動を促した。
その際、せっちんの鼻をカヲリの髪がかすめた。シャンプーの香りが昨日と違うようだ。違和感を口に出そうとすると、隣のハクアがやめておけと、ハンドシグナルで忠告してきた。深入りしても益はなさそうなので、せっちんはもごもごと口を動かし、おかえりとだけ言った。
1999年12月7日 夜更けのことだった。
(1~)
「ねえねえ、カヲリン。昨日、テレビに出てたよね?」
げた箱で偶然、カヲリはマイと出くわした。マイは興奮しているのか、鼻息荒く顔を近づけてくる。
思い出すのに時間がかかったが、確かにそういう出来事に遭遇したのは事実だった。
「観てたの、マイちゃん。なんか恥ずかしいな・・・・・・」
「そんなことないって! カワイかったよー、ほっぺぎゅーってやるの。どうやんの?」
マイと頬を押さえる練習をしていると、寝癖をつけた陽菜が外からやってきた。青黒い隈をこさえていて、疲れがにじんでいる。カヲリとぶつかった時の鼻の傷は目立たなくなっていた。
「あっ・・・・・・、陽菜ちゃん、オハヨ。ねえ、知ってる? カヲリンがテレビ出てたんだよ」
陽菜はマイからそれを聞くや、小馬鹿にするように笑った。
「はっ! こいつがテレビとかチョーウケるんですけど。どうせ不細工に映ってたんじゃないの? 学校の恥だから、表歩くのやめたら?」
カヲリは厳めしい表情で、陽菜を見下ろした。
マイは火薬庫の臭いを感じ取り、わざと甲高い笑い声を上げる。
「あっはははー、カヲリン、あのポーズやってみてよ」
「え・・・・・・、今?」
ためらうカヲリを脅すように、陽菜がげた箱を蹴った。
渋々やると、陽菜は笑うどころか眉一つ動かさない。
「ぶっさ。ありえねえだろ、その顔」
吐き捨てると、陽菜は廊下を立ち去った。
「ごめんね・・・・・・、ウチが余計なこと言ったから」
「マイちゃんのせいじゃないよ。西野さんの不機嫌も最近なれてきたし。平気だよ」
カヲリたちを置き去りにした陽菜は、教室に行かず美術室へと直行した。
美術室のドアをノックせずに開けた。そのまま準備室のノブを握るが、背後から手を掴まれ振り向く。
「伊藤先生はいらっしゃいませんよ」
陽菜の手を掴んだのは、ショートカットの一年生だ。確か美術部員だったと陽菜は記憶している。名前は知らない。
笑みを浮かべているが、手を掴む力が必要以上に強かった。
「あんた、髪の手入れしてる? すっげーばっさばさだけど。鏡貸して上げようか」
陽菜がお礼をすると、下級生は美術室を飛び出した。半ば今の自分に対する自嘲の意味で口をついたのだが、効果はあったらしい。
準備室には、伊藤嘉一郎が悠然たる態度で立っていた。白いシャツの前をはだけさせ、マグカップに口をつけている。独身男の洒落た朝とでも題するつもりだろうか。無駄に粋な態度が鼻につく。
「いるじゃん! 居留守使ってんじゃねーよ」
陽菜が鞄を投げつけると、伊藤は片手でうまくキャッチした。
「椅子」
陽菜が迷いなく命令すると、伊藤はカップと鞄をテーブルに置いてから、床に手をつき四つん這いになった。
「今日は違うことしようね」
陽菜は、美術室の隅にあった埃まみれの木の椅子を引っ張りだした。そこに伊藤を座らせ、その膝の上に自分も腰を下ろした。
「あの・・・・・・、西野さん、これは?」
伊藤が困惑ぎみに訊ねた。
「人間椅子だよ。思ったより座り心地はよくないね。あ・・・・・・、変なとこ触ったら殺すから。手はここ」
伊藤の手を取り、自分の腹部に回させると陽菜は目を閉じた。五分ほど経って、薄目を開けてみると、伊藤の手がスカートの裾近くに伸びていた。
「やだ、先生、女子高生の体触りすぎ。先生は椅子だよ、モノなんだよ、人間じゃないんだよ。手を動かしたらダメだよね?」
陽菜がなじると、伊藤の熱い息が耳の裏に当たる。
「申し訳ありません・・・・・・、スカートにゴミが」
「うまい言い訳するね。まあいいけど」
陽菜は全身の力を抜いて、伊藤に体重を預けた。授業開始のチャイムが鳴る。一限は確か化学だ。後でマイたちにレポートの代筆をさせればいい。サボりを決める。
頭皮がひっぱられるような感触で、うたた寝から目を開ける。伊藤が陽菜の後頭部の髪の毛を口に含んで、夢中で食んでいた。
「寝癖があったので、直しておきました」
唾液まみれにされるくらいなら、そのままでいたかった。デリカシーがない。
「先生、陽菜の髪はおいしいですか? 変態なんですね」
少し手綱を緩めると、イタズラされる。ご褒美の前渡しのつもりだったが、怒りがわいてきた。今日は気力が湧かないため、オシオキは後日にすると心に決めた。
「明日か明後日でいいんだけどー、病院行きたいから、また車だしてくれる?」
伊藤は陽菜の下腹部をしつこく触っている。陽菜は無感動のまま前を向いていた。
「授業がありますから、難しいかと」
「え? 今更、教師面するの? 変態のくせに。言うこと聞きなさい! 嘉一郎君」
伊藤の太股を音が立つほど強くたたく。彼の口から、うめきとも喜悦ともとれる声が漏れた。
「皆して、私の言うこと聞かないし、反抗期なのかな。もうこれはオシオキするしかないよね!」
陽菜は息を荒らげ、目を潤ませた。
癇癪を起こした陽菜の体を、伊藤が抱擁する。
「それは貴方が望んだことなのでは?」
伊藤が、陽菜の頬に口づける。
全ては自分が望んだこと。彼を裏切ったのも、この男とこうしていることも永遠を手に入れるための代償だ。責めを負うべきだと理解していても、伊藤にだけは指摘されたくない。陽菜の心にくすぶる火をおこすのは、この男のつとめの一つなのだろうかと疑いたくなる。
「うるさい。ってか、何勝手にキスしてるの? キモ」
伊藤が陽菜の耳もとに息を吹きかける。
「申し訳ありません。可愛い顔が、すぐ目の前にあったものですから」
陽菜は伊藤と向かい合うように座り直すと、自分の唇を彼の唇に押し当てた。彼の体にしがみつき、押し倒すような勢いで、接吻した。
「あ、コーヒー飲みたい」
「かしこまりました」
伊藤が、先ほどまで自分で飲んでいたマグカップを取ってくれた。
「これ飲んだら教室戻るね、嘉一郎君。また来るから、今度は居留守使っちゃだめだよ」
吹っ切れたように陽菜が言うと、伊藤は安心したのか今日初めて笑った。
(2~)
思いの外多くの生徒が、カヲリのテレビ出演を知っていた。アイコは知らなかったが、マイがおもしろおかしく尾ヒレをつけた話をするので、たちまち興味を持ってしまった。
「カヲリン、これは一大ムーブメントの予感ですぞ」
マイが大げさに言うのを、カヲリは上の空で聞いていた。どちらかというと、内気な性格なので耳目を引くとどうしても、躊躇してしまう。
「ちょっと、ムシューダ! 面貸しなさいよ」
一限目途中にようやくやってきた陽菜が、二限目の休み時間に威勢よく声をかけてきた。
「な、何? 西野さん」
教室の隅っこで、腕を組む陽菜の前に立たされた。アイコと、マイが心配そうに近づいてくる。
「あんたがピ○コ語るなんて、百年早いのよ。私がやった方が絶対可愛いんだから」
負けず嫌いの陽菜のことだから、わずかなりとも注目を浴びたカヲリが気に食わないのだろう。理由がわかれば、対処もできる。
「そ、そうだよねー、西野さんクラスで一番可愛いもの」
アイコンタクトで、援護射撃を要請する。アイコたちが口々におべっかを言い、陽菜の気分を盛り上げた。
気をよくした陽菜は、幸彦のところに駆けつけた。
「ねー、ねー、見て見て、幸彦君」
両頬を手で押さえた陽菜の顔を、幸彦はうろんげに見やる。
「何それ、変顔?」
恥辱に震え、真っ赤になる陽菜は哀れになるほどだった。人目に耐えられなくなったのか、逃げるように教室を出ていってしまった。
「どうしていつもそうなの? ひどいよ、寺田君」
「どうして? おかしなこと言うね、ムシューダさん。君も変な顔だって思ってただろ」
カヲリの不平は、柳のように受け流される。埒があかない。陽菜を追いかける。
教室の外に陽菜の姿はなく、女子トイレにもいない。迷ったすえ一階下に降りた。
廊下で真っ先に目についたのは、背の高い女子生徒、来栖未来である。
「来栖先輩! 西野さんを見ませんでしたか?」
カヲリのただならぬ様子に、面をひきしめる未来。
「見なかったけど、陽菜がどうかしたのか?」
「えーと・・・・・・、実は」
陽菜が辱めを受けたことを話すと、未来は不快感を露わにした。その矛先は、何故か幸彦ではなく、陽菜に向けられているようで不思議であった。
「ほっときなさい」
突き放すような言葉を投げかけたのは、未来の隣にいた女子生徒だ。長い髪を颯爽と払う凜とした仕草が美しい。
「犬がじゃれてるだけでしょ、構うことなんかないわ」
「そ、そんな言い方ってないじゃないですか? 貴方は西野さんの何を知って・・・・・・」
蠅でも払うかのように手を振られた。
「嗚呼、うるさい豚だこと。さすがあの狸娘のお仲間ね」
カヲリは危うくつかみかかるところであった。未来がその前に割ってはいる。
「香澄、そのくらいにしとけ。カヲリは友達を真剣に思いやってるんだ」
香澄は不服そうに、ふんと鼻を鳴らす。
「ごめんな、カヲリ。こいつ言い方がちょっときつい時あるけど、悪い奴じゃないんだ」
「来栖先輩がそう言うなら・・・・・・・」
美人だが愛想がないこの女傑と、この後、骨肉の争いを演じることになるとは、カヲリは夢にも思わなかった。
「どこかで見たことあると思ったら、昨日、私に不埒な真似を働いた子ね」
昨日、カヲリを豚と呼んだ少女と香澄が同一人物であると気づいて、頭を下げる。
「あ! その説はご無礼を」
「もういいわ。行って」
おじぎをして、カヲリはその場を離れた。
カヲリの姿が見えなくなった途端、香澄はしおらしい顔をして未来の肩に手をおいた。
「未来、あまり気にすることないわ。下級生のイザコザじゃない」
未来は香澄の言葉が耳に入らない。憮然として、はるか遠くに目をやっている。
「ゆーくん、もしかして・・・・・・」
休み時間中、カヲリは陽菜を見つけることができなかった。その日、教室に陽菜が戻ってくることはなかった。昼休みには、保健室にカヲリ以外の友人を招いて騒いでいたらしい。
(3~)
放課後、女子トイレの鏡の前で、未来は髪を整え、息を吐いた。鏡に映る自分は困ったように眉を曲げている。鏡に向かって拳を突きだそうとして、ひっこめる。
「絶対後悔しない・・・・・・・」
胸に手を当て、もう一度前を向く。その時には、内面も外面も、来栖未来という誰にでも分け隔てない少女の殻を被っている。
トイレを出ると、今日の来栖さんなんだかきれいね。もしかしてデート(笑)と、からかわれる。
そんなんじゃない。
校舎を出て、体育館の方向に足を向ける。誰にも姿を見られないように裏道を使った。
体育館脇のガラス戸を開け中に入る。部屋にある卓球台を手際よくたたみ、スペースを作る。軽く箒で掃いていると、ガラス戸が開く音がした。
「カヲリ? ごめん、今日は帰って・・・・・・」
未来が振り返ると、カヲリではなくTが立っていた。
「あ・・・・・・、ゆーくん。来てくれたんだ」
普段なら我を忘れ飛びつくのだが、今日は何事もなさそうに掃除を再開する。
Tは、学制服のボタンを外していた。
未来は、唾を飲み込んだ。手には汗がにじんでいる。箒が指から滑って床に落ちた。
「震えてる。寒くない?」
Tが背後から未来を痛いほど抱きしめる。その瞬間、未来の体は押さえがたい衝動に突き動かされた。
「ごめんね・・・・・・、ゆーくん、愛してるよ」
(4~)
陽菜のカヲリに対する攻勢は、ますます強められた。
放課後は仲間たちを引き連れ、カラオケに行くことが決まった。もちろんカヲリ抜きである。
「カヲリン、悪く思わないでね。陽菜ちゃんもそのうち機嫌直すって」
アイコもマイもカヲリに好意的であるとはいえ、陽菜の意向に逆らえないのは仕方ない。
一人で教室を出ると、ハクアのことが気になり、念のため捜索した。今朝は一緒に登校したのだった。それも十分ほどで飽きがきた。あの娘は一人でも大丈夫だろう。
未来と話がしたくなり、卓球部屋を訪う。
ノックをしたが返事はなく、手をかけると簡単に開いた。
「来栖先輩? 失礼・・・・・・」
カヲリの目に飛び込んできたのは、タオルケットに寝転ぶ一組の男女だった。
こちらに足を向けて体を丸め、男の胸で寝息を立てているのは、未来だということを一瞬で判別した。髪は乱れており、鎖骨の辺りにかかっている。瑞々しい太股には汗が光っていた。
男の方は顔を背けていて、面立ちはわからない。見えたとしても、カヲリに直視はできなかっただろう。湿り気のある裸体と、むせかえるような体臭が強烈過ぎて、ひっくり返りそうになる。
「し、失礼しましゅたっ!」
目を閉じたまま、飛びのくように卓球部屋を脱出した。わき目もふらずに、走り去る。
カヲリが去った後、Tは未来の肩をやさしく揺すった。
「未来姉ちゃん、ムシューダさんに見られたよ」
未来は飛び起きて、タオルを体に巻いてから戸を音を立てて閉めた。
「ど、どうしよ・・・・・・・、忘れてた」
未来は血の気がひいた顔をしていたが、Tは鷹揚に、大の字で寝たままだ。彼が落ち着いているので、未来も落ち着くのは早かった。
「はあ・・・・・・、ま、いっか」
未来は、Tの傷だらけの体を愛おしそうに撫でる。Tの胸や肩、首筋は噛み跡で真っ赤になっていた。全て行為中に未来がつけたものである。
「ゆーくん、痛くない? ごめんね、あたし興奮するとわけわかんなくなっちゃうから」
Tが未来の鼻の頭に口づける。くすぐったそうに目を細め、未来は幸福を噛み締める。
「あたしって、おかしいよね」
「そんなことないよ、未来姉ちゃんはやさしいんだよ。不満は全部僕にぶつければいいんだ。僕は大丈夫だから」
Tの傍らで髪を撫でてもらう。一番心安らぐことができる時間だ。
未来は自分の性癖を恥じており、周りにはそれをひた隠している。愛しい人を傷つけたくなるなんて、親さえ知らない秘密だ。爪を立てたり、噛んでみたり、ひどい時には首を絞めてしまうこともある。それでもTは一度もそれを咎めたことがない。
「ゆーくん、この傷、何?」
未来は、Tの胸の小さな傷に目を留めた。既にかさぶたになっており、未来がつけたものではない。
「・・・・・・、犬に噛まれた」
Tは、とぼけるのが下手だ。
「本当のこと言わないと、こうだ!」
Tの肩に噛ぶりつく。甘噛みではなく肉を食いちぎるように首を動かしてひっぱる。
Tは拳を握り、歯を食いしばって耐えていた。
未来が口を離すと、浅くない傷口から血が滴る。その血をなめとり、赤い唾液をTの口に垂らす。
「えへへ・・・・・・、運命の赤い糸だね」
カヲリは、生気のない顔で校庭を横切った。頭は衝撃的な光景に占められており、目の前の風景は霞んでしまった。
あの純真そうな未来が男を連れ込み、あまつさえその身を委ねていたとは、未だに信じられない。裏切られたように感じた。
校庭ではサッカー部が鍛錬に勤しんでいる。ふと鬼気迫る彼らの裸体を想像してしまう。
校庭の隅で、一際小柄な少女が、ボールでリフティングをしている。器用に足先から腿の上にボールを載せたり、お手玉のような自在な動きを楽しんでいるように見える。
カヲリが彼女の前に立つと、ボール遊びを終えて、おさげの位置を直している。
「あ・・・・・・、今帰りですか、カヲリ」
ハクアは、遊んでいたボールを人のいる方向に蹴った。誰も見向きもしない。
「ねえ、ハクアちゃん聞いてよ、私、とんでもないものを見ちゃった」
学内の利害を越えたハクアは、話相手にもってこいだ。カヲリは興奮ぎみに経緯を説明した。
「はー、つまり、お前は男の”いちもつ”を初めて見ちまったわけですね」
「声が大きいわよ! そ、そんな・・・・・・、い、いち、も、つ、なんて」
カヲリがひそひそと話すと、ハクアは平静な受け答えをする。
「別に不思議なことじゃねえです。好きあった者同士が一緒にいたら、そうなるのは当然の成り行きじゃないですか」
去り際、小さな背中が大きく感じた。
「お、大人・・・・・・」
ハクアが校門の方向に歩きだしたので、その後についていった。
「ねえ、せっちんを探さないの?」
放課後は、昨夜から行方不明のせっちんの捜索に当てようと決めていた。ハクアも当然手伝ってくれると思いきや、
「ああ、あいつなら死んじまったかもしれないですねぇ」
ハクアは蒼空を見上げ、こともなげにつぶやいた。
「どういうこと? 何か心当たりがあるの?」
「あるといえばありますが、ないとも言えるです」
「ちょっと! 待って」
力任せにハクアの肩を掴み、立ち止まらせる。
「教えて、せっちんはどこにいるの?」
「昨夜あいつは、自分の意志で敵と出かけました。連絡がない以上、死んでても全然おかしくありません。せっちんとは同盟を結びましたが、助けを要請されていない以上、吾輩が動く義理もありませんし」
「そ、そんな・・・・・・」
カヲリは足の力が抜け、座り込んだ。あまりに残酷な事実を突きつけられ、言葉を失う。
「ま、あいつのことですから、しぶとく生き延びてる可能性もあります。吾輩は探す気ゼロですけど」
帽子をかぶりなおし、ハクアは遊歩道を歩き出す。
「どこに行くの?」
「夕飯までには、アパートに戻るです。それまで一人にさせてください」
ハクアも意気消沈しているのだろうか。背中に哀愁を漂わせている。その原因が、せっちんを失ったショックによるものと、カヲリは勝手に解釈していた。
「ていうか、うちにまた来るのね・・・・・・」
下校する生徒の奇異のまなざしがつらくなり、カヲリは立ち上がって大股で歩きだした。ハクアの言葉を好意的に受け取るならば、せっちんは逃げ延びている。そうに違いない。信頼が彼女の背中を押していた。
カヲリの背後から、シルバーの軽自動車が徐行してきた。追い抜かずにカヲリの歩調に合わせてくる。クラクションを鳴らされ、立ち止まらざるをえなくなった。
カヲリは、車の助手席に座った。表向きは乗り気ではなさそうにしていた。
車を運転していたのは、合コンで知り合った翔であった。相変わらず愛想よく、といっても彼の場合、カヲリが特別というわけでもなさそうだ。
「突然ごめんね、カヲリちゃん。迷惑だった?」
「はあ・・・・・・、西野さんに用ですか? 西野さんならカラオケに行きましたよ。お店の場所教えましょうか?」
「いや、違うって。カヲリちゃんに会いたくて来た」
カヲリはわき見ばかりしている。通学路に停車中なので、丸岡の生徒にみとがめられる可能性を危惧したのだ。
「この間は、ついてなかったよな。あの子、名前なんだっけ、雪乃ちゃん? まさかあんな子が来るなんて」
「別に雪乃ちゃんが来なくても、何もありませんでしたよ」
カヲリは、始終そっけない態度を貫こうとした。せっちんの命は今も危険にさらされているかもしれないのだ。自分が色恋にかまけているわけにはいかない。
「そっか・・・・・・・、でも俺はあの子が来たおかげで、またカヲリちゃんに会いにこようって思えたんだ」
「会って、どうしようと思ったんですか?」
カヲリの手が大きな手に包み込まれた。
「君のことをもっと知りたい。俺じゃだめか?」
カヲリは膝を目を落とし、答えなかった。
しばらくして翔は、ため息をついてカヲリの手を離し、ハンドルを握った。
「何か用事あるんだろ? 時間とらせて悪かったね。駅まで送っていくよ」
「いえ」
カヲリは顔を上げ、しっかりと意思表示をする。
「翔さんの行きたいところに行ってください。お任せします」
翔は目を丸くしていた。難攻不落の城があっけなく落ちたように、拍子抜けしたのかもしれない。
「あ、ああ・・・・・・、とりあえずカラオケでも行こうか」
「はい・・・・・・」
カヲリは、ひたすら心の中でせっちんに謝り続けた。未来のことを笑えない。彼女以上に自分はエゴの塊だった。
その日、カヲリは翔に城門の鍵を渡して、少し大人になった。




