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せっちん!  作者: 濱野乱
空蝉編
30/97

約束(後編)


一個六十円の牛肉コロッケ。衣サクサクで、二つに割ると肉汁がマグマのような音を立ててあふれ出す。

「いやー、絵になるコロッケですね、ご主人」

ローカル番組のロケが、下町にやってきた。夕暮れ時、買い物客がごったがえしている。子供を後部座席に乗せた自転車が、走り去る。乗っていたのは、「どきなよっ!」とばかりにレポーターにガンを飛ばすやせた母親だ。

そんな剣幕などどこ吹く風。なれなれしい女性レポーターが、食レポと称して食べ歩きを行っている。

レポーターはひどい猫舌で、店の前でコロッケを頬張ったまましばらく言葉を失う。カメラがズームしても、えんげするのに必死であった。

飲み込み終わると鼻の穴がふくらませ、

「う、うまーい! 肉の(以下略)」

飾り気のないといえば聞こえはいいが、単調なあまりに単調な食レポだ。

レポーターの藤田伊代アナ(28)独身のリアクションが、格別優れているわけでもないが、各局似たようなことをしているので、目がなれてしまったのだろう。

「お次は、こちらの行列に突撃してみましょう! こんにちは」

伊代アナは、行列に並んでいたセーラ服の女子高生にマイクを向けた。テレビクルーが、赤いフレームの眼鏡をかけた、地味な女の子を取り囲む。彼女は大きなテレビカメラの前で、挙動不審に辺りをうかがう。

「え、テレビですか? これ」

「はーい。○○テレビです。学校帰りです?」

「何だ、ローカルか」

女子高生は興奮が冷めたように、そっぽを向いた。

伊代アナの頬がひきつる。彼女はかつてキー局に勤める願望を抱いていた。そのため自身の境遇に人一倍コンプレックスを持っている。だが、彼女はプロである。カメラの前で小娘をどついたりしない。後で後輩をネチネチ指導するだけだ。

気を取り直し、冴えない女子高生を引き立てる。

「な、長い行列ごくろうさまですー、どのくらい並んでるんですか?」

「二十分くらいですね。結構足が疲れてきました」

「まだ若いのにー。こちらのラーメン店にはよく行かれるんですか? 結構がっつりしてますね、体重増加は怖くないんでしょうか」

「は? ラーメン?」

女子高生は、怪訝な顔で行列の先頭をにらんだ。二十メートル先に真っ赤にぬられたおどろおどろしい看板がある。

女子高生は、カメラのレンズの前で、両手で頬を押さえたピノコのポーズをして、フレームアウトしていった。

アッ○ョンブリケ。

こうしてカヲリ=ムシューダのテレビ出演は、数十秒で終了した。伊代アナの勘違いに救われたのだった。

カヲリは、ハクアとの約束を果たすため、西洋菓子店を探していた。

その際、勘違いして行列に並んだのだ。勢いに飲まれやすい彼女らしい失敗であった。

「いけない、日が暮れちゃうわ」

気に食わない相手と交わしたとはいえ、約束は約束。果たさねば寝覚めが悪い。

見知らぬ商店街は、カヲリと相性がよかった。野良猫のように、ふらふらと匂いにつられる。

「コロッケ、ください」

伊代アナが数分前に食べたコロッケを買う。カヲリは猫舌ではない。丸飲みした。

「ほっぺたが落ちそうです。もう一個ください」

唖然とする店主を催促し、カヲリは計三個のコロッケを胃に収めた。

ついでに菓子店の場所を訊ねる。菓子店は道路の向かい側を歩いていけばつくと教わる。

菓子店は、数十メートル先で見つかる。ハクアが推薦するからどんな高級店かと思えば、どこにでもあるようなこぢんまりとした店だ。店の扉の前には、バースデイケーキ承りますという張り紙。彩豊かなケーキのイラストがのっている。

自動扉を音もなく抜けると、ケーキの入っているショーウインドーが目の前に現れる。脳髄をとろけさすような甘い香りに、一瞬だけ意識を奪われそうなった。

商品のほとんどが販売を終了している。ハクア所望のモンブランはあるだろうかと、目を走らせた。

一個三百八十円のモンブランが一個だけ残っている。とっさに指をさす。

「これください」

「これください」

同時にモンブランを指した人物がいた。条件反射でそちらをうかがい、カヲリは目をむく。

「寺田君!」

「やあ」

カヲリが驚いている隙に、制服の幸彦はモンブランの注文をすませてしまった。

「私が先に見つけたのに」

「そうかなあ。まあでも買ったものは仕方ないよね」

幸彦は悔しがるカヲリを後目に、モンブランの入った白い箱をなれた手つきで受け取る。

sold outという残酷な現実に、打ちのめされている暇はない。幸彦に食い下がる。

「ねえ、西野さんにあげるの? それとも雪乃ちゃん?」

暗くなってきた商店街を歩きながら、幸彦に訊ねる。幸彦の歩幅が広く感じる。カヲリは置いて行かれそうになった。あるいはわざとそうしているのかもしれない。

「ん? 違うよ。お世話になった人へのお礼」

律儀な面に感心したが、礼というならカヲリの扱いも少しは考えて欲しいものである。

「寺田君ってさ、結構女子に冷たいよね。第一印象と違うな」

「どんな風に思ってたの?」 

「やさしくて、気のきく男の子かなって。じゃないと西野さんにあんなに気に入られるわけないもの」

幸彦はカヲリを引き離すように、ぐいぐい駅の方角に向かっている。

「ムシューダさん、ケーキ好き?」

「好きだけど、今日は自分の用じゃないの。あの店のケーキを食べたいって子が家に来てて・・・・・・」

突然足を止め、幸彦が振り返る。

「雪乃じゃないよな?」

「ち、違うわ」

雪乃のことになると、幸彦の態度はいつだってひたむきだ。カヲリも居住まいを正す。

「もう、雪乃には関わらないで欲しいんだ」

「どうして今更そんなこと言うの? 私、迷惑してないわ」

「そういうのが迷惑なんだ」

カヲリは、突き放すような幸彦の言葉が苦手だ。陽菜のように寛容になれず、肩をすぼめる。

「おせっかいなんだよ。雪乃はああだけど、一人で生きていけるから」

カヲリの目に涙がにじむ。幸彦は構うことなく、ケーキの箱を押しつけてきた。

「これは迷惑料としてとっといて。それじゃ」

カヲリは、ケーキの箱を抱えたまま五分ほど立ち尽くした。

幸彦といると、凍土にいるような寒気を覚える。

近くて遠い男の子。

 

 

 (2)


十八時半過ぎ、灰村香澄は講習を終え、同級生と予備校前で別れた。

自転車置き場に向かうと、男子が一人で何をするでもなく立っている。暗いため顔の判別はできない。

香澄は、彼を無視して、自分の自転車を手で押し始めた。

人気のない路地を自転車に乗らず、香澄は歩き続ける。

そのすぐ後からついてきたTが、香澄の隣に並んだ。

「モンブラン、買い損ねました。すみません」

出し抜けに言われ、香澄は意表を突かれる。髪を忙しく触った。

「別に、構わないわよ・・・・・・、覚えててくれたんだ」

香澄の顔が上気する。以前、喫茶店に行った時に、ある店のモンブランの話をしたのだ。香澄の機嫌をとる意図が見え透いていたが、全く期待していなかったため、歓喜でもって迎えられた。

Tの輪郭が普段より鋭くなっている気がした。香澄は立ち止まり、彼の顎に片手を添えた。

「何ですか?」

雑に払いのけられても、懲りずにまた香澄は手を伸ばした。

「犬に対するスキンシップ。もっと喜びなさい、こんなことめったにしてあげないのだから」

「貴方って人は・・・・・・」

二人は石塀の側で立ち止まって話していた。

香澄が予備校で遅くなった時は、Tが迎えに来てくれることがある。別に頼んでもいないが、不思議と香澄が話し相手を欲している時に現れるので、重宝している。

今宵の香澄の機嫌は上々で、積極的にTにからんでいった。

「何か困りごと? 相談なら乗るわ、またあの狸娘にいじめられたんでしょう?」

香澄の目つきが蠱惑的に細められ、手がだんだんと下に降りてくる。

「西野は普段通り・・・・・・、でもないですけど」

「ほら、ごらんなさい。君は、あんなくだらない娘と付き合うべきじゃないのよ」

「西野のこと、悪く言わないでくれませんか」

女王に反論は厳禁。

機嫌を大いに損ねた香澄は、Tの胸に爪を立てた。跡が残るように、強く長い時間をかけて。

「私は、君が大嫌い」

香澄は一際長い人差し指を、Tの口にねじこむ。

「君を側に置いてあげるのは、私の欲求を解消する便利なペットだから。そういう意味では、あの狸娘と大差ないかもね。勘違いしてるのなら、考えを改めて」

Tは口中で香澄の指をなぶるようになめた。舌をからめて、生意気にも快感を与えようとしてくる。犬になめられるこそばゆい刺激ではもはやない。人間の男が施す愛撫であった。香澄は、愉悦のこもった声を上げそうになるのを、必死でこらえた。 

「っ・・・・・・、いつまでなめてるのよ。離しなさい、駄犬」

名残惜しく指を引きずりだすと、Tは苦しそうにせき込んだ。

「君が悪いのよ、生意気なことを言うから。私の言うことをもっとちゃんと聞けば、扱いを考えてあげても・・・・・・」

言葉を遮るように、Tが香澄の唇を奪った。両腕を掴まれ、背後の石塀に体を押しつけられる。自転車が激しい音を立て、横転した。

香澄のきゃしゃな腕力でも、Tくらいの優男をふりほどくことは可能であった。

それでも香澄は弛緩したように、Tの得手勝手な振る舞いを許していた。自らも舌と唇で、快感を貪るのに専心していた。

Tが唇を離すと同時に、香澄は彼の頬をしたたかに張った。

倒れた自転車のスポークが回転する音と、香澄の荒い息づかいだけが聞こえた。

「立場をわきまえなさい。もう送り迎えは結構よ」

香澄は、自転車に跨り、逃げるようにその場を去った。

角を曲がったところで、自転車を降り、口に人差し指をふくみ舐めた。犬のように品のない舐め方をしているのを、自分でも気づかないでいるようだった。

取り残されたTは、打たれた頬をなでていた。

「何やってるんだろうな、僕・・・・・・」

腹立ちを、香澄にぶつけたところでどうなるというのか。彼は一層の空虚感に苛まれる。

 

 (3~)

 

「・・・・・・、ううううううううううっ!?」

アパートの一室から、幼女の悲痛な叫びがこだまする。この世のものとは思われぬ悲壮な嘆きであった。

カヲリは扉に耳を当て、中の様子をうかがった。敵襲の恐れがあったが、中にいるのは二人だけと判断した。

モンブランを手にアパートに戻ると、すっかり辺りは宵の口である。二人の幼女は健在らしいが、部屋から尋常ではない叫びが漏れるのを聞くに、よからぬことでもしているのだろう。

何でもない顔を装い、部屋に入る。テーブルには、せっちんと、ハクアが向かいあって座っていた。

「あ! 遅かったですね」

嬉しそうに席を立って、出迎えてくれたハクアとは対照的に、せっちんはテーブルにつっぷして死んだように動かない。

「ど、どうしたの? あれ。それにさっきの悲鳴は・・・・・・」

「大したことはしてないですけどぉ、暇つぶしにゲームをしただけですぅ」

猫なで声が不気味な迫力を帯びていた。ハクアはトレードマークの学帽を触る。

せっちんの手の側に伏せたままのコップが置いてある。カヲリが手に取ると、中にサイコロが二つ入っていた。

「チンチロリンしてたな」

「ご明察、ですぅ。モンブランの取り分を巡って、正々堂々、勝負をしたのです。そこのアホは、全てを失ったなれの果て。モンブランは吾輩が全部頂きます・・・・・・、後で感想を教えてやりますから、楽しみにしているといいですよ、負け犬。ぷぷっ」

せっちんの耳元で、容赦のない嘲弄が浴びせられる。言葉責めに完全に屈したのだろう。不憫な幼女である。

「正々堂々ねぇ・・・・・・、どれ、ちょっとそのサイコロ見せてごらん」

「は? もう勝負は決したのです。モンブランは吾輩のものですよ。変な言いがかりはやめてもらいたいです」

ハクアは、急いでサイコロを手のひらに隠そうとした。

嫌疑は十分。カヲリは力ずくでサイコロを奪う。

「何するですか! こんなことしてただですむと・・・・・・・」

カヲリはサイコロを間近で観察し、テーブルに置いた。その間、ハクアは口笛を吹いていたが、額に汗がにじんでいる。

「このサイコロは貴方のものなの? ハクア」

「さあ・・・・・・、どうでしたっけ。せっちんが作ったような気もしますが」

顔を上げたせっちんが頷く。目は真っ赤だ。不正はないと言わせたいらしい。

「でも変ねえ、このサイコロ、正六面体じゃない気がするのよ」

テーブルの上のサイコロを前に、三人は額を合わせる。

「ひずみがあるような・・・・・・」

せっちんが、髪を逆立てつぶやく。

サイコロは微妙にひしゃげている。水平にしないとわからない巧妙な成形。チンチロリンは、サイコロの目の合計を当てる遊戯である。もしハクアが確率を操作できるようにサイコロに細工をしていたら、重大な違反行為となる。

ハクアはひっそりと玄関に向かい、ローファーに片足を入れている。

カヲリが見咎め、ハクアの背中にサイコロをぶつけた。

「こいつッ! イカサマをしているわッ! ひっとらえるのよ!」

「こころえた!」

せっちんが怯んだハクアの胴に組み付き、押し倒す。息のあった連携プレーで、不埒者を捕らえた。

ハクアが倒れた際、被っていた帽子も床に落下。帽子の中から、せっちんが作ったとおぼしきサイコロが転がりでた。

「一生の不覚ですぅ・・・・・・、まさか雌豚が吾輩の錬金術を見破るとは」

サイコロのすり替えが発覚しても、悪びれることはないらしい。ハクアは布団でぐるぐる巻きにされ、浴衣の帯で縛られていた。せっちんが手際よくやりとげ、脇に座っている。

「そうまでしてモンブランを独り占めしたかったの?」

「甘味は吾輩の原動力ですぅ。手段なんか選んでいられません」

「包帯も嘘だったみたいね。全く、困った子だな」

カヲリは苦笑いを浮かべて、ハクアの顔をのぞき込む。くりくりした目が笑うように見返してくる。カヲリは冷徹な審判を下した。

「モンブランは、せっちんにあげる。ハクアは夕飯も抜き!」

「うわああん! あんまりですー」

ハクアは、滂沱として、じたばたと体を揺らしたが、天地がひっくり返っても、カヲリの決意は変わらない。甘やかすと、つけあがるからだ。

「わらわをたぶらかした”ばつ”じゃ! そこでゆびをくわえてみておれ。ああ、くわえるゆびもなかったな」

「ぐぬぬ・・・・・・」

立場の逆転したせっちんが、ハクアを罵倒する。ハクアはがっくりとうなだれたが、自業自得である。

せっちんにモンブランの箱を渡すと、カヲリはお米を研ぎ始めた。母ももうすぐ帰ってくるだろう。

「あ・・・・・・、どうしよう」

単純な陥穽に、今更気づいたのだ。幼女を二人泊める余力は我が家にあるのか。今夜だけならともかく連日は無理だ。

「て、とまっているぞ」

せっちんが、隣で背伸びしていた。カヲリは彼女の顔を見た途端、よろめいた。

せっちんが素早く手を貸してくれたので、倒れずにすむ。

「こめとぎ、わらわがかわろう。そなたは、やすんでおれ」

「平気よ、ちょっと立ちくらみがしただけだから。貴方はモンブラン食べてて。フォークはそこの棚にあるわ」

せっちんは、フォークと、小皿を持って、明かりのついていないカヲリの部屋に素早く向かった。

「何用ですぅ? 食べるなら、あっちの部屋で食べてくださいよ」

ハクアが、鼻声で言った。

せっちんは、ケーキの箱を持ったまま、どかっと腰を下ろした。

「どういうつもりですか? 吾輩に見せつけるのが目的なら・・・・・」

「くえ」

ハクアの面前にモンブランが提示された。千載一遇の機会に、目を輝かせすぐさま頷く。

せっちんが皿に載ったモンブランにフォークを入れようとしていた。ふかふかのスポンジを夢見ていたハクアは涎をたらす。

「ああ、くらくて、よくみえんのう」

とぼけたように、せっちんが言う。

電気をつけろと口に出そうとして、ハクアは思いとどまる。かん計の臭いを嗅ぎとったのである。

「お、お前、まさか・・・・・・」 

「やみあがりで、てもとがくるいそうじゃ。こうかの・・・・・・」

ケーキの三角柱の端っこに、無理に力を込める。

数時間前せっちんが、薄ら笑いを浮かべながら、チンチロリンしようと、持ちかけてきた時にハクアはもっと怪しむべきであった。

せっちんは、ハクアがイカサマをすること見越して誘ったのだ。イカサマに引っかかった振りをした後、カヲリの介入も視野に入れていた。泣き真似もカヲリの同情を引くため。恐るべき先読みのセンスであった。

ハクアは唇をわななかす。

「この悪魔・・・・・・!  転がされていたのは、吾輩の方だったのですね」

せっちんが、満面の笑みで皿を突き出す。不平等にうすーく切り分けられたモンブランを拒否する勇気は、ハクアにはなかった。

「お前、そんなに頭が切れるのに、何で支配者を一人で倒さないんです?」

モンブランを口に運んでもらいながら、ハクアが訊ねた。

ハクアが負けを認めると、せっちんはモンブランを全て譲渡すると、宣言した。元より、モンブランを食べる意志はなかったらしい。食欲がないようだ。

「わらわのちえなど、たかがしれておる。そのために、そなたと、てをくんだのではないか」

ハクアは腑に落ちず、困り顔を浮かべた。

「吾輩してやられてばっかりで、つまんねえですぅ。チンチロリンはどういう意図があったんですか?」

せっちんはフォークを動かす手を止める。モンブランの三分の二程度がなくなっていた。名残惜しい。ハクアは味を忘れないように唇をなめていた。

「そなたを”がんぐ”として、もてあそぶためじゃ」

ハクアは、ぽかんと口を開け硬直する。モンブランの味もきれいに吹き飛んだ。

「このゲスが・・・・・・、そこになおれです! 吾輩の能力で今こそ天誅を・・・・・・、ひゃあん!」

切ない声を上げ、もだえるハクア。せっちんが耳に息を吹きかけたのだ。

「さわぐな。さきほどのは、じょうだんじゃ」

「真顔で冗談言うの、やめてくれませんか? 心臓がいくつあっても足りないですぅ・・・・・・、はうぅ」

ハクアは、うなだれた。からかいすぎたのだろう。語尾も弱々しくなった。

「”しょうぶ”は、めのまえでおこっておるものだけとは、かぎらぬ。むしろ、めにみえぬものこそ、しんのいくさばじゃ」

自分への戒めをハクアと共有したかったせっちんは、意地悪な手段を使った。効果は定かではないが、ハクアも思うところがあったのだろう。神妙に頷く。

「たよりにしておるぞ、はくあ」

せっちんは、モンブランをハクアの口に運ぶ。ハクアは大きな口を開け、モンブランではなく指をかじった。当然せっちんは・・・・・・・、

「なにすんじゃ、あほんだら。はなさぬか!」

目に涙を浮かべ、獅子もかくやと怒鳴り散らした。ハクアは歯を立て離さない。

せっちんは、がむしゃらに手を振り回し、かみつきを解く。

「上から目線で説教なんかするからですぅ。仮にも我々は同志だったはずですよ」

ハクアは舌を出した。

「それも・・・・・・、そうじゃな、あいすまぬ」

せっちんは正座し、畳に額をつける。

仲直りかと思いきや、布団からはいでたハクアが、せっちんの頭をひっぱたいた。戦争は再開された。

事態の推移を見守っていたカヲリは、止めに入ろうと部屋に入る。ここは賃貸、騒ぎは御法度である。

「ずいぶんと騒がしいね」

カヲリは声のした背後を振り返る。

巨躯をドアの隙間にもぐりこませるように、カヲリ母が現れた。

「あ、母さん、おかえり」

母のグローブのような手の平が、カヲリの頭をわしづかみにした。 

「いたいいたい、頭が割れる」

母が低い声で訓戒を垂れる。

「カヲリぃ、ここは賃貸なんだ。壁は薄氷より薄く、人声は筒抜けなんだ。騒いだら、ご近所さまに迷惑だろ? ん?」

「スイマセンダガヤ・・・・・・」

カヲリの頭をリンゴのように割るなど、母には造作もないことだ。せっちんたちの諍いを収束させねば命は危うい。

「母さん、話を聞いてよ。お客さんがいるから」

「客? 雪乃ちゃんかい?」

母が手を離した。途端、カヲリは、脳しんとうを起こしたように力なく座り込んだ。

母はカヲリの部屋に入り、電気をつける。

「何だい、誰もいないじゃないか」

母の落胆した声のする方に、カヲリは這っていった。

部屋では、相変わらず幼女が取っ組み合いをしている。せっちんがハクアの上に馬乗りになり、両頬をつねっていた。

「こらこら、もういいかげんにしなさい。ご飯、ご飯あげるから」

幼女たちは急に態度を軟化させ、和平の握手をして、抱き合った。

安堵したカヲリは、何気なく母の顔を見上げた。

母は驚愕し、カヲリの手を無理に掴んで立ち上がらせた。

「お、お前、また腹が減っているんじゃないかい?」

「さっき色々食べたからそうでもないよ、それよりさっきの母さんのアイアンクローの方がきつかったかなぁ」

「やりすぎたねえ、悪かったよ」

母は、カヲリが幻覚を見たと思ったらしい。二人の幼女は幻覚なのだろうか。

「でっかいのう」

せっちんが、母の足下で感嘆している。母は感知していない。

ハクアも、おそるおそる側に寄ってくる。

「はうぅ、長州力みたいで腕っ節が強そうですぅ。カヲリもこんな風になるんですかね」

カヲリは、思わず吹き出した。すかさず母が怪しむ。

「何笑ってるんだい?」

「い、いや、長州は大丈夫かと思いまして・・・・・・」

「長州は薩摩と組んで、明治維新を成したじゃないか。変な子だねえ」

「で、ですよね。薩長同盟、千八百六十六年。年号の確認はね、大事ですから」

意味不明なカヲリの言い分に、母は本当に心配になってしまった。

カヲリが釈明しようとすると、足下に動きがあった。

せっちんと、ハクアが、コサックダンスを踊っている。

「ヨラバタイジュノカゲ」

と言いながら、母の足下をぐるぐる回っていた。

カヲリの目の前の光景も同じように回ってきて、ばったりと倒れてしまった。



 (4~)

 

「はっ!」

カヲリは、ベッドで飛び起きた。

自室は濃い闇が籠もっており、夜も更けたことを想起させた。気温も低い。

二人の幼女は夢の産物だったのだろう。雪乃にうり二つのせっちんは、カヲリの罪の意識が生んだものかもしれない。

カヲリはピンクのスウェットに着替えている。覚えがないが、多分自分でやったのだ。頭は霞がかかったように重い。すぐにベッドに倒れた。

「はー、夢かあ。私がテレビに出るわけないわよね」

すかさずベッド脇で、予期せぬ非難の声が上がる。

「おい、寝ぼけてんじゃねーです!」

ハクアの大声が、静寂を破った。

カヲリは懸命に目をこすり、ハクアの像が結ぶのを待った。

「あれ? ハクア、ちゃん。どうして私の部屋にいるの?」

「お前、覚えてないんですか?」

せっちんが、壁際の布団で横になっている。それに気づいたカヲリは少し落胆した。夢なら傷つくこともないのだ。幸彦と会ったことも現実なのだろう。

「ごめん、アパートに帰ってきてからの記憶が曖昧だわ」

「しょうがないですね、吾輩が説明してやるです」

母が帰ってくる前にカヲリは、せっちんとハクアの仲裁をするために割って入ろうとした。

ところが、せっちんが力加減を間違え、カヲリを突き飛ばしてしまった。柱に頭をぶつけたカヲリは気を失ったのだ。

「吾輩たちがこっそりお前をベッドに移して、ざっと四時間くらい寝てました」

「母さんはどうしてるの?」

ハクアは親指で襖を差した。襖からは光が漏れている。

「帰ってからもずっとお前の心配をしていましたよ。さっさと顔見せて、安心させてやるといいです」

カヲリはもどかしそうにベッドから出ると、隣の部屋に駆け込んだ。

ハクアは肩をすくめ、せっちんのいる布団に向かった。

「吾輩には、親に対する情なんて理解不能ですけど、なんか・・・・・・、悪くないかもしれないです」

ジャケットを脱ぎ、目がねを外して床についた。

せっちんが、夢にうなされている。夢幻の中で時間は抹殺され、苦しみだけが引き延ばされていた。

鈍色の光が差す空間に、冷たい水が満たされていた。空間に奥行きはなく、天地も定かではない。

せっちんは、その中をたゆたっている。指に黒い水泡がふれ、破れる。

水が粘りつくように体をとりまいて、動けない。動けたとしても、彼女にあらがう気力はなかった。

突然、力強い感触がせっちんの手を掴む。何者かが重たい水をかきわけ推進する。

 

がんば・・・・・て

 

声が反響する。励ますように、火をともす。


あき、らめないで・・・・・・


狭く冷たい穴にせっちんは押し込まれた。そこから先、光ある場所に至った記憶は定かではない。

 

「せっちん、お願い。あの娘を止めて」

 

彼女との約束は、未だ果たせずにいる。 

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