5・エビと呼ばれた女クリス
寒いでしょう。話は中に入ってゆっくりしましょうか。
そうのたまったのは、先程尊大な自校紹介の後に呼び捨てをしてくれと自ら言ったギーその人だった。
私は申し出を受け、蒸し暑いくらいの会場に舞い戻った。先程との落差が激しく、震えてしまう。と、視線を感じた。
頭を動かすのも億劫なくらい先程の事件で疲れていたので、私はゆったりと視線の方向を見た。
「……」
王子殿下だった。国王陛下のお座りになっている金ぴかの椅子の近くで、振り返るような格好をしている。
薄青の瞳が、射抜くように私を見つめている。気がする。
過敏になっているのだろうか。そうかもしれない。けれど、私はしばらく殿下を見ていた。
「クリス王女?」
はっとする。ギーだった。声をかけられたのと同時くらいに、王子は首を振り向くのをやめ、陛下に向いて何か囁いてからその場を去っていった。
「王子がどうかしましたか」
笑みさえ含んでいそうな声に、まあ、と答えておく。この分だとどうせ、視線の先に気がつかれていたのだろうから、言い訳するのも馬鹿らしい。それに理由がない。
「王女。貴女は王子を見て何を思いますか」
立ち止まったままの、静かな問いかけだった。私は数回瞬きしてから考えた。どうせなら、面白いことを言ってやろうと思ったのだ。
「そうですね」
私は淡々と言った。本音だから、感情に起伏はなかった。
「あのキラキラしたオーラは、鱗粉か何かですか?」
先程の私のように、ギーは瞬きをした。それから、やわらかな表情になった。それは作り物めいていなかったので、少し以外だった。
「斬新な意見ですね」
どうも、と私は答えた。
そこにミーナがやってきた。人前だから慎んだのかもしれないが、飛びつかんばかりの勢いの彼女は、案内役のギーの部下だという男達が見失うくらいの速さで駆けてきたらしい。しきりに私の貞操の心配をしてから、やっと安心したように笑みを浮かべた。第二の姉のような彼女をそこまで心配させただけでも、十分反省すべきことだったな、と事件を振り返って思った。
それから私はミーナを連れてギーについていった。
「どうぞ」入ることになったのは、部屋だった。ギーは部下を見張りに立たせ、自分はシャンファンだけを伴った。
「客室ですよ。他国から来た大勢の賓客をもてなすための、たくさん用意されているんですよ」
ここは空いている客室ということらしい。確かに、私にあてがわれた部屋と同じ内装だった。ちなみに、ギーの証言が正しいのなら、この両方の隣もその隣も開いているそうだ。秘密の話をするには周到な用意がいるのだろう。
ギーは、私とミーナに椅子を勧め(もちろんミーナは断った)、自らも座った。向かい合った彼は、実に色々なことを教えてくれた。アバネシー伯爵家はあまり歴史がない家で、男は問題児が多いということ。現伯爵の長男坊であるハドリーさんはお酒にめっぽう弱く、酔うとおかしなテンションになることもわかった。酒でオトすつもりが、堕としてた、なんて冗談が頭に浮かんだが、全く笑えなかったのですぐ消えた。
「彼も困った男ですよ。十四歳の頃に思春期の少年が煩う流行病にかかってから、酒が入るとああです。伯爵も学習能力がないのか、大事な席、しかも酒が振る舞われる行事に自分の息子を代理にたてるんです」
その「流行病」というのはやけに仰々しい響きだが、オブラートを引っぺがせばただの「中二病」だろう。しきりに口にしていた「落ちる」も「堕ちる」だったりして。
「あの家はいつか粛正をしたいのですが……」
粛正と聞いて緑のアートになったハドリーさんを思い出した。彼に絡みついていたのは植物の蔦で、茶色い粒は種だということを確認できた。一体どういうカラクリでそうなったのかは不明だが、行く末が気になる。というかギーだ。悩ましそうな表情の割に声が困っていない。むしろ楽しそうだ。ここまでちぐはぐな人はなかなかお目にかかれないぞ。
大人しく黙っていたシャンファンが「ふあ〜ぁ」とあくびをした。
「もうこんな時間ですか」
ギーが取り出した懐中時計を見ながら言った。何時かはわからないが私も同意だ。眠い。
「手短に用件を伝えますね」
ギーは右手の人差し指だけををぴんと立てて言った。
「一つ。今日のことは全て忘れてください」
ギーが中指も立てた。
「二つ。今日のことを綺麗さっぱり水に流してくださるなら、貴女にそれ相応の報酬を用意します」
ギーの薬指も立った。五歳の頃、私が一番好きだった指。特に理由はないしフェチでもないけど、たまに意識してしまう。
「三つ。貴女に拒否権がないということ」
最後だけ、なんか横暴ではないか。
「この三つの事柄を容認していただけますか?」
いいえ。答えたいのをぐっと押さえつけて、首を縦に振った。それも、渋々といった感じで。
「よかった。断られたらどうしようかと不安でした」
何が不安だ。実力派小姓が腰から提げている剣に手をやっていたら、私のようにか弱い(笑)王女は頷かざるをえないではないか。白々しいにも程がある。
「話はこれで終わりです。貴女はハドリー・アバネシーの馬鹿なんざ忘れて優雅に舞踏会を楽しむなり、客室で悪夢を振り払うべく眠りにつくなり好きにしてください」
言われなくてもそうさせてもらう。今日はさんざんだ。なんて日だ!
立ち上がって部屋を後にしようとする私。ギーが「最後に一つ」と声をかけてきた。
「貴女を助けたのが王子殿下だと言ったら、貴女はどう思いますか」
私は、振り返った。自分がどんな表情をしていたのか、まったくもってわからない。もしかしたら、ひどく困ったような顔だったかもしれない。どうも答えられないのだから。
ただ。
飄々とした笑みのままのギーが、何故だか悲しそうに見えたのは、目の錯覚に思えなかった。
「失礼します。ありがとうございました」
会釈だけして、私は部屋を後にした。
ライティア王国王女に用意された客室で、混乱のあまりへたりこんでしまった私を、私の悩みを、全てを包み込むように、ミーナは抱きしめてくれた。お姉様の抱擁が懐かしくて、つん、と何かがこみ上げてきた。それを溢れさせないようにするのは苦ではなかった。もう、慣れたことだから。
舞踏会の翌日、私は帰ることになった。一晩ぐっすりと、実家よりいいベッドの上にいたおかげで__眠れなかった。あのふかふか具合、恐ろしいくらいに慣れない。焦がれていたはずの素晴らしい寝心地さえ、にくい! や、寝てないから寝心地とは違うか。とりあえず、一睡もできなかったわけではないけど、睡眠時間は短い。
「椅子で寝た方がいいんじゃないかと思ったくらい。もうこりごり」
「まあ」
ミーナはくすりと笑みを零した。
「今回経験したので、次に招待されたときに安眠ができますよ」
私は即座に否定する。
「ないない!」
首を横に振ってみせると、そうでしょうかと言うミーナに語る。
「今回招待されたのだって気の迷いか何かよ。または数合わせ。一悶着あった私がまた行く事なんてないと思うわ」
そうこうしているうちに馬車の荷台に荷物が積み込まれ、私の帰りの支度が整った。
気疲れしたけれどとても綺麗なオラディア王国の王宮に別れを告げ、馬車に乗り込もうとしたときだった。視界の隅で銀色の髪がきらめいた。
ふ、とそちらを見ると、見慣れない服を纏う、整った顔立ちの少女がすたすたと歩いていくのがわかる。そこに駆け寄るのは従者だろうか。とても慌てた様子だ。そのためか声も大きく、離れているこちらまで聞こえてきた。
「姫様!」
「殿下!」
「どこにいらっしゃったのですか!」
銀色の髪のお姫様は従者と違って落ち着いていた。一言二言答えた声のボリュームは適度だったので、内容はわからなかった。けれど、探されていたらしいのに、だからどうしたとでも言うように首を傾げたのを見て、やっぱり「お姫様」だなぁと思った。ま、別の国の姫君がどうだろうと私が知ったこっちゃないし、意見することでもない。
「出発の時間に三十分も遅れるなんて……!」
「姫様、ひいては我が国の品性を疑われますぞ」
不機嫌そうに俯いていたお姫様は、さらに嫌そうな顔をした。そりゃあ、今の言葉は嫌だろう。彼女に責任があったとしても、だ。
それより。嫌な予感がする。
賓客の馬車は渋滞がないように三十分おきに出発しているのだが、あのお姫様達は最後まで待ってからここを出るのだろうか。それとも、割り込みか。後者なら、支障が出るのは順番が次の私達だ。慣れない大金持ちオーラにあてられたうえに事件に巻き込まれたせいで、もうくたくただ。一国でも早く帰りたい。
遅れてたまるものか!
私は急いで馬車に滑り込むが、ミーナが入ってこない。どうしたんだろう。早く来てよ。何か言われる前に早くこんなところから出たいの!
少ししてから、控えめに呼ばれる。
「姫様」
ミーナが扉を開けてから私に告げた。
「出発が、三十分遅れることになりました」
曰く、オースティン国の出立が遅れたからとかなんとか。
悪い予感、的中。
ライティアとオラディアは名前が似ているのに距離が遠い。約一ヶ月かけて、ようやく母国にたどり着いた。長かったー。「たった」だけど三十分遅れたせいで、大商隊と同じ道を通る羽目になって渋滞にはまり、普通より時間がかかったらしい。
アイラブ母国! お姉様じゃないからいつも大好きなわけではないけれど、今はとてもいとおしく思えるよ、ライティア!
旅帰りのおかしなテンションのまま、へろへろの千鳥足でお父様の執務室に向かう。自室に直行したいのはやまやまだが、呼ばれたので仕方がない。用があるなら迎えの時に言ってくれればいいのにと思ったが、なんでも、急な仕事ができて部屋から出られないほど忙しいのだとか(情報源:執事)。
「お父様、クリスです」
執務室のドアをノックすると、「おー」という気のぬけた発泡酒みたいなお父様の返事が聞こえた。
「クリス・二ア・ライティア。ただ今帰りました」
膝を折って礼をする。親しき仲にも礼儀あり、だ。が、礼儀を知らないお父様はペンを走らせている書類から顔を上げてくれない。私はいつまでもこの格好でいるのが馬鹿らしく思えたので普通の姿勢に戻った。
お父様は、署名か何かが一区切り着いたところでやっとこちらを見た。
何これ。めっちゃ気持ち悪い。
何故か。
お父様が、破顔していた。
彼は言った。
「待っていたよ」
美形って笑うと様になるよな、とかのほほんと考えている私にお父様は衝撃的な台詞を投げつけた。
「お帰り、エビ」
は、はい? エビ……?