第3章
「星海さん」
今日は純和食の朝ご飯を食べながら、空海に呼ばれ星海は顔を上げた。簡単な単純な料理ばかりだけれど、微妙な味付けが丁寧でおいしいご飯をいつも空海は出してくれている。
「昨日、母が来た時いて下さいって言ったじゃないですか」
「ああ、うん」
「あれ、気にしないでください。よく考えたら、母が来るってことは星海さん、帰ろうと思えば帰れるってことですもんね」
「…………」
笑ってそう言った空海は、みそ汁を啜りながら素知らぬ顔をしてしまう。その顔を眺めながら星海は少し置いて、少し困った顔で微笑った。
「まだ、この島にもう少しいたいんだけど……迷惑かな」
「え……!」
驚いた声で顔を上げた空海は、ぽかんとした顔で星海を眺めた後で首を振る。そんなことがあるはずはない。人が他にいる生活は本当に久しぶりなのだ。話した言葉に答えが返ってくる。黙っていても、誰か他の人が何かをしている気配がする。犬がいれば寂しさも紛れるけれど、誰か一緒にいて居心地がいい人と暮らすことを知っている空海には、それだけではどれだけ取り繕っても自分の中のぽっかりと開いた穴のような寂しい気持ちを否定できないことはある。
「おしかけてきた上に完璧にお世話になっている立場だけど、最初に空海ちゃんが言った通りいさせてもらいたいんだけど」
* *
空海の掃除を手伝っていて、リビングの一隅にあるブックスタンドに何度も開いてすり切れた雑誌があるのに気づいた。世界はそれを手にとって開いてみる。
圧倒的な青い世界が雑誌の中には広がっていた。開いた瞬間にその中の、その写真を撮ったカメラマンがフレームを通して見た世界に吸い込まれて目が離せなくなるような、そんな圧倒的な存在感と吸引力を持った写真。
ようやくページをめくっていけば、様々な表情の海と空、海の中……人が作り出した言葉では表現しきれない色彩に飛んだ世界が次々に広がっていく。
最後のページは真っ暗な海が広がり、波のうねりが月の光の冴えた光を吸い込んでいる。海と空の境目は色では区別がつかず、その違いは空にはちりばめられた星があり、月がある、それだけ。
それが白黒の写真ではないと分かるのは、光の白、暗い部分の黒……その二つの言葉でしか言い表せない色が様々な色合いを持って広がっているのが分かるから。
せかいの歌声、と、そうタイトルを付けられたその写真をずっと見つめていた。
いつの間に近くに来ていたのか、その星海を見つけた空海が、じっと、写真に目を奪われている星海を見つめてから声をかけた。
「気に入った? その写真」
驚いて顔を上げた星海は、それでも我に返ったとは言い難い様子でぼんやりと空海を見上げる。写真の世界からまだ現実に戻ってきていないような目をしていたのが、ようやく空海に焦点が絞られてきた。
「ああ……この写真がって言うよりも、これに載ってる写真が……すごい、目を離せない」
それは力づくで人を吸い付けるようなそんな乱暴な力ではない。それでも、一度目を向けたら思わず逸らせなくなるような、そんな写真。見ていれば思わず幸せになりそうにほっとする写真もあれば、自然の大きさに圧倒され、そこに手を入れようとする人間を拒絶しようとしているような存在感と力さえ感じさせるのに、見ているうちにその大きさはそんな人間さえもまるまる受け止めてしまう包容力に変えてしまう。
「ありがとう」
「?」
「それ、父が撮った写真」
「カメラマン?」
「……ではないんだけど」
首をかしげて空海は答える。
カメラマンではない。ただ、カメラは好きだった。記憶にとどめておけばいいと言いながら、それでも自分が目にし感動した一瞬の時間と表情をもしありのままに切り取ることができるならと、写真も撮っていた。そんなに思うようにはいかないようだったけれど、それでも、記憶に刻まれたその時の想い、その時の光景をより鮮やかに甦らせる一つの道具にはなる。
「本業は違うの。その写真集は、父の友達でそういう仕事をしている人が父の写真を見て、一冊作らせてくれって言ったの。写真、色々あるのよ。見る?」
反射的に星海は頷き、空海は笑いながらアルバムを取ってきた。
数冊のアルバムは、雑誌と同じように何回も開いたためにすり切れている。開いたのはきっと空海だろう。
風景の写真に混じって、時折人が映っている。アルバムにあるのは海や空の写真だけではなかった。山の写真もある。街中の、片隅のちょっとした光景も映されている。人が映っていても、どれも自然体でそして、生々しい表情を浮かべていた。写真を撮られる時の構えた笑顔ではない。写真を撮られることに照れて緊張しているのなら、そんなはにかんだ様子がそのまま映っているような、見ていて思わず見ている方までつられて同じ表情をしてしまうような写真。
「あちこち出かけて歩く人だから。この島に落ち着くまでは本当に住所不定だったらしいの」
星海が座っている椅子の隣の床にそのまま座って空海は横から一緒にアルバムをめくっていく。途中から、同じ顔がよく映るようになった。
「空海ちゃん?」
癇癪を起こして泣いている小さな子供の写真を指さして星海は尋ねる。真っ赤な顔で思い切り泣いているその表情は生々しくて、今にもその泣き声としゃくり上げる息づかいまで聞こえてきそうだった。
「ひどい顔でしょ。でも、父さんが撮った写真はどれも嫌いになれないの。こんな顔撮ってひどいって思うのに、何だかすごく身近で、憎めなくて。こんな顔して泣いてたんだとか思ったり」
「被写体がすごく大事なんだろうね。撮る人間の感情も映してるんだ」
星海は言いながらアルバムをめくっていく。空海が産まれた頃から後の写真にはよく、子供が映っている。途中から、今いる犬達だろう。その犬達の姿も増えた。
小さな子供が海の中に潜っている写真もある。不思議そうに、微妙な距離をおいたところにいるイルカに、手をのばしている。人間は海の中でも笑顔になれるらしい。海の中の子供は笑っていた。
アルバムに止められていない写真がばらばらと落ちた。それを拾い上げて星海は空海に目を向ける。
「ああ、まだ止めてない写真があるの」
言いながら星海の手にある写真を受け取った。すらっとした、少しきつそうで世間知らずな印象のある若い女の人と、小さなよく似た男の子と女の子。それに、まるで写真に写り慣れていないように居心地悪そうにした若い、背の高い男の人。
「それは、家族で撮ったの。撮影したのは父さんの弟……叔父で、父さんに写真に入れって言うのが大変だったって言ってた」
そう言いながら、他の写真を見せてくれる。もう少し大きくなった女の子と、先程の写真の男の人……空海の父とよく似た青年が一緒に映っている。幸せそうにお互いをきつく抱きしめて写真に目を向けた顔は笑っていた。
「これが叔父」
「仲良しなんだ」
「そう。放浪癖のある父さんが不意にどこかに行きたくなると面倒見てくれたし」
* *
空海と一緒に写った写真が何枚かあった男の子が、空海の双子の兄の陽音だと教えられた。おとなしくて、体が弱かった兄は母と一緒に島を出た。何かあった時に医者が遠くては困るからと、そう空海は言ったけれど、それは本当ではないだろうと星海は見た。もしそれが本当なら、空海の顔はもう少し違ったはずで。
「留守にしているおじさんは今何してるの?」
「ああ、父さんに影響されたのか何なのか、画家になったの。どこにいてもできる仕事だからってここに住んでたんだけど、個展を開きたいっていう話をもらって。それで、その関係であちこちに」
そう言いながら見せてくれたスケッチブックは、ほとんどが空海の顔だった。風景画をよく描くと空海はいうけれど、見せられた絵のほとんどは人物画……空海だ。色が付いていないのは、色を付けると人工的すぎて変になるといってさぼったんだと空海は笑っていた。優しいタッチのスケッチは、幼い空海が一緒に映っていたあの写真のままの二人の関係を伝えている。
「星海さんは、何をしている人?」
「オレ?」
不意に尋ねられ、星海は思わず驚いた顔になった。そう言えば、そうやって自分のことを聞かれたのは最初、事情を説明する時に聞かれただけでその後は初めてだと気づく。一度信用したらそれでいいというように深く詮索はしなかった。
むしろ、押しかけた自分の方が詮索するように空海の生活の中にずかずかと入り込んでいる。
それは詮索というよりも興味なのだと思った時に、何となく星海は嬉しくなった。突前来たわけの分からない通りすがりの人から、少し昇格させてもらったような気がした。
「何? 話しにくいこと聞いた?」
ここにやってきた星海の様子がどこか追いつめられたような、せっぱ詰まったようなところがあって、空海は黙って放っておくことにしていた。そろそろいいかと思って聞いたけれど早かったろうかと心配になる。そっとしておいてもらって、時間が解決してくれるのをゆっくり待ちたい時が人にはあるのだと……。
「オレは、学生だよ。東京で大学に通っている。一番遊んでいる、一番暇な人間だ」
「疲れた顔、してここに来たけどね」
さらっとそう空海にいわれ、星海は一瞬驚いた顔になる。心配事があった。その心配事を言い訳にして、自分の中の説明のつかない整理できないもやもやした気分を一掃したくてふらっと、今までにはしたことのない様な行き当たりばったりの旅行に出てきた。
説明のできないあの気分は、本当に根拠のはっきりしたものではなく、単に日常に埋もれていつの間にか目指すところもないままにただ漫然と生きることに感じる不安や焦りだったのかもしれない。それを認めてしまえば不思議なほどに気持ちが楽になった。認めようとして認めたわけではない。改めて空海に聞かれた今そう思うだけだ。たった二日ここにいるだけで、どれだけ周りに流されて感情までもかき回されていたのか分かるようだった。
「ちょっと心配事があるんだよ」
「心配事?」
すっきりした顔になってきているけれど、確かに少し時折星海の顔が曇るのは空海も気づいていた。人といつも接しているわけではない。でもきっとその分いつも当たり前に人と一緒にいる人よりも相手をよく見るようになっているのかもしれない。
「オレには三人、親がいるんだ」
「三人?」
聞き返す空海の驚いた顔に、星海は笑って頷く。
その笑った顔を見て空海はうん、と頷いた。三人とも、この人は親として大事に思っているのだ、と。
「二人は、血のつながった両親。もう一人は、実は一度も会ったことはないけど、その人がいなかったら産まれて来れなかった。名付け親」
「名付け親がいなかったら産まれて来れなかったの?」
「オレが産まれる時、その人の世話になって、その人のおかげでオレも母親も無事でいられた。何度も聞かされたよ。それでその人に名前を付けてもらった」
「へぇ」
興味深そうに頷く空海の顔はまるで星海が話している表情を映したように目を細めている。
ただ、その星海の眉間に皺が寄った。その話を星海にしたのは星海の両親だ。名付け親とは季節の挨拶や、そして特別に何かあった時などに手紙を交わすような関係を続けていたらしい。その手紙がある時から全く来なくなった。こちらからは送り続けていたけれど。そうして、いくら何でも心配になった両親が、色々手を尽くして調べた。
「名付け親にも子供がいて、その子達のことは何となく、兄弟のような気がして育ってきた。会ったこともないもう一人の親と、血もつながっていない兄妹」
「何かいいね」
「そう思う?」
笑いながら星海は聞き、そうして一瞬、空海が家族で映したといった一枚の写真に目を向けた。
「それが心配事なの?」
「まあそんなところかな」
「ふ~ん……」
空海は星海の顔をじっと見てから、少し考えてから笑みを見せる。
「心配事をわたしがどうかすることはできないけど、ちょっと気持ちが軽くなるかもしれないもの、見せてあげる」
「え?」
「星海さん、星の海って名前でしょ。文字通り、星の海を見せてあげるよ」
* *
その夜、昨日空海が案内した木の上の見晴台に登った。
天気がいいからとタオルケットをそれぞれ一枚だけ持って、枕をもって。
仰向けに横になると、視界いっぱい、何もさえぎるものもなく、邪魔をする人工的な明かりもなく、ただただどこまでも星を散らした空が広がる。月が冴え冴えとした光で明るく照らし、月が明るいために少し星の明るさは弱まってしまっているけれど、それでも肉眼で見える星の数は空にこれほど星が見えるものだったのかと思うほどに多い。
「星海さん、星座分かる?」
「ほとんど」
「星座ごとに、神話があるでしょ。すごいなぁ、って思うの。でも、肉眼で見える星がこんなに大きければ、いくらでも自由に星をつなげて絵を描けるよね。教科書で見る星座はその星をつなげてどうしてそんな星座の名前が付くものに見えたんだろうって思うけど、これだったら納得するの。ただ、あの明るい天を自由に繋いでこの大きな真っ暗なキャンパスに描けばよかったんだって」
言いながら空海は気持ちよさそうに夜の空気を星海の隣で吸い込む。
「空で見守っていて欲しい神様や、そうやって空の星にして永遠に生かしておくことでその災難を逃れたかった何かや……そういうものを描いただけなのかもしれない。でも、それを描いた昔の人や、それぞれに神話を与えた人はすごいと思うの。やっぱり」
でも、と空海は続ける。
「そういう神話も好きだけど、こうしてその下にいて、一瞬あの星空と自分しか存在しないような、自分もあの中に浮かんでいて自分の周りは全部星の海で、そこに漂いながら眺めているような、そんな想像をしていると、何よりもすごいのはそんな想像力を人に与えてしまうほどのあの星空だって思うの」
「ああ……本当だ」
深く息を吸い込むと、星空を吸い込むような錯覚を起こしそうになる。
空海が言う、星の海に漂っている感覚は何となくすぐに分かった。まさに今、星海もそんな風に感じていたから。漂いながら、そのまま吸い込まれるように眠ってしまえるように。




