第2章
嗅覚を刺激する匂いがそのまま腹に行った。星海は目を開けながら自分の腹が鳴るのをしっかりと聞き、頭をかく。香ばしいいい香りがする。ぼんやりとした頭のままで起き上がり、寝る時に開けたままにしていた窓の外を見る。海に向かって開いた窓の向こうには、呆れるほどの世界が広がっている。
ぱたぱたと軽い足音が近づいてきて、空海が部屋を無造作にのぞき込んだ。その無邪気な仕種に思わず笑みが浮かぶ。寝ぼけた顔のままで笑った星海に首をかしげた空海の足下には、人懐っこくしっぽを振り切れそうに振って歩いて回っているゴールデンレトリバーがいる。
「起きてた? 朝ご飯できたよ。パンでいい? 和食がよければ明日ね」
すっかり打ち解けた様子で言い置いた空海はそのまままたぱたぱたと戻っていく。足音を聞きながら思い切り腕を上にあげて星海は伸びをした。朝、こんなに気持ちよく目覚められるものだとは知らなかった。
窓辺の小さな木のテーブルは手作りのように見えた。その窓も開け放たれ、海からの風が家の中に入り、やっぱりあいているどこかの窓を通って吹き過ぎていく。
小さなテーブルの上にはフレンチトーストとチーズとハムを乗せてトーストしたパンがセットにして二つ皿の上にある。瑞々しいサラダと、淹れたてのコーヒーはいい香りをさせていた。
「牛乳欲しかったら冷蔵庫にある。星海さん、卵は両面? 片面?」
「片面の気分」
「は~い」
膝丈のジーンズによれよれのTシャツで空海はキッチンに向かって手際よく朝食を作ってしまう。細身の背中を星海はテーブルと同じように手作りのような椅子に座り、頬杖をついて眺めていた。
「はい、どうぞ」
片面だけ焼いた目玉焼きとソーセージ、それにフルーツを載せた皿をかたん、と空海はテーブルに置きながら自分も座る。パン、と手を合わせて「いただきます」と言いながらパンにかぶりついた。
「?」
その仕種に思わず笑いをこらえなくなった星海を不思議そうに見ながら、空海はどうぞ、と言うように手を出す。
「星海さんも食べて? 勝手に決めて作っちゃったけど」
「いただきます」
かじったパンは香ばしく焼けていておいしかった。どれも簡単なメニューのようだけれど、一つ一つの味がさりげなくおいしい。
「うまい」
「よかった」
にこっと笑いながら空海は大きな口で食べていく。星海も普段の自分よりもずっと、朝食だというのにどんどん腹に入った。
「いつも、一人の時にもそうやって食べてるの?」
「一人でいると、独り言が増えるんだよね」
複雑な顔で笑う空海に、星海もただ同じような笑みを返した。その、今の空海の言葉に返す言葉は、何を言っても空々しくなってしまいそうで。
* *
片付けはやると申し出た星海は朝食の後片づけをしながらふと、洗濯をしたり掃除をしたりとくるくると動いている空海を振り返った。
「空海ちゃん」
「はい?」
「……って、オレの洗濯物は……」
「気にしない気にしない。何か言いかけませんでした?」
慌てる星海を尻目に平然と星海の洗濯物を全て洗濯して干して歩いている空海は、少しだけ立ち止まった。何か言おうと考えながら、結局開きかけた口は言葉を思いつくこともなくため息だけを吐き出して諦めの笑みを浮かべさせる。
「宿泊費、どうしよう」
「いらないですよ。手伝ってもらってるし。今実際。こういうのも奇縁って言うのかな」
「……年が分からなくなることを言うね」
「そう?」
またくるくると動き回る空海の背中をしばらく目で追っていた星海は、途中で諦めたように肩をすくめ、朝食の後片づけを終えたシンクのあたりをついでに掃除する。手持ち無沙汰だったのもある。
「星海さん」
「ん~?」
今度は空海が星海を呼ぶ。半ばくらい掃除に集中してしまって生返事をする星海に、空海は外で洗濯物を干しながら言う。
「家のこと終わったら、泳ぎに行きましょ。今日はこの辺り、みんなご機嫌」
「ご機嫌?」
「そう」
面白い表現をするな、と思いながら外を見る。確かに、ご機嫌な天気だ。けれど何だか空海の言った意味はそうではないような気がした。本当に、海や空や、そして島や……そういうものの機嫌や気分があの子には分かりそうに思えてきてしまう。
「空海ちゃん、学校は?」
「ここから通える場所に学校なんてないよ。ほとんど通信」
* *
「どういう肺活量してるんだ」
勢いよく海面に顔を出しながら星海は呆れた声で言い放った。素潜りで空海はいつまでもイルカと一緒に水中を泳ぎ回っているように見えてしまう。まるで海に好かれているように、空海は地上を歩くのと同じような自由さで海の中を泳いだ。空海に促され、遊びに来た友達だというイルカにつかまり星海は引っ張ってもらう。その水を切る速さの気持ちよさは、風を切って歩き、走る心地よさに通じるものがあった。そして水の中の風景が早く過ぎてゆき、それさえも、何もかもが気持ちいい。
「星海さん、シュノーケル出してこようか? ダイビングの道具も一色揃ってるし。ボンベは酸素入れれば使えるよ」
「ダイビングはライセンス持ってないよ」
持っていなくてもできるんだったかな、と首をかしげると、空海は不思議そうに「ふ~ん」と中途半端に応じる。
「わたしだって、そんなの持ってないけどね」
「それはなんだか……納得だな」
「星海さん、泳ぐのうまくなったね、半日で」
「どうも。あいつらのおかげかな」
イルカたちを示しながら笑う星海に、空海も笑う。実地で覚えろと投げ出すようなやり方だけれど、上達は早い。目の前にイルカがいればなおさらだったのかも知れない。一緒に泳ぐのは、きっと憧れだった。
「昼飯食ったら午後も泳ぎたいな」
「……う~ん」
水から上がった空海は、まるで犬のように頭を振って髪の水気を払い、白い砂を裸足で踏んで家の方へ戻っていく。きっともう、洗濯物は気持ちよく乾いてお日さまの匂いをさせているだろう。
「まだ海で泳ぎ始めたばっかりだしやめといた方がいいよ」
「そんなに体力ないわけじゃないよ」
「泳ぐのって思ってる以上に体力使うよ。でも、そういう意味じゃなくて。午後は多分スコールがくるよ。海の中から海面を叩くスコールを見上げるのも面白いんだけどね。でも、波の動きが読みにくくなるから」
「スコール……って、雨?」
「そ」
干してあった洗濯の中から乾いたタオルをとって空海は星海に投げ渡す。不思議そうに雲がほとんどない青空を見上げている星海に、空海は笑った。空を見上げていたって、知らなければその予兆には気づけない。それは経験も関係してくるような類のものなのだから。
* *
まるで分かっているかのように島の中を自由に走り回っていた犬達が家に帰ってくる。きっとあのラグーンにはもうイルカたちはいないだろう。
犬達が帰ってくる少し前に空が不意に暗くなり、そして帰ってくるとそのうち激しい雨が降り出した。叩きつけるような雨は容赦なく海面を打ち、砂浜を穿ち、木々を打ち草花を打つ。耳に聞こえてくる音はそのスコールが大地を、色々なものを叩く音だけだ。
「すごいな……ほんとに南の島だ」
「南の島だもの。スコールは色々なものを洗い流してくれるの。大きなシャワーだよ」
それしか聞こえないような音に身を委ねるように、座っていた状態から顔をテーブルに伏せた空海の自然体の表情に、嘘のような勢いで降る雨にただ不安を感じていた星海は不意に気が軽くなり、音の世界に無心で身を預けてみる。それは震動を持った音の波で、身を任せてしまえばこれも気持ちいいものだった。
スコールの音に混じって、人工的な音が何とか自己主張しようというように鳴っているのに星海が気づいた時には、空海は立ち上がっていた。歩いていく先には懐かしささえ覚えてしまうような黒電話がある。この状態で電話での会話などできるのだろうか、と見ている星海の前で空海は受話器を取った。
受話器の向こうの声を聞いた途端に、空海の顔が曇ったのが星海にも分かった。曇りガラスになってしまったように、一瞬空海の表情が見えなくなる。寂しそうな腹立たしそうな、何とも言い難い顔がそこにはあった。
「スコールだよ。そっちも、うるさいね」
よく聞こえないとでも言われたのだろうか。そんな風に応じる空海の淡々とした顔を、星海は複雑な想いで見つめていた。何となく、さっきまではあれほどに身近で、一体化さえしてしまったようなスコールの音が何となく遠くなったように感じるくらいに。
『また、スコール……そこは相変わらずね』
「またって言うほどここを覚えているの? いいんだよ。気持ちいいわ。ゆっくり体を休めなさいって、そういう時間なのよ」
『まったく、あの人みたいな事を』
電話の向こうの、神経質で高い女性の声……母の声に空海はどんな顔をして話せばいいのか、いつも分からなくなる。忘れた頃に電話をかけてくる人。空海が物心着く前にここをでていった人。こんな生活をよく知らないまま憧れだけで飛び込んで、都会育ちの人は不便さについに慣れることができなかったのだ。
「……アキト、元気?」
母が連れて行った双子の兄。陽音のことは、空海も覚えている。産まれる前からずっと一緒だったのに、産まれた後で別れ別れになってしまった。
『……空海、今日電話したのは、そこに行くからって言おうと思って』
電話の声は空海が聞きたい答えを言いもせずに他のことを言う。空海が眉根を寄せた。何もなくてこんな交通の便まで悪い場所に苦労して来る人ではないと、もう分かるようになっているから。母が恋しいと言っていたのは小さい頃の話。その後で、どういう人なのか分かるようになった。空海の周りの人は誰も何も言わなかったけれど。この生活に慣れることのできなかった弱い人、というのが正確な表現でないことだけは確かなこと。
「いつ?」
『遅くても明後日には着くわ』
「寝るとこ、ないよ。今お客様がいるの」
電話の向こうの沈黙が空海には怖い。自分とは全く違う物差しを持っている人だから。何を考えているのか、何を言おうとしているのか予測がうまく立てられない。
こんな時にいてくれたら、と思う。父だけではなく、もう一人留守にしてしまっている叔父。この家の家族ではないけれど、そう言っていいくらいここにすっかり腰を落ち着けていた叔父も、仕事の関係で今は東京に行ってしまっていた。少し前まではニューヨークだったからそれでも近くなった。早く帰りたいと言ってきているけれど。いてくれれば、この電話を代わってくれたのにと思う。
『その家のことで、ちゃんと話がしたいのよ。いつまでもそこに一人で居続けるわけにもいかないでしょう。そこには、他に人がいない。人とのコミュニケーションをとらないままたった一人で生きていくつもり?』
友達だっている。中学校までは空海も学校に通っていたのだから。船に乗って。その友達が今も時折遊びに来る。空海も行ければ行く。別に完全に世間と切り離された無人島にいるわけではない。それを知っているはずなのに。
けれど、そんな反撥よりもいやなことを聞くことになりそうな予感が空海を身構えさせる。この家のこと、と、その漠然とした言葉が。それなのに、結局聞けたのは一つだけ。
「陽音も一緒?」
『一緒よ』
それっきり、挨拶らしい挨拶もせずに電話は切れた。
そっと受話器を置きながら空海は振り返る。スコールは最後の名残のように幾筋かを降らせて、その間にも雲間からは陽光が差し込んで海に伸びる光の柱を増やしていく。
じっとこちらを見ている星海の、もの問いたげな目に気づいて空海は肩をすくめて見せた。
「明後日、母と兄が来るらしいの」
「……それは、いたら申し訳ないな」
「気にしないで。……違う。言い直す。いて欲しい。どうすればいいか、分からなくなるの」
父が留守だ、としか言わなかった空海の家族構成は何となく想像がついていた。亡くなっているか、それか別れて住んでいる、別れている、そんなところだろうと。初めて見せた不安そうな表情に星海は思わず目をそらしながら頷いた。あんな顔をどんな顔をして見ろと言うのだろう。一人で留守番しているといった時にも、そうして過ごしている時にも、一人でいると独り言が増えるとそんなことを言った時でさえもあっけんからんと無邪気に笑っていた少女にそんな顔をさせること。
* *
電話の間中、心配そうにその足下でじっと空海を見上げていた三匹の犬と一緒に、星海は空海に島をスコールが上がった後で案内してもらった。本当に小さな島は、それでも歩きごたえがある。人の手がほとんど最低限しか入っていないためでもあるだろう。
家があるのと裏側に回れば岩場があり、そこからは急に深くなる海が眼下にある。そして、少し小高い場所に登ると、立派な木の枝に板が何枚か張られ、そこに登ってゆっくりできるようなスペースがあった。
「小さい時、父さんとおじさんが二人で作ったの。わたしのためって言ってたけど、半分以上は自分のためよ。こういうの、憧れてたんだって後でおじさんが白状したの」
その上に登ると、そこからはパノラマで海が見え、点在する島々も見える。憧れる気持ちも分かる。子供の頃は誰でも、こういうものに憧れる。テレビや本でそれを見て。それに憧れない空海は、それが当たり前にここにあったからだ。
何も言わずにただ気持ちよさそうにそこに座り、どこともなく見つめている星海の横顔を見やり、空海はほっと肩の力を抜く。あんな、わけの分からない出会い方をしたこの人の側は、まるで父や叔父といる時のような安心感があった。




