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くじらが唄う海  作者:
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第1章


 同じ日本のはずなのに、まるで南の島に来たような場所だった。青年が乗せてきてもらった船を下りるのに、それをつける港もない小さな島。南の方にある小さな島々が集まって一つの国を作っている、そんな国の島の一つのような印象を受けた。あるのはどう見ても手作りの浮き橋……いや、桟橋だろうか。ここまで乗せてきてくれた親切なおじさんは念を押すように尋ねる。

「本当にこの島なんだね?」

「はい。まさか定期船も通っていないとは思いませんでした」

 公的機関を使ってはここまで到着することもできない場所。一体どうやって他の人は来て、そしてこの島の人は暮らしているのだろうと思ってしまう。礼を言うと帰って行く彼は、何度も首を傾げていた。


 船の音に気づいたのだろう。島の中から人が歩いてくる。ショートパンツに半袖のTシャツ姿のほっそりとした少女だった。高校生くらいだろうか。

 怪訝そうなその顔が見えてくると、その顔に浮かんでいるのが警戒心だと分かるようになる。とりあえず青年は一つ頭を下げて笑顔を浮かべた。

「こんにちは」

「……こんにちは。何か御用ですか?」

「泊めていただきたいのですが」

 いやな沈黙が広がった。目の前の少女の、よく見れば目鼻立ちの通った顔に怪訝さを通り越した何とも言えない表情が広がっていく。

「何を……言っているんですか?」

 それでも控えめな言い方だったのだと、青年がそう気づくのはもう少し後。



        *               *



 ひとしきり結論の出ない不毛な言い合いをした後で、とりあえずはと言うことで少女はため息をつきながら彼女の家に案内してくれた。一周回るのにもそれほど時間を必要としないような小さな島。天気のいいその日は真っ青な海は真っ青という言葉で表現できない色をしていた。この世界にこれほどに色があふれていたのかと思うほどに、青と緑という言葉で言い表せるだけでも様々な色がまるで大きなキャンパスに散らばったように揺れている。その海の色は単純に空の色を映した色とは思えなかった。そして、案内してくれる少女……ようやく青年が名前を聞き出した空海そらみはその景色の全てに溶け込むように見えた。


 一方的な青年の勘違いだったことが分かるのに、落ち着いて話してみればそれほど時間は必要なかった。警戒心を顕わにしていた空海が微笑って納得するだけで信じてくれたのは、余程あからさまにがっかりしてしまっていたのだろう。

 人伝に聞いた話を信用して大して調べもせずに動いた自分も悪かったのだろうと思う。普段はそのような行き当たりばったりなことはしないのだけれど、それを行動に移すのにちょうどいい時は今しかないという時に聞いてしまい、よく調べる時間もなかった。

 小さな無人島のような南の島にアットホームな民宿があって飛び込み客も泊めてくれる。その周りは何もないけれどゆっくりと休むのにこれほど最適な場所はない、と。そう聞いてここに来たのだと青年……星海せかいは空海に説明をした。

「それにしても誰がそんな話を流したんだろう」

 空海は首をかしげながらグラスに氷を入れてそこに茶葉から出した紅茶を注いでアイスティーにして星海の目の前に置く。透明なグラスは汗をかいてカラン、と透き通った音をたてて氷が動いた。

 聞けばそうやって知った島の名前の場所にこうしてやっとの事できてみれば、この島は完全な彼女の家の私有地だという。そう話されて星海は完全にうなだれた様子を見せていた。なるほど、それでは仕方ないだろうとも思う。飛び込みで泊めてくれるも何も、事前に調べればあるという「民宿」に予約の手段もなかったことが分かっただけだろう。

 東京の大学に通っているという星海の顔を黙って見ていた空海は、仕方ない、と言うように立ち上がってのびをした。

「いいよ」

「え?」

「星海さん、悪い人じゃなさそうだし。奥に使ってない部屋があるから使っていいよ。あと一週間くらいしたら食料とかを持ってきてくれる船が来るから、それが来たら頼んで乗って帰ればいい。急いで帰りたいなら電話があるからしてもいいけど、ここに来たかったんでしょ? どっちでもいいわ。好きな方選んで」

「……え?」

 本気で驚いたように星海はまた聞き返している。

 他の家の人は出かけていて留守番中だという空海の話を聞いても、星海はそうやっておいてもらえるとは思わなかった。思わずたしなめる言葉が筋違いながら星海の口から出てしまう。

「空海ちゃん……それは……あまりよくないよ。うん。そんなに簡単に人を信用しちゃいけない」

 その言葉に空海はくすくすと笑った。きっと、今は留守にしている父がいたらいいと言っただろうと空海は答える。もちろん、娘と二人きりになるという状況でいいと言うかまでは口にしないけれど。



        *               *



 結局許されるままに星海は部屋を一つ借りてほとんどない荷物を広げた。明るく屈託のない空海の笑顔を思い出しながら自然と口元に笑みが浮かぶ。心配することは、なかったのかもしれない。


 しばらく父親が留守にしていて、二人暮らしの自分は留守番なのだと言っていた空海の話は本当らしかった。父親の部屋というのはいつ帰ってきてもいいように片づけられ、ついこの間までこの空間に一緒にいたかのような雰囲気が家の中にはある。

 夕方になり、空海の口笛の音に反応して島の中を走り回っていたらしい家族が戻ってきた。見事な毛並みのゴールデンレトリバーとボーダーコリー。それに、シェットランドシープドック。三匹の犬にご飯をやりながら空海は星海を振り返った。

「星海さん、ここには観光するつもりできたの?」

「癒されに来たんだよ」

「ふぅん」

 気のない返事で流しながら空海は思い切りよくのびをした。水平線に夕日が沈んでいく。次第に夜の帳がおりてきて、空に点々と星が増えていく、そんな時間だった。その空を空海につられるように見上げた星海は、空海に手招きをされるままについていく。


 浮き橋の突端に立った空海は、少し離れて立ち止まっている星海を手招いて隣に立たせた。ラグーンになっている入り江の、透明度の高い海の中を示す。夕日と夜の間のような空を映した入り江の水は、それでも何とかその中をのぞき見ることができた。

「……あ」

 思わず声が出た。それを飲み込もうとする仕種を笑って空海は頷く。大丈夫だというように。

「彼らも、家族?」

 あの犬たちをペットとは言いにくかった。星海のそんな言い方に、空海は嬉しそうな笑みを見せる。

「友達。遊びに来てくれる」

 二頭のイルカは鼻先を海面から出して笑うような鳴き声を立てた。その声に思わず星海は目を瞑る。こんな場所が地上にあるのかと思えるほどの場所。なるほど、ここは地上の楽園かもしれない。小さな小さな、箱庭のようなものだとしても。

「星海さんってどういう字を書くの?」

「星の海。素直には読めないだろう。みんな読み方に困るんだ」

「きれいな名前。空の星のことかしら、海の星のことかしら」

「海の星?」

「海の中に雪が降るの。それはでも、満天の星空にも見えるのよ」

 そんな風に話す空海の笑顔は、星海がいた東京では見たことのない様な笑顔だった。こんなことを話す女の子も、いない。

「名前を付けた人が、ロマンチストだったのね。お父さん?」

「名付け親が別にいるんだ」

 へぇ、と、今度は少し身を入れた返事をした空海は、自分の名前を砂浜に書く。それはすぐに波に消されてしまうような場所に。自分の名前と星海の名前を並べて書いた。

「わたしの名前は、空と海。こうして並べると、兄妹みたい」

「…………」

 何も言わない星海を訝しむこともなく、空海は苦笑いを浮かべる。

空海くうかい様っているでしょ。親は余程信仰心が厚いのか、罰当たりなのか紙一重だと思う人もいるみたい。でもその人とは関係ない名前なのに。やっぱりわたしの名前も読み方には困るみたい」

「関係ない?」

「関係ないの」

 含み笑いで空海は答える。

 不意に海に飛び込んだ空海はそのまま潜ってしまったようですぐには浮かんでこない。夜の海に潜る危険は知っている。知識では。そして、潜っているにはあまりに時間が長いと心配し始めてから、それからさらに少しして、思わず自分も飛び込もうとした頃にようやく空海が顔を海面に出した。その周りを一緒にイルカたちが泳いでいる。

 飛び込もうとしている星海に気づいた空海は、笑って首を振った。

「星海さん、慣れてないからいきなり夜はやめた方がいいわ。昼間、明るい時に泳いで様子見てからにして。わたし一人じゃ何かあっても助けられないもの」

 人騒がせな、と憤慨したいのにそれができない。あまりに自然体の空海と、そしてこの島の様子にどんどん気が緩んでいくようだった。


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