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話は今から二ヶ月ほど前に遡る。
わたしは突然マリーから自分、つまり公爵令嬢ヴァイオレットには婚約者がいると聞かされ、思わず上げそうになった素っ頓狂な声を飲み込んだ。しかも相手はこのたび爵位を受け継ぐトゥドール辺境伯家の嫡男だという。それならおそらくは家同士の政略結婚的なアレとして以前から決まっていたものだろうし、本当のヴァイオレットも当然知っていただろう。今さら驚いたりしては不審に思われかねない。
「そ……そうなんだ。そりゃあ、出席しないとね」
「はい。襲爵の式典の日取りは二ヶ月後の七月七日となります。まだ日にちはありますので、お嬢さまにもしっかり準備をしていただきます」
「準備……ね。と言っても、何を準備すれば……」
「それはもちろん……」
マリーはひとつ大きく頷いて、ずいと間を詰めてきた。そうしてベッドの上で体を起こしているわたしを威嚇するように見下ろし、迫力のある笑みを浮かべる。
「ご婚約者とはいえ、お嬢さまがルイ様にお会いするのはこれが初めてとなります。ならばこれから二ヶ月かけて御身を磨き上げ、最も美しい姿をお見せしなければなりません」
なんかやたらと気合の入った声音、そして目付きだった。いったいわたしは何をさせられるのか。それが何であれ三十年近く男っ気がなかった前の人生ではまったく無縁だったことに違いない。
「えっと……それでわたしは何をすれば……」
そう尋ねると、マリーはようやく表情をやわらげた。そうしてわたしの右腕にそっと触れて続ける。
「まずはゆっくりと療養されて、お怪我を治してください。大事なお身体に疵などあってはなりません」
グリフォンに掴まれた右腕の傷は、もうほとんど痛みはない。それでもまだ赤黒い痣と傷跡は残っていて、あと数度にわたって治癒魔術を受ける必要があるとのことだった。この状態では、肩まで出るようなドレスは着れない。だからまずは、この傷が消えるまで養生しろということか。
あとは作法に言葉遣い。それはこれまでも毎週講師が付いて仕込まれていたが、はたして本番でどこまでできるか。今後の授業はいっそう厳しいものになるのだろう。
それにしても婚約者か。さすがに聞いた瞬間は慌てたが、少し落ち着いてみればこの世界じゃ、そしてお貴族さまの界隈じゃそれも普通なのだろう。
それから少しずつ、できるだけさりげなくマリーたちから聞き出したところによると、どうやらこの婚約はもうだいぶ前から決まっていたものだとのことだった。
そもそもこの身体の父親であるグレインディール公爵と先代のトゥドール辺境伯は、先の戦争の折には肩を並べて最前線で戦った戦友だという。そして戦後もその友誼を確かなものとして次代にも繋ぐため、互いの子を娶らせて縁戚を結ぶ約束をしたのだとか。
そして当初は兄のアルフォンスの元にトゥドールの令嬢が嫁ぐこととなっていた。けれどそのトゥドールの令嬢であるフランソワ嬢は生まれつき病弱で、不幸にも二十歳を迎える前にこの世を去ってしまった。残るトゥドールの子息はみな男子であったため、次にはわたし、このヴァイオレット嬢に白羽の矢が立ったということだった。
当時、ヴァイオレットは十歳。相手のルイ氏は二十六歳。歳は離れていたが、まあ貴族の結婚なんてそんなものなのだろう。それに辺境伯という位は、お貴族さまの中でも決して低いものではないらしい。東の帝国との国境線を守る重要な責務と一緒に、広大な領地の執政権を有し、王国内でも多くな影響力を持っているという。さらには先代の辺境伯夫人、つまりはルイ氏の母親であるジュリエットは王国の第四王女でもあった。よってトゥドール辺境伯家は王家の縁戚にあたり、新当主のルイ氏は第八位にあたる王位継承権も持つという。
ともなれば、この身体の持ち主であるヴァイオレット嬢にとっても良い話なのだろう。政略結婚といえばその通りであるが、向こうにとっても公爵家との繋がりは大事である以上、きっと大切に扱われるはずだ。ならばわたしが粗相をして破談にでもなれば、彼女の人生を台無しにしてしまいかねない。しっかりと婚約者を務めないと。
どの道、わたしが結婚するわけではないのだ。ならば何も気にすることはない。正式に輿入れするのは、ヴァイオレットが十八になり成人したらのち。わたしはそれまでに、この身体を彼女に返して元の世界へ帰る。帰ってみせる。
「それにしても……竜かぁ」
そうつぶやいて、馬車の窓から空を見上げる。そうして馬車の列を先導するため、上空を悠然と飛ぶ巨大な生物をあらためて見た。
硬い鱗に覆われた茶褐色の身体。骨ばった長い腕(前脚と呼ぶべき?)の後ろにはためく薄膜のような翼。水中に漂うように左右に揺れる尾。それはまごうことなく、ファンタジー映画やアニメで観たドラゴンそのままで、まさかこの目で実物を見ることになるとはと感動してしまう。
これから向かうトゥドールは『竜の国』だという。
魔術師は数えるほどしかいない代わりに、民は竜に愛されている。国境近くにある神なる山に住まう竜たちは、トゥドール辺境伯家と盟約を結び、特別な加護を与えたという。そして代々の辺境伯家とともにその地を守ってきた。
千年を生きると言われる竜は誇り高く、簡単には人にその背に乗ることを許さないそうだ。そして竜に選ばれた者は竜騎士となり、生涯一騎の竜とともにその絆を深めてゆくのだ。だからわたしも乗せてほしいと願っても、案内役の竜騎士からやんわりと断られた。馬車なら数日かかる道のりも、竜なら一日とかからずひとっ飛びだというのに。彼自身はよくても、竜が許さないと。竜たちにとっては、一兵卒も公爵令嬢も関係ないらしい。
わたしもトゥドールで暮らせば、竜と心を通わせることもできるのかもしれない。しかしそのような日がきても、そのときのこの身はもうわたしではないだろう。となれば、あの背に跨ることは断念するしかないだろう。
そして目を地上へと巡らせると、馬車と並行して街道の両端を進む騎馬の列。わたしの護衛として派遣されたグレインディール街道警備隊だった。先の騒動では犠牲者も出し、また事後の調査で多くの内通者が見つかり放逐されたものの、新体制の元で組織は立て直され、騎士団は固い結束を取り戻したと聞いた。それは、長い道のりにもかかわらずまったく乱れのないその隊列を見ればわかる。
とはいえ、ここまでの道中はきわめて平穏そのものだった。ならず者の襲撃を受けるどころか、その姿さえ見かけない。以前はこの街道でも、フィールズ一家による荷馬車の襲撃が絶えなかったと聞くのに。
「それにしても平和なものね。ここまで何もないと退屈だわ」
「そういうことは言うものではありませんよ、お嬢さま。何事もないのが一番です」
「フィールズ一家は最近どうなの。まだ特に動きもなし?」
先日の一件では彼らの抱えていたヤミ魔術師の多くを拘束し、また幹部であったヴォロヴィッツも討ち取られた。フィールズとしても痛手ではあったろうが、それだけに何らかの報復も危惧されていた。しかし今のところ、目立った動きはないようだった。
「そうですね。彼らは拠点としたボールドウィン領に引きこもったまま、徒党を組んで場外へと出てくることも滅多にないよう。おかげで物流も安定して、民も喜んでおります」
それは先日報告に来てくれたオハラ隊長たちも言っていた。そのため食品の価格も下がり、商売も活性化しているという。
「もちろん嵐の前の静けさとも言いますし、警戒を怠るべきではありませんが」
そうね、と頷く。もちろん公爵家も騎士団も、気を緩めてはいないだろう。それに警戒すべきはフィールズ一家だけではない。先日は止むを得ず共闘はしたが、ウォレン兄弟だって所詮はならず者たちだ。いつわたしたちに牙を剥くかわからない。
「ところでこれから向かうトゥドールの治安はどうなの。フィールズはあちらでも暴れてたんじゃないの?」
「さて……それはどうでしょう。トゥドール竜騎士団は王国最強ですので、そのお膝元で悪さをする者がいるとも思えませんが」
なるほど、と一応は納得する。それは屋敷にいるときに書物で読んだことがあった。戦争が終わって各地の軍は王命によって解体されたが、トゥドールだけは例外だったと。そもそも、解体などできるものではないのだ。
竜とは、本来は人類にとって強大な敵なのである。長らくこの地は飛来する竜によって、甚大な被害を受け続けてきた。しかしトゥドール辺境伯家の祖であるジャン=ピエール・トゥドール卿がはじめて竜の王と盟約を結び、それを鎮めたという。以来、辺境伯家と竜たちは強い絆で結ばれてきた。
だからトゥドール竜騎士団は強力な戦力であると同時に、竜を鎮める役も負っているのである。だから解体することもできなかった。その盟約を反故にすることは、王国が再び竜たちの脅威に晒されるということでもあるからだ。ゆえに各領が軍事力を失い弱体化する中で、トゥドールだけは戦時のままの武力を保持し続けているというわけだ。
と言っても、トゥドールは決して王国に牙を剥くことはない。竜の力はあくまでも、竜の住まう山を含むトゥドール領を守るためだけに使われる。その力を私的な欲望を満たすために使おうとすれば、辺境伯家はたちまち竜の加護を失ってしまうからだ。だから王国も、その武力を恐れながらも黙認している。
そんなトゥドール辺境伯領である。いかにフィールズ一家が欲深く見境がなかろうと、そうそう好き勝手に暴れられるものでもないだろう。しかし。
「なんか……それはそれでフラグっぽいけどね」
ふと胸をよぎったそんな一抹の不安を、わたしは小さく笑って振り払った。そうして再びゆっくり流れる窓の外へと目をやると、その視線の先をマリーが指さした。
「ごらんください、お嬢さま。竜の山が見えてまいりました」
その指の先には、確かに山影があった。まだ遠くに霞んでいるが、そのシルエットははっきりと見える。見渡す限りの平原に、忽然と現れて天を衝くようにそびえている。周囲には山脈を形成するような他の山嶺はまったく見当たらない。
その異様ともいえる不自然さが、なるほど神聖な山なのだと納得させた。そりゃ、竜くらい棲んでいてもおかしくない。
そしてその麓に、わたしたちが向かっているトゥドールの街がある。この分なら、今日の日が沈むまでには着くだろう。




