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屋敷に戻って自室で一息ついていると、またマリーが知らせを持ってきた。どうやら留守中に来客があったらしい。
来客はあのドニ・ルヴァンだった。どうやら彼自身こそは罪を免れたようだったが、兄のジェラールは捕縛され、ルヴァン商会も廃業を余儀なくされていた。
「なんでも、どこかよその土地へ行って行商からやり直すのだとか。お嬢さまにも、今回のことでは大変感謝しているとお伝えくださいとのことでした」
彼ももう決して若くはない。再出発は楽ではないだろう。それでも、商人であることは止められないのだ。
「そう。元気そうならよかったわ」
これで、今回の事件もすべて落着といったところだろう。もちろん首謀者の多くは野放しのままで、危機が去ったとは言えない。けれど騎士団も聖教会も獅子身中の虫はあらかた排除され、今後も警戒を強めることだろう。少なくともしばらくは、同じことが繰り返されることもあるまい。
窓辺にもたれて耳をすますと、この公爵邸の中にも街の喧騒がかすかに伝わってくる。おそらく大半の市民は、何が起こっていたのかも知らぬままだろう。でもそれでいい。感謝などされずとも、ただ市民たちの日々の安寧を守り続けることが領主とその一族の役目である。
「それは警察官も同じね」
思わず口に出してそう呟いてしまうと、マリーは訝しげに眉をひそめた。おっといけない。
「……はい?」
「何でもないわ。ひとり言よ」
ともあれ、これで少しは自分の時間も作れそうだった。そろそろまた元の世界へ戻る方法を調べることも再開しなければならない。もっとも相変わらず手がかりらしい手がかりはなく、何をどう調べればいいのかさえもわからない。けれどあの白い世界で『わたし』に啖呵を切った手前、そうそう途方に暮れてなどいられない。
そう言えばあのとき『わたし』は、近いうちに何かチャンスが訪れるようなことを言っていたが、それらしいものは何も思い当たらなかった。まああんな夢か現実かも定かでないものなどあまり当てにもならないのは承知しているのだけど。
「それでマリー、今日のこのあとの予定は?」
「何もありません。お嬢さまはまだ傷が癒えておられないのですから、どうかご静養ください」
「少し痛むだけでもう特に不便はないよ?」
「それでもです。お嬢さまは大事なお身体なのですから」
あの夜無茶をしたことを暗に咎められているのか。そうなら、ここは素直に従っておくのがよさそうだった。それにわたしとしてもそのほうがありがたい。落ち着いてゆっくり考える時間もとれる。
「わかった。じゃあそうさせてもらうよ。マリーも大活躍だったんだから、ちゃんと休みはとってね」
「お気遣い、ありがとうございます」
彼女は恭しく頭を下げ、部屋を出て行った。そして扉の向こうでもう一度こちらに向き直る。
「それでは、のちほど治癒師とともに参りますので、それまでお休みください。そのときに、また包帯をお替えいたします」
「そうね。お願い」
そう言って、わたしはまだ包帯が巻かれたままの右腕を撫でた。正直、この包帯ももう必要ないような気もするのだが。痣や傷跡も、少し袖の長い服を着れば隠せるだろうし。
しかしそんな仕草が、不安がっているかのようにも見えたのだろうか。マリーはわたしを元気づけるような口調で続けた。
「ご心配なく。その傷も、すぐにほとんどわからないほど綺麗に治るとのことです。来月には、きっとドレスも着られますよ」
「来月……って、何かあったっけ?」
わたしがそう尋ねると、彼女は一瞬驚いたように目を丸くした。けれどすぐに、くすくすと笑いだす。
「またお惚けを。来月といえば、トゥドールにてルイさまの辺境伯襲爵式典がございます。お嬢さまも心待ちにされていたのでは?」
おっと、それは公爵令嬢ヴァイオレットなら知っていなければならなかったことか。ならばここはうまく話を合わせておかなければならない。
しかし襲爵、つまりは代替わりの式典ともなれば、当然それはトゥドール辺境伯領で行われるのだろう。それにわたしも出席するとなると、当然このグレインディールを出て彼の地へ赴くこととなる。外の世界をこの目で見るいい機会だった。さては、あのとき『わたし』が言っていたチャンスとはこのことか。
「そう……うん、そうだったわね」
と、とりあえず頷いておく。果たしてその先で何ができるのか、どれだけの自由が与えられるのかはわからないが、とにかく好機ではある。ボロを出さないようにしないと。
「でも、本当にわたしがそんな式典に出席していいのかしら」
ひとつの王国といえど、ある程度各領の自治が認められているこの世界では、領主同士の交流はいわば外交である。その場に招かれるということは、大きな責任も伴うのだろう。もちろん兄アルフォンスも、ことによっては王都にいるという公爵も参席するのかもしれないが……
「……何をおっしゃいますか」
マリーはなおも微笑みをたたえたまま、何を今さらとでも言うように続けた。
「新たな辺境伯となられるルイさまは、お嬢さまのご婚約者ではないですか。その晴れの舞台にお嬢さまがいらっしゃらなくてどうするのです」
そう、そうよね。と、わたしは頷いた。そして、耳に入ってきた単語を反芻するようにつぶやく。
「婚約者……ん、婚約者?」
そしてようやくその言葉が意味するところに思い至って、慌ててマリーを振り返る。しかしもうすでに、そこに彼女の姿はなかった。
「……は?」
婚約者とはすなわち、将来結婚する約束を交わした相手のことである。結婚。二十九年、まるで男っ気なしに過ごしてきたこのわたしが、結婚?
いや誰と。辺境伯とかいったけど、わたしはそんな人に覚えはない。会ったこともない。顔も知らない。でも、結婚。
「はあああああああっ⁈」
混乱したまま思わず大声を上げてしまったが、それを聞く者はもう誰もいなかった。
第一章 終




