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「武器を捨てろ、ユリアン」
オハラは言った。その声は低く落ち着いていて、いっそ優しげですらあった。
「この建物の外も、騎士団の人間が囲んでいる。お前に逃げ道はない」
ビトーの表情が、明らかに揺れた。一瞬何か言い逃れの言葉を口にしかけて、すぐにそれは通じないと悟ったのがわかった。彼は彼で、調査隊の隊長に思うところはあったのかもしれない。いつかオハラが自分のヒーローであるかのように話していた言葉も、すべてが嘘ではなかったのか。
「……どうやら、そのようですね」
ビトーは奇妙に落ち着いた、むしろ晴れ晴れとした声で言った。けれど言われた通りに武器を捨てはしなかった。そのときになってようやく見えた彼の手の中の短刀は、ちょうどゴードンの傷の形状に合うサイズだった。
「もう一度言う、ユリアン。武器を捨てろ。さもないと、お前を斬らなければならなくなる」
オハラのその言葉にも、彼は嬉しそうに表情を緩めただけだった。
「ああ……いいですね。一度でいいから、隊長と本気で立ち合ってみたかったんです。何も隠さずに、本気で」
張り詰めていた空気が、いっそう密度を増してゆく。ビトーの立ち姿は隙がなく、どうやらわたしが思っていた以上の使い手であることはわかった。それでもオハラを含めたこの人数であれば、さすがに遅れを取ることもないだろう。
ただしそれも彼ら騎士団が、本気で容赦なく剣を振るえればの話だ。つい先ほどまで仲間だった相手に、果たしてそれができるのか。いや、オハラたちであればできるのだろう。できるのだろうけど。
「待って、オハラ隊長」
わたしはそう言って、剣に手をかけた彼を制した。そうしてもう一度、ビトーに向き直る。
「あなたはさっき、『こういう風に仕込まれた』って言ってたわよね。だからこういう風に生きるしかなかったと。それはいったいどういうこと?」
彼の生い立ちについては先だって少し聞いている。しかしそれとは別に、まだ聞かされていない過去があるのか。
「仕込まれたってことは、あなたにその技術を教えた者がいるということよね。いったいそれは誰なの?」
ビトーは満足げな笑みを浮かべながらも、その口を開きはしなかった。けれど、その問いに対する答えは背後の闇の中から聞こえてきた。
「パターソン修道院。そのくらいは想像もつくだろうよ」
振り返ると、居並んだ騎士団員たちの後ろから近づいてくる影がふたつ。目をこらすまでもなく、その声でわかった。マーカス・ウォレン。その隣にいるのは兄アルフォンスか。兄はまだ身体も本調子ではないようで、気怠そうに足を引きずっているのが見て取れた。
「どういうこと?」
「だからあいつらの『商品』の売りは、ガキどもに小さいうちからそういう技能を仕込んであるってことだったのよ。殺しが得意なやつ、盗みが得意なやつ。アルカロンのような禁術に長けたやつもいたらしいな。なるほど、そりゃあ高く売れるわけだぜ」
つまりはこのユリアン・ビトーもそのひとり、物心もつかない幼き頃から殺しの技術を叩き込まれてきた子供だったということか。
「じゃあニミッツが修道院を襲ったのもそれが目当てで?」
「さあ、それはどうかな。何しろパターソンの『客』は各地の領主、上級貴族ばかりだ。ニミッツごときにそこまで掴めていたかどうか」
じゃああなたたちだって同じじゃないか、と思ったが口にはしなかった。彼の情報源については、薄々察しがついたからだ。
「マーカス・ウォレン。お前がどうしてこんなところにいる?」
警戒心をむき出しにして、オハラが尋ねた。確かに彼らからすれば、ならず者の首領が城壁内どころか、公爵邸の中に現れたことは看過できないだろう。しかしそれについては、説明していなかったわたしのせいでもある。
「わたしが頼んだのよ、オハラ隊長。お兄さまの護衛としてね」
ビトーが『手土産』として狙うのが、わたしではなく兄である可能性も捨て切れなかったからだ。そのため、ウォレンには本邸へ詰めていてもらっていた。結果的には杞憂だったわけだが、だからと言って騒ぎを察してここまで顔を出すとは思っていなかった。それはさすがに計算違いだ。
ウォレンの隣に立つ兄アルフォンスの姿を認めて、オハラも渋々納得したようだった。
「では……どうか本邸へお戻りください、代理どの。ここは危険でございますゆえ」
「確かにそうしたいのは山々だな、オハラ隊長。しかし大事な妹の命を狙われて、兄としてはじっとしてはいられなくてね」
そうは言いながら、兄は立っているのもやっとのようだった。膝は小刻みに震え、額には脂汗を浮かべている。まだ魔力切れからたいして回復できていないのだろう。それでも妹のわたしが自分を囮にして暗殺者をおびき寄せるような作戦を実行していると聞いて、いても立ってもいられなくなったということか。心配をかけてしまったことは素直に申し訳なく思う。
しかしこの兄が、そこまで妹のことを心配するとは思っていなかった。この身体の本来の持ち主であるヴァイオレット嬢のことを思えば、家族仲が良くて何よりと喜ぶことなのだろうが。
「大丈夫ですよ、代理どの。ヴァイオレットお嬢さまのことは、我々騎士団が命に替えてもお守りいたします。この者も、もはや逃げ道はありません」
「……なるほど」と、答えたのはウォレンだった。「それでどうなんだい。お前らに、こいつを殺せるのか?」
「……殺す?」
「おいおい、まさかこの後に及んで、殺さずにこいつを止められるなんて思っちゃいないよなぁ?」
言われて、視線を再びビトーに戻した。彼は依然として、武器を握った手をだらりと下げたままそこに立っている。構えるでもなく無造作に。けれどまったく隙はなく、間合いに踏み込めばためらわず攻撃されるだろうことはわかる。取り囲んだ騎士団員たちも、その包囲を狭めることすらできずにいるようだった。
「だができるのか、甘ちゃんのお前らによ……昨日まで仲間だと思ってたやつに、本気で剣を振るえるのか?」
そう言って、ウォレンは前に進み出てきた。
「……何が言いたい?」
「だから、ここは俺にやらせろってことさ。うちは若いのをこいつにやられてる。だから麗しい仇討ちってやつだよ。この俺が、この腕で、この剣で……でないと示しがつかねえだろうが」
そんなやりとりも、ビトーはひとり興味なさげに見ているだけだった。彼にしてみれば相手は誰でも同じ、ただ向かってくる者に相対すればいいだけということか。しかしその立ち姿を見ても、なまなかの者では歯が立つまい。おそらくこの場で彼の相手になりうるのは、オハラかウォレンのどちらかだけだろう。
「下がれ、ウォレン。ここは城壁の内側、ましてや公爵邸の中だ。お前のような男が好き勝手をしていい場所じゃない」
しかしそのふたりは、この期に及んでもなおいがみ合ったままだった。やはりそもそも、彼らを協力させようなんて無理な話だったのかもしれない。とはいえ今はそれどころじゃない。下手に余計な争いをしていれば、足をすくわれても不思議はない相手なのだ。
「ふたりとも、いい加減にして」
わたしはふたりを制して、前へと進み出た。そして手にしていたショートソードを抜き放ち、鞘を投げ捨てる。
「あなたたちがそんなようなら、わたしがやるわ。オハラ隊長、騎士団の皆さんを下がらせて。無駄に怪我人は出したくないわ」
「お待ちください、お嬢さま!」
「待たないわ。あなたもそれでいいでしょう、マーカス?」
狡い手であることはわかっている。でもわたしがこう言えば、オハラもウォレンもつまらない口論はあと回しにして前に出ざるを得ない。協力してくれるかはわからないが、ふたりとも一流の兵士だ。いざ始まってしまえば、あとは自然に身体が動くだろう。
ビトーもだらりと下げていた手を、ゆっくりと持ち上げて構えた。無造作に見えるが、やはりまったく隙はない。右からも、左からも、打ち込める気がしない。
ではどうすると思案していると、不意にビトーの頭上で闇が揺らぐのが見えた。いや、それは目で見えるものではない。ほんのかすかに、肌で感じ取れるくらいの気配。彼が何かを仕掛けようとしているのか。あるいは、彼さえもまだそれに気付いていないのか。
それに構わず、オハラが踏み込もうとするのがわかった。わたしはそれを手で制し、揺らめく闇を見上げた。するとオハラもウォレンもそれに気付いたか、はっと足を止める。
次の瞬間、窓から差し込む月明かりを映して白刃が閃いた。それは突然音もなく星でも降ってきたようで、けれど確かにビトーを狙っていた。彼もその直前で気付いて、反射的に身を引いて避ける。けれどわずかに避けきれず、火花を散らして得物を弾き飛ばされていた。
「……アンジュ?」
一瞬の火花に照らし出された相貌は、間違いなく彼女のものだった。石敷きの床に降り立ったアンジュは避けられたことも想定内だったのか、すぐさま切り返して手にしていた暗器を逆袈裟に走らせる。ビトーは自らの喉笛に向けてのその一閃も、上体を反らせて紙一重で躱した。
けれどその攻撃も、どうやら囮だったらしい。アンジュは躱されることも織り込み済みだったような自然な動きで、身を沈めて地を這うような旋風脚を放った。ビトーもさすがにそこまでは予想外だったようで、軸足を刈り取られてたまらず背中から倒れ込む。
すべては瞬きひとつほどの間の出来事で、あまりの疾さにわたしたちはただ見ているしかできなかった。倒れたビトーに素早く跨ったアンジュは、ためらいもせず刃を振り下ろした。しかしその刃先は、喉笛を貫く一寸手前でぴたりと止まる。闇の中から伸びてきた白い腕が、絡みつくように彼女の攻撃を制していた。
「それはなりません。お止めなさい」
低く、有無を言わさぬ響きをもった女の声が聞こえた。マリーの声だった。いったいいつの間に、彼らの背後を取っていたのか。わたしやオハラたちですらただ見ていることしかできなかったのに。
「放せっ……こいつは、兄弟を!」
「よろしいですか。ここはヴァイオレットお嬢さまが日々を過ごされる場です。それを汚い血で汚すことなど許されません」
「でもっ……こいつはぁっ!」
そのとき、まったくの無表情だったビトーの目が見開かれた。まるでそのときになってようやく、自分を追い詰めた相手が誰なのかに気付いたように。いやしかし、彼とアンジュは面識などなかったはず……
「……お前は」
彼はわずかに唇を開き、何かを言いかけた。けれどそのつぶやきも、固唾を飲んで機を窺っていたらしい騎士団員たちの怒号にかき消される。
「確保っ、確保ぉっ!」
三方から一斉に、男たちが飛び出してきた。そして次々に身を投げ出すようにビトーに覆い被さり、その手足を拘束する。
彼らに押しのけられるようにビトーから引き剥がされたアンジュは、まだ身を捩ってマリーの手から逃れようとしていた。
「放せ、放せよっ、そいつは……あたしがっ!」
けれどそれも無駄な抵抗だったらしい。マリーはわたしに向けて小さく頷き、彼女を引きずるように下がらせてゆく。おそらくアンジュのことは任せてくれということだろう。
ビトーももう、抵抗するつもりはないようだった。オハラはゆっくりと前に進み出て、先ほど彼が取り落とした短刀を拾い上げる。そうしてようやく、安堵したように息をついた。
「どうやらこれで一件落着みたいね。あなたはどうする、マーカス。まだ何か……」
まだ自分に片を付けさせろとゴネはしないかと、わたしはウォレンを振り返った。しかし彼は返事もせず、ただ立ち尽くしているだけだった。その表情はおよそ彼らしくなく、狼狽えたように口を半開きにして固まっている。
「……マーカス?」
もう一度呼びかけると、ようやく彼は我に返ったように身を震わせた。そうしてようやくわたしに目を向ける。
「あ、ああ……何だ?」
「だから、ユリアンのことはこのまま騎士団に任せるわ。あなたもそれでいいわよね?」
ウォレンはゆっくりと力なく目を巡らせ、騎士団員たちに引き起こされようとしているビトーを見やった。それから肩を落として、また「……ああ」と繰り返す。
「いいさ。好きにしろ」
そう絞り出すように言ったならず者の親玉の姿は、何だか急に年老いたかのように見えた。




