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それからあとのことは、あまりよく覚えていない。魔力切れのせいで立つことすらできず、意識こそ失わなかったもののずっとマリーの背で朦朧としていたせいだろう。気が付けば部屋のベッドで横になっていて、すっかり日も高くなっていた。
何とかベッドの上で身体を起こせるようになって、まるで流動食みたいな昼食を採ったあとに、オハラがワッツを伴って報告にやって来た。城門前に集まっていた集団は、計画の失敗を悟ると結局何もせずに去って行ったのだという。
それで騎士団は城壁内に残っていた残党の掃討にあたっているらしい。これまでに十数人のヤミ魔導師を拘束したが、まだ多くの者が街中に潜伏しているものと思われるとのこと。ただし捕らえた魔導師から引き出した情報で、城壁内の彼らの拠点も明らかになりつつあり、先日の賊の残党も合わせて摘発は進みそうだという。しばらくは調査隊もそちらで手一杯だろう。
ただしいい話ばかりではなかった。おそらく今回の一件に深く関わっていたとみられる騎士団団長補佐のチャールズ・ブラックソーン。そして聖教の大司教であったマニングという男。そのふたりは、今朝何食わぬ顔でグレインディールを離れ、王都へと帰って行ったという。騎士団もオハラも、それをどうすることもできずに見送るしかなかったとのことだ。無論彼らは彼らで王都に戻ればそれなりの処分は待っているのだろうが、それにわたしたちは関わる権限を持っていない。悔しいが、あとは騎士団や聖教の中枢がまともであることを祈るだけである。あまり期待はできないが。
ただ、ルヴァン商会の会頭であるジェラール・ルヴァンだけは捕らえることができたらしい。聞けば店を騎士団に取り囲まれても抵抗は見せず、捕縛された際はむしろ安堵しているようだったとのことだ。
彼らが職務に戻っていくと、入れ替わりにマリーが部屋に入ってきた。そしてまた血が滲みはじめていたわたしの左腕の包帯を交換してくれる。
あのとき鉤爪に掴まれていた左腕は、骨折こそしてはいなかったものの酷いものだったらしい。赤黒く内出血して腫れ上がり、ところどころ硬い鱗で皮膚が破れて出血もそれなりだったとか。怖いので、自分ではまだ傷口は見ていない。
「おいたわしいことです、お嬢さま。痛みは大丈夫でしょうか?」
「薬ももらってるし、痛み止めの魔術もかけてもらったから平気。ただ少し眠いかな」
もちろんすぐに治癒術師たちの施術も受けたのだが、それもすぐに傷が治るというものでもないようだ。これから数日に分けて治癒術をかけてもらう必要があるが、それでも痣は残るかもしれないとのこと。まあ、それならそれで構わない。名誉の負傷というものだ。
「アンジュのことは責めないであげてね。あのとき彼女がああしてくれなかったら、今頃はもっと酷いことになってた。昨夜のいちばんの殊勲は、アンジュよ」
「しかし、お嬢さま……」
「いいの。今回の件が終わっても、あの子にはここにいてもらうわ。いいわよね、マリー?」
アンジュも昨夜は大変だったが、それでもわたしよりも早く目を覚まして、今日も朝からメイドの仕事に復帰している。もちろん彼女はウォレンからの借りもので、用が済んだら兄弟に戻るつもりでいるだろうが、わたしはこのままここにいてもらう気でいる。おそらくはウォレンも、内心ではそれを望んでいるだろう。
「それで、お兄さまの具合はどうなの?」
「ご心配なく。アルフォンスさまも先ほど目を覚まされました。しばらくご静養が必要とのことですが、それも良い機会かと」
兄アルフォンスもまた、昨夜の結界崩壊のあとしばらく意識を失っていたと聞いた。おそらくはわたしやアンジュと同じく、魔力を使い果たしたためだろう。それでも命に別条ないなら良かった。
「今回のことだけでなく、日頃のご心労もあったのでしょう。しばらくは安静にしていただくことになります」
「そうね。わたしからも、そう伝えて」
とは言ったものの、代理の領主である兄がいなくてこのグレインディールは大丈夫なのだろうか。ただでさえ、こんなことが起きた直後である。けれど街中の治安はオハラたち騎士団に任せておけばいいし、案外どうにかなるものなのかもしれない。
再び眠気にまかせてまどろんでいると、気が付けば窓の外は暗くなっていた。時計がないので正確な時刻はわからないが、おそらくはもう深夜に近いのだろう。中庭を挟んで向かいに見える本邸も、すっかり明かりを落として闇に沈んでいた。
だとすると夕食の時間はとっくに過ぎているということだが、マリーが気を利かせて起こさずにいてくれたのだろう。幸い寝ていただけなので、空腹は感じなかった。
ベッドを下りて、柔らかなカーペットの上に立ってみる。多少ふらつきはするものの、さほど辛くもなかった。せいぜい半日程度休ませてもらっただけで、少しは回復したらしい。これも日頃の鍛錬の成果か。
「さて……と」
わたしは部屋の隅に向かうと、鏡台の裏に隠してあった剣を手に取った。騎士団が腰に帯びている剣よりは短く、短剣と呼ぶには長く。昔の脇差ってこのくらいの長さだったっけ、とふと思った。何にせよ、室内で取り回すにはちょうどいい長さだ。
そうして部屋を出て、石造りの廊下を見渡す。頼りになるのは、小窓から差し込む仄かな月明かりだけ。誰の姿も見えなかった。気配もまったくない。それでもわかった。意識の焦点を合わせず、ぼんやりとあたり全体を感じる。
そうすると、浮かび上がってくるかすかな違和感。薄膜の上から肌をちくりと刺すような。確かにある。誰かがいる。
「待っていたよ、ユリアン」わたしは闇の向こうに言った。「隠れてないで、出ていらっしゃい」
前方の闇の一部が、ぬるりと音もなく揺らいだ。そうしてそこから切り取られたかのように、人の形の影が現れる。それは依然として静かに、ゆっくりと滑るように近付いてきた。
「どうしてお分かりになりましたか、お嬢さま」
「んー……何となく、かな」
刑事の勘と言ってあげたかったけど、わかりゃしないだろうなと自重した。
「ただあなたが来るだろうってことは予想してたからね。むしろ、思ったより遅かったから待ちくたびれたよ」
佇まいも、足運びも、前に立ち合ったときとはまるで違う。これが本来の彼の姿なのだろう。新米騎士団員のフリで隠し続けてきた実力。明らかに特殊な訓練を受けて身に付けたものとわかる動き。
どうせならこの間も、こっちの彼と立ち合いたかった。今夜は、わたしのほうが本調子とは言えない。確かにこの長さの剣なら片腕でも取り回せないこともないが、いざというときに持ち替えられないのは大きなハンデと言える。
「ルヴァン商会の事件、ゴードンというウォレン兄弟の密偵を殺したのはあなたよね、ユリアン」
わたしのその言葉にも、ビトーは別段驚いた様子はなかった。
「どうしてそう思います?」
「はっきりとした証拠があるわけじゃないから、否定してくれてもいいんだけどね。ただあなたが騎士団で力を隠していることとか、あとあの日、あなたが遅刻とか言って途中から現場に現れたこととか。もろもろ総合して、そうかなあと思っただけだから」
だが、もう確定だ。こんな夜中にひとりで気配を殺して現れ、騎士団のものとは明らかに違う武器を隠している。おそらくは短刀か、あるいはもっと特殊な暗器か。重心がわずかに左に傾いているのは、腰のあたりに隠したそれをいつでも抜けるようにだろう。
「たぶん、隊長さんも薄々とは気付いてるよ。あなたをわたしへの連絡役にしていたのも、ひとりで行動させて様子を伺っていたのだろうし」
「そうですか……でもまあ、それならそれでもう構いません」
空気がぴりりと張り詰めるのを感じた。ビトーが得物を抜いたのかもしれない。
「計画が失敗して、手ぶらではフィールズに帰れない、公爵令嬢の首でも手土産にしないとってわけね。まあこんな首にそこまで価値おいてくれるのは光栄だけど」
結果的にみれば、彼のあの殺しは余計だったと言わざるをえない。ウォレンたちはすでにドニと通じて、ルヴァン商会の内実を知っていた。あの時点でゴードンを見せしめにドニの口を封じたところでもう遅かったばかりか、ひょんなことで事件が発覚して騎士団の捜査まで招いてしまった。ことによっては、フィールズ一家は計画失敗の原因はビトーにあるとでも考えているのかもしれない。もちろんそれを指示したのはヴォロヴィッツだろうが、すでに死人である以上他に生贄の藁人形を用意する必要がある。
だからビトーとしては、その失敗を取り返すに値する手土産を持ち帰らないといけないのだろう。しかし焦ってもろくなことにならない。
「一度だけ聞くけど、このまま騎士団に残るって選択肢はなかったの。何もかも忘れて、あの隊長さんの下でやっていくって選択肢は。今ならまだ証拠もないし、ごまかし続けることだって可能かもしれないよ?」
「ありませんね、そんな選択肢は」
ビトーは迷いもなくそう答えた。
「人間って、そうそう変われないんですよ。お嬢さまだってそうでしょう。お嬢さまが生まれたときから公爵家のご令嬢であるように、俺も生まれたときからこうだったんです。こういう風に仕込まれてしまった。だったら、こういう風に生きるしかないんです」
そう、と頷いた。
「じゃあ、最初から無理だったってことね」
「はい。残念ですが」
「……ええ」それは、わたしも本心からそう思っている。「残念だわ」
呟くように言って目を伏せた。次の瞬間、真っ暗だった廊下に光が弾けた。その光が照明を打ち上げた魔導師たちと、その後ろに居並ぶ騎士団員たちを照らし出す。中央に仁王立ちするオハラの顔も、やはり痛みを堪えるかのように歪んでいた。




