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動いたのは、ウォレンよりもオハラの方が早かった。
「申し訳ありません、お嬢さま。話はこれで終わりです。グレインディールに戻らなければ」
「……わかったわ」
ふたりの共闘の約束を取り付けられなかったことは残念だが、緊急事態である。こうなってしまっては仕方がない。
彼に付いて部屋を出ると、ウォレンもそれに続いた。けっこうな量を呑んでいたはずだが、酔っている様子はまるで見えなかった。
掩体壕の外に出ると、表には騎士団員たちが勢揃いしていた。もう身を隠している必要もなくなったようだ。その陰からマリーが進み出てきて、「ご無事でよかった」とわずかに目を潤ませながら言った。なんだかんだで心配をかけていたらしい。
「状況は」と、オハラが報告を求めた。
「騎士団のほうも迎撃態勢をすでにとっているようです。指揮をとっているのは城門守備隊のギブソン士長かと。しかし、まだ衝突には至っていません」
そう報告したのは、護衛隊の長と思われる三十がらみの隊員だった。名は確かウォーカーといったか。先日の立ち合いでも、オハラの前にわたしの相手をしてくれたひとりである。おそらく、オハラの信頼も厚いベテランなのだろう。
「では、我々は戻って本体に合流します。お嬢さまはどうかここにお留まりください」
ウォレンの配下から預けてあった剣を受け取ると、オハラはくるりと背を向けた。
「ちょ……待って。わたしも戻るわ!」
「いけません。これから行く先は、戦場ですので……マーカス・ウォレン!」
そこまで言って、彼は振り返らないままウォレンの名を呼んだ。
「……何だ?」
「不本意ではあるが、ドニ・ルヴァン氏とヴァイオレットお嬢さまの身柄をお前に預けることとする。頼めるか?」
ウォレンは不機嫌そうに「……けっ」と喉を鳴らして、「仕方ねえな」と答えた。
「このお嬢ちゃんの兄貴からは、けっこうな前金を貰っちまってるんでね。これも仕事のうちなんだろうさ」
「待って、オハラ隊長!」
わたしはなおも抗議しようとしたが、それをマリーがやんわりと遮った。
「お聞き分けください、お嬢さま。オハラさまのおっしゃる通りにございます」
マリーにまでそう言われしまっては従うほかなく、オハラたちの一団が闇の中に溶けていくのを見送った。その姿が見えなくなると、ウォレンは無言で掩体壕の裏に回り込んで行った。わたしも黙ってついていくと、明らかに人の手で盛られた小高い塚の上に、木立ちが開けている一角があった。そこから、あたりの平原と城壁に囲まれたグレインディールの街が一望できた。
「安心しな。まだたいした騒ぎにはなってねえよ」
ウォレンはそう言って、わたしがよく見えるように場所を空けてくれた。もちろんかつてよく見た東京の夜景と比べれば、街の明かりもずいぶんとささやかなものである。城門周辺と公爵邸のあたりに、篝火がちらちらと瞬いているのがわかるくらいだ。ただしまだ闇に慣れきっていない目にも、城壁の外側、ちょうど正面城門の前あたりに松明の明かりが固まっているのは見て取れる。あれがヴォロヴィッツの部隊か。
「しかし思ったよりも早かったな。ドニを取り逃がしたことで、計画が発覚したと思って前倒しにしたのか」
「……あいつら、これからどうするつもり?」
「まあ、しばらくは睨み合いだろうな。ヴォロヴィッツの手下どもが精鋭だろうと、騎士団のほうがまだ頭数は多い。おまけにあの英雄さまが戻ればなおさら、迂闊には手を出せまい」
「でもじゃあ、どうしてこんなことを?」
「決まってんだろ、陽動だ。少なくとも騎士団の本隊を、城門に張り付けにすることはできる」
その間に、すでに城壁内に潜入している魔導師たちが行動を起こすということか。そうとわかっていても、騎士団も街の警備にそう人員は割けないだろう。
「でも、いったい何を起こそうと……」
「さあな。さっきのドニの話でも、そいつはわからずじまいだったろうが」
ドニ・ルヴァンが言っていた、グレインディールを一夜で落とすという計画。確かにどうすればそんなことが可能なのかと訝しくはあったが、まったくの絵空事とも思えなかった。現にボールドウィン領は彼らの手に落ちている。
いったい彼らは何をする気だ。どんな手段がある。そうまた思案を巡らせようとしたとき、目の前の闇の中に異変を感じた。まるで一帯の空気が突然密度を増し、その圧力が押し寄せてくるような感覚。強風にあおられたわけでもないのに、思わずよろけてあとずさってしまう。
「……どうした、お嬢さまよ?」
ウォレンが訝しげにこちらを見た。どうやら彼には、何も感じられなかったようだ。
「何、今のは?」
あらためて街へ目をやっても、何も変わったことは見て取れない。けれど確かに、何かが起きている。目では見えない何がが。
「マーカス・ウォレン。あなたは何も感じないの?」
「何もって、何がだ。特に変わったことはなさそうだが……」
どうやらこれは、感じられる者とそうでない者がいる現象らしい。ではわたしと彼の何が違う。違うとすれば、やはり魔術に覚醒しているか否かだろう。
ならばこれも、魔術に関わる何かか。言われてみれば、この感覚には何となく覚えがある。魔術が発動する際には同時に光が発せられるが、その直前に一瞬だけ周囲の空気が凝縮されて圧力が高まるように感じられる。確か魔術の講師たちによれば、それは魔力の活性化によるものだと言っていた。
しかしだとしたら、なぜ続けて魔術が発動しない。まるで何か巨大な魔術が、発動寸前で無理やり抑え込まれているような。ワッツのように魔力を「視る」ことができる者なら、もっとはっきりしたことがわかるのだろうか。
「……親父。そのお嬢さまの言ってることは嘘じゃねえ」
背後から、そういう声が聞こえた。アンジュだった。彼女もまたこの見えない圧力にあてられて、めまいでも起こしたのか傍らの男に支えられていた。
「何か、すげえ気持ちの悪い感じだ。それにデカい。何かとんでもないことが起きてる気がする」
さすがにアンジュの言葉は無視できないのか、ウォレンも困ったようにわたしと彼女を見比べる。そしてまたグレインディールの街へと向き直るが、やはり彼には何も見えないようだった。
「やはりわたしも、グレインディールに戻るわ」
「お待ちください、お嬢さま!」
しかし動き出そうとするわたしを、マリーはなおも引き止めた。
「どうして。睨み合っている今なら、わたしたちだって城門を通れるはずよ」
「しかし一触即発の状態であることは確かです」
「おう、そうだな」と、ウォレンはせせら笑うような声でマリーに加勢する。「どんなちっぽけなきっかけで戦闘が始まるかもわからん。お嬢さまよ、自分がそのきっかけになりてぇのか?」
確かにそうなれば、オハラにも大きな迷惑をかけることになる。もしもその戦闘で命を落とす者が出ようものなら、それはわたしが殺したも同然だ。
しかし、ならばどうする。おそらく正面以外の城門は、奇襲に備えて固く閉ざされているだろう。
「……マーカス・ウォレン」
「何だ」
「力を貸して。あなたなら、城門を通らなくても街に戻るルートを知ってるはずよ」
あの兄との会談の夜、彼が使っていた公爵邸直通の地下通路。確か戦争中からあるもので、公爵家の人間を秘密裏に城壁外へと逃がすための通路だという話だった。そのこちら側の入り口は、当然彼が知っているはずだ。
しかし、ウォレンはすぐには答えを返さなかった。何やら気難しげな顔で押し黙ったまま、じっと街のほうへと目を凝らしている。
「マーカス!」
わたしがもう一度その名を呼ぶと、彼はようやく諦めたように首を振った。
「あんたの兄貴からは」それはこれまでの態度とはうって変わって、落ち着いた穏やかな声音だった。「いよいよとなった時には、あんたを逃せとも依頼されていたんだがな」
「そう。でもお生憎さま。わたしは逃げるつもりなんてないわよ」
「どうしてそこまでしゃしゃり出ようとする。あんたは貴族のお嬢さまだろうが。何もできなくたって誰も責めやしねぇ。元から何かを期待なんかしてねえからな。何なら王都の親父さんのところに逃げ込んで、ぬくぬく平和に暮らしてたって構わないんだぜ?」
どうして、と問われて一瞬わたしも言葉に詰まる。いったいわたしはどうしてこんなに必死になっているのか。わたしの目的はあくまで元の世界へ帰ることであって、この事件だってその手掛かりを得る過程でたまたま行き当たっただけのこと。あとはただ、成り行きだ。行き当たったからといって、わたしが何かしなければならない義務などない。
けれど、とわたしはついと顎を引く。けれど、わたしは警察官なのだ。目の前で不法がまかり通ろうとしているなら、それを見過ごすことなどできない。確かに今のわたしは徒手空拳のお嬢さまかもしれない。それでも警察官であることを止めたら、もうわたしはわたしでいられなくなる。
とはいえそれを、目の前の男にどう説明したものか。思案した挙句、わたしは答えた。
「それは、わたしがヴァイオレット・ディ・グレインディールだからよ。他に理由が必要?」
ウォレンは何を言っているのかわからないというように、きょとんと目を見開いた。それでも引くつもりはないということだけは伝わったのか、またひとつ大きくため息をつく。
そうしてぶっきらぼうに「仕方がねえ。ついて来な」と言うと、勝手に踵を返して歩き出した。




