第4章 壊れたドレスと、父の言葉
舞踏会の三日前。
エリスは、屋根裏の部屋で最後の仕上げに取りかかっていた。
ラベンダー色のドレス。アナスタシアのために、自分のすべてを込めて縫った一着。
袖のフリルに金糸の縁取りを足して、刺繍は……。
「……あと少しで完成」
そのとき、下から使用人の声が届いた。
「エリスさま! お客様が!」
不意の呼び出しに、エリスは針を布に残したまま、急いで部屋を出た。
応接間での挨拶を済ませ、屋根裏に戻ってくると――
目の前の光景に、呼吸が止まりかけた。
「……え?」
机の上。
ドレスは、無惨にも壊れていた。
刺繍の糸が無理やり引きちぎられ、
袖の縫い目が裂け、
裾には、何か濃い液体がかけられていた。
「……そんな……」
エリスは手を伸ばす。
震える指先が、濡れた布に触れた瞬間、胸の奥から何かが崩れた。
誰かが、意図的に壊したのだと、すぐにわかった。
あのドレスは、自分の心そのものだった。
それを、こんなかたちで踏みにじられるなんて――。
足元がふらつき、床にへたり込んだ。
「……だれ……なんで……」
そのとき、控えめなノックの音。
扉が開き、父・クロードが姿を現した。
「エリス?」
彼の目が、部屋の惨状に気づく。
壊れたドレス。涙を堪えてうつむく娘。
そして、そっと彼は部屋に入ってきた。
「これは……どうした?」
問いに、エリスは答えられなかった。
なにも言えず、ただ俯いたまま、こみ上げる涙を押し殺す。
「……なにも、ないの」
「そうは見えないが」
「わたしが……悪かったのかも。調子に乗って、目立ったりして……」
声が震える。胸の奥の痛みを抑えようとして、なおさら涙が滲んだ。
「……こんなふうに、誰かに“見られる”くらいなら……」
ぽつりと呟いたそのとき――
父は、机の上に置かれた古びた針箱を手に取った。
「これは……母さんの?」
エリスは、はっとして顔を上げる。
「見覚えがある。……よく使っていたな。あいつは、夜更かししてまで縫い物をしていた」
クロードは、そっと針箱を開ける。
中には、使い込まれた針と、母の手書きの小さなメモ。
《誰かのために縫う服は、その人の未来を縫うもの》
それを見た父は、静かに息を吐いた。
「……俺は、不器用だからな。どう声をかけていいか、ずっと分からなかった」
「……お父様?」
「お前の作る服を見て、俺は……嬉しかったよ。本当に」
その言葉に、エリスの目に新しい涙が滲んだ。
それは、痛みとは違う、あたたかい涙だった。
「……わたし、ずっと……怖かった。誰かに見られるのが、期待されるのが……」
「でも、縫っていたな」
「はい。怖くても、縫っていたんです」
「……なら、大丈夫だ」
父は、不器用に微笑んだ。
「お前は、もう一度縫える。きっと、もっといいものを」
エリスは頷いた。
壊れたドレスを見つめながら、唇をかみしめ、静かに言った。
「……やってみます。もう一度、縫います」