Ⅸ・Dreamin❜(ドリーミン)
「ン~!」
父が運転するクルマの荷台からはい出たぼくは、大きく背伸びをする。
隣り町の「鹿沼」から「東北自動車道」に乗り、埼玉県の「久喜」まで。そこから「県道3号」「新大宮バイパス」「国道16号」と乗り継ぎ三時間。
「武蔵野サーキット」に着いた。
今日は弟・同伴なので、ぼくは荷台に積まれたカートの横に置いた、座イスに座ってきた。荷室の座席を倒してカートを積むと、シートは二つしか残らない。三人で来る時は・いつも、そこがぼくの指定席。
(今にして思えば、たぶん違反になるのだろうが…シート・ベルトの着用が義務化されるのも、ずっと後のこと。「のどかな時代だった」という事で、許してもらおう)。
「マンプー」などの近場なら、カートのシートに乗ったりもしたけど…遠出の場合は、そこでマンガや本を読んでいた。
(もっとも、「旅行好き」という以上に、「空間移動」を好む人種でもあったので、ただ景色の変化を眺めているだけでも満足なタイプだ)。
最初は、乗用車の屋根に装着したスキー・キャリアに積んでいたのだが、今ではオンボロの、中古・商用バンが父の愛車だ。
「ふい~」
今日は久ぶりの練習走行。でも…
『こんな事やっていて、いいのかな…?』
そんな「罪悪感」みたいなものを、感じないわけじゃない。
(「受験を控えているから」とかじゃなく…)。
ぼくが、ちょうどカートを手に入れた直後の十月。『第四次中東戦争』が引き金となって、「トイレット・ペーパー買い占め騒動」で有名な「オイル・ショック」が起きた。
景気は後退し、ガソリンの値段はうなぎ上り。その余波はまだ残っており、ガソリン・スタンドの「日曜営業自粛」が、なお続いていた時期。子供ながらに…
『この先、どうなっちゃうんだろ?』
切実ではないが、そんな言いようもない不安を抱いていたものだ。ましてや「石油危機」だというのに、「モーター・スポーツ」だなんて…「けしからん」の最たるもの。
ぼくの胸中は、チョット複雑だ。でも…
『やめられないんだよ』
ぼくは父とふたり、バンからカートを引っぱり出す。
「ん?」
準備を始める前に…今日は、「鈴木T」さんが来ている。
「鈴木T」さんについては、前に少し触れたが、ぼくより六歳年上。「カート界のプリンス」と呼ばれ、デビュー・レースで優勝するなどの逸話を持つ人だ。
実際にカートに触れる前、『レッツゴー・カーティング』の・そんな記事に接していたぼくにとっては、すでに“Living Legend”―生きた伝説―となっていた。
(あの頃は・まだ、ぼくにも人を尊敬・崇拝する心があったのだ)。
じかに目にしたTさんの走りは、「流麗」で「華麗」。とても綺麗で、スムースなドライビングをする人だった。
『ぼくも、あんな走りがしたい』
後に「スライド狂い」「ドリフト命」になってしまうぼくだが、最初に・これほど見事な「お手本」があった事は、幸運な事だ。
Tさんの走りには、父も特別な「何か」を感じたのだろう、「Tさんはあそこで…」とか、「Tさんはこんな風に…」と、何かにつけTさんの走りを引き合いに出した。
今にして思えば、ぼくの父は、『父なりの美学を持っていた人なんだろうな』と、そう思う。
父はよく、「ヨキアム・ボニエ」というレーサーの名を挙げた。
(「ジョー・ボニエ」と表記される事もある。たぶん「ヨキアム・ジョー・ボニエ」がフル・ネームなのだろう)。
「ボニエ」氏は、知る人ぞ知る存在だったが、レーサーとしての資質は「いまいち」(?)。
いったい、父がどこからそんな情報を仕入れてきたのか…「?」。ぼくは父に例を出されるまで、まったく注目などしていなかった。
(はっきり言って、トップ・レーサーの中にあって、ドライビングに関しては「並」だったと思う)。
ただし、お医者さんとしての資格を持ち、選手代表なども務め、レースの安全性に貢献するなど、「人徳」のある人だったらしい。
ぼくの行動に、とやかく言わなかった父。
その後、そんな父に、ひとつだけ、頼まれた事がある。それは…「大学だけは行ってくれ…」だった。
でも父は、学歴を求めていたわけじゃない。きっと父は、ぼくがどんな金持ちになっても、「成金」じゃぼくの事を認めてくれないだろう。たとえ・その辺で、ツルハシを持って穴掘りの仕事をしていても、ひとりの「人格者」になってもらいたかったのだろう…と、今ではそう思う。
「美学と書いてルールと読む」
ぼくはストリート・ファイターじゃない。戦いの中にあっても、美学を求めていた。「なりふりかまわない」ことより、「潔さ」に美徳を感じる人間だ。
案外・暗に、そんな教育を受けていたのかもしれないが…その後「ボニエ」氏は、『ル・マン24時間』で事故死してしまった。
「おはようございます」
ぼくは、自分から挨拶に行く。
(「必要以上に頭を下げない」ことを『座右の銘』とする現在の自分とは、大違いだ)。
ぼくは自分の事を、Tさんも所属するクラブの「はしくれ」くらいには思っていたから…。
…濃い緑色のタンク・トップを着たTさんは、色が白くて、繊細な感じがする。
(イメージ的に、ぼくには剣豪「佐々木小次郎」という言葉が頭に浮かぶ)。
…当時、無改造で太いタイヤが入るとかで、走り屋志向の「族」に人気のあった「ローレル」に乗っている。
(もちろん、そんなクルマにはなっていなかったけど)。
…やっぱり色が白くて、細身の女性を連れている。
「うん」
Tさんは、うなずき返してくれる。
「無口で寡黙」
そんな姿が、クールでカッコよかった。
(Tさんは、この年・翌年と、連続してJAF全日本「Aクラス」チャンプを獲得。その後、本格的に四輪レースにステップ・アップし、初代『全日本F―3』チャンピオン、最後の『全日本F―3000』のタイトル獲得、F―1や海外レース参戦など、日本のトップ・レーサーとして活躍する事になる)。
スターターを回して、エンジン始動。
(この頃のぼくのカートには、「遠心クラッチ」が装備されていた)。
「久しぶりだから、無理するな」
父は、少し心配そうだけど…
『だいじょうぶだよ』
母はケガを期に、辞めてほしそうだったけど…
『やめられないよ』
だって、ずっと・この世界に憧れてたんだから…。
成功するかどうかは別として、夢がなかば叶ったんだから…。
この時、母はその母に…つまり、ぼくのおばあちゃんに…「男には、やめられないものがある」と言われたそうだ。
『さすが、おばあちゃん』
その話を聞いて、ぼくはそう思った。
(早くに「つれあい」を亡くしたおばあちゃんは…母が小学生の頃だ…それでも四人の子供全員を、大学まで進学させた)。
でも、「酒」や「ギャンブル」よりは健全だけど、リスクは変わらない…と、ぼくは思う。
(むしろ、「ギャンブル」の方がマシかもしれない。「ギャンブル」なら勝つ事もあるが、モーター・スポーツの場合、「持ち出し」一方。レースの賞金なんて、かかった費用にくらべれば「雀の涙」。元が取れる人なんて、頂点にまで登りつめた、ごくごく「ひと握り」)。
でもたしかに…
「男には、やっぱりやめられないものがあるんだよ」
(あの頃は・まだ、男が身を持ち崩すと思われるものの中に、「おんな」は入っていなかった)。
ナゼだかよくわからないけど、小学校・低学年の頃からぼくは、自動車が…と言うより、「モーター・スポーツ」が大好きな子供だった。
たぶん・それは、「石原裕次郎」さん主演の映画『栄光への5000キロ』あたりにまで、起源を遡れるんじゃないかと思う。
(「5000キロ」とは・つまり、東アフリカを舞台に行われる『サファリ・ラリー』の走行距離だ)。
日本車が、「競技」においても「輸出」においても、まだまだ駆け出しの頃。
そして実際に、日本の某メーカーが「サファリ」に挑戦し始めた時期。
そんな関係で、実現した映画なのだろう。だから・その映画にだって、「世界に挑む」という気概があふれていた。そんな時代だ。
(今みたいに、日本車が世界を席巻する以前。そんな時代があって、今の自動車大国「ニッポン」があるわけだ。ちなみにぼくは、あのとき作られた、胸にジャガーの絵柄と“SAFARI”の文字が入った記念Tシャツを、今でも持っている)。
話を要約すると…
雪のモナコ山岳地帯。『モンテカルロ・ラリー』で大事故を起こした、「裕次郎」さん演じるところのレーサーが、瀕死のケガを克服し帰国。
(事故後、顔にマンガ『ブラック・ジャック』みたいなキズが付く)。
国内レースに復帰し…
(この時のマシンが、可変ウイング装備の怪鳥「R381」だ)。
その後、『サファリ・ラリー』に挑戦する…という内容の作品。
時は…「TNT」と呼称された、「有力プライベート・チーム」と「日本の二大メーカー」が、サーキットで激しい火花を散らしていた頃。
あの頃は、日本のモーター・スポーツの『黄金時代』だ。
後の「F―1」ブームみたいな「流行りモノ」じゃなく、「ヒーロー不在」と言われる現代と違い、みんなが・もっと単純に・純粋に・熱く盛り上がっていた。
(極東の島国でありながら、その後の『グランド・チャンピオン・シリーズ』や軽フォーミュラーなど…中にいるとわからないが、日本は世界の中でも、独特の発展を遂げた国なのではないかと思う。そんな歴史を研究してみるのも、面白いかもしれない)。
もちろん、幼なすぎたぼく。「時代の空気」を、そんなに敏感に感じていたわけじゃないけど、今にして思えば、そんな気がするし…子供向けマンガなどにも、モーター・スポーツ物がたくさんあった。そんな事も、影響したんじゃないかと思う。
(でも、違う見解もある。家には、子供用・足漕ぎ自動車があった。「オバQ」こと「オバケのQ太朗」を連想する、ま上から見ると卵形をした、金属製ボディーの青い三輪車…前二輪・後ろ一輪。駆動輪は後ろで…着座姿勢で交互にペダルを踏むと、ロッドを介して動くヤツ。ちゃんとハンドルも切れる。幼い頃のぼくは、よく家の前の歩道を、ソイツでクルクルと走り回っていた。母に言わせれば、「アレが悪かった」のだそうだ)。
しかし世の中、親の期待とは裏腹に、うまくいかないものだ。
ぼくは物心つく前から、サッカーをやっていた父に連れられて、さんざんサッカー・グラウンドに行っていた。
だけどぼくは、サッカーにかぎらず…球技なら何でもこなす父とは正反対…ボールを使うスポーツは、すべて苦手だった。
肩も弱くて、学校の体力測定での「ハンドボール投げ」など、女子生徒並。
(ただ、唯一の例外が、サッカーのスローインだ。もともとぼくは、背筋と肺活量は異常に強かった。背筋を使うスローインは、コーナー・キックより正確にゴールを目指す。体育の時間。ゴールぎわのスローインは、必ずぼくの出番だ)。
だいたい・それ以前に、球技には、まったく興味も関心も湧かなかった。
(それにぼくは、団体競技向きの人間じゃない)。
小学校の「図工」の時間にはレーシング・カーを作り、描いた「風景画」の隅っこでは、ツーリング・カーが走っていた。
(「ツーリング・カー」とは、市販車を改造したレース車両の事だ)。
薄手だけどカバーに入った厚表紙の、『世界のレーサー』という子供向け「モノの本」を常に持ち歩く…そんな子供になっていた。
(それと、あと一冊、『拳銃画報』という、同一・体裁の本。「ガン・マニア」でもあったぼくは…冷たく重く、機能美に徹した金属の塊は、男なら心魅かれること間違いない…小学校・高学年にして、すでに数丁のモデル・ガンを所有していた。「ルガー」「モーゼル・ミリタリー」に始まり、「コルト・ガバーメント」「ワルサーPPK」。それに壊れていたが、そのぶん安く手に入れた、ドイツ軍・正規マシンガン「シュマイザー」。「シュマイザー」は、近所にあった「輸入雑貨品」の店で買った。その店前には、こういった物も飾られていたので、よく・その店の前で足を止めたものだ。そこは、ぼくより・ずっと上の女の子と、ぼくより少し下の男の子の家だったが…その一角には、同じ姓を名乗る家が数件、かたまっていた。その中の一軒に、あだ名を「ピー」と呼ばれる同級生の家もあった。しかし、ちょっと違った雰囲気を持つ一群。周りも、そういう目で見ていたのだろう。今にして思えば、「在日さん」たちだったようだ。ぼくはまだ子供で、詳しい事はわからなかったし、自由主義の中で生まれ・民主主義の中で育った人間。たとえ知っていたとしても、その事で、どうこうという事もなかったはずだ。それに・ここは、そんなにイナカじゃない。どちらかの肩を持ったからって、「村八分」なんて事はなかった。とにかく、その他、名も無い銃も二~三丁。あいにく、憧れの「ワルサーP38」と「ナンブ十四年式」までは揃わなかったけど…今にして思えば、ホント贅沢な子供だった)。
やがて…
「よくわかったね~」
ミニ・サイクルに跨ったその人物は、ニコニコと、とても嬉しそうだ。ぼくが差し出した手帳に、丁寧にサインをしてくれる。
元モトクロスの全日本チャンピオン。当時「SCCN」(Sport Car Club of NISSAN)のメンバーとはいえ、前座の前座「マイナー・ツーリング」に、「チェリー」の「X1―R」で出場していた頃。
まだまだ知名度も低かったはずだ。だから、「子供にサインをせがまれる」なんて事も、あまりなかったのだろう。
「よくわかったね~」
その言葉と、あの時のニコニコと嬉しそうな笑顔が、妙に印象に残っている。
その人物とは、その後「日本で一番速い男」と呼ばれるようになった「星野一義」選手その人だ。
『さて次は…』
ぼくは、「富士スピードウェイ」のパドックを散策していた。
『ここには、日本のトップ・レーサーが全員そろっている』
だって、当時、日本で最も人気のあった『グランド・チャンピオン・シリーズ』…略して『グランチャン』の、決勝当日なのだ。
ぼくは草むらの中を登って、パドックにもぐり込んでいた。
(鈴鹿だって、パドックのはずれにある池に、たぶん遊園地のモノレールみたいな物の名残りなのだろう、使われていないレールをたどっていけば、パドックに入れた)。
ぼくは小学校の六年生。
フル・カバードの…オープンでも「屋根付き」でもかまわないが、フォーミュラーのようにタイヤがむき出しでない…2座席(べつに単座でもかまわないが)レーシング・カーが大好きだった。
海の向こうアメリカでは、排気量無制限のモンスター・マシンが走り回る『カンナム・シリーズ』(『カナディアン・アメリカン・チャレンジカップ』の略)が盛んに行われていた。
一方のヨーロッパでは、『ル・マン24時間』に代表される「耐久選手権」で、「フェラーリ」や「「ポルシェ」、その他のメーカーの試作車が「しのぎ」を削っていた。
(『ル・マン24時間』とは、フランス中西部、「ル・マン」の街で毎年・六月に開催される、伝統の耐久レース。今みたいに、フォーミュラー・タイプのレース一辺倒の時代ではなく、スポーツカー・タイプのレーシングカーにも人気があった頃。はっきり言って、注目度はF―1より上だった。今とくらべれば、「手作り」状態に近かった当時のF―1。対する「耐久選手権」は、市販車を製造しているメーカーが、本気のクルマを投入してくる。ドライバーの腕を競うのが「F―1選手権」なら、クルマの性能を争うのが「耐久選手権」…という感じだった)。
当然、その頃にはすでに封切られていた「スティーブ・マックイーン」さん主演の映画『栄光のル・マン』は観賞済み。もちろん、大好きな映画のひとつで、サントラ盤のレコードも持っていた。
(この映画、日本とヨーロッパでは人気があったそうだが、本国アメリカでの興行成績はイマイチ。でも、それも仕方ない。今でもそうだが、アメリカは独自のレーシング・スタイルが確立された国。フォーミュラーの『インディー500』や、市販車の姿・形を持ったストックカーの『デイトナ500』などに代表されるように…すべてを見渡せる 楕円形コースで展開される、抜きつ抜かれつのハイスピード・バトル。もっと単純明解で豪快なものが、アメリカ人の好み。もっとも・ここにだって、ハイスピードゆえの緻密な駆け引きがあって、知れば知るほどに面白いのだが…でも考えてみれば、「F―1」だって「耐久選手権」だって、「世界選手権」とは言えヨーロッパが中心。範囲の広さだけを考慮すれば、規模的には変わらない。北米大陸だけで行われるプロ野球シリーズに、『ワールド・シリーズ』の名が冠されているようなものだ。それに、野球でもモーター・スポーツでも、観客動員数や収入など、数字を比較するだけなら、アメリカ国内だけでも、じゅうぶんに権威のあるもの。アメリカ人にしてみれば…「伝統のヨーロッパ」への対抗意識もあるのだろうが…わざわざ外に目を向ける必要もないのだろう)。
ぼくのヒーローは、三度のワールド・チャンピオン=「空飛ぶスコットランド人」ことSir「ジャッキー・スチュワート」。それに、若者のトレンド・リーダーでもあり、勇躍ニッポンを飛び出し、海外で活動する一匹狼「生沢徹」選手。
そして…『羊の皮をかぶった狼』と呼ばれた「スカイラインGTR」の宿敵、ロータリー・エンジン搭載の「サバンナRX―3」の躍進に一喜一憂していたぼくは、かなりの「オタク」だった…?
たしかに…「スーパーカー・ブーム」が来る以前。「ランボルギーニ」も、まだ「ミウラ」の時代。
同じ「志」を持つ同級生たちと、カメラを首からブラ下げては街角にたたずみ、「あそこの中古車屋に『トヨタ2000GT』がある」と聞けば自転車を走らせ、白い「ポルシェ」が通り過ぎれば必死で追いかけて、シャッターを切っていた。
(「池沢さとし」先生が、まだ『あらし三匹』を描いていた頃。そんなぼくたちの街に、一台だけ、赤い「ロータス・ヨーロッパ」があった。その持ち主をつきとめたぼくたちが、写真を撮らせてもらいに行くと、中年のオーナーは上機嫌で、コックピット…と呼ぶにふさわしい…に座らせてくれた。「池沢」先生の『サーキットの狼』が発表され、「ロータス・ヨーロッパ」が有名になり、「スーパーカー・ブーム」が巻き起こるのは、それから数年のちの事だ)。
そんなぼくだったから、サーキットにむかえば、写真を撮る以外にも、やる事があった。
『レーサーのサイン収集』
ぼくは片っぱしから、サインをもらいまくった。たとえ・それを本業としていなくとも、子供のぼくの目には、「レーシング・カー」に乗って「レース」に出ていれば、すべて「レーサー」だったわけだ。
そんなぼくのコレクションの中には、今となっては貴重な物もいくつかある。新たに集められないもの…つまり、他界した人たちの物だ。
…ぼくはレースそっちのけで、地下道の入口に立つガードマンの動きに、気を配っていた。
もう本日のレースも、残すところ、あと数レース。
ここは小学校五年の時、初めてレース観戦に連れて来てもらった場所。家から一番近い所にある、茨城県の「筑波サーキット」だ。
規模は小さかったけど、「鈴鹿」「富士」と並ぶサーキットのひとつ。
(ほかにもサーキットはあったが、施設が不十分だったり、すぐに閉鎖されてしまったり…だから、歴史の上から言っても「ツクバ」は、日本の三大サーキットのひとつだ)。
でも、ここに忍び込むのが、一番難しい。方法は、ただひとつ。観客席とパドックをつないでいる、メイン・ストレート下の歩行者用トンネルだ。
ぼくはその近辺をウロつき、ガードマンの動きを見ていた。若いガードマン。
(子供のぼくからすれば、十分に大人だが…)。
やっぱりレースが気になるようだ。スタート前になると、警備そっちのけで、フェンスに張り付いている。
何レース目の時だろう? 意を決したぼくは、そのガードマンが目を離したスキに、一目散で階段を駆け下りる。
『レースがすべて終了してしまえば、ガードマンもいなくなるだろう』
ぼくには、そういう読みがあった。でも、そんな頃では遅すぎる。みんなが帰った後じゃ、意味がない。
『さてと…』
ぼくはさっそく、物色しはじめる。
当時は、軽自動車のエンジンを使った小型フォーミュラー全盛の時代だった。狭いツクバだったけど、そのF―JやFL―500のレースにはピッタリだった。台数も多くて、なかなか見応えのあるレースが展開されていたものだ。
ぼくは、当時「F―Jキング」の名をほしいままにしていた「堀雄登吉」選手…
(これは「サーキット・ネーム」。登録した名前で、レースに参加できるのだ。現在でも変わった名前の選手がいるように、芸名やペンネームみたいなものだ)
…など、雑誌で顔を見た事のある人なら、場所とタイミングが許すかぎり(ガレージの中まで押しかけて、なんてのは失礼だ)サインをもらって歩いた。
そんな中のひとり…
「インクが出ないね…」
その人は、ぼくが差し出した紙切れに、やはりぼくが差し出したボールペンで、丁寧にサインをしてくれていた。色白で長髪。線が細くて、いかにも四輪レーサー。
(同じモーター・スポーツでも、二輪と四輪、オンロードとオフロードでは、かなり雰囲気が違うものだ。もちろん中には、異色の人もいるけど…)。
その人は、見た目の細さとは裏腹に、力強くペンを握りしめ…
(レースの後だったので、握力が落ちていたのかもしれないが)。
縁取りしたサインを書いてくれた。
「M・NAKANO」…「中野雅晴」選手。
「インクが出ないね…」
たぶん、その一言のせいだろう。ナゼかぼくは、あの時の事を、よくおぼえている。
でも残念ながら、その翌年、中野選手はレースで命を落とす事になる。
ぼくがカートを手に入れた、中一の年の秋。
「富士グランチャン最終戦」
あの時もぼくは、富士のパドックにいた。
『レースがスタートすれば、チェックが甘くなるかもしれない…』
ぼくはピット裏に入ってみたくて、様子をうかがっていた。でも、ピットまで入るのは至難の業だった。とりあえずスタートを見ようと、コントロール・タワーに近いフェンスにもたれかかっていた。
でも、なんだかイヤ~な気分だ。
たしかに、人が大勢集まった場所では、一種独特の空気が流れるものだ。集まった人々が放つ物理的な熱気だけでも、相当な物になるのだろう。ましてや・それが競技の場ともなれば、選手も観客も、緊張感を放つ。
でも、あの時は特別だった。
「レース観戦」慣れしているぼくが言うんだから、間違いない。なんだかイヤ~な空気が、流れていた。
「殺気」という言葉がある。でもそれは、テレビやマンガで主人公が口走るようなものじゃない。
いたたまれないような、その場から逃げ出したくなるような雰囲気…。
でも、レースはスタートしていく。
「オイル・ショック」の直前。
「バブル」の時もそうだったけど、景気が良いと、スポーツ・カーが売れるようになり、モーター・スポーツは盛り上がる。
ツーリングカーと混走だったのに、2座席レーシングカーが、ほぼフル・グリット、揃っていた。
軽くホイールをスピンさせ、飛び出して行くマシンたち…。
あの時のぼくの記憶は、まったくの無音だ。緊張のせい? それとも恐怖心?
(人間の耳というのは、「音量」には鈍感だという。「音程」は聞き取れるが、ある程度以上の「音量」になると、量の違いは判別できないそうだ。たしかに喧しい所でも、その音が連続・一定したものなら、すぐに慣れてしまい、「無音」と似た状態になってしまう事がある。あの時ぼくは、スタート・ラインのすぐ横にいた。かなりの騒音だったはずだ。だから音の記憶が無いのだろうか…?)。
全車が1コーナーの30度バンクに向かって消えた頃。スキをついてピット裏にもぐり込もうとしていたぼくは、係員に呼びとめられる。
『マズイ』
でも・その時だ。コントロール・タワー脇で待機していた救急車が、けたたましいサイレンの音とともに動き出す。
「ざわめき」と「どよめき」。みんながみんな、第一コーナーの方を向いている。
『?』
立ち昇る黒煙。もう、ピット・ウォークどころじゃない。ぼくは、第一コーナーの30度バンクを目指していた。
「!!」
バンクの下で、消化剤を浴びてまっ白になったマシンの残骸。
(スタート直後で、大量に積まれた燃料。強化プラスチック製のカウルは跡形も無いし、金属とはいえ、ホイールなどに使われるマグネシウムは、いったん火が着けばよく燃える)。
あの時・あんな状態では、それが誰のマシンなのかわからなかったけど、でも…
“Show Must Go On”
レースは続行されていた。あの時、他のレーサーたちは、いったいどんな気持ちで、そこを通過していたのだろう?
「インクが出ないね…」
たぶん、そんなやり取りがあったからだろう。「その日」から遡った「あの日」の光景・彼の姿が、いっそう強烈に焼き直され、生涯忘れられない記憶となったのだ。
そして…ぼくの結論から言うと…「殺気」を感じたら、必ず誰かが死ぬ。「殺気」とは、そういうものだ。
その後ぼくは、もう一度だけ、「あれ」と同じ気分を味わった事がある。
翌年…つまり昨年の、やはり「グランチャン」の第二戦。初夏の、良く晴れた日だった。
2ヒート制レースの2ヒート目。ぼくはグランド・スタンドにいた。あの時は、ローリング・スタートだった。でも、嫌な気分だ。
『目をそむけて、隠れる場所があったら逃げ込みたい…』
そんな、恐怖心にも似た、今すぐ・この場から立ち去りたくなるような空気。
『あの時と同じだ』
ぼくは思った。でも、誰も止める事などできない。
陽炎燃え立つストレート。背後から午後の陽射しを浴びて、右から左へと、無音のまま走り去って行くレーシングカーの群れ…ぼくの記憶では、そうなっている。
駆け抜ける色とりどりのマシンたちを追い、1コーナーに目を走らす。ここからでは、「すり鉢」状に落ち込んで行くバンクは見えない。
バンクに向かい、ストン・ストンと消えて行くマシンたち。でも、その時一瞬、白煙が上がった。
『やっぱりだ』
もうぼくにはわかっていた。続いて上がる、黒い煙。
「!」
30度バンク手前の「コーナー・ポスト」。
(選手に色々な合図を送る「旗」を振る、「コース・マーシャル」が待機している所だ)。
そこには・いつも、軽トラックが置かれてあった。
多重クラッシュで、手一杯だったのだろう。その軽トラの荷台に載せられて、ひとりの選手が運ばれてきた。
あお向けに寝かされ、片膝を立てた下半身は薄茶色に煤け、ところどころ破れたレーシング・スーツからは、まっ赤な鮮血が流れていた。
クラッシュの際に、ヘルメットが脱げてしまった上半身は、炎にあおられまっ黒だ。
ただ、両目の周りだけが白っぽかった。あの時のぼくの目には、『ボンヤリと虚空を見つめている』…そんなふうに見えた。
あの時、グランド・スタンドにいた全員が、その光景を目撃したはずだ。
「風戸裕」選手。
あの時・あんな状態では、それが誰なのかわからなかったけど…
本場ヨーロッパのF―2選手権に挑戦し、「シェブロン・ワークス」入りが決まっていたはずだ。
(「シェブロン」とは、「ローラ」「マーチ」「GRD」と並ぶ、当時の四大レーシング・カー製造会社のひとつ。まだ風洞実験設備などポピュラーでなかった時代、空力特性に優れたマシンを送り出す。でも、「紙ヒコーキ」のチャンピオンだった創業者が、ハング・グライダーの事故で他界すると同時に、消滅してしまった)。
そして・たしか、婚約したばかりのはずだった。若手の筆頭で、「いよいよこれから」という時期だったのに…
ぼくは風戸選手の、育ちの良さそうな、上品な物腰が好きだった。「ローラ」で『カンナム・シリーズ』を走っていた頃からのファンだった。
そのレースでは、ふたりの選手が亡くなった。もうひとりは、名手「鈴木誠一」選手。
メカにも精通していた鈴木選手の走りは、玄人・職人芸。ストックカーから2シーター・レーシングカーまで、何でも乗りこなすベテラン・ドライバー。ストックカーや「東名サニー」の頃から、黄色がトレード・カラーだった。
日本風の「男前」で、渋くて・大人っぽくて、カッコ良かった。
(ここでオカルトめいた話をすれば…この二選手は、前年、中野選手が亡くなったレースで、2位と1位になった選手だ)。
だから、この三選手のサインは、ぼくのコレクションの中でも、もっとも貴重な物となったが…
『なんで、こんな事やってるんだろ?』
ぼくは思った。
人間の能力を、はるかに越えた「スピード」と「パワー」。それが「モーター・スポーツ」の魅力だ。
でも・それは、いとも簡単に「人」の命を奪っていく。「クラッシュ・シーン」だって、「普通」じゃない。しかしサーキットには、そういったものが、当たり前のように存在している。そういった「非日常」を求めて、人々が集まってくるのも確かだ。
『なんで、こんな事やってるんだろ?』
あの頃のサーキットには、「死」があふれていた。
(でも、不思議とサーキットに「怪談話」が無いのは、きっと皆が納得済みでやっているからなのだろう)。
次の『オートスポーツ』や『オートテクニック』に、応援している選手の死亡記事が載るんじゃないかと、不安になった事もある。たとえ雑誌の中でしか知らなくとも、長年「ファン」をやっていると、とても身近に感じてしまうものだ。
だから、「フランソワ・セベール」選手や「トム・プライス」選手が事故死した時は、とてもショックだった。
(今みたいに、情報が氾濫している時代じゃない。ましてや「モーター・スポーツ」なんて…前に述べた『黄金時代』を除いて…マイナー中のマイナー・スポーツ。その日のニュースに大きく取り上げられるなんて、人が死んだ時くらいだ。レース結果だって、新聞のスポーツ欄のすみっこに、小さく載ればいいほうだ。海外のレースともなると、時おり英字新聞に結果が掲載される程度だった)。
『なんで、こんな事やってるんだろ?』
ぼくは子供ながらに、何度も何度も考えた。まして、「親しい」とまではいかなくとも、多少はコミュニケーションを取った事のある人たちが逝ってしまったりすると…。
『なんで、こんな事やってるんだろ?』
あまりにリスクが多すぎる。大枚はたいて、命まで賭けて…成功できる人間なんて、ほんの、ごく一握り。
『世の中にとって、何かためになる事が、あるんだろうか…?』
あまりに無駄が多すぎる。「モータリゼーションの発展のため」なんて、ぼくには「こじつけ」もいいとこのように思われた。
『こんな事やって、いったい何のため・誰のためになるっていうんだろ…?』
たぶんぼくは、同年代の子供より、早くから・たくさん、「死」について考えるような子供になったはずだ。
でも・それは、「モーター・スポーツ」に興味を持った人間の、「宿命」みたいなものかもしれない。だって・わざわざ自分の方から、「死」に近づいて行くのだから…。
『なんで、こんな事やってるんだろ?』
ぼくには、どうにも納得がいかなかった。
『カートだって、死なない保証はない。ケガだってしたし…』
だからといって、『この世界から足を洗おう』なんて気も、さらさら起きない。
『それは「血」だから?』
『持って生まれた「血」だから?』
『それでいいじゃん』
少なくとも、走っている間は・そんな事、考えてはいけないのだ。
『答えを見つけるより、今は考えない事だよ』
ぼくは「夢の途中」。それは・まだ、始まったばかり。
(でも、「あれ」を感じたら、もうお仕舞いだ。必ず誰かが、死ぬ事になるだろう…)。
『ヤベッ!』
複合の最終コーナー立ち上がり。大きくアウトからイン目がけて切り込んでいた前車が、勢いあまってハーフ・スピン状態になる。
ぼくは、そのインをうかがっていたのだが…。
(後輪駆動車の場合、コーナー出口付近…つまり、アクセルを踏み込んだ状態でのスピンは、内側に巻き込むような軌跡を描く)。
行く手を阻まれたぼくは、あわててフル・ブレーキング。ハンドルを左に切った状態だったので、前車同様、左を向いてハーフ・スピン。前車の左サイドと、ぼくの右サイドが軽く触れ合ったところで止まる。
『どこ見てたんだよ?』
ぼくは自問自答。
『あそこで右に行けば、難なくスリ抜けられたはずだ』
ケガをした時だってそうだ。コーナーを立ち上がるまで、スピンしたクルマの存在に気が付かないなんて…。
反射神経というものは、生まれつきのもので、訓練で大幅に改善されるものではないそうだ。
ましてや、100キロ・200キロ・300キロで動いてるモーター・スポーツ。一番大切な事は、「先を読む」こと。
前車のチョットした動きの変化から、スピンの兆しを読み取り…「そこでスピン状態になったら、どんな動きをするか」…経験から即座に割り出す。先手をうって対処する事が大切だ。
「予測運転」は、公道でも役に立つ。それに…
『どうもぼくは、目線の配り方が悪いようだ』
それは、普通の運転にだって重要な事だ。まず「確認」しない事には、「予測」だって立てられやしない。
それに気づいた事は、カートの走行に限らず、後々まで役に立つ大収穫だった。
そして、こう思う。
『生きてる人間のことなんて、どうでもいい。先に逝ってしまった人たちこそ、語り継がれるべきだ』…と。