日本
【緊急事態宣言:国民への公式声明】
「国民の皆様、極めて重要な、そして厳しいご報告を申し上げねばなりません」
総理の第一声は掠れていました。
「本日午後以降、火星軌道近傍において観測された未知の天体につきまして、JAXA、NASA、ならびに各国の研究機関による合同解析が完了いたしました。……結論を申し上げます。当該天体は、現在、地球への衝突コースを移動しております」
記者席から短い悲鳴のような声が漏れました。
「天体の推定直径は約12キロメートル。現在の速度は秒速60キロメートルを超え、さらに加速を続けております。現在の予測によれば、衝突の時刻は一週間後の午後、落着地点は我が国の関東平野中心部と推定されます。……これが科学的根拠に基づいた現在の事実です」
総理は一度言葉を切り、震える拳を演台の下で握りしめました。
「政府は直ちに『地球規模大規模災害対策本部』を設置いたしました。諸外国と協力し、核兵器を含むあらゆる手段を用いた迎撃の可能性を検討しておりますが、現時点において、その成功確率は……極めて低いと言わざるを得ません」
会見室に、驚愕のあまり静まり返っていた記者たちから悲鳴に近いどよめきが上がりました。
「国民の皆様。一週間という時間は、あまりにも短いものです。しかし、政府は最後まで諦めません。今後、段階的に避難指示、ならびに社会基盤の維持に関するガイドラインを発表いたします。どうか、どうか冷静に行動していただきたい。家族と語らい、寄り添い、……最後の1秒まで、日本人としての誇りを失わないようお願い申し上げます」
会見室を支配していたのは、酸素が希薄になったかのような、ひりつく沈黙でした。
しかし、総理が「大切な方々と過ごしていただきたい」という、事実上の『死刑宣告』を口にした瞬間、その沈黙は怒号と悲鳴へと変わりました。
「総理!逃げろと言うんですか、死ねと言うんですか!具体的な避難先を提示してください!」
最前列の記者が、椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がりました。その顔は恐怖で青ざめ激しく痙攣しています。
「……現在、全国の地下施設および堅牢な建造物のリストアップを急いでおります。ですが、直径12キロの質量弾です。落着の衝撃波だけで、地殻そのものが……」
総理の傍らに立つJAXAの所長が、眼鏡を震える指で押し上げながら科学者としての残酷な誠実さを口にしました。
「……衝撃波だけで日本列島は消失します。逃げ場所は、この地上には存在しません」
その言葉が放たれた瞬間、カメラのフラッシュが一斉に焚かれました。地獄の業火を先取りしたかのような白い光の中で、一人の年配の女性記者が震える声を絞り出しました。
「……一週間。私たちに残されたのは、たったの一週間なのですか?政府は、アメリカは、核ミサイルでそれを壊せないのですか?映画のように、英雄が救ってくれることはないのですか!」
総理は、演説台の端を白くなるほど強く握りしめました。
「米国大統領とは、先ほどまで直接協議を行いました。……米軍のICBMを全弾投入したとしても、対象の軌道を1ミリも逸らすことはできないとの回答でした。あの天体は……我々の知る物理法則に、従っていないのです」
「そんな……っ!」
会見室のあちこちから、嗚咽が漏れ始めました。
「秩序を保てとおっしゃいますが、あと一週間で死ぬと分かって、誰が働きますか!誰が法律を守りますか!日本は、世界は、今日この瞬間から地獄に変わるんですよ!」
記者の叫びは、もはや質問ではなく、運命に対する呪詛でした。総理は、ゆっくりと顔を上げました。その瞳には、一国のリーダーとしての責任と一人の人間としての深い哀しみが混ざり合っていました。
「……それでも。私は日本国民の理性を信じたい」
総理の声は、不思議なほど静かでした。
「パニックになり、互いを傷つけ合いながら最期を迎えるのか。それとも、残された7日間を、愛する人の手を握り、静かに過ごすのか。……我々に残された最後の『自由』は、どう終わるかを選ぶことだけです」
「総理、あなたは!あなたはどうされるんですか!」
去り際の総理の背中に、誰かが問いかけました。総理は足を止めず、しかし一瞬だけ振り返って答えました。
「私は、最後の瞬間までこの席におります。……それが私にできる唯一の『仕事』ですから」
放送が打ち切られた後、テレビ画面には「一週間後の正午」を示すカウントダウンの数字だけが、無機質に表示されました。
この質疑応答を街頭の大型ビジョンで見届けていた人々は、誰一人として動こうとしませんでした。ただ、足元から崩れ落ちるような絶望の中で、東京の空に浮かぶ「死の刻印」――不気味に輝く赤い星を、呪うように見つめ続けることしかできなかったのです。
【沈黙――そして崩壊】
「日本は、終わります」
総理の会見が、砂嵐のようなノイズと共に幕を閉じた瞬間。日本中の都市から、まず「音」が消えました。
新宿、渋谷、梅田。数分前まであんなに騒がしかった繁華街は、まるで巨大な墓標のように静まり返りました。大型ビジョンに映し出された無機質なカウントダウン――【衝突まで 167時間42分】という数字が、ただ明滅するだけです。
その静寂は、数分と持ちませんでした。
ダムが決壊したかのような絶叫が夜の街を飲み込んでいきました。
「嘘だ!嘘だろ!!」
路上で立ち尽くしていた男が、持っていたスマートフォンをアスファルトに叩きつけました。それを合図にしたかのように、街は混沌の坩堝へと叩き落とされました。
深夜だというのに、道路はパニックに陥った車で埋め尽くされました。どこへ逃げても助からないと知りながらも、人間は「動かずにはいられない」生き物でした。クラクションが絶え間なく鳴り響き、歩道には泣き叫びながら走り回る人々が溢れました。
コンビニやスーパーのシャッターは、暴徒と化した人々によってこじ開けられ、棚からは食料と酒が瞬く間に消えました。「最後の一週間、誰が金を払うか!」という怒号が響き、治安という名の薄皮は一瞬で剥がれ落ちたのです。
空を見上げれば、そこには「死」が受肉したかのような姿がありました。
昨日までは望遠鏡がなければ見えなかったはずの「赤い星」は、今や都会の強い街明かりを突き抜け、血のような不気味な輝きを地上に投げかけていました。
それは、もはや天体ではありませんでした。
日本列島を飲み込むために開いた、巨大な「神の口」のように見えました。
「……綺麗ね」
狂乱する新宿の雑踏の片隅で、若く着飾った女性が空を仰いだままポツリと呟きました。その頬を涙が伝います。
「あんなに大きな星に壊してもらえるなら、私のくだらない人生も、少しは価値があったのかな」
ある者は教会の門を叩き、ある者は酒浸りになり、ある者はただ愛する人を抱きしめて震えていました。科学が、政治が、宗教が、すべての権威が機能を停止した。
日本という国家は、衝突を待たずして精神的な死を迎えようとしていました。
――しかし、その狂乱の震源地とも言える東京都中野区。
落着予想地点の「ど真ん中」にあるはずの「ことぶき荘」の周辺だけは、異様なほどの凪に包まれていました。
街の狂騒は、この一画に触れた瞬間に吸い込まれるように消えてしまうのです。
管理人室の窓からは、電球色の温かな光が漏れていました。
善吉は、テレビを消した後、急に静かになった外の空気に耳を澄ませました。
「皆さん、随分と急いでいらっしゃる。そんなに慌てては明日の朝、美味しい味噌汁を作る元気もなくなってしまいますぞ」
善吉は、押し入れから一枚の雑巾を取り出しました。
世界が終わりを嘆こうとも、彼にとっては「今、ここを綺麗に保つこと」こそが、九十五年の生涯で辿り着いた唯一の真理でした。
「まずは、わしの部屋の窓拭きから始めますかな。空がよく見えるように」
善吉が窓をキュッ、キュッと拭きあげると、そのガラス越しに見える「赤い死神」の輝きが、ほんの一瞬だけ、気圧されたように揺らぎました。
地球最後の一週間。
狂乱と絶望が吹き荒れる日本の中で、ただ一箇所。
この古いアパートだけが、嵐の海に浮かぶ揺るぎない小舟のように、穏やかな時を刻み続けていたのでした。




