第20話:エピローグ
ヴォルガード城の朝は、かつての静寂が嘘のように賑やかだった。
現在、この城で最も勢力を持っているのは、辺境伯でもその夫人でもない。
二人の間に生まれた5歳の長男、アルフォンスである。
「お母様、おはようございます。昨夜の就寝から起床までの時間は7時間15分……。これは成長期にある僕の脳機能の最適化に必要な睡眠時間を3%下回っています。なぜお父様は、僕がもう少し寝ていたいという主観的希望を『鍛錬の時間だ』という非科学的な根拠で却下したのでしょうか?」
朝食の席に着くなり、銀髪を揺らした少年が、大人顔負けの口調でアイリスに詰め寄る。
アイリスは優雅に紅茶を啜りながら、手元の帳簿から目を上げた。
「アルフォンス。その問いに対する解は、背後の『物理的要因』に直接求めた方が効率的ですわよ」
アイリスが視線を向けると、そこには苦笑いを浮かべたゼノスが、小さな木剣を抱えて立っていた。
「……お前、息子にまでそんな教育をしているのか」
ゼノスが椅子に腰を下ろすと、アルフォンスはすかさず父の方を向いた。
「お父様、逃げないでください。筋肉量の増強と早朝の低気温下での運動の相関関係について、僕を納得させるだけの定量的データを示していただければ、僕は直ちに庭へ向かいます」
「……データの前に、俺の拳(実力)でお前の『反抗期』という変数をねじ伏せるという選択肢もあるが?」
「それは議論の放棄です! 感情に頼る経営は、組織の腐敗を招くとお母様が仰っていました!」
ゼノスは頭を押さえた。
かつての彼は、理屈を並べるアイリスを「小賢しい女だ」と一蹴していた。
しかし今、目の前には「妻の知性」と「自分の頑固さ」を完璧に継承した、世界で最も小賢しい息子がいる。
「……アイリス、助けてくれ。俺の武力だけでは、この小賢しい理論武装を突破できん」
「あら、ゼノス様。……私の計算では、あなたがアルフォンスを抱き上げて、高い高いをしながら『今日も俺の息子は賢いな』と褒めるのが、最も早く彼を庭へ誘導できる最適解ですわ」
アイリスが茶目っ気たっぷりにウィンクすると、ゼノスは「やれやれ」と肩をすくめ、宣言通りに息子をひょいと担ぎ上げた。
「わっ! ……お父様、これは重力加速度の計算が……あはは! もっと、もっと高くです!」
論理武装もどこへやら、アルフォンスは年相応の子供らしい声を上げて笑った。
子供を連れてゼノスが庭へ出た後、アイリスは静かになった食堂で、窓の外を見つめていた。
庭では、大柄な夫が小さな息子に剣を教え、合間に息子が何やら難しい講釈を垂れている。
そんな光景を眺めていると、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「……計算違いだわ。本当に」
かつて王都を追放された日、彼女の計算機には「絶望」と「孤独」という数字しか並んでいなかった。
効率。利益。損得。
それだけを信じて自分を武装させていた彼女に、「小賢しくて何が悪い」と言ってのけた男がいた。
その知性を奇跡だと呼び、冷たい計算機だった彼女の心に、愛という名の無限のエネルギーを注ぎ込んでくれた。
しばらくして、汗をかいたゼノスが一人で戻ってきた。
アルフォンスは庭で、今度は庭師を相手に「土壌の栄養バランス」について議論を始めたらしい。
「アイリス。……お前、何を笑っている」
「いいえ。……ただ、私たちの『共同経営』は、今のところ驚くほど順調だと思っただけです。後継者の教育コストは、少し高くなりそうですけれど」
ゼノスはアイリスの隣に座り、彼女の肩を抱き寄せた。
「コストならいくらでも払おう。……それにお前、忘れていないか? 今日は、あの『最初の契約』を結んだ記念日だ」
「……あら、よく覚えていらしたわね。論理的記憶力より感情的記憶力の方が勝っているようですわ」
「嫌でも覚えている。……あの日、お前が俺の前に現れなかったら、俺の人生の帳簿は今頃、完全な破綻を迎えていただろうからな」
ゼノスは懐から、一通の小さなカードを取り出した。
そこには、ゼノスの不器用な字でこう書かれていた。
『次年度も、その次も。更新料(愛)は無制限。契約は永遠に継続とする』
アイリスはそれを見て、ふっと優しく、そしてこの上なく美しく微笑んだ。
「……承認します。……私の愛しい、一生涯の雇用主様」
二人は、窓から差し込む春の光の中で、静かに唇を重ねた。
論理では説明できない。数字では測れない。
けれど、ここにある幸せだけは、どんな高名な算術家でも否定できない「真実」だった。
小賢しい令嬢と、人喰い辺境伯。
二人が編み上げた愛の数式は、これからもこの地で、そして彼らの血を継ぐ者たちの中で、永遠に解かれ続ける。
「……さあ、旦那様。定時までまだ時間がありますわ。……次世代の教育予算の再計算、付き合っていただけますか?」
「ああ。……お前の気が済むまでな」
春風がカーテンを揺らし、二人の笑い声が、光溢れるヴォルガード城へと溶けていった。
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