息子が、目を覚ましたようです。
ようやくコメットが寝室から出られるようになったのは、シャウラ嬢襲撃事件から一週間経ってからだった。呆れた顔をした古株の侍女に、私のせいじゃないものと頬を膨らませれば、「そのようなお顔はお控え下さい」と言われた。
なんだ、歳だからか!?
それから古株の侍女は「ご心配頂きありがとうございました。夫も一度お会いしてお礼をと申しております」と頭を下げた。すぐさま丁重にお断りした。なにせ古株侍女の夫はあの騎士団長である。きっとお礼にと言いながら「では一勝負」なんていい笑顔で宣うのだ。
妻を転ばされて怒ってるんだ!絶対に行かない!
「コメット、いるかい?」
「シリウス様!」
「陛下、暫く王妃殿下との面会はお控え下さいと言ったのをお忘れですか?」と古株侍女に睨まれたシリウスは、にっこり笑って「そうだっけ?」なんてシラを切ってみせた。こういうところが堪らなく好きなのである。シリウスは、気にした様子もなくベッドに腰掛けた。侍女らに下がるように合図して。
「シリウス様、如何なさいました?」
「君が部屋に引きこもっている間に色々あったんだ。その報告をと思ってね」
「いろいろ?」
「うん、いろいろ」
「どんなことでしょうか」
「まず、スハイルがエリスに求婚した」
「なにそれ!見たかった!」
「しかもエリスに振られてた」
くすくすと可笑しそうに笑ったシリウス。笑い事ではない。どういうことだ。エリスに振られてしまうとは、つまり逆婚約破棄!?
「スハイルったら、号泣しちゃって。ほんとあいつ情けないよね」
「泣きたくなる気持ち分かります」
「エリスは、スハイルが心を入れ替えて勉学に勤しみ立派な王になるよう努めることができたら、結婚しますってさ。立派なってことは僕みたいな賢王だよね。スハイルにはなかなか厳しい道のりだな」
「よく言いますね」
「あとは、アダマス公爵にも今回の騒動のこと許してもらったよ」
「それは良かったです」
「領地をあげちゃったけどね。前から欲しいって言われてて渋ってたんだけど、全く本当にアダマスには敵わないよ」
「いつも負けてらしたものね」
「今は剣なら負けないさ」
「あら、そうかしら?」
くすりと笑って言えば、シリウスは拗ねたように形の良い唇を尖らせた。可愛いと言ったらきっともっと拗ねてしまうに違いない。内心悶えるだけで我慢我慢。
「他には?」
「シャウラ嬢を退学にした。あとローズクォーツ男爵から爵位を剥奪した。まぁ、シャウラ嬢は庶民に逆戻りってやつだね。あれ?あまり嬉しそうじゃないね」
「微妙です」
「微妙って?」
「どうせなら、エリスちゃんに断罪して貰いたかった」
ざまぁ、ってやりたかった。傍観してニヤニヤしたかった。
「あぁ、それは僕も考えてエリス嬢に何かしてやりたい罰はあるかって聞いたんだ」
長い足を組み替えて、ニヤリと笑ったシリウス。あぁ、きっと王座に座して罰を求めた姿は、実に美しかったに違いない。彼の王の姿は冷酷なほど美しさを増すのだから。
「エリスちゃんは、なんて?」
「もう二度と君とのお茶会を邪魔されたくないってさ。爵位を奪って庶民になったんだ。もう二度と城には近づくこともできないだろうね」
「まぁ、エリスちゃんたらそんなことを」
「ほんと、昔から仲良いよね君たち」
「ふふふ、同志ですから」
「同志?」
「女同士の秘密です」
くるくる回ってた女の子の成長を眺めているのは楽しかった。コメットは、スハイルという天使のような息子を授かったが、出来ることなら女の子も欲しかったのだ。だから、女の子を育てる気分ができて嬉しかった。それを伝えたらエリスはこう言ったのだ。「わたしもははうえがいないから、おうひさまがははうえのようにやさしくしてくれてしあわせです。いっしょですね」と。
あぁ、あの時、もう彼女は私の中で唯一の娘となったのだ。
「もうベッドから出られそうかい?」
「えぇ、大丈夫です」
「なら、訓練所に行かないかい?」
「訓練所?」
「今、スハイルが騎士団長と手合わせしてるんだ」
「それまた、なんで」
「今回のことで根性鍛え直してくれるんだって」
「それはもううんと鍛え直してくれるでしょうね」
「うん、ぼこぼこだね」
嬉しそうに言ったシリウスに、コメットは苦笑した。天使がぼこぼこ。可愛そうだが仕方ない。仕方ないから、私も参戦しよう。よしっと拳を握り、動きやすい服へと着替えることにする。シリウスが「君もぼこぼこにする気だね」なんて言って外で待ってるよと部屋を出て行った。入れ違いに侍女らが入ってきて早速着替えの準備を始めた。きっとシリウスに指示されたのだろう。
「あまり無理はなさらないで下さいね」と侍女らに見送られてシリウスと側近らと訓練所へ向かった。そこには、騎士団長に言葉通りぼこぼこにされてるスハイルがいた。満身創痍な天使も母性をくすぐられる。
「母上!もう体調は宜しいのですか!?」と駆け寄ってきた天使。病気だったわけじゃないから後ろめたい気持ちがあるが、さすがに言えないので微笑むだけにしておいた。すると騎士団長が良い笑顔でやってきた。
あ、やばい。
そういえば古株侍女の件があることをすっかりうっかり忘れていた。「さぁ、どうぞ」と渡された剣に、顔が引き攣る。
「騎士団長、コメットとの手合わせはまた今度にしてくれ。コメットはスハイルをぼこぼこにしたいそうだ」
「シリウス様、なにやら語弊があります」
「え、そう?」
「え、母上と手合わせ?」と逃げ腰になっているスハイルをがっちり捕まえたのはシリウスだ。さらりと揺れる白金の髪に細められた青灰色の瞳。実に楽しそうである。
「コメット、それが終わったら久しぶりに遠乗りでも行こうか」
ご褒美を貰えると知って俄然やる気になったコメットは、言葉通りスハイルをぼこぼこにした。その後、いつの間にか手配していたランチセットを護衛騎士らが持ち、コメットは白い毛の美しいシリウスの愛馬に乗せられて優雅な午後の一時を満喫した。
カポカポと馬の足音に合わせて揺れる体。太陽の柔らかい日差しに、後ろから包まれるシリウスの体温。世界の全てから護られてる気がする。
「ふふふ、なんだか気持ち良さそうだね」
「うん、なんだかのんびりだなぁって」
「ここのところバタバタしてたからね」
「ほんとに、こんなに長閑なのが嘘みたい」
くすくすと耳元で囁かれる声が擽ったい。ゆったりとシリウスに背を預ける。
「自分の馬に乗らなくて良かったの?」
「うん、今日はこれで良いの」
「くすっ、そうなんだ」
離れたくなかった。あんなに愛し合っても、もっと近くにいたい。傍にいたい。離れたくない。そう思ってしまう。若い頃の反動だろうか。それとも前世の反動だろうか。
前世の私はそれこそどこにでもいるような一般人。誰かに愛されることもなく、誰を愛することもなく、このまま孤独死まっしぐらだなんて思ってたら。
「ほら、見て。もうすぐ小川だよ」
「そこで休憩にしましょう」
「あぁ、そうだね」
この青灰色の瞳の美しい王子様に出会ったんだ。
学園を追放されたシャウラ・ローズクォーツは、最後の最後までブツブツと意味不明なことをこぼしていたらしい。
「こんなはずじゃなかった。こんなの原作と違う。なんで、ちゃんとシナリオ通りにやったのに。このままじゃシーズン2も始まらないじゃない。悪役令嬢役のエリスの行動も全然違うし、攻略対象のみんなだって。そもそもスハイルは母親に嫌われてもっと薄幸な感じなはずなのに全然違うし。隠れキャラのシリウス様だって……ぶつぶつぶつ」
言葉を正確に理解できたのはきっとコメットだけだろう。彼女の敗因は、この世界が現実世界だと認識出来なかったことである。哀れなことだ。
「コメット、おいで」
「はい、シリウス様」
両手を広げて柔らかく微笑むシリウスに、コメットは馬上からシリウスの胸に向かって飛び込んだ。
「くすっ、幾つになっても君はお転婆だね」
「まぁ、シリウス様だって」
二人は微笑み合って、そっと唇を寄せた。