後編
前カノ視点です
目覚めると、パパが元彼でした
目が覚めると、そこは知らない天井だった。
色々な管に繋がれ、点滴が見えたので、病院だとわかった。
私、横断歩道で待っていたら、誰かに押されて車に跳ねられた気がする。
体を動かそうとすると、ベッドの脇の椅子に座っていた女性が、枕元のナースコールを押す。
「302の斉藤です。意識が戻りました」
斉藤? あれ、私、さいとうじゃない……。
「よかった、目が覚めて……」
涙ぐむ女性は四〇代前半というところか。ショートボブでベージュのカットソーに紺色のパンツを合わせた上品な装いだ。メイクも押さえるべきところはしっかりして眉をナチュラルに整えている。
「痛い所はない? ママのこと、わかる? パパにも連絡しなきゃ」
女性はママと言った。いや、私の母はこんな上品ではない。おかあちゃん、といった感じのもっとどっしりした人だった。数年前に他界したけど。
「アイリ、どうしたの?」
そうだ、私はアイリではない。
「あの……誰ですか」
衝撃だった。車とぶつかったと思ったら、十五歳の女子高生になっていた。
体のあちこちが痛い。
目覚めた後、色々な検査を受けた。あちこち体を打ったらしく、青あざがある以外は元気だったので、すぐに退院できた。
ただし、異変があればすぐに来院するように言われている。
しばらくは本当に混乱していた。
駆けつけた父親は当時付き合っていたカズ君。正直言って、老けたな。と思ってしまった。
恐らく、この体の持ち主・アイリちゃんが頭を打った拍子に、私が憑依したか、もしくは生まれ変わる前の記憶が覚醒したのかも。よくわからない。
アイリちゃんの記憶は、わからない。思い出そうとすると、モヤがかかったように思い出せない。
以前の私は、デパート勤務で一人暮らしだった。仕事も順調で、交際していたカズ君と結婚を意識していたと思う。
今のカズ君を見ると、おじさんになったね、としか思えなくて、恋愛感情がなくなってしまったようだ。
ママの英里子氏はキリッとした女性だが、アイリちゃんとカズ君を大事にしているのがわかる。英里子氏も建築士で、パートで働いているそう。そろそろ正社員に、という話もいただいているみたい。
自宅は駅から徒歩十分のマンションで、英里子氏が主となって家事をしているらしく、どの部屋も綺麗に整頓されている。収納もよく考えられており、家事動線が効率的になっていた。最初は戸惑ったが、英里子氏の教えてくれるとおりに掃除や洗濯を進めていくと、非常にやりやすい。
アイリちゃんの部屋も、女の子らしい部屋だった。棚には何かのキャラクターのぬいぐるみや、アイドルのグッズが飾ってある。机には真新しい教科書が置いてあった。本棚には小説や漫画が並んでいる。
いつアイリちゃんが復活するかわからないので、それまではこの体ごと大事にしようと思う。
アイリちゃんは美少女なんだよね。
さらさらの長い黒髪に、英里子氏譲りのキリリとした目元にシュッとした鼻筋。身長も百七十近くある。足もスラリとながくて、モデルみたい。
以前は身長百五十前半だったので、この高い視界に慣れないこともある。
メイク道具は殆どなくて、化粧水と乳液、クリームくらい。あとは色つきリップかな。
服の趣味も、丈の長いワンピースやスカートが多く、女の子らしい。これだけ足が長いから、ミニスカートも決まると思うんだけど。
アイリちゃんとぶつかった人はちゃんと任意保険に加入していたらしく、保険会社の人が英里子氏と話をしていた。
学校の担任だという男性も家庭を訪問してくれた。授業のプリントを渡されたので、記憶をなくして勉強が不安であると伝える。先生は、様子を見ましょう、来れそうなら学校へ来て欲しい、と曖昧な感じで言われた。
私が高校生の頃はもっとこう、体が元気なら来い、と強く言う感じだったのにな。
とりあえず、出来ることからはじめようと思い、料理をしてみる。
アイリちゃんのスマホは事故で壊れたので、新しいスマホを買ってもらった。
申し訳ないと思いつつ、画面に指を滑らせる。
すごいね、スマホ。
このスマホだけで、全てが完結しそう。
動画や検索だけで何でも調べられたり、楽しくてつい触っちゃった。
今風のメイクとかファッションとか何でも教えてくれる。
地図アプリで調べたら、自宅のマンション近くに図書館があった。一人で行って帰れるよう練習したい、と言ったら、ものすごく心配された。結局、カズ君と英里子氏がお休みの日に、行くことになった。
土地勘が全くなかったが、地図アプリのお陰で迷わず図書館へ行き、図書館カードをつくるところまでできた。初めて来たが、本の匂いが懐かしくて、色々歩いていると、生前に読んだ本が目についたので、借りることにした。
後は料理の本と、新しく入荷した本のコーナーから気になった本を借りる。ふと値段を見てぎょっとする。覚えていた金額よりも大分値上がりしていた。
アイリちゃんは高校生だから、お小遣いだよね。本は借りよう。図書館が近くでよかった。
無事に帰ると、英里子氏が涙ぐんでいた。
ああ、この人は本当に自分を心配してくれているんだな、と実感した。
この人のためにも、アイリちゃんの体は大事にしなきゃ。
アイリちゃんの生活に慣れてきた頃、カズ君がお守りをくれたり、お祓いに行こうと言い出した。
どうやら私がアイリちゃんの体を乗っ取ったと思われているのかも。返せるなら返したいんだけどね。
付き合って居たときに、作った料理を披露したので、気づかれたかもしれない。
言い訳をさせてもらうと、失敗したくないので、作ったことのある料理を出したのだ。
英里子氏が本当に美味しそうに食べてくれるので、調子に乗ってしまった。英里子氏は洋食を作ることが多かったらしく、和食を作るとすごく喜んでくれる。
「アイリ、今日も美味しいわ。本当に料理の才能があるんじゃないかしら。調理師学校とか行ってみる? お店が出せるわよ」
「ママ、大袈裟だよ。本と動画の通りに作っただけだって」
一応女子高生らしく言ってみる。言葉遣いも動画を参考にしている。
明日は豚の角煮でも作ろうかな、とウキウキしていると、カズ君がじっと私を見つめていた。
「パパ、美味しくなかった?」
あなたの好きな豚の肉じゃがですよ、と心の中で呟く。
カズ君はハッとして、「いや、美味しいよ。ははは」と棒読みになる。
食後、早々に風呂へ行ったカズ君を見送って、
「パパ、大丈夫かな。心配かけちゃったから……」
しゅん、としていると、英里子氏が口を尖らせた。
「何か、思い詰めると変な方へ向かっちゃうから、悪いけどお祓いも付き合ってあげて」
カズ君よ、英里子氏と結婚して正解だったよ。
「お祓いの最中、悪霊が取り憑いてたふりをして苦しんでみたら、パパも安心するかな?」
ふざけてみると、英里子氏が爆笑した。
「いいわね、それ。私が苦しんでみようかしら」
結論を言うと、お祓いはつつがなく終わった。別に苦しくならなかったし、成仏もしなかった。
これでアイリちゃんに体を返せるかと思ったんだけど。
帰りに英里子氏の選んだイタリアンのランチに連れて行ってくれ、家族団らんを楽しんだ。
プロの作るパスタは癖になる美味しさだった。ただ、アイリちゃんの舌は唐辛子が苦手のようで、ペペロンチーノを頼んだはいいが、鷹の爪がどうしても食べられなかった。
「やっぱり、唐辛子はダメなのね」
涙目で鷹の爪を除けていると、英里子氏がどこか嬉しそうに呟いた。
カズ君が気まずそうに視線を逸らす。
そうね、前は辛い料理も平気だったもの。
学校に通い始めると、やはり周囲から浮いていた。
勉強もわからないし、クラスメイトの顔もわからない。ただ、入学三日目で事故にあったので、名前と顔はこれから覚えればいい。クラスの人数も少ないし。
正直、中身は一度高校生活をしたことがあるので、何だかコスプレをしているようで、ちょっと辛い。
取りあえず、前の席の女の子は、近藤真鈴、マリン、と先生が呼んでいた。明るいブラウンに染めた髪を綺麗に編み込んでいる。丈の短いスカートが目を引く。
アイリちゃんとはまた別の、猫目の素敵な美少女だ。
クラスでは、休憩中に誰とも話をしていないようだった。
「すごい」
思わず呟いてしまった。
昨日も綺麗な編み込みだったけど、今日のは両サイドから手が込んだ編み方でトップに持ってきて綺麗に結んでいる。
マリンちゃんが振り向いて、「何か言った?」と首を傾げた。
「あ、編み込みすごいね」
えっ、という顔をされた。
そうだよね、ほぼ初対面のヤツにそんなこと言われたらびっくりだよね。
「あの、ごめん。今の忘れて。頭を打った変なヤツの独り言で……」
言い切ってしまったところで、チャイムが鳴った。
「斉藤さん、さっきの……」
授業が終わると、くるり、とマリンちゃんが振り返る。
「あ、あのね、編み込みが綺麗ですごいなって。昨日と違うでしょう?」
素直に感心してしまう。
「う、うん。褒めてくれてありがとう」
えへへ、と照れたように笑うと、目が細くなって、より猫っぽく見えた。可愛い。
「こっちこそごめんね。ちょっと人との距離感がわからなくて。思ったことがポロポロ漏れちゃうんだ」
「あー、記憶喪失なんだっけ。大変だね」
先生が事情を話してくれて、皆に配慮するように言ってくれたのが効いている。
取りあえず、失言には気をつけよう。
それから、マリンちゃんとお昼ご飯を一緒に食べたり、ちょっとずつ話をし始めた。
私が事故に遭って入院している間に、マリンちゃんは、同じ中学から来た彼氏と親友が浮気をしたという大事件があったそうだ。どちらも隣のクラスで、入学式から一週間後のことだった。
しかもばっちりと事後の二人がピースサインをしている写真付きでお知らせが来たという。
元親友の子、大丈夫かな? 昔も今もネットに流出したら大変なことになると思うけど。
こういうのデジタルタトゥーっていうんだっけ?
おまけに、マリンちゃんが浮気をしたから、彼を慰めているウチに、と同じ中学の子を中心にあることないこと噂を撒かれたらしい。気がつくと一人になっていた。
あー、いるいる。そういう子。友達の彼氏を寝取って被害者ぶるという。
よっぽどうまく立ち回らないと、いずれ孤立するヤツだ。
昼休憩は、中庭が開放されているので、日当たりのいいベンチに座って話し込む。
「マリンちゃんは、その彼氏がまだ好きなの?」
「わかんない。でもやっぱり顔を見るとまだ好きなのかなって思う」
胸の辺りをぎゅっと押さえる。
まあそうなるよね。人の気持ちはどうにもできないし。
「じゃあ、一旦、棚上げしよう。今、彼のことは考えない。別の角度から話をしてみよう?」
マリンちゃんは素直に頷いた。
「マリンちゃんの十年後って何してると思う?」
「えー、美容師になってるかな。スタイリスト」
すぐに答えがあって驚いた。この歳で将来を決めたんだ。
聞けば彼女のお祖母ちゃんが美容師だったそう。病気で亡くなったそうだけど、髪を綺麗に結ってくれりして嬉しかったんだって。
「じゃあ、二十六歳と仮定します。美容師として働き始めてアシスタントを卒業したくらいかな。順調にスタイリストになって、お客さんとヘアスタイルについて話しています」
マリンちゃんが想像しているのか、ちょっと上の方を見ている。
「前髪の分け目の相談でもいいし、うねるのが気になるから、とか。お手入れが楽な髪型にして、とか。マリンちゃんは、お客様が一番可愛くみえるように考えています」
うんうん、と相づちを打ってくれた。
「そこから、三年前の二十三歳の時はアシスタントとして働いているよね。きっとおしゃれな外観のお店で、何人も美容師を抱えているような所かな」
前世で行っていた美容院を思い浮かべる。同じ所にずっと通っていたから、いつもホウキを持って床の髪の毛を集めていた子が、数年後、嬉しそうに「今日は私が担当させていただきます」と言った時は何だかジンと胸が熱くなったのを覚えている。
「お客はかわいくなりたい若い女の子から、バリバリのキャリアウーマン。それから、もう少し年上の上品に微笑む女性。色々な年齢層の人がひっきりなしにやってくるヘアサロンとかどうかな」
「すごい。なんかイメージがわいてきた」
「お値段は他と比べると少し高いけど、お客様は皆、帰るときはにっこり笑って胸を張ってお店を出るの」
うんうん、とマリンちゃんも頷いてくれる。
「さらにその三年前。二十歳の時は、きっと専門学校で国家試験の勉強をしているところ。周りも必死で勉強してる。できれば今年中に受かりたい」
あー、とマリンちゃんが唸る。
「実技と学科もあるのかな? そこら辺はよくわからないや」
「急に雑になった。でもなんかビジョンが浮かぶよ」
マリンちゃんが目を細めてふふ、と笑う。
「では、棚上げしていた問題です。今、マリンちゃんの将来に、元彼氏と元親友のことは思い浮かびましたか?」
あ、と口に手を当てる。
「ない。まったく思い浮かばなかったよ」
学生時代の友達や恋人なんて、よほどの事がない限り付き合いが続かないのは経験済みだ。ましてやひどい裏切りをした相手だ。
働き始めると、これまでとは視点がかわるので、地理的にも心理的にも離れていく方が多いと思う。
「元彼のことは今はまだ未練があるかもしれないけど、十年後になると、そんな人いたね、という感じになっちゃうと思う」
ちょっとでも前向きになれればいいな。時間薬だし。
それにクラスが違うから今はそれほど実害はないはず。そもそも浮気をしたのは元彼の方だ。罪悪感をごまかすために悪い噂を流すような子、友達とは言わない。
「悪口がひどくなるなら、一緒に先生に相談しよう。根も葉もない噂話を撒かれて迷惑しているって。それでダメなら教育委員会に行こう。しんどいときは学校を休んでいいと思う」
マリンちゃんは、一度俯くと、何度か瞬きをして、もう一度顔を上げた。
「ありがとう、私、スタイリストになるよ」
マリンちゃんという友達が出来たのはいいが、相変わらず学業に不安がある。何せイチからやり直しな上、前世の学生時代と何だか内容が違うので戸惑っている。
将来の話よりも、目の前の授業である。
こんなのあった? という教科が多く、中間試験が迫ってくるのに、全く追いつけていない。辛うじて国語と歴史などの暗記物はどうにかなりそうだが、理数系がさっぱりわからない。英語のリスニングに至っては、全く耳が拒否してしまう。
前回の学生時代、忘れ物をしたタカシ君のお兄さんが時速⚪︎キロの徒歩で出かけていた時、タカシ君が時速⚫︎キロの自転車で追いつくのは何分後か、という問題があった。
偶然、同じクラスにタカシ君という同名の子がいて、先生に当てられた。
「ばあちゃんに電話して車で持って行ってもらう」と答えて先生から「トンチじゃない」と怒られていた。
私は計算問題以外に解決する方法があるなんて! と感心してしまった。
留年かな……。と遠い目をしていたら、マリンちゃんも遠い目をしていた。
取りあえず、ウチに来て一緒に勉強しよう、と誘ってみたが、おしゃべりが楽しくて、気がつくと夕飯を一緒に食べ、英里子氏運転の車でマリンちゃんを自宅まで送っていくことになった。
これまで友達を家に連れてきたことがなかったらしく、英里子氏が大喜びをしていた。
「これは、中間試験対策をしなければ、まずいことになるね」
翌朝、教室でマリンちゃんと反省会をし、試験について話し合うが、どうにもよくわからなかった。
ふと、隣の席の男子と目があった。確か瀬野君だったかな。
オーバル型の眼鏡を掛けたひょろりとした男の子で、の●太を大きくしたみたいなイメージ。
一度も話したことがない。
なのに、目が合った瞬間、びくり、と大袈裟に顔を逸らした。
視線の中に、心配と恐怖が混じっているようだった。
「瀬野君?」
マリンちゃんが首を傾げると、瀬野君は小さく首と手を振った。
「な、何でもないよ。気にしないで」
「いや、別に気にしてないけど?」
マリンちゃんの方には顔を向ける。
「あの、瀬野君。私、記憶がなくて。その……何かしちゃった?」
試しに私が話しかけると、瀬野君の顔色がさっと変わる。
「いや、あの。何もしてないよ、大丈夫」
やっぱり私を怖がっているようだ。
気になったので、その後も何日か瀬野君を観察する。どうやらぼっちのようだ。
私には、マリンちゃんという友達ができたが、彼は集団の中でも少し浮いていた。話しかければ会話は成立するが、必要最低限、という感じ。
放課後、帰り支度をする瀬野君に、声を掛けてみた。
「瀬野君」
ぎょっとした瀬野君が飛び上がる。
「な、何かな?」
やはり私を恐れているようだ。
「ちょっとお話があるんだけど」
「ぼ、僕にはないよ」
視線を合わせようとしないので、強引に前に出た。
「私が、話があるんだよ」
にっこり、と美少女スマイルを浴びせたのに、瀬野君はひいい、と喉の奥で悲鳴をあげた。
失礼な。
お互い鞄を持ったまま、中庭のベンチに座る。マリンちゃんには事情を話して先に帰ってもらった。
「私のこと、怖がっているでしょう? マリンちゃんには普通に話すのに。私、何かしたかな?」
例えば、昔虐めていた子に似ている、とか。トラウマを刺激する何かがあるのかな。
「大丈夫。怒ったりしないから教えて」
無言を貫き、座る距離を最大限空ける瀬野君に詰め寄った。
「あ、ああ、悪霊退散!」
焦った瀬野君に、お守りらしきモノを顔の前に突き出された。
しばらくじっとそのお守りを見つめる。これ、カズ君がくれたお守りと同じだ。
「あの、ごめんね? 成仏してなくて」
そう言って鞄から、お守りを取り出し、瀬野君に見せた。
そこから瀬野君の話を聞くと、彼は見えちゃう人らしい。
入学式から三日は何も感じなかったのに、復帰した私が時々若い女性に見えるそうだ。
今までは、背中とか足にすがりついていたモノなら居たが、ここまではっきり見えているのは初めてだという。
「実は事故のせいで、外見はアイリちゃんだけど、中身が元デパガです」
仕方がないので、イチから説明する。
「でぱが?」
素直に首を傾げられた。
今はそんないい方しないのかな。OLが会社員になっているもんね。
百貨店店員、なのかしら。
「包装紙で箱を包んだら信じてくれる?」
かつて必死に練習した技を披露しようかと思ったが、「意味が分かりません」と瀬野君に断られる。
そうだよね、お歳暮とかお中元とかまだ関係ない歳だよね。
「出来れば秘密にしてね。祟ろうとか悪いことは考えてなくて、普通に暮らしたいの。頭を打ったことで、別の人格が出てきた、の方が説得力があるかなって思ってるの」
「まあ、それなら納得する人もいるでしょう」
微妙に敬語な瀬野君に、悪霊ではないことがわかってもらえた、と思う。
「あと、瀬野君、図々しいこというのは承知なんだけど、私とマリンちゃんと一緒に勉強しない?」
困っていることを一つずつ解決しなければならない。藁にもすがる思いで、頼んでみた。
瀬野君は少し迷惑そうな顔をしたが、オヤツも出すよ、と言ったら了承してくれた。
「取りあえず、どこが困ってるの?」
我が家のリビングのローテーブルに、私、マリンちゃんと向かい合うように瀬野君が座る。
おやつは、昨日の夜、現実逃避と称して焼いたパウンドケーキと紅茶を出した。
「数学・理科・英語が、全くわからない」
数1Aって何? Aはどこから来たの? 生物と物理もわかりません。英語? 何それ美味しいの? って感じ。
現役のはずのマリンちゃんも、「漢字苦手だし。意味が通じればいいじゃん」、とにこやかに言い切った。
瀬野君は頭を抱える。
「え? 何言って……授業のノートは、プリントを先生からもらってるよね?」
そう、担任の先生から渡された休んでいた時の授業のプリント。
「うん、とりあえず、ファイルしてるよ」
ほら、とファイルを取り出し、教科別に見出しをつけているのを見せた。
「問題、全く解いてない?」
数学は解説付きの回答がついていたので、斜め読みした。目が滑って内容が頭に入ってこないと正直に告白する。
「いや、まず自分で問題解こうよ。最初から。数をこなしていけばわかるから。近藤さんはとりあえず国語の教科書に出てる漢字を書けるようにしよう」
瀬野君は面倒見がいいらしく、それぞれアドバイスをくれた。
やっぱり地道に勉強するしかないのか……。
瀬野君が、一緒に問題を解いてくれ、わかりやすく解説してくれる。
しばらく問題と格闘していたら、英里子氏が張り切って買い物袋を下げて帰ってきた。
家で勉強会を開くとメールでお知らせしたのだ。
ポークチャップを作ってくれるらしい。サラダとスープは私が作る。
瀬野君とマリンちゃんは恐縮しながらも、バクバク食べていた。
ママのご飯は美味しいのよ、と誇らしい気持ちになった。
食事が終わって、瀬野君とマリンちゃんを英里子氏が車を出して自宅まで送ってくれる。
「ママ、ありがとう。お仕事で疲れてるのに、ごめんね」
帰り道、英里子氏に礼を言うと、「いいのよ。友達と勉強なんて今しかできないもの。がんばってね」と逆に応援されてしまう。
夕食代もカズ君と英里子氏の給料から払われているのだ。収入のない自分が申し訳ない。落ち着いたらバイトでもしよう。
平穏な日々が過ぎていったが、突然、一本の電話がかかってきた。
警察から、「お伝えしたいことがあるので、署まで来て欲しい」と言われた。電話を取ったのは、学校から帰ったばかりの私だった。
すぐに仕事中の英里子氏に連絡し、カズ君に伝えて貰う。
「今頃何かしら?」
アイリちゃんの事故の件だろう。私が未成年なので、親も一緒にということなのだと思う。
事故当時、意識がなかったので、運転手の証言と、救護に当たってくれた人たちの証言で調書を取ったらしい。
今、事故状況を聞かれてもまったくわからない。
職場から急いで帰ってきた英里子氏と、警察署に向かう。
英里子氏が運転してくれ、カズ君よりも先に署に着いた。受付に伝えると、三階へ行ってください、とのことだったので、エレベーターを使う。
会議室のような所へ通され、英里子氏と二人で待っていると、カズ君が入ってきた。
仕事帰りで疲れた顔をしている。
そこで聞かされたのは、何者かがアイリちゃんを突き飛ばして車に轢かせたという話だった。
怪我をしたときの制服は血がついてボロボロだったので、新しい制服を買って貰った。残念ながら制服は捨ててしまった。証拠が一つ消えたみたい。ただ、素手で押したかわからないし、救急車の人が抱えてストレッチャーに乗せたらしいので、指紋が残っていたかは疑問だ。
アイリちゃんを傷つけたことは腹立たしく、厳罰に処して欲しいが、私は事故のことを全く覚えていないので、どこか人ごとだった。
「山下君です」
防犯カメラの映像に映った犯人はカズ君と英里子氏の大学時代の後輩らしい。その時は何か大学時代にでもいざこざがあったのかな、という程度だった。
ただ、警察署を出てから、カズ君の様子がおかしい。別々の部屋で聴取されたのだが、一番長かったのがカズ君だった。
帰りも英里子氏の運転だった。今夜の食事はコンビニ弁当ね。と気を遣ってカズ君の好きなプリンまで買ってくれたが、カズ君は心ここにあらずだった。
翌日、同じ会社に娘を殺そうとした犯人がいるということで、カズ君は社長の了承を得て有給になった。念のため、私も学校を休み、英里子氏はパートに出た。
英里子氏によると、コンペで負けたことで、山下という男の注意をひいたらしい。
会社の若手による設計、という条件で募集がかかり、山下もかなり力を入れていたそうだ。
私が覚えているのは、役場の建物のコンペを頑張るカズ君の姿だった。
細部にこだわるカズ君が、苦労して建物の模型を造り、プレゼンの練習を必死にしていた。心血注いで、という言葉はこのことなんだと実感する。賞の有無にかかわらず、彼はこれからこの情熱をもって建築の世界で活躍するだろう。それを私は支えるんだ。と、決意したのを思い出した。
わがままを言って、その役場へ連れて行ってもらう。実際にあの小さな白い模型が建ったところを見たかった。
小さな町の役場にしては、かなり立派な建物だった。こだわった西日の差す窓を熱心に説明してくれる。
ああ、この人を愛していたな……。
心のどこかで、懐かしい、温かい気持ちが溢れる。
不思議なことに、どうしても恋愛感情のようなときめきが沸いてこなかった。
遺伝子が近い父親に、年頃になる娘が嫌悪感を抱く、という本能があるという。
所謂、パパのパンツと娘の洗濯物を一緒に洗わないで問題だ。
凪いだ海のような、家族としての感情しかない。もし、カズ君が英里子氏とケンカしたら、内容にもよるが、基本は英里子氏の味方をしてしまうだろう。それだけ、英里子氏はカズ君やアイリちゃんを大切にしてくれているのがわかるからだ。
体がアイリちゃんのモノだからなのか、死んだときに恋愛感情も死んでしまったのか。
アイリちゃんとして生きる以上、絶対に前世がバレるわけには行かなかった。これ以上、家庭にトラブルは必要ない。
私にとっては、カズ君、いや、パパの娘として生きて行こうと決めた出来事となった。
そして、犯人の山下が逮捕された。
前世の私を同じ方法で殺したのも、ソイツだった。
しかも私の件は、証拠がなくて立件が難しいとのことだった。
前世は父親はおらず、母は亡くなっていたので、没交渉の親族は死亡原因について知らされても困るだけだろう。
警察から聞いた時は、腹が立ったが、両親の怒りが強かった。
特にパパは、恋人を殺され、娘まで。
目つきが険しくなってしまったパパに、取りあえず落ち着いて欲しかった。
だが、どこかで言葉を間違えたらしく、感情的になったパパが、昔の私に用意していた指輪を渡された。
ダイヤの三連リングで、裏に”to M”と彫ってあった。
自分が貰う予定だった指輪をじっと見つめる。
素敵な指輪だった。忙しい中、これを用意してくれていたのか。
これを指に嵌めて二人で笑い合っている未来があったのかな。
泣き崩れるカズ君に、私が死んだときもこんな感じだったのかと、罪悪感が湧き上がる。
胸が張り裂けそうな気持ちを押し殺し、非情な選択をした。
私がアイリちゃんの体にいる以上、パパを愛することはない。
指輪は英里子さんに見つからないようにしないと。
これまで支え続けてくれた人に対する裏切りは許されない。
強い気持ちでいなければ、何もかも壊れてしまう。
いきなり、パパが血を吐いた。
慌てて救急車を呼び、一緒に乗り込む。
救急車の中で祈るしか出来なかった。
このまま、死んでしまうのではないかと焦燥感に狩られる。
パパは青さを通り越して白くなった顔を苦痛にゆがめていた。
ママに連絡して、運ばれた病院を告げ、受付の手続きを済ませる。
検査の結果、胃潰瘍で、強制入院となった。
ショックなことが重なり、体が悲鳴を上げたのだと思う。
病室では、突然叫んだりして、心を落ち着かせるお薬も処方されたそうだ。
入院中、病院へはママが仕事帰りに着替えを持って様子見に行くことになった。
私は中間試験が近いので、学校と、家でひたすら試験対策に追われた。
ママに見つからないよう、指輪を箱ごとアイリちゃんの部屋のクローゼットにかかったワンピースのポケットに隠す。
本音は少しパパと距離を置きたかった。
週末に、ママの運転する車でパパのお見舞いに行く。
パパは青白い顔をして横になっていた。固形物を食べられないせいか、頬が少しこけている。
「パパ、ほっぺたがなくなってるよ」
「あ、アイリ、心配をかけたね……」
声に力がない。薬のせいか少しゆっくりとしたしゃべり方になっている。
「ううん、私は大丈夫。ゆっくり休んでね」
暇だろうと、用意していたクロスワードの冊子をベッドテーブルに置く。
食事制限があるので、差し入れが限られる。
「私はこれから中間試験が始まるから、頻繁には来れないけど、退院したら、消化にいいご飯を作るから楽しみにしてて」
ママが着替えと洗濯物を整理している。
「ああ、楽しみにしているよ。そうだ……魚の煮付けが食べたいな」
白身魚なら消化にいいかも。食べやすい魚を調べなくちゃ。
「わかった。他に欲しいものがあったら言ってね」
「うん、アイリ、英里子、ありがとう」
そう言って微笑んだパパは、穏やかな顔をして目を閉じた。
眠くなる薬が投与されていると聞いたので、そのせいだろう。
ママと顔を見合わせ、そのままそっと病室を出た。
そのまま出口へと向かう。駐車場はすぐそこだ。
「パパ、落ち着いた顔になってたね。入院前は目つきが怪しかったし」
「そうね。病気も神様が休みなさいってサインを送ったのかもしれないわね」
ママのポジティブな意見に、ふふ、と笑った。
「パパには少し休んでもらいましょう。ママが頑張るからね」
拳を握るママに、首を横に振った。
「ううん、頑張らなくてもいいよ。ママだってショックだったでしょう? 家事は私もやるから、何でも、きちんとしなくても大丈夫。今はゆっくりしようよ。今回のパパの入院は、ママも休めってことだと思うよ」
ママは頑張り過ぎだと思う。家事は私も手伝っているが、性分なのか几帳面で、家はいつも片付いている。掃除もこまめにしているので、清潔が保たれていた。おそらく、仕事もできる人なのだろう。手際がいいし、次を考えて動いているのがわかる。
だけど、今回、私が事故ではなく、事件の被害者になったことで、相当のストレスを二人に与えてしまった。しかも中身はアイリちゃん本人ではないのだ。
大変、心苦しい。
パパの胃に穴が空いた気持ちがよくわかる。
「アイリ……。ありがとう」
ママが少し涙ぐんでいる。
パパが選んだ人は、間違いないと思う。
パパの洗濯物を後部座席に乗せ、助手席に座り、シートベルトを閉める。
ママがエンジンを掛けた時、自然と口から言葉がこぼれた。
「家に帰ろう」
私は、いつか消えるその日まで、二人の子どもでいようと決めた。
問題
タカシ君(51歳)は、痛車から車椅子対応車に買い換えて、おばあちゃんの通院に付き添っています。
おばあちゃんは「タカシが結婚するまで死ねん!」といつも笑っています。
おばあちゃんがタカシ君の二次元嫁(複数)に気付く確率を答えなさい。ただし、気付いてもタカシ君とおばあちゃんは二人とも幸せだと仮定します。




