前編
見つけてくださってありがとうございます。
目覚めた娘の中身が元カノだった
斉藤和真は、急いでいた。娘のアイリが交通事故に遭い、昏睡状態から目覚めたのだ。事故は下校中、横断歩道で信号待ちの時に押され、車に轢かれた。
高校に入学して三日目のことだ。
幸い信号が変わったばかりだったので、車もスピードが出ておらず、体はぶつかった時の打ち身と擦り傷だけだが、頭を強く打ってしまったそうだ。出血はないものの、昏睡状態になり、一週間目が覚めなかった。
和真には昔、恋人がいた。二つ年上のデパートの販売員だった。明るく、料理上手で誰からも好かれていた。
和真が上司の結婚祝いを探していて知り合った。結婚を前提に付き合い、プロポーズをする直前、横断歩道の信号待ちで、よろけて車道に出たところを車に轢かれた。即死だった。
火葬場で見送るときに、棺にとりすがり泣いてしまって、係や親族の人に引き剥がされた。
もう恋愛はしない、と思い仕事に邁進していたが、大学の同級生の英里子に励まされているうちに、結婚することになった。
英里子は彼女と全く違うタイプだったが、嫌なことははっきりと言ってくれるので、付き合いやすく、信頼できた。
娘も生まれ、マンションも買い、忙しくも穏やかな生活をしていた。
それが、また。
事故で愛する人を亡くすのはもう嫌だ。
神でも仏でもいい、娘を助けて欲しい。
祈ることしかできない自分がむなしかった。
仕事中、妻の英里子から電話がかかってきたとき、彼女のことが頭を過った。
だが、「意識が戻った」と言われ、立ち上がる。
職場には娘の事故のことは伝えていたので、「早く行ってあげてください」と送り出された。
車は所有しているが、職場が駅から近いため、電車で通っている。病院の最寄駅で降りて、タクシーを捕まえた。
病院に駆けつけると、あちこちに湿布や包帯を巻いた娘がベッドから上体を起こして座っていた。
和真の顔を穴が空きそうなくらい、じっと見つめている。
妻に似て、綺麗な顔立ちをしている。背もすらりと高く、小学校の時、モデルのスカウトを受けたこともあった。
「あなた、アイリは記憶が混濁してて……。私達のことを覚えていないみたい……」
英里子の言葉にショックを受けていると、アイリが不思議そうに尋ねた。
「あなたってことは……」
アイリはじっと和真の顔を見つめる。
妻に似た黒い瞳が上から下まで和真を観察しているのがわかった。
「そうだよ。アイリ。私がパパだ。斉藤和真という。四十八歳、建築士として働いている」
取りあえず自己紹介をしてみる。
「さいとう、かずま、よんじゅうはっさい……」
アイリは私の名前を噛みしめるように呟くと、そのまま気を失った。
「器質性記憶障害……記憶を司るところを強く打ったせいで、いわゆる記憶喪失でしょう。言葉自体を忘れたり、特定の期間を全く覚えていなかったりということがあります。ある日突然記憶が戻ることもあれば、このまま何も戻らないこともあります。今の時点で何を覚えていて、何を忘れているかはご本人にもわからないと思います」
医師の説明もよくわからなかった。説明用のパンフレットを渡され色々言われたが、頭に全く入ってこなかった。
「体に異常がなければ、様子を見て学校生活も可能でしょう。何もなければ一月後に受診してください。学校の授業について行けないなら、転校も必要かもしれません」
でしょう、かもしれません、と曖昧な語尾に、和真の不安が募る。
幸い、経過は良好なので、一週間ほどで退院できた。
アイリは、最初の頃は私達との生活を忘れていたが、段々、思い出すことがあったり、新たに覚え直したりして徐々に日常生活を取り戻し始めた。
言動がおかしいのも記憶障害のせいだと思い、違和感を抱くほどではなかった。
退院してから、英里子と食事の支度や洗濯をしたりと家事を手伝い始めた。
学校へはまだ登校していない。ゆっくりと様子を見る予定だ。
アイリは事故前クッキーやケーキを焼いたことはあったが、リハビリと称して煮物などのおかずに挑戦し始めた。
「おいしい。ママより上手よ。本当に初めてだなんて信じられない」
ネットを見ながら作ったと言った筑前煮は、懐かしい味だった。
具も綺麗にカットされていた。すべてアイリが包丁を入れたそうだ。
英里子は絶賛している。
真ん中に切れ目を入れて捻ったこんにゃくを食べた時、アイリがじっと和真を見つめていた。
「美味しいよ。すごく」
お世辞ではなく、心からの言葉だった。
「よかった。明日もまた作るね」
にっこり、と笑ったその顔が、どこかで見たことのある笑い方だった。
「勉強は全然、思い出せない。どうしよう」
高校や中学校の教科書を眺めながら、頭を抱えるアイリに、家庭教師を付けようと英里子と相談する。
学校への復帰の相談も担任が家庭訪問をしてくれることになった。
「こうして元気に過ごしてくれるだけでも嬉しいよ。勉強はゆっくりでいい」
何度もアイリに言い聞かせる。包帯はとれたが、ぶつかったときの内出血があちこち体に残っており、時々、体を動かすと痛そうな顔をすることがある。
事故前はネットにかじりついて、英里子が叱っていたが、全く見なくなった。スマホの使い方を忘れていたようだ。そのせいか、事故後は英里子と楽しそうにおしゃべりすることが多く、笑い声が聞こえる。
英里子も、パートをいつまでも休んでいられないでしょ、とアイリのすすめで日中出るようになった。
アイリが一人で家に居て、家事をしたり、ネットを使ってみたりとできることを増やす日が続く。
日曜日、一人で出かける練習をする、と歩いて十五分のところにある図書館へ行くと言い出した。
図書館へは、小学生まで連れて行ったが中学生になってからは全く行ったことがないと記憶している。
何かあったら必ず電話すること、と言い聞かせ、人の少ない朝一番に行って帰ることにした。
念のため、車で迎えに行けるように英里子と自宅で待機する。
二時間ほどして、アイリが帰宅した。手提げには借りた本が入っている。
「ただいま帰りました。ちゃんと行って帰ったよ」
嬉しそうに報告され、妻がアイリを抱きしめた。
「ママ、心配かけてごめんね」
アイリが借りてきたのは、料理のレシピ本と小説だった。
「宮本輝?」
女子高生が選ぶ小説にしては渋いわね。英里子が呟くが、アイリは微笑んだ。
「何か読みたくなったの。十冊まで借りられるから、色々借りちゃった」
ライトノベルや漫画を読んでいたのは知っているが、こういう本を選ぶとは思わなかった。
ふいに彼女を思い出す。
『お客様から薦められたの。読んでみたら面白くて』
彼女の部屋には宮本輝の本が並んでいた。待ち合わせを本屋にして……。
「そういえば、ママも昔読んだわ。映画になったやつ」
「えー、どんなの?」
そこから二人で話が盛り上がっている。
彼女が亡くなってもう何年になるのか。あの本屋も閉店してしまった。
昔を思い出していると、ふいにアイリが話しかけてきた。
「パパ、今日も私が晩ご飯作るね。ママは監督してて」
「今日は何を作るんだ?」
「ふふ、今日はね、ぶり大根よ。ちゃんと大根の角をとるからね」
その瞬間、ぞくりとした。
まったく同じ台詞を、彼女が言ったことがある。
面取りしなくてもかわらないだろ、とその時は言ったが、「煮崩れしにくいし、味がしみるのよ。楽しみにしてて」と胸を張っていた。
英里子は「すごいわ」と喜んでいるが、違和感を感じないのだろうか。
アイリは中学生になると、年頃のせいかあまり家で話をしなくなった。
特に父親の和真との会話が減った。これが思春期か、と寂しい思いをしていた。
中学の頃は学校以外は家に籠もりがちで、ネットでゲームやアイドルの動画をずっと見ていた。一人でどこかへ出かけることが少なかったと思う。
最近では、高校の制服のサイズを測るのに、英里子と出かけたくらいだ。
事故に遭ってから、人格がまるで別人のようだ。
ぶり大根は、よく味がしみて美味しかった。小松菜の味噌汁も出汁が効いて英里子は感動していた。
どこかで食べたことがある懐かしい味だった。
ご飯を山盛りによそおうとするところや、味噌汁に刻みネギとしょうがをいれるところ。
自分の勘違いなのか。事故に遭った事で彼女を思い出したせいかもしれない。
妄想だと言われればそれまでだ。
だが、不意に見せる仕草が、彼女と重なる。
アイリは、英里子と楽しそうに食事をしている。
何も言えなかった。
「あなた、どうかしたの?」
寝室でベッドに入ってから、英里子が尋ねてきた。
「いや、アイリが別人のようだと……その、事故の後遺症なのか気になって」
しどろもどろに言うと、英里子も頷いた。
「人が変わったみたいよね。でも、好きな食べ物は同じなの。全部は無理でも、多少は良くなるんじゃないかと楽観視してるわ」
やはり英里子も違和感があったのだろう。
「新しいアイリとして育てるしかないと思っているの。生きているだけでいい」
「英里子……そうだな。生きていてくれて本当によかった」
英里子を抱きしめながら、目を閉じた。
そうだ、彼女は亡くなった。頭を打ったせいで言動が変わっただけだ。アイリが生きているだけで幸運だったんだ。感謝こそすれ、気持ち悪く思う方が間違っている。
翌日、帰宅すると、英里子とアイリの楽しそうな声が聞こえてきた。
「おかえり、パパ。今日は肉じゃがよ」
アイリが出迎えてくれる。これだけで、今日の仕事の疲れが飛ぶ気がした。
「ただいま。楽しみにしてるよ」
英里子はサラダを作っているらしい。
「もう少しでできるから、待っててね」
幸せな食卓、微笑み合う家族。アイリが生きていて、本当によかった。
そう、思っていたのは、肉じゃがを食べるまでだった。
「今日は豚肉で作ってみたのよ。たまにはいいでしょ」
アイリがにこにこしながら、和真が箸をつけるのを待っている。英里子が無邪気に絶賛する。
豚肉の肉じゃがは、彼女の得意料理だった。
翌日、会社の更衣室でスマホを検索する。
「憑依」「生まれ変わり」「呪い」……。
和真は彼女を愛していた。
プロポーズの準備もしていた。
うぬぼれでなければ、彼女も自分を愛してくれていたはずだ。
英里子と結婚したのを怒っているのか。そのわりには英里子と楽しそうに話をして笑い合っている。和真よりも会話が弾んでいるくらいだ。どんな顔をして娘と向き合えばいいのか。
「おはようございます。珍しいですね、更衣室で会うなんて」
いつもなら出社後すぐにデスクに行くのに、更衣室でスマホをいじるのが珍しかったのか、別の部署の山下が声を掛ける。
山下は背が高く、鍛えた身体と短く刈り込んだ髪がアスリートの誰々に似ていると女子社員の間で噂になったのを聞いたことがある。
同じ大学の後輩だったのだが、付き合いはなかった。しかし、英里子が最初に勤めた建築事務所に入っていたという縁がある。
「ああ、いや……」
こんなこと、誰にも言えない。
「お嬢さんの具合はいかがです?」
事故を隠していたわけではないので、職場中が知っているのかもしれない。
「退院しても、記憶が全然戻らないんだ。だけど戻らないならそれでいいと妻と話してて」
山下が相づちを打ってくれる。
「娘が料理を作るようになったんだ。何かしないと落ち着かないって」
「手料理、いいじゃないですか。元気になったんですね」
「おかげさまで。学校にも今日は午前だけ行くことになったんだ。記憶がないから、妻が連れて行くことになってる」
「それで心配でスマホを見てたんですね」
早く思い出せるといいですね、と山下が微笑み、和真は曖昧に笑うしかなかった。
「これ、アイリに」
和真が厄除けと書いてあるお守りを渡す。
この地域では一番大きな神社のお守りだ。
「交通安全も中に入っている。家族分買ってきた」
「あ、ありがと」
アイリが戸惑っているのがわかる。
自分でも神頼みするなんて、と思っているが、どうしてもアイリが違う人に見えてしまう。
お守りを持っても、アイリは平気なようだった。
「お祓いでも行こうか」
思い切って妻の英里子に言う。
「ええ? いきなり?」
「事故のこともあるし、ちょっと厄祓いをした方がいいかなって……俺もあんまり信じてないけど」
事故の時、アイリがふらりと飛び出したと警察から言われた。具合が悪くてふらついたのなら運が悪かったとしか言い様がない。
「まあ、あなたの気が済むなら。この神社でいいかしら。予約して今度の土曜にいきましょうか」
お守りの裏に書かれた神社名を確認して、英里子が了承してくれた。
これでもし、彼女が悪霊なら祓われるはずだ。
結論からいうと、アイリはそのままだった。悪霊ではないのかもしれない。
神社に足を踏み入れても、お祓いの最中も苦しむこともなく、神妙な様子で儀式を受けていた。
英里子は「これで気が済んだでしょ」とお祓いでもらった御札を和真に持たせる。
「アイリも学校に行ってみるってやる気になってるから、見守りましょう」
アイリはすぐに学校に馴染んだようで、登校を始めて二日目で、派手な茶髪の女の子を家に連れてきていた。英里子によると、ギャルだが、いい子らしい。
二人はファッションや学校のことで楽しくおしゃべりをしていたそうだ。マリンちゃんといい、アイリの前の席で仲良くなったそう。
次の週には、めがねをかけた真面目そうな男の子まで一緒に家にやってきた。同じクラスの瀬野君という。
二人に勉強を教えてくれるそうだ。
居間で仲良く教科書とノートを広げる姿に、英里子が涙を拭っていた。
英里子が張り切って夕食を作り、親御さんが心配するから、と車で家まで送っていった。
学校に行き始めて、学習面では不安はあるものの、友達が二人もできて親として安堵していた。
ある日、職場で山下に声をかけられた。
「斉藤部長、お嬢さんの具合、どうですか」
「ああ、おかげさまで。記憶は相変わらずだけど、元気に学校に行っているよ」
和真がにこやかに答えると、山下が口角を上げた。
「よかったですね」
「勉強が全くダメらしくて、嘆いているよ」
「イチからやり直しなんて辛いですね」
気を落とさずに頑張ってください、と行ってしまった。
忙しいのに気に掛けてくれたのかな、あんまり話したことはなかったが、いいやつだ。和真が背中を見送った。
警察から連絡があったのは、その夜のことだった。
帰宅途中、英里子から警察から呼び出されたと連絡があった。警察署で落ち合うことになり、急いで向かう。英里子とアイリは先に到着しており、会議用のテーブルと椅子の簡素な部屋へ通された。
部屋に入って来たのは、スーツを着た若い男性と、年配の女性だった。
向かい合うように席に着く。
簡単な挨拶を済ませ、すぐに本題に入った。パソコンを開き、動画を見せてくれる。
「実は、今回の事故の件ですが、情報提供があり、防犯カメラを確認しましたところ、アイリさんが何者かに突き飛ばされたことがわかりました」
画像を指さしながら、説明された。
「アイリさんと衝突した車の、後続車の方が提供下さいました」
画面の中では、制服姿のアイリが、歩道だまりで先頭に立ち、正面の信号機をじっと見ていた。
そこへ、背後から男の手がにゅっと伸び、勢いよく背中を押す。アイリはたたらを踏んで体勢を崩し、前に出たところを、走ってきた白い乗用車とぶつかる。
後ろを走っていた撮影者が慌ててブレーキを踏み、衝突を免れた。「あぶねぇ」という撮影者だろう男性の声が響く。
「提供者も事故後数日経って、別の危険運転の動画を見て思い出したそうです。再生してみると、あの手が映っていたので、慌てて警察へ届け出てくれました」
テレビのニュースで時々目にするあおり運転の動画だろうか。
「提供者の方については、身元は明かさないで欲しいということでお伝えできません」
明らかな故意によるものなので、関わりたくないのだろう。
「アイリさんに心当たりはありませんか」
アイリは真っ青な顔で首を横に振った。英里子がアイリの肩を抱く。
「ありません……。あの、別の防犯カメラとかで犯人の姿は映っていなかったのでしょうか」
気丈にもアイリが尋ねると、女性の刑事が封筒から写真を出した。
上から交差点を写しているが画像が粗い。白いシャツに黒っぽいズボンを履いた男のようだ。アイリの背中に手を伸ばしている写真、画像の粗い顔が映った写真など数枚が並べられる。
和真はどこかで見たことがある気がしたが、思い出せない。
「この男に見覚えはありませんか」
アイリが首を横に振る。
「知らない人、だと思います。私、記憶がなくて……。この人は学生には見えないですし、行きずりでしょうか……」
持ち物や髪型から会社員のように見える。別角度からは背中に黒いリュックを背負って、靴はスニーカーのようだ。顔ははっきりとは見えない。
「奥様はいかがですか?」
アイリと同じく青い顔をした英里子が、唇を震わせながら息を吐いた。
「大学の後輩で、山下君です」
「え?」
和真が声を上げ、刑事達が身を乗り出す。
確かに山下に似ている。
「山下、下の名前はなんというのですか」
英里子は和真を見た。和真は呆然とするしかできなかった。
「忘れました。十五年くらい前、同じ建築事務所にいましたが、先生が高齢とご病気を理由に事務所を畳まれて。彼は今、夫と同じ会社で働いています。私が会ったのは先生の葬儀の時が最後です」
英里子と山下の建築事務所は、公共施設の設計を多く手がけていたが、看板社長の建築士が病気を機に事務所を畳むことになり、独立か別の事務所へ就職かを迫られた。
英里子は家庭に入り、山下は先生の紹介で他の建築士とともに和真の勤める建築会社に来たのだ。
刑事が一斉に和真を見る。
改めて言われると、写真の男は山下に似ている。
「言われれば、山下に見えます。でもどうして……。今日も会社でアイリを心配してくれる言葉をかけてくれました」
「奥様はすぐにお気づきになられましたが?」
刑事の言葉に、言外に『関係があったのでは?』と含みがあるように聞こえ、英里子がむっとした顔をする。
「夫が昔、山下君の参加したコンペで賞を獲ったのが気になったみたいです。当時、まだ夫とは付き合ってなかったのですが、同級生ということで、夫のことを執拗に聞かれました。彼に付き合っている女性がいなければゲイなのかと疑ったくらいです。勤めた事務所が閉業になったとき、夫のいる会社に就職したので、もしかして夫目当てなのかと疑いました。夫とは部署が違うので、交流がないと思い、夫には黙っていました。最近は、家でも話題にならなかったので、彼のことは忘れていました」
山下は大企業や公共施設を設計する部署にいるので、和真がいる個人向け建物の部署とはあまり交流がない。
和真自身は賞をもらったコンペの審査中に彼女を亡くしたので、それ以降公募のコンペに参加しなくなった。部署異動の希望を聞かれた時、特にない、と言ったため今の部署に異動された。その後数年してから、元いた部署に山下が入ってきたのだ。
「どうして、アイリを……」
和真が怒りで震える。殺意のある手だった。あんな所で人を押せば、危険なことは子どもでもわかるだろう。
そこからは、別々に話を聞かれた。アイリはすぐに終わったようだが、英里子と和真はかなり踏み込んだことまで質問された。
警察から事情を聞かれているとき、コンペの話になった。どんなコンペだったかを説明していると、彼女のことが思い出された。
当時住んでいたアパートで、模型を納得するまで何個も造り、窓の位置を計算したり、プレゼンの練習で言い間違いを突っ込まれたりして彼女と二人で笑ったこと。
プレゼンのスーツやネクタイは彼女が選んだ。「清潔感が大事よ」とアドバイスをくれ、革靴をピカピカに磨いてくれたこと。
二十代の内に賞を獲り、一人前の建築士になるのだと野望に燃えたこと。
コンペが終わったらプロポーズをしようと内緒で指輪を買ったこと。
当時の仕事への情熱や、彼女への愛情がよみがえる。
何もかもが思い出されて胸が苦しい。
封印していた気持ちが一気に解かれたようだった。
表情が変わったのを見逃さなかった警察に、彼女が事故で同じ状況で亡くなったことを告げた。当時は防犯カメラが今ほど普及していなかった。目撃者もおらず、突然ふらついた彼女が車道に出てきた、と運転手が言ったのだ。もしかしたら、と考えてしまう。
警察署を出て、遅い時間だったため、コンビニで弁当を買い込み、家で食べた。
濃い味付けのはずなのに、全く味を感じなかった。湧き上がる怒りのせいか、胃がむかつく。
アイリは怯えているようで、食事を終えるとすぐに自室へ籠もった。
英里子は山下との関係を警察に疑われたことや、アイリに危害を加えたことに激怒していた。
和真は事務所の所長に連絡を入れた。どこまで話していいかわからなかったが、山下がアイリを殺そうとした疑いで、警察に聴取される可能性を伝えると、所長は「会社の顧問弁護士に連絡する」と言って翌日は出社しないように有給にすると言ってくれた。
怒りでどうにかなりそうだった。
山下を殺したいとも思ってしまった。
「パパ、大丈夫?」
翌朝、アイリが顔を見るなり声をかけてきた。
寝付きが悪く、いつもよりも大分早い時間に寝室から出てきてしまった。
英里子も中々寝られず、やっと寝入ったところだった。
アイリも早起きをしたらしく、コーヒーメーカーからいい香りが漂っている。
「ああ、大丈夫だよ。まだ早いから、寝なさい。パパは今日、休みをもらったから」
「ちょっと話を聞きたいの。コーヒーをいれるから、座って」
キッチンのテーブルに座ると、コーヒーの入ったマグカップを目の前に置かれた。
「山下って人は、パパとママの知り合いなのね?」
アイリなりに整理したいのか、メモ用紙まで用意している。
警察で話したことをアイリにも話した。彼女のことは触れなかった。
「コンペってどんなの?」
「T町役場の庁舎を建て替える際に募集があった。パパが選ばれて実際にパパのデザインした庁舎が建っているよ」
アイリの目が輝いた。
「行ってみたい。パパ、今日はお休みなんでしょう? 見に行こう。私も学校を休むから」
昨日の今日で、学校に行けとは言いづらい。正直、犯人かわかるまでは登校しない方がいいのではないか。
「わかった。ママにも聞いてみようか」
英里子は、急ぎの仕事を抱えていると断られたので、アイリと二人で出かけることになった。
T町は自宅から車で一時間半の所だ。途中、道の駅に寄ったりして半ばドライブとなった。
「あれだよ」
白いキューブ状の建物に、窓の形が特徴になっている。西側の窓枠にTの字を組み込み、影がTとなるように遊び心を入れた作品だ。
他にもバリアフリーの条件を満たしつつ、洗練されたデザインになるように工夫したところをアイリに説明する。
工期が限られていたので、施工のしやすさと町の特徴をわかりやすく表現したことが、決め手になったと言われた。
「タイルがTの字に見えるね」
アイリが建物正面に立ち、じっくりと眺める。
正面入り口に、少しだけ濃い色のタイルでTになるよう作った床をアイリが指さす。
「そうだよ。Tの名はこの町の誇りだからね。平成の合併のときも名前を残せないなら、合併しないと決めたそうだよ」
T町は古くから栄えた町で、歴史的建造物も多数ある。有名な人物を何人も輩出しており、経済的にも豊かな町だ。
大きな工場が複数あり、町の収入には困っていなかったので、他の市町と合併しなかったそうだ。町長が胸を張っていた。
「西日が差すと床にTの字が見えるように設計したんだ。ほら、あそこの窓……」
ふと、模型をペンライトで照らしながら、彼女に同じように説明したのを思い出す。
『こんな細かいところまで模型で作るなんて、職人技だね』
褒められているのかよくわからない口調で、彼女が笑う。
彼女がいたら、こうして同じように説明していただろう。
竣工してから、一度もここへ来なかった。どうしても彼女を思い出してしまうのが辛かった。
全く彼女とは似ていないアイリの横顔を見ながら、彼女もこんな風に喜んでくれたかと想像してしまう。
「すごいね、パパ。二十代でこんな立派な建物をデザインできるなんて、本当にすごいよ」
毎日沢山の人がパパの作った建物に来てくれるんだね。無邪気に喜ぶ娘に、微笑む事しかできなかった。
「パパ、今日は連れてきてくれてありがとう」
帰りの車内で、アイリが缶コーヒーを差し出す。最近は殆ど缶コーヒーを飲まなくなったが、昔からあるメーカーの微糖タイプだった。
「どうぞ」
そう言って、中指でプシュっと器用にプルタブを起こす動作にぎょっとした。
「? どうしたの?」
いや、なんでもない、と受け取り、グビリ、と飲む。
昔、彼女とドライブしたときに必ずこうしてコーヒーを渡してくれた。
別の指で開けると何でか爪が折れちゃうの、と笑っていた。
久しぶりの缶コーヒーの味が当時を嫌でも思い出させる。
山下への怒りで忘れていたが、ちょっとした仕草から、アイリから彼女がにじみ出ているようだ。
全く似ていないのに、時々こうして彼女の面影を探してしまう。
感情がぐちゃぐちゃで、どうにかなってしまいそうだった。
和真の胃が、きゅっと見えない手で握られたように痛んだ。
帰宅すると、英里子はまだ帰っていなかった。十六時までの勤務だったので、もう少しかかるだろう。
アイリは道の駅で買った野菜を使って夕食の支度をしている。
仕事でなにかあれば自宅のPCにメールするように伝えていたが、何も届いていなかった。
ほっと息をつくと、スマホが鳴った。所長からだった。
寝室で通話をオンにすると、顧問弁護士が話を聞きたいので、これから弁護士事務所に来て貰えないかということだった。
妻が不在のため、娘を一人にできない、と時間をずらしてくれることになった。
英里子の帰宅を待って、弁護士事務所へ連絡を入れる。所長も来るとのことだったので、話が長くなるかもしれない。
「ご迷惑をおかけしております」
弁護士事務所に着くと、所長が先に来ていた。年配の弁護士と挨拶を終えると、すぐに山下のことを切り出された。
新しい情報はないことを断り、アイリの事故から経緯を話す。彼女のことには触れなかった。
「奥さんは、君に執着していると言ったんだね?」
所長が腕を組み、弁護士の顔を見る。
「はい。ただ、私には心当たりがありません。コンペに彼が参加していることは知りませんでした。私とも社内で世間話をするくらいで、揉めたりするようなこともありませんでした」
和真の言葉に所長も頷く。
「斉藤君が部署異動をしてから、山下が入って来たと記憶している」
「そうですね。一緒の部署で働いたことはありません」
弁護士は少し考えてから口を開いた。
「わかりました。もし、山下さんが逮捕、ということになれば彼が担当している建設中のプロジェクトから即外れてもらう必要があります。あとは公共の入札で、建築士として届けているなら変更した方がよいでしょう。建設業許可も確認しておきたいです。逮捕ならば、即解雇ということでよろしいですか?」
所長は躊躇わずに頷いた。公共施設や大口の仕事で逮捕者が出ると、今後に影響する。一番神経を尖らせているところだ。
「防犯カメラに収められていて、警察が動いているのならある程度確信があるのかもしれないな」
所長が腕を組んだまま唸る。和真も山下の様子を見ながら、しばらくテレワークをすることになった。
山下が逮捕されたのは、次の日の朝だった。
早朝、警察が山下の自宅へ訪問し、逮捕状を見せたところ、大人しくパトカーへ乗ったそうだ。
そこで、アイリのことや、彼女のことも厳しく追及したらしい。
当時のコンペは、書類選考、プレゼン、最終審査という流れだった。プレゼンの時に目立っていた和真のことを調べると、結婚間近の彼女の存在があった。その時は最終審査中だったが、和真が幸せそうだったのが気に入らなかったらしい。彼女の後を何日か尾行して隙をみて、背中を押したそうだ。
その後、事務所の閉業によって山下も和真と同じ会社に勤めることになった。和真が以前いた公共施設を扱う部署に配属された。
山下が言うには、和真はコンペにも参加せず、小口の個人用の設計部署にいたので、気にならなくなったそうだ。
しばらくして和真は同級生の英里子と結婚した。
物事をはっきり言う英里子が苦手だったので、和真と結婚したことはうらやましいと思わなかったそうだ。
仕事について、公共施設や大企業の新規設計を積極的にやってきたが、最近は新規が減って思うような案件に関われなくなり、山下は不満を持っていたという。
私生活でも、年末に交際相手から別れを切り出され、激しくつきまといをしていたという。警察にも相談があり、接近禁止令を出されたそうだ。
そんなとき、偶然、英里子と歩いているアイリを見かけた。時期的に高校の制服を注文しに行った時のようだ。アイリは英里子に似ているが、気の強さは感じられず、大人しい感じの美少女に見えた。
山下はこれまで恋人は何人かいたが、結婚までに至らず、独身だった。
唐突に、負けた、と思ったそうだ。自分にはない美しい娘を持つ和真が、猛烈に腹立たしかった。気の強い英里子も、娘を失えば大人しくなるだろう。
和真の自宅マンションは知っていたが、学校はわからなかったので、下校時間に自宅近くをウロウロして下見をしていた。仕事柄、現場や打ち合わせと言って直行直帰も多かったので、周囲からは怪しまれなかった。
そしてアイリを見つけ、後をつけ始める。大きな交差点で、信号待ちのため、無防備に車道近くで待機したアイリの背中を押した。
前回と違ったのは、信号が変わったばかりだったため車のスピードが出ていなかった事から、アイリは助かり、防犯カメラや車載カメラが普及したので証拠が残ったことだった。
和真と英里子は山下の言い分に腹が立って仕方がなかった。
英里子は同じ事務所だった頃、酒の席で事務の女の子に絡んだ山下を注意したことがあるらしく、そこで苦手意識をもたれたのではないかと言っていた。
女性との付き合いが上手くいかないのも、どこか人を見下している態度が相手に見透かされたのではと分析していた。
山下は事務所を即日解雇され、会社は大騒ぎになった。所長以下後始末に負われ、和真もこれまでのように定時では帰れなくなった。
アイリは、犯人が捕まり、安心して通学している。友達の話をしたり、愚痴りながらも勉強しているのを見ると、生きててよかったと安堵する。
ただ、和真は時々、アイリの中に彼女を見つけてしまう。ふとした仕草だったり、食事の味付けだったり。
彼女を思い出すと、胸が痛んだ。
彼女のことは証拠がないので、立件できないかもしれないと言われた。だが、山下の周囲では、同じように交通事故に遭った親族や知人がいることが判明しているので、捜査が長引くことが予想された。
アイリにも、英里子と結婚する前に付き合っていた彼女が山下に殺されたと知られてしまった。
父親として大変気まずい思いをしている。
最近、ストレスのせいか胃がキリキリと痛み始めることが多い。
「パパ、前カノはもういないんだよ。思い出すのは仕方ないけど、ママの前では思い出したらダメだよ。パパの妻はママなんだから」
ある日、英里子がパートに出ているときに、アイリに噛んで含めるように言われ、「はい」としか言えなかった。
和真は、思い切って机の奥にしまっていた指輪の入った箱を取り出し、アイリに渡した。
「アイリ、これはその……前カノに渡そうと思って買った指輪なんだ。本当は葬儀のときに彼女の棺に入れたかったんだけど。サイズを直していたら間に合わなくて。アイリがもらってくれないか。パパはどうしても捨てられなかったんだ」
アイリが慎重に箱を開け、指輪を取り出す。小ぶりなダイヤモンドが三つついた指輪だった。
アイリの瞳が揺れ、何かを言いかけて、ぐっと唇を噛んだ。
「当時のパパの精一杯が詰まった指輪だよ。ママもアイリも大事だけど、彼女を……忘れることができないんだ。だから、アイリがもらってくれ。売っても捨ててもいいから」
和真の両目から涙が溢れた。
自分のせいで、彼女が殺された。娘は未遂だったが、記憶を失った。
手で顔を覆うが、涙が止まらない。
「パパ、亡くなった彼女もきっと前を向いて欲しいと思っているよ。コンペだって優勝したでしょう? これで一人前になるんだって頑張ったんでしょう? あんな立派な建物になって、名前が残るんだよ。山下って人に出来る最大の復讐は、私達家族が精一杯幸せになることだよ。だから……」
アイリの励ましに、ふと違和感を覚える。
一人前になる話をしたのは……。
疑いが確信に変わる。
「美沙子……」
アイリがハッとした顔で和真を見る。美沙子は小柄だったので、目線の位置が違う。
だが、彼女がそこに居るのだと感じてしまう。
「パパ、落ち着いて。私はアイリ。あなたの娘です。彼女は亡くなったの。指輪は……私がもらっておくね。大事にする。ママは、パパも私も愛しているから、絶対、ママの前でこの話はしちゃだめ。パパを支えてくれたのはママだよ。わかった?」
いつになく強い口調のアイリに、和真は頷いた。頷くしかなかった。
娘の中に、彼女がいる。
これからどう接していけばいいのか。
事件の犯人は逮捕されたが、もっと大変な事実が和真を混乱させる。
認めたくない事実に、痛み始めた胃が悲鳴を上げ始める。
腹の中をキリのようなもので突かれているようだ。
「パパ? 顔が真っ青だよ? 大丈夫?」
アイリが心配そうに様子を伺っている。大丈夫だよ、と答えたつもりだった。
急にせり上がってきたもので、口の中が錆臭い。
和真は、吐血した。
怪しみつつ、美味しいご飯を食べてしまうパパ。
今夜はどんなご飯だろう、と楽しみなママ。
ママが喜ぶので、和食ばかり作る娘。




