第2場面「ここでは、私が役に立つ」
「私はここで必要とされているから」
その言葉を聞いてから。
令嬢レティシアは、しばらく黙っていた。
必要とされている。
その言葉には、どうしても引っかかるものがあった。
「……王都では」
レティシアは、ゆっくりと尋ねる。
「あなたは、必要とされていなかったのですか?」
悪役レティシアは、少しだけ目を細めた。
「そういう意味じゃないわ」
「では……?」
悪役レティシアは、食べかけのパンを皿に置いた。
「王都にいた頃の私は、侯爵令嬢だったでしょう?」
「ええ」
「王子の婚約者でもあった」
「……はい」
「だから、当然のように期待されていたわ」
その言葉には、皮肉が少しだけ混じっていた。
「社交界のこと。
王宮のこと。
殿下のこと。
侯爵家のこと。
何か問題が起きれば、レティシアなら何とかするだろうって」
令嬢は黙って聞いている。
それは、自分も知っている。
いや。
自分自身が、そう思っていた。
何かを頼まれれば引き受けた。
困っている人がいれば手を差し伸べた。
誰かが迷っていれば、自分が決めた。
それが自分の役割なのだと思っていた。
けれど。
悪役レティシアは、そこで言葉を止めた。
「でも、ここでは違うのよ」
「……違う?」
「ええ」
悪役レティシアは、窓の外を見る。
黒薔薇館の庭。
少し離れた場所には、修理途中の魔道具が置かれている。
そのさらに向こうには、昨日聞いた水路がある。
「水路が壊れたら、直す」
「……」
「鉱山で問題が起きたら、調べる」
「はい」
「村人が困っていたら、手を貸す」
そこで悪役レティシアは、少しだけ笑った。
「私がやれば、ちゃんと何かが変わるのよ」
令嬢レティシアは、目を瞬いた。
悪役レティシアは続ける。
「水路が壊れていたら、水が流れるようになる」
「魔道具が壊れていたら、動くようになる」
「鉱山に問題があれば、原因を見つけて直せる」
「村同士が揉めていたら、話を聞いて、どうすればいいか一緒に考える」
一つ一つ。
自分の手で。
自分の判断で。
何かを変えてきた。
「だから、ここでは……」
悪役レティシアは、少し考えてから言った。
「私が役に立つのよ」
その言葉は、不思議なくらい穏やかだった。
誰かに褒めてもらいたいわけではない。
誰かに愛されたいわけでもない。
誰かに「必要な人間だ」と認めてもらいたいわけでもない。
ただ。
自分の力を使えば。
目の前の問題が少し良くなる。
それが嬉しい。
それだけなのだ。
令嬢レティシアは、ようやく理解した。
この人は。
「必要とされたい」から頑張っているのではない。
自分で考えて。
自分で選んで。
自分の力を使う。
そして、その結果として何かが変わる。
そのこと自体を、喜んでいるのだ。
「……だから、帰りたくないのですね」
令嬢が呟く。
悪役レティシアは、少しだけ肩をすくめた。
「そういうこと」
「王都に戻れば、また侯爵令嬢として扱われる」
「でしょうね」
「王子の婚約者としても」
「そうでしょうね」
「そして、皆様があなたに期待する」
「ええ」
悪役レティシアは、そこで少し笑う。
「でも、私はもう知ってるの」
「何を?」
「自分で選んで、自分で動くほうが楽しいってこと」
令嬢レティシアは、言葉を失った。
楽しい。
その言葉が、妙に胸に残った。
王都での自分は。
「幸せ」だった。
家族に愛されて。
周囲に大切にされて。
誰からも嫌われないように振る舞って。
それは確かに幸せだった。
けれど。
――楽しかったのだろうか。
レティシアは、自分自身に問いかける。
答えは、まだ出ない。
ただ。
目の前にいるもう一人の自分は。
今、とても楽しそうだった。
「……あなた」
令嬢が小さく口を開く。
「ここが好きなのですわね」
悪役レティシアは、一瞬だけ驚いた顔をした。
そして。
少し照れたように視線を逸らす。
「……まあね」
その返事を聞いて。
令嬢レティシアは、初めて思った。
この人を連れて帰ることだけを考えてはいけない。
この人には。
ここで生きたいと思う理由がある。
ここで、自分の力を使いたいと思う理由がある。
そして。
それは、とても大切なものなのだ。
「……分かりましたわ」
「何が?」
令嬢レティシアは、静かに微笑んだ。
「あなたが帰りたくない理由が、少し分かった気がします」
悪役レティシアは、じっと彼女を見る。
「だからって、帰る気はないわよ」
「ええ」
令嬢は頷いた。
「まだ、帰ってほしいとは言いませんわ」
悪役レティシアが目を細める。
「……まだ?」
「はい」
「何よ、それ」
「これから、もっとあなたのことを知りたいですもの」
「……」
悪役レティシアは、呆れたようにため息をついた。
けれど。
その口元には。
ほんの少しだけ、笑みが浮かんでいた。




