二杯目の紅茶
孤児院から自室へと戻ったマリアは、夜空に浮かぶ半月を眺めながら物思いにふける。
魔王。
神に敵対する者。人間を堕落と破壊へと導く悪の象徴。
魔王の存在は古くより聖メネット教の聖書にその存在を記されており、度々、人に仇なす者として描かれている。
いつ、何処で生まれたのかは聖書にも記されていないが、魔王の元となる悪魔が最初に出てきたのは、全900章以上からなる聖書の中の誕生期と呼ばれる章の中の250章16節。創造神メネットによって創られた原初の人間達の前に悪魔は現れた。
そうして、疑う事を知らない純真無垢の原初の人間に悪魔は囁くのだ、堕落と欲を。
何故ならば、それらは悪魔の糧であり、力である。
原初の人間の堕落によって悪魔は力をつけ、
原初の人間の欲によって悪魔は知恵を得た。
悪魔の所業に怒った神によって、悪魔は6層からなる地獄の一番深き場所"虚無"へと封じられる。
しかし、長い時間と年月を経て悪魔は地上へと這い戻る。
人の生み出す堕落と欲が地獄に落ちた後も悪魔に力と知恵を与え続けたからだ。
それは罪。未来永劫消す事叶わぬ人の罪に他ならない。
されど、神は人を見捨てはしなかった。
自らを魔王と呼称し、神への復讐に燃え、地獄で得た力と知恵と幾多の眷属を従えた魔王と神々の戦いが始まる。
聖書に残る神魔大戦の始まり。
神は説く。
悪魔の糧が堕落と欲であるならば、神の力は信仰によって高められるのだと。
人が神を信じる様に、神は我ら罪人を信じ、勤勉と清潔さを取り戻す機会をお与えくださったのだ。
そうやって聖メネット教は生まれた。
戦いに勝利した神々ではあったが、魔王を滅ぼす事は叶わなかった。
人に堕落と欲が蔓延る限り、悪魔は滅びない。
地上に残る悪魔こそ、人の罪の形なのだ。
こうして、人と悪魔の対立が生まれた。
悪魔は人をかどわかし、力を得ようと画策する。
人はその誘惑を、囁きをはね除けなければいけない。
人が悪魔に負けた時、再び神々と悪魔の戦いが巻き起こってしまうからだ。
その戦いの狼煙をあげるのは我ら人に他ならない。
神は試されている。人が悪魔の誘惑に打ち勝てるのかを。
神は信じておられる。人が悪魔の誘惑に負ける事はないと。
それが人と悪魔の対立であり、現在もそれは続いている。
広大な世界の端。
人の領土と二分して存在するのが悪魔の住まう土地。
過去には人と悪魔、両者の武力による大きな衝突も何度か起きたが、ここ数十年は小康状態。たまに小競合いが起こる程度と報告を受けている。
小康状態とは言え、世界の安寧が約束された訳ではない。今も命懸けで戦う者達が居てこその繁栄である。
ゆえに、そんな現状を打破しようという試みがいつの頃からか活発化していった。
勇者の派遣もそのひとつ。
しかしながら、それらの試みが教会の総意という訳でもない。
教会の派閥は、大きく分けると二つ。
人の罪は人の手で解決すべきと主張する過激派と、その考え方こそが傲慢であり、欲だとする慎重派。
元々、慎重派が多数を占めていた教会であったが、最近は過激派が急速に力を増しつつある。
その理由は、あのトボけた魔王が表立って出てきたからだ。世界を滅ぼすという宣言のオマケ付きで。
期限はあと一年程。
事ここに来て、現状維持という慎重派の意見は窮地に陥った現在は淘汰されつつある。破滅までの一年、指を咥えて静観するつもりかと。
聖女である自分の立場としては、どちらか一方に肩入れするつもりはないが、先の暗殺未遂の一件で、どうも過激派だと思われている節がある。
マリアが自傷ぎみに笑う。
それは自業自得ゆえ仕方無い。甘んじて受け入れる。あの一件は完全に私の失策だ。危うく多くの人々を死なせてしまうところだった。純潔さを求められる聖女としてあるまじき愚行。恥ずべき事だ。
けれど、あの失敗から学んだ事もあった。
それは、力ではアレは止められない、という事。
神の敵対者。その主、魔王。
世界が違うのだ。人の手ではどうにもならないのだ。
それを知っていたからこそ、神は人に、悪魔を倒すという試練をお与えにならなかった。アレが力をつけぬよう高潔さ勤勉さを人々に説いたのだ。
ならばこそと思う。
聖女たる私が教義に反し、純潔さを捨てるなどあってはならない。
魔王は言った。私が純潔さを捨てさえすれば世界に安寧秩序がもたらされるのだと。
――愚かな。それこそが魔王の誘惑に他ならないではないか。
教会の御旗となる聖女の堕落と欲こそが魔王のを狙いなのだから。
そして、恐るべきは魔王の策略。
悪魔は甘い誘惑で取引を持ち掛ける。賢人は悪魔と取引はしない。耳を傾けない。
悪魔は強い悪意で脅迫する。英雄は恐怖に屈しない。強き信念で対峙する。
けれど、アレはどちらでもない。取引の皮を被せた脅迫で、脅迫というボロをまとわせた取引。賢人には脅迫を、英雄には取引を。それぞれの弱味につけこむ。相手によって姿を変える。そうやって、じわりと、気付かぬ内に人々の心をいとも簡単にへし折った。
かの者の思惑通りに人々は動き始めた。過激派が力を増し、法皇達ですら私に純潔を捨てろと言う。魔王の手の上で踊らされている。
おそらくこの勝負。
どちらに転んでも魔王に利があるのだと考える。
魔王が勝てば世界は滅びる。
魔王が負けても、それはつまり私が誰かに処女を、純潔さを捧げたという事。堕落と欲に打ち負けたという事。すぐに世界は滅びずとも、芯の腐りは世界にじわりと蔓延しやがて人々を呑み込み腐らせる、それは悪魔の糧となり、いずれ世界は荒廃する。
やはりあの勝負を受けるべきではなかった。
私が判断を間違えた。
臆病者と蔑まれてようと、卑怯者と罵られようと、生きて、生き延びて、そしてただ守る。なにより欲しいモノの為に。なにより大事なモノの為に。
泥臭い生への執着。それは諦めない心。人の持つ美徳。
私はそれを否定はしない。
されど、私は人と同じではいけない。
聖女として生まれ、聖女として死ぬべき私にできる選択は二つ。
人々の頭上で輝くか、地べたで一片も残さず灰となるか。
掲げる御旗は美しく、優雅にたなびいてこその御旗であり、泥にまみれた旗を掲げさせるなどあってはいけない。
それなのに、今の私はどうだろう……。
教義を破り、高潔さを汚し、誇りを捨てろと迫られる。そんな聖女聞いた事がない。
誇りと高潔さを持って身命を賭した過去の聖女や英霊達に会わせる顔がない。どんなに謝っても申し訳が立たない。
私は、世界という大きな人質を取られ、取れる選択肢が無かったとしても、聖女として、断固として拒否すべきであった。あの場で舌でもなんでも咬みきり自害すべきであった。
手段はあった。
覚悟もあった。
そして、油断もあった。
乗り越え、打破する可能性を見出だしてしまった。
きっとアレが恐ろしい怪物の姿であったなら、私はそれを見出だそうとはしなかった。姿すらも計の内。在りもしない可能性を在ると思い込まされた。だからつけこまれた。
いや、きっとそれは今からでも遅くない。
私が死ねば勝負は私の勝ち。或いは無効になるだろう。
私が純潔のままでさえあれば――
マリアは涙で滲んだ視界の中、ふらりと椅子から立ち上がった。
そうして、部屋の棚へと近付き、ゆっくりと引き出しを開けた。
棚の中には、刃から柄に至るまで全て銀で作られ、美しく装飾を施されたナイフが一本、丁寧に保管されていた。
これは15の催事の時に法皇達より授けられ、決して濁る事がないと誓いを立てた純潔の証。聖女の証。
しばらくナイフを眺めて佇んだ。
そうして、ふと、自分がいつからか泣いている事にようやく気付いた。
嫌だと、死にたくないと、心が悲鳴をあげる。奥底からか細く、やけに大きく。
されど頭と身体は酷く冷静だった。
そして、マリアは静かにナイフに手を伸ばした。
カチャリと部屋の隅から小さな音がした。
それは小さな音であったが、静寂が流れるマリア一人の部屋の中で、やけに大きくマリアの耳に届き、その音の大きさにマリアの身体がビクリと震えた。
マリアは、手で胸を押えつつ、一気に早くなった鼓動を鎮めようと何度か深呼吸をし、それから、音のした方へと目を向け、その正体を探す。
そうして、それはすぐに見つかった。
マリアの視界が捉えたのは、いつだったか部屋に無断でやってきた無粋な輩が忘れていった揃いのティーカップ。
見付けたと同時に周囲に漂う匂いに気付く。
午後の日溜まりの中にいる様な、心安らぐ優しいにおい。
紅茶のにおい。
マリアがそれに向かって近付くと、においが一層強くなる。
わけも分からず、ソッとカップを手に取る。
カップの中には湯気を蒸気させ、においを立ち込めさせる紅茶が淹れられており、それは、まるで今淹れたばかりの様に熱を持ってカップの中で揺れていた。
「どうして?」
周囲を何度か見渡すが、マリアの探し求める人物の影は見当たらなかった。
いったいどうやって注がれたのだろう?
そんな事を考えながら紅茶を見つめた。
そんなマリアの頭に、ふと浮かんだのは、憎たらしく笑う魔王の顔。
毎日の様にマリアの元へやってくるせいか、幻聴よろしく、何処からか笑い声まで聞こえてくる始末。
頭の中で馬鹿笑いを続ける魔王を見ていると、マリアはだんだん腹が立ってきた。馬鹿馬鹿しくなってきた。
何故私が魔王に屈しなければいけないのか。
何故私がアレのせいでこんなにも悩まなければいけないのか。
冗談じゃない! 私はアレのオモチャではない!
イライラが積もるマリアに向けて、頭の中の魔王が言う。
――飲みたまえ。落ち着くよ――
飲みますよ! 飲めば良いんでしょ飲めば!
マリアはカップを傾けると一気に流し込んだ。
――熱いから気を付けたまえ――
「――うっさい……」
ヒリヒリ痛む喉を押さえて、そうマリアは悪態をついた。
飄々としたソレの表情に、私の信念と決意が、ヒュウヒュウと風に吹かれて何処かに飛んでいってしまった。紅茶と一緒に喉の奥へと流れていってしまった。
マリアは、空になったカップを握りしめたまま深く息をついた。
――私はアレが、分からない。
☆
マリアがスノーディアの幻覚と喧嘩を始めたのと時同じ頃。
スノーディアは、ネウロから離れたアネモスの森の中にいた。
森の中といっても周囲に木々は一本もない。見渡す限り、暗闇に負けない位の焼け焦げた黒い木々の残骸が並ぶだけ。
かつては大森林を誇ったアネモスの森だったが、何処からかふらりとやってきた不届き者のやつ当たりで、今やただの荒れ地となってしまっている。
その不届き者は、今日もふらりとやってきた。
別に何処でも良かったが、もはや生命と呼べる者が皆無のこの場所が何かと都合が良いだろう。その何かは自分でも分からなかったりするのだが、護衛ちゃんが何かと煩いので、とか適当に理由をつけておいた。
「さて、わざわざこんな侘しい荒れ地くんだりまでやってきたわけだが、――君達さぁ、そうやってずっと遠くから僕を眺めるだけのつもりかい? 聖女ちゃんなら大歓迎だが、聖女ちゃん以外に観察されるのは不愉快で仕方無いのだけど?」
風の吹き抜ける音だけの静まりかえる荒れ地に、スノーディアの声が反響する。
短い空白ののち、
スノーディアの周囲で、ペキペキと墨になった小枝が折れる音が響く。一ヵ所ではなく、数ヵ所。
ついで、低い声。
「裏切り者が」
人の背丈よりも一回り大きく、背中に漆黒の翼を湛えたソレがスノーディアに向け、感情のこもらない冷たい口調で言葉を投げつけた。
「言うがね、僕は君達の仲間になった覚えはなかったりするよ? なので、裏切り者なんて言い方は心外だぜ?」
黒いソレに飄々とした態度のスノーディアが反論してみせる。至極どうでもいいように。
黒いソレは沈黙を貫く。
ただ赤い目だけが、暗闇の中でスノーディアを朧気に見つめ続けた。
焦れたスノーディアが、鬱陶しいという表情でソレらを急かす。
「あのさぁ、僕も暇じゃないんだ。まぁ、女のケツを追っ掛けてるだけなんだけど、それはそれで忙しいので、やっぱり暇じゃないのさ。――だからさぁ、用が無いならさっさとお家に帰って傷でもママのおっぱいでも好きなのを好きなだけ舐めてろよ根暗共」
スノーディアの挑発に黒いソレは何の反応も示さなかった。
しかし、それは単にスノーディアの挑発に乗らなかったという事であった様で、黒いソレらは朧気な赤い目のまま口を開く。
「お前は供物。我々に捧げられた」
「お前は器。我々が捧げるモノの」
「もう一度チャンスをやる。戻ってこい」
低く、無機質で、それでいて言葉が幾重にも重なった様な曇った声。
「勧誘かい? そういうのはせめて戻りたくなる様な魅力的な条件を提示してから行いたまえ。例えば、聖女ちゃんクラスの良い女紹介してやるとか、聖女ちゃんクラスのべっぴんさんを紹介してやるとかだね」
ケラケラ笑ってスノーディアがソレの言葉に応える。
ソレは、少し間を空けた後で言う。
「それがお前の望みか?」
ソレはそう口にすると、漆黒の翼を大きく広げて飛び立つ素振りを見せた。
「シャレが通じねぇな……。全く、いやになるぜ」
周囲のソレにうんざりした顔を見せ、スノーディアが苦笑した。
☆
暗闇の中に、メキメキと燃えカスとなった木々と何かを踏み砕く音が聞こえてくる。
暗闇の中に、ピチャピチャと水溜まりの跳ねる音が聞こえてくる。
その音の中心に、冷たい目をした魔王は佇む。静かに、闇に溶け込む様に。その手に丸い何かを捕まえて。闇の中、丸い何かの赤い二つの点が揺れる。
夜の闇が深くなければ、戦いの終わった戦場に転がる死屍累々が、視界に飛び込んできたであろう。
「根暗なお前らには言ってもわかんねぇかもしんねぇけど、世界ってのは、お前らが思ってるより遥かに美しいよ。糞みたいな世界でもそう思えるんだから、世界ってのは不思議だぜ」
半月を眺めながらスノーディアが言う。
「世界相手に虚栄を張って、啖呵を切って、僕が自由を望む様に、お前らが好き勝手やるのも自由だよ? けど、お前らがどれだけ残酷でも、どれだけ非道でも関係ない。そういう汚いモノは僕が全部砕いて潰してまとめて丸めてオールカットだぜ」
半月から目を外し、足元に視線を落としたスノーディアが言う。
「殺さないってのが聖女ちゃんとの約束だけど、残念ながらその中に悪魔は含まれてないんだ」
そこまで言って、スノーディアが自らの足元に転がる"元"ソレを見渡す。暗闇の中で朧気な赤い目だけ光って見えた。
「聞いちゃいねぇか」
闇の中で魔王がケタケタ嗤う。不気味に、不敵に。
そうして、ひとしきり嗤った後、スノーディアが小さく溜め息をつき、手に持つ丸い何かを無造作に放り投げた。
丸い何かは闇に赤い二つの軌跡を描き、やがて大地の黒に埋もれた。
「それにしても、君達中々やるじゃないか。僕の実力をもってしてもギリギリだったぜ? ――描写的に」
そう言ってまた笑って、また足元を見る。暗闇の中の赤い目は色を失い闇に紛れ、木々の燃えカスとの区別がつかなかった。
「聞いちゃいねぇか」
闇の中で、半月を背負った悪魔が嗤った。