紅いにおいと赤いにおい
「おはよー聖女ちゃん! 今日も爽やか過ぎるくらいに爽やかで、逆に頭が痛くなるくらいに気持ちの良い朝だね!」
マリアの部屋の扉を開け放ちながら、朗らかな笑顔で顔を見せたスノーディア。
そんな、朝から騒々しいスノーディアにマリアは大きく溜め息をついた。
「あのさぁ、聖女ちゃんさぁ……。僕の顔を見るなりあからさまに溜め息つくのやめてくれないかな? 結構傷ついちゃうぜ? ほら、僕って意外とナイーブなところがあるだろ? 魔王の事が嫌いになっても、僕の事は嫌いにならないでください」
「……何しに来たんですか? というか、何度も言いますが、大聖堂に、そして私の部屋に無断で侵入してこないでください。と言っても、どうせ入ってくるでしょうから、せめてノックをしてください」
「そこはさぁ、ほら、ラッキースケベなるものを期待して」
「絶対ノックしてくださいね」
スノーディアをジト目で睨んだマリアの意思を汲んだのか、スノーディアが何も言わずに部屋を出ていった。
マリアが怪訝な表情で閉じた扉に目をやっていると、コンコンと部屋の扉が叩かれた。
しばらくマリアは返事をせず、呆れた様に扉をみつめた。
すると、もう一度扉が叩かれる。
マリアは小さく溜め息をついてから、「お帰りください」と扉の向こうにいるであろう人物に返事を返した。
「聖女ちゃんの事だから絶対入れてくれないと思ったよ」
扉一枚隔てた先からスノーディアのそんな声が届く。
その声に、マリアは更に呆れる。
何をやってるんだろうこの魔王は……。
「ところでさぁ、」
「きゃっ!」
突然、すぐ隣から聞こえたスノーディアの声に、油断し気を抜いていたマリアは大いに驚き、思わずソレの顔を平手でひっぱたいた。
「いたぁ?」
つい今しがたまで扉の外に居た筈のスノーディアが、マリアの眼前で頬を押さえて突っ立っていた。
魔王の頬が見る間に赤くなる。
「驚かせたのは悪かったけど、ひっぱたく事はないんじゃないかい?」
「きゅ、急に現れるあなたが悪いんです。ついです、つい」
慌てて弁明する。
それからマリアは、びっくりし、早くなった鼓動を鎮める為、胸に両手をあてて目を瞑って数度息をついた。
息をつきながら、今のはどう考えたって突然現れた方が悪いと、マリアは吐き出し霧散する空気と一緒に、この件を無かった事にした。
スノーディアはその様子を、頬を擦りながら眺めていた。別に痛い訳でもなかったが何となくそうしていた。
その時に、何気なく扉のすぐ脇に設置された棚に目をやって、違和感を覚える。
それは違和感と呼ぶにはハッキリとし過ぎる変化であった為、スノーディアはすぐにソレに気がついた。
スノーディアの視線の先には揃いのティーカップが二つ。
1つは飲み口を上に、もう1つは飲み口を逆さに。昨日までは二つとも逆さであった事を知っている。カップを置いたのは他ならないスノーディア自身なのだから。
他の誰かであれば気にも留めないその変化に、スノーディアは険しい表情を作った。
しかし、その表情も一瞬であった。
マリアの発した、「ところで、」という言葉を合図に、カップから視線を外し、スノーディアはいつものデフォルトの様な飄々とした笑顔を作った。
「話を戻しますが、今日は何しにきたのです?」
「……特に。――特に用事は無いけど……、しいて言うなら聖女ちゃんの顔を見に、だぜ?」
「ようするに暇なんですね」
「暇、には違いないけど、僕にとって1日1回、聖女ちゃんの顔を見る事は、他の何を押してでもしなきゃいけない大事な事なのさ」
「前から言おうと思ってましたが、よく恥ずかしげもなくそういう事が言えますね」
「そうかな?」
マリアに返事を返しつつ、スノーディアはカップの置かれた棚へと向かう。
カップを手に取りながらスノーディアは続ける。
「聖女ちゃんの顔を見たいというのは僕の本心だし、別に隠すような事でもない。誰かに言って減るものでもないしね。――どうぞ」
語りながらカップに紅茶を注いだスノーディアが、1つをマリアへと手渡す。
それから、自身のカップにも注ぎ終えると、当たり前の様に部屋の丸テーブル、マリアの対面の位置にある椅子へと腰掛けた。
マリアも馴れたもので、少し前なら拒絶の意を述べたが、特段気にするわけでもなくそれを自然と受け入れた。
ただし、それはこの場においては対面に座る事に限定される。
「そっちが私の使ったカップです」
「知ってるとも。だからこっちを選んだのさ」
マリアがジト目でスノーディアを睨む。意図が透けて見えた気がして、マリアは無言で互いのカップを交換した。ただ、洗ってあるのでどちらでも関係ないと言えば無かったりする。
「残念」
あまり残念そうでない表情で、肩をすくめたスノーディアが笑う。
「……聞いても良いでしょうか?」
火傷しない様に、ゆっくりと、数度に分けて紅茶に口をつけた後、静かな声でマリアが尋ねた。
「勿論、なんでも聞いてくれたまえ。なんでも答えるよ。嬉しいよ、聖女ちゃんが僕を気にかけてくれるなんて」
スノーディアがヘラヘラ笑う。
「私はあなたが嫌いです」
「……あ、そう」
「ですが、私はあなたを知らねばなりません。 ――昨日、シスターリーチェに言われてから考えたのです。私はあなたを知らない。あなたという人物を知らない。何を考え、何を思い、何をなさんとしているのか……」
「そういう質問なら、僕はこう答えるよ? 僕は聖女ちゃんの事を考え、聖女ちゃんの事を思い、あわよくば聖女ちゃんの純潔を奪おうとしている」
「真面目な質問です」
「僕はいつだって大真面目さ。不真面目だった記憶も無い様な気がする」
スノーディアの答えに、納得してないとばかりにマリアが小さく溜め息をつく。
元より明確な答えが返ってくるとはマリアも思っていなかった。答えを得られずとも、この眼前の魔王のひととなりが知れれば良い、とそんな風に思っていた。
「聖書を読んだ事は?」
「あると思うかい?」
「一応聞いてみただけです。 ――聖書の中の悪魔は、常に神の敵対者であり、人々に災いをもたらす恐怖の象徴として描かれています」
「酷い偏見だね」
スノーディアが笑う。
「悪魔は人をかどわかし堕落へと導きます。悪魔は人を陥れ欲へと貶めます。けれど、聖書の中では必ず悪魔は人に負けるのです。人の誠実性に負け、人の高潔性に屈するのです。
それが、聖書だからと言ってしまえばそれまでですが……、そこに違和感を持つ人は、少なくとも聖メネットを信仰する者の中には居ないでしょう。私もそうでした。神は元より、人が悪魔に破れるなどあってはならないのです。信仰とは救いですから、悪魔に負けるという事は救いの否定に等しい事であるからです」
そこまで話をして、マリアは一度、乾いた喉を紅茶で潤した。
「今日は言わないのですね」
マリアの言葉にスノーディアがやや怪訝な顔を見せる。
そんな相手の表情など意に介さず、マリアは片手でやれやれといった風な仕草を作った。そうして、何処かの誰かの口調を真似てマリアが言う。
「教会は頭のおかしな連中ばっかりだぜ」
キョトンとするスノーディア。
一拍おいて、スノーディアが口をあけて笑う。
つられてマリアも笑う。
「いや、まぁ、あれは」
「知ってるんです。あなたは私の事を頭のおかしな女だと思ってるって」
マリアが拗ねた様に唇を尖らせそっぽを向く。
「言葉の綾じゃないか」
「いいえ。いつだって大真面目な人の本心だと、私は思ってます」
「参ったねぇ。とんだ墓穴を掘ったらしい」
困った様に頭をかくスノーディアの様子がおかしくて、マリアが小さく笑った。
笑いの波が治まったところで、マリアが話を元の位置へと正す。
「今もそうですが……。私といる時、孤児院の子供達といる時、あなたはとても優しい顔をします。まぁ、ほとんど憎たらしい顔ですが……、優しい顔をするんです。 ――とても聖書の中の悪魔と、魔王と、目の前のあなたが私には結びつかないのです。
だからこそ、知らねばなりません。あなたが何を考え、何を思い、何をなさんとしているのか……」
「それはさっき言った通りだぜ? 嘘偽りなくね」
「……私は女としてはつまらない女です。堅苦しい、息のつまるような」
「そう自分を卑下するものじゃないぜ? 聖女ちゃんは十分に魅力的さ」
「……あなたの審美眼を信じるかはさて置き。 ――あなたが私の気を引くのに、血の匂いを漂わせる必要があるのですか?」
ヘラヘラと笑っていたスノーディアの顔が、僅かながら強張る。
スノーディア自身、自分からそんな匂いがするなど気付かなかった。
昨日ならばいざ知らず、ここに来る際に、念入りに、徹底してその痕跡をスノーディアは隠し、無かった事にした。筈だった。
にも関わらず、マリアは自分から血の匂いがすると言い切った。
これは、スノーディアには予想外の事であり、マリアの事を箱入りの聖女で、そういった事に疎いと考えていた為、驚く程に意外な事としてスノーディアの頭を叩き、普段のスノーディアなら笑ってやり過ごせた場面であった筈のこの場面で、思わず顔に出してしまった。
「あなたも驚くんですね。意外です」
意外なのはこっちの台詞だぜ、とスノーディアは思った。思っただけで口にはしない。どうやってやり過ごすのが正解なのかと模索に終始した。
「私のこれは特別です。多分、聖女として生まれ持った才能とでも言うのでしょう。公にはしていません。これは交渉の場においての私の切り札の1つですから」
マリアの言葉にスノーディアは思考する。
確かに、そんな事は自分とて知らなかった。
そんな切り札を何故この場面で自分に教えたのか……。切り札の1つという事は他にもまだあるのだろう。けど、それは今はいい。
いま教えられた切り札、聖女の才能とやらは、一体どこまで見えているものなのか? それが肝心である。
血の匂いが分かるだけか? それとも、そこから紐解き、全て見えるのか?
自分はどう答えるのが最良なのか……。
必死に頭を働かせるスノーディアに、マリアの攻勢は続く。ここぞとばかりに手を緩めない。
「最初に、なんでも答えると言いましたね? では答えてください。あなたから漂よう血の匂いについて。 ――魔王、あなたは昨晩、私と別れてから、人を殺しましたか?」
分かってて聞いてるのか? その上で僕を試してるのか?
それとも、本当に分からないのか? ただ血の匂いが分かるだけで、そこまで深く知れるモノでは無いのか?
「……人は殺していないよ。聖女ちゃんとの約束だからね」
「でしょうね。あなたは約束は守る。そこは信用する事にしたんです。あなたから漂うそれは、人ではない、何か獣の様な空気を纏っています。感じた事のない匂いです。あなたは何を殺したのです? なんの為に殺したのです?」
マリアの質問に、諦めた様にスノーディアが溜め息をついた。
「殺したのは悪魔で、殺した理由は、悪魔が聖女ちゃんに危害を加えようとしたからだよ」
嘘ではない。されど、本当の意味での真実でもない。
「悪魔? 悪魔が何故ここに? いえ、それは置いておきます。 ――ですが、何故魔王であるあなたが眷属たる悪魔を殺すのです?」
「言っただろ? 聖女ちゃんに危害を加えようとしたからさ。僕はいつだって聖女ちゃん優先だからね」
「しかし、それでは、 ――いえ、あなたがそう言うならそうなのでしょう。ですが、眷属たる悪魔に敵対する様な真似をしてあなたは平気なのですか?」
「おいおい、聖女ちゃん。仮にも僕は絶対無敵の魔王様だぜ? 羽虫が束になったところで何の問題もないよ」
「いえ、そういう心配ではなく――」
「僕の心配をしてくれるのかい? 嬉しくて涙が出そうだよ。聖女ちゃんの優しさで僕は思わず小躍りするかもしれないね」
スノーディアがヘラヘラ笑ってそんな事を口にする。
この目の前の人物は本当に小躍りしかねない。別に小躍りしたからどうというわけではないが、朝から魔王の怪しい踊りなど見たくはない。
なんだか気の抜けたマリアは、問い詰めるのが億劫になった。
慌てる事もない。ゆっくり時間をかけて知っていけばいい。
そう思い、マリアはソフトな話題に変えておく事にした。
「ところで、歌は得意ですか?」
孤児院で見たスノーディアの姿を思い浮かべながら、含みをもたせて問う。
「なんでも答える約束だから答えるけど、好きでも嫌いでもないし、歌った事がないから"得意"とはいえないね。歌自体、そう多く聞いた事もないし」
「そうですか。 ――ところで気付いてました? 魔王、あなたは嘘をつく時、右肩を少しあげる癖がありますよね?」
したり顔で言ったマリアに、スノーディアが笑う。
「その手には乗らないぜ? 僕にそんな癖はない。そもそも、僕は聖女ちゃんには嘘をついた事が無いからね」
「そうですね。嘘をついた事が無いのは事実かもしれませんが、あなたは上手く誤魔化しますね。ヘラヘラと笑って煙に巻きます。違いますか?」
「……聖女ちゃんさぁ、聖女ちゃんが僕に興味を持ってくれる事自体は僕としても満更ではないが、質問に妙な駆け引きを組み込むのはやめたまえ。聖女ちゃんには似合わないよ?」
「あら? 私の気を引くのが目的なのではないのですか? 経験はありませんが、男女の駆け引きというのは恋愛をするにおいて重要だと聞き及んでいますよ」
「……いや、僕そういうの分からないし……、魔王だし……」
何故だか妙にしおらしく言ったスノーディアにマリアが小さく笑う。
「今日は午後まで予定はありませんが、ずっとここにいるつもりですか?」
「午後まで聖女ちゃんとお喋りするのも楽しそうだけど……、残念、今日はこれからちょっと野暮用があってね」
「あなたに、私に会いに来る以外の用事があったとは驚きです。何か悪巧みでしょうか?」
マリアの言葉に、スノーディアが肩をすくめておどけてみせる。
「いやはや。今日の聖女ちゃんはなんとも強気だ。悪巧みを企てた覚えはないけど、なんだか土下座したくなったぜ」
そう言うと、スノーディアはカップの中の自身の残り少なくなった紅茶を飲み干した。
「これ以上いると、何を質問されるか分かったもんじゃないし、今日はここらでおいとまするよ」
スノーディアは椅子から立ち上がると、静かに部屋の扉へと足を進めた。
「ティーカップは持って帰らないのですか?」
そんなスノーディアの背中に向けられたマリアの問い掛け。
スノーディアは開ききった扉に手をあてたまま、静かにマリアを見て答える。
「明日も来るし、しばらくは預けておくよ。 ――また、飲みたくなるかもしれないだろ」
とても、優しく微笑んで、そのままスノーディアはマリアの部屋をあとにした。




