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Sweets Holic  作者: かずさ
2/2

アップルパイ

 初恋の味、と称したのは誰でしたっけ。

 でも、本当はそんな可愛らしいものじゃありません。禁断の食物。悪魔の果実。悩ましげに、あかくあかく、熟れた実は誘います。

 最初に掟を破ったのは、誰でしたっけ?


 林檎を握りしめた彼女は階段の上に。それに気付かない少年は階段の下に。出かけるところなのでしょう。少年は手に鞄を持っていました。


 かの有名な物理学者殿は、林檎で偉大なる発見をしたのでしたっけ? 彼女は思います。奴には絶対その頭はない、と。自分の気持ち一つ酌み取れない、愚鈍の器め。


 彼女は大きく振りかぶり、林檎を少年の方へと投げました。見事な弧を描き、それは少年の頭に当たりました。かーん、と小気味よい音が響きます。一応中身は詰まっているのね、と彼女は思いました。


「痛ってぇ!」

 思わず、少年は叫びました。小さな林檎でしたが、加速度がつくので、痛いのは当然でしょう。

「うるさい」

 投げた本人である彼女は、迷惑そうに呟きました。相変わらず理不尽だ、と少年は思いました。でも、言ったところで何が変わるというのでしょう。溜息をつくと、少年は地面に転がった林檎を拾いあげました。

「ほら」

 差し出された林檎を、彼女はやはり無言で受け取りました。


「で、何か用?」

「別に」

 間髪入れずに、彼女は答えました。

「あー、そうかよ」

 少年は、何事もなかったかのように苦笑を返します。奇妙な居心地の悪さを感じ、彼女は林檎を手の中で弄びはじめました。

「妙にしおらしいじゃない。気持ち悪い。……なんか、あったの?」

 いつもなら、もう少し少年から文句が飛び出すはずでした。何やってんだよ、とか、用事がないならひきとめるな、とか。

 少しだけ、ほんの少しだけ、彼女は少年のことが心配になってきました。


 けれど、彼女の心配とはうらはらに、よくぞ聞いてくれた、とでもいうように、少年はぱっと顔を輝かせました。

「そうだ、お前には言っておかないと!」

 彼女は、少し嫌な予感がしました。そして、たいがいがそうであるように、その嫌な予想は外れてはくれません。

「俺、あいつと付き合うことになったんだ!」


 あいつ、というのが誰のことか、彼女にはすぐ解りました。少年の思い人であり、彼女の親友である、砂糖菓子のように甘い笑顔の少女。見ているだけで幸せな気持ちになって、誰もが好きにならずにはいられない女の子。

 少女が自分の対極に存在するのだということを、彼女はよく知っていました。だからこそ、彼女は少女のことが、とてもとても好きでした。

 だけど、彼女にとって、少年に対する想いと、少女に対する想いとは、はじめから比べられるものではなかったのです。


「あっそ」

 彼女はそれだけ言うと、ふい、と少年から顔を背けました。ここで、涙のひとつでも流せば、少年は彼女の気持ちに気付くかもしれません。でも、彼女はそれをしようとすらしませんでした。

「なんか反応薄いなぁ……」

 肩すかしを食ったような、少年の表情。視界の端でそれを認め、ふと彼女の表情が和らいだように見えました。それは、彼女の強がりだったのかもしれませんが。

「あんたにしちゃ、上出来ね」

 お情けのような褒め言葉。少年はそれにすら笑顔を浮かべました。

「だろ! もうすっげぇ可愛いんだ!」

 彼女は僅かに顔をしかめました。いつもなら、こう返すはず。

 "どういう意味だよそれ!"


 なんとなく面白くなくて、彼女は、再び無言で少年の手に林檎を押しつけました。気迫に押されて、少年は思わず受け取ってしまいましたが、訳が解らず、彼女を見返しました。

 勝ち誇ったように、彼女は笑います。

「んじゃ、あんたはあたしの為にこれで何か作るのね」

 こうやって、食材を受け取ってしまったのも、もう何度目でしょう? いい加減、学習すればいいのに、と彼女は内心せせら笑いました。

「なんでそうなるんだよ」

 少年は呆然と呟きました。その手の中には、林檎が握られたまま。本当に嫌なら、突き返せばいいのに。

くるり、と彼女は少年に背を向けました。

「当然でしょ? だってあたし、失恋したもの」

 声は、震えてはいませんでした。でも、それを聞いた途端、少年はばつの悪そうな表情になりました。

「誰だよ、お前を振ったの。俺の知ってるやつ?」

 その声は、あまりにも真剣に響きました。あまりにも優しく響きました。

 彼女は思わず目を瞑り、手のひらに力を込めました。

 彼女はずっと知っていました。少年が決して、自分の気持ちに気付かないであろうということを。そして、いつかはこんな日がくるであろうということを。


「ばーか。嘘に決まってるじゃない。さ、さっさといってらっしゃい」

 この精一杯の虚勢すら、少年は知らないままなのでしょう。彼女は少年に背を向けたまま、ひらひらと手を振って見せました。

「……ったく、何で俺が」

 少年は、憮然とした表情で呟きました。結局、少年がお菓子をつくる羽目になったのは、いつものことで。でも、この関係も、後どれだけ続くのでしょう。これだけは、彼女にもわかりませんでした。



「ほら」

 次の日、少年は彼女の家に、大きなお皿を持ってやってきました。

「へぇ、久しぶりね」

 彼女は少年の作ったものを見て、嬉しそうに呟きました。

「だろ?」

 少年は、満足そうに笑いました。


 満月に、幾らか足りない形のアップルパイ。欠けた一切れは、きっと、ここにはいない少女のためのもの。

 パイはふっくら黄金色。さぁ、熱々のうちに召し上がれ。さくさくのパイは、ナイフを入れるのが惜しいほど。口に入れると、バターの風味と、甘酸っぱい林檎の味が、ふわりと広がります。


 今はまだ、暖かいままのお菓子たち。だけどいつか、今とは逆に、すっかり冷めてしまうであろうあの一切れが、彼女のものになるのでしょう。

 しあわせそうに、だけどどこか空虚なこころで、彼女はアップルパイをほおばります。そんな彼女を、少年はじっと見つめていました。


「……何?」

 さすがに落ち着かないのか、彼女は訊ねました。

「ん、いや。お前って本当に、昔からアップルパイ好きだったなーって思って」

 彼女は、軽く目を見開きました。


 ずっと昔、二人でほおばったアップルパイ。とてもとても美味しくて。もっともっと食べたくて。小さかった彼女は、少年の分まで食べてしまって、後でお母さんにこっぴどく怒られたのでした。

 今となっては遠い、懐かしい思い出。


 少年がそれを覚えてくれていたのが、彼女にとっては何より嬉しいことで。覚えず、微笑みました。砂糖菓子のような笑顔ではなく、どこかほろ苦い笑顔で。

 だけど、その一瞬、少年は、思わず彼女に見とれてしまいました。

「そう、ね。大好きだった」

 か細い声は、甘い香りの空気に、揺らぐようにして消えてゆきました。


 甘く、紅く熟れた林檎は神のもの。口にしたら最後、もうもとのままではいられないのです。


 彼女と少年の、微妙な関係。見えないままの境界線。それは、少年と少女の間にもありました。そして、彼女と少女の間にも。


 彼女は知っていました。結局のところ、自分には境界線を踏み越えるだけの勇気がなかったのだと。哀しいくらいに、知っていました。


 だからこそ、一人残された彼女は問うのです。かきかえられた境界線の、その先を。

 これは、どうしても重なり合わない、ふたつのお菓子の物語。

(初出:2007.05.24)

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