第九話『悪夢』
「信じられん……。まだ十八かそこらの子供じゃないか。うちの息子とほとんど変わらん」
鎮静剤の影響もあってか、グッスリ眠っているイヴァンを見つつ中年の政府軍兵士は言う。
デチャンスとの戦闘の後、イヴァンは強力な鎮静剤を注射され、政府の軍事病院の専用病室で手足を縛られた状態で寝ていた。そのあどけない寝顔は本当に子供のようで、悪霊のとき見せる形相とはまるで正反対だ。
「あぁ、それでも俺らの同志を大量にぶっ殺しやがったのはコイツだ。さて、どうしてくれよう?」
病室にいる三人の政府兵の内の若い一人が血走った目でイヴァンを睨む。放っておけば今にもイヴァンに掴みかかり、首の骨をへし折って殺しそうな殺気がその目にはある。
「落ち着けよ。俺らの任務はこいつの監視だ。そんな命令は受けていない」
三人の中で一番理知的な顔立ちをした兵士が言った。
「その通りだ」
病室の出入口から声が響き、三人は声の方向を見る。出入口にはデチャンスが立っていた。
「君達はそいつを監視だけをしていればいい。尋問は俺達がやる」
三人の兵士はざわついた。
「お前……何を言い出す?」
若い兵士が聞いた。
「そうだ! なんの権限があって言ってんだ」
中年の兵士も同調する。理知的な兵士は釈然としない顔立ちでデチャンスを睨んだ。
「尋問は我々、情報局がやると言った。政府にも許可はとってある。明日の早朝にはこの病室からこいつを連れ出し、近くにある米軍のキャンプに移送だ」
デチャンスはそう言って一枚の紙を取り出した。そこには確かに政府の印が押してある。
「てめぇ、こいつが俺達政府軍にしたことをわかってて言ってんのか?」
若い兵士の殺気立った目は今や完全にデチャンスの方へと向いていた。
「わかってるさ。その分の痛みも尋問のときにちゃんと与えるさ。生きていることを後悔するような痛みをな」
デチャンスは目線を、右上の方向へ泳がせながら言った。
「CIA風情が! いつも手柄は横取りか!」
「そのCIAである俺の手柄でこいつを縛りつけることができたんだ。君らはやられ役をやっていただけだろう」
「てめぇ!」
若い男は完全に理性を失いデチャンスに掴みかかろうとするが残りの二人がそれを抑える。
「そういうわけだ。そいつを殺したいなら好きにすればいいさ。この国の政府とアメリカの双方にマークされたいお尋ね者になりたければな」
デチャンスは涼しい顔でそう言い残し病室を去った。
※
今、イヴァンは夢の中に居る。それが夢であることはイヴァンの意識の中でもわかっていたが、どういうわけか先ほどから覚醒したくても出来ない状態に陥っていた。
イヴァンの前には二人の死体が転がっている。彼の母親と妹のイリーナだ。
母は額にナイフが刺されたまま、白目を剥いて倒れている。
イリーナは母親とは違い安らかな顔で倒れていた。裸にひん剥かれ、眉間には赤黒い穴を開けている以外は。
イヴァンはそのふたつの死体の前で座り込み、俯いていた。こうしていると死体から目を逸らしていられるからだ。
しかし何時になっても覚めない夢となれば、やがては立ち上がり死体に歩み寄る他はなかった。
イリーナ……。イヴァンは微かに口の中で呟いてみた。当然、返事はない。ないとわかっている筈なのに――。
「なぁに? 兄さん」
イヴァンはびっくりして飛び退いた。
「イリーナ!」
イリーナは目を開け起き上がっていた。そのはにかんだ笑顔も、周りに漂っている包容力のある雰囲気もあの時のままだ。ただひとつ感じている違和感は額に赤黒い穴を開けたままということだ。
イヴァンは後退りをした。違う。こいつはイリーナじゃない。ではなんだ? 夢が生み出した怪物だとでもいうのか。
「お前は一体……?」
「お前は、って私だよ。イリーナ・ハーン。兄さんの妹。兄弟姉妹。かけがえの無い妹」
イリーナの物腰や口調は生前と同じだ。しかしなんだというのだ。この微妙に漂う俗っぽい感じは。
「よく来てくれたね、兄さん。私、兄さん愛していた。妹としても、異性としてもね」
違う、イリーナは妹として僕に尽くしていた。こいつは夢だ。幻なんだ。イヴァンはそう思いジリジリと後退りを続ける。イヴァンの足が何かに躓き尻餅をついた。
上を見上げると、イリーナが見下ろしている。優しい表情のままで。額に穴を開けている以外は。
「もう、こんなところで転んじゃって。怪我はない?」
イリーナは四つん這いになり、獲物を狙って静かに迫り来るヒョウのように近寄ってきた。大胆に、エロティックに。
「やめろ……来るな!」
イヴァンは制する事しかできなかった。
「お前はイリーナじゃない。イリーナはあの夜、政府軍に乱暴されて死んだんだ! 夢なら覚めろ……!」
イリーナはそんなことお構いなしに、四つの手足で近寄ってくる。のそりのそりと。
「そんなこといわないで……。辛いよ……」
イリーナはイヴァンの両腕をガシっと掴まえ、抱き包む。
「にいさん、好き……好き……」
同じ青色の瞳をした妹がジッとイヴァンの顔をのぞき込んだ。
「好き……」
最後にそう言うと、イリーナは唇を重ねてきた。チロッと舌が入り込み流し込まれたのは、恨み、妬み、憎しみ、辛み、絶望、失望、そう言った負の感情だった。
イヴァンの心はみるみるうちにそいつらに侵食されていく。
世界が歪んだ。イリーナも母の死体もその歪みの中に消え失せ、イヴァンは数々の刻に飛んだ。それは全世界の善と悪、光と闇、希望と絶望だ。
イヴァンはその中に吸収され、そして……。
「イヴァン、起きろ。朝だぞ」
「起きろってば。もう寝坊助めっ」
自分を起こす声が聞こえた。逞しくもユーモアを交えた口調で起こそうとする男の声だった。イヴァンはその声の主が何なのか、知っている。
「とう……さん……?」
「やっと目覚めたか」
※
「やっと目覚めたか」
そう言った声は先ほどの夢の中の声とは違っていた。
イヴァンは目を開ける。そこには中年さしかかりの男が自分の顔を覗きこんでいた。
「血圧、心拍、共に良好。健康そのものです」
また別の誰かの声が聞こえてくる。
イヴァンは頭を起こした。自分の体には輸血用パックと、どこから通ってるかもよくわからないチューブ類がごちゃごちゃと繋がれてた。
わかるのは天井に覆われている緑のポリ製の布から、自分が今テントの中に居るということだけだ。遠くからヘリのローター音が聞こえる気がする。近くからは英語のような言語が飛び交っている。
ここはどこだ?




