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あれから数日経っても、ガルガンチュアはなかなか出立の日を迎えられずにいた。
広場のテントや大小多数の設置物。それから人の出入りが多すぎて、馬車を動かすことができないからだ。
また、フィンドールの言う第五元素に満ちている今現在のセレームは、新しい第五元素石を錬成するのにも都合がいいらしい。今回は少々使いすぎてしまったため、今の内に補充しておかなければいけないとも言っていた。
『……きみは本当に耳が良いな。覚えが早くて驚いている』
「そ、そう?」
いまだ慣れない格好でバコラを抱えていたシエルは、ようやく短いフレーズを弾くことに成功したあと、その褒め言葉を半信半疑で受け取った。
しかし、彼は本当のことしか言わない。だから嘘やお世辞ではないとわかっているのだが、ことバコラの練習に関しては、彼の判定が相当に甘いだけなのではないかと疑ってしまう。シエルがそのような疑いを抱いていることを察したのか、ハリトは首を振った。
『耳で聞いた旋律を正確に覚え、正確に弾くことはきみが思っているよりも難しい。にもかかわらず、きみは最初の楽句をもう覚えてしまっただろう』
その言葉には、シエルにバコラの弾き方を教える師として彼なりの矜持のようなものを感じた。教えるからには厳しく練習を見てはいるが、その上で及第点を与えているのだと。
けれど、まだまだほんの最初の一歩だ。
シエルは深呼吸し、もう一度そのフレーズを弾いた。それはあの日、ハリトがこの楽器で弾いていた聖歌の旋律だ。
複雑な旋律を一から覚えることは難しくても、耳に馴染んだ聖歌なら弾けるかもしれないと思ったのだ。
「そういえば、ハリトはどうして聖歌を知ってたの?」
『あの日、きみが眠っている間に彼から教わった。バコラの音色は精霊が好むものだから、あの場所で彼が好きな聖歌を弾く約束だったんだ。彼ではなく、ニヴオールの魔女のために』
そうだったんだ、とシエルは数日前の奇跡の日を思い出す。
白髪で星の目を持つ少女の姿は、聖エルフィーヌの御使いとしてたちまち噂が広まってしまったらしい。
ヴェロニカはエルフィリアの花を見ることができ、安らかに死ねたという。彼女に寄り添っていた灰色狼は、彼女の死を見届けたあと静かに町から去っていったという。きっと元の住処に帰っていったのだろう。
シエルは結局彼女と再び会うことができなかった。その悲しみに胸を引き裂かれそうになったが、彼女の美しい姿だけを記憶に留めておくべきだと、フィンドールには言われた。
理由は、彼女のためだと。
そのフィンドールはこの数日間、ガルガンチュアの運転室にずっとこもりきりだ。ハリトのほうはバコラを弾く以外にも時々書き物などをしており、何を書いているのかと尋ねたら、旅の中で経験した出来事をすべて記録しているのだという。
フィニアンに〝本当のこと〟を話してもらったのは、そのためだったらしい。
シエルも、彼が見せてくれたレターニア山の光景はきっと生涯忘れることはないだろう。
あの薄青色の瞳の美しさも。彼の優しい声や言葉も。
すべて覚えていたいと、シエルは思う。
一方で、あの白い男の行方についてはわからずじまいだ。
伯爵が残した研究資料や手記の中にも、彼の正体や動機について知ることができる情報はほとんど記録されていなかった。
叶わない夢を叶えさせるために現れて、そして消えてしまった。煙のように。
確かに隣を歩いたことがあるはずなのに、シエルの記憶の中にも名前さえ残っていないのは一体どういうことなのだろう。
ここまでくると、その記憶さえ疑わしくなってくる。
あの男は、本当に実在していたのだろうか。
『そういえば、彼のことだが』
と、ハリトが不意に言った。
窓の外に見える祝祭の広場を眺めながら、呑気な空模様の話でもするように。
『あれからも元気にしているようだ。無事に戻ってくることができたらしい』
「……え?」
シエルは思わず顔を上げ、包帯に覆われているその横顔をまじまじと見た。
左側からなので表情が見えなかったのだが、ハリトはちゃんと右目が見えるようにこちらを向いて微笑した。
『会いに行こう。きみたちの教会へ』
その声にはまるで冒険にでも誘うような、心くすぐる少年っぽい響きがあった。
彼にしては珍しい、と思うと同時にシエルは思い出す。
――そうだ。
すっかり忘れていた。わたしは、この人と約束していたのだ。
ガルガンチュアがこの町を去ってしまう前に、教会を案内してあげると。
「ご、ごめんなさいハリト。わたし、約束してたのに」
『それは再会のために交わした約束だったと記憶している。あのときはまだ、きみとこうして長く共に過ごすことになるとは思っていなかったから』
ハリトはそう言うが、シエルは首を横に振った。約束は約束だ。
それにこの町を訪れる人々はみんな、聖堂のガラス絵を見るためにはるばる街道を旅してくるほどなのだから。
異国の旅人であるこの人にはぜひとも、この町の宝物である聖堂のガラス絵を見てもらわなければいけない。
本当は、彼女にも見せてあげたかった。
あの美しさを知ってほしかった。
花のように散ってしまった彼女のことを思い、せめてこの人には見てほしいと、改めて強く思う。
(それに)
と、シエルは胸元の時計をぎゅっと握りしめる。
さっき、ハリトは言った。
いなくなってしまった彼が、戻ってきていると。
ちゃんと、元気にしていると。
この人が伝える言葉に間違いはない。
会いたい。
一緒に会いに行きたい。
だって、彼とシエルの二人でこの人を案内してあげるという約束だったのだから。
その思いがたちまち胸から溢れ出しそうになったが、しかしそれには一つ大きな問題があり、シエルは悄然とうなだれた。
「でも……わたしが行ったら、騒ぎになっちゃう……よね……」
ガルガンチュアの中にいても、広場の喧騒は伝わってくる。
人々が往来で話していることや、町中で流れている噂の内容についてはハリトが教えてくれる。
聖エルフィーヌの御使いの姿をその目で見た人々は、いわば聖典の書に記される新たな物語の立会人となったのだ。
だからみんながこぞって彼らの話を聞きたがり、彼らのほうも周りの人々にその話を聞かせたがる。誰も見たことのない星の瞳を持っていた少女のことを――まるで、あの奇跡の象徴のように語っている。
シエルにとっては信じがたい、まるで夢でも見ているかのような話だ。あれほど気味悪がられていたこの奇異な目をもし実際に見ることができたなら、不幸になるどころか幸運を授けてもらえると、人々は今やそんなふうに語り合っているというのだから。
セレームの町はその噂で持ち切りになっている。御使いの奇跡にあやかりたいと、教会にはそんな人々が押し寄せているらしい。
だから、行けない。
バコラを抱いたまましおれてしまうシエルを見て、ハリトはふっと笑った。
『大丈夫。誰にも見つかりはしないよ』
そう言って、彼は出かける支度をするようにとシエルに言った。
この数日で気温もすっかり春らしさを取り戻し、外に出かけるわけでもないので、シエルは比較的簡素なワンピースを着せてもらっている。それでも布地は多くて素材もやはり上質で、贅沢なフリルやレースの装飾は欠かせないものらしい。そしてフィンドールはどうやら、シエルには瀟洒な青いリボンが一番似合うと思っているらしい。
繊細な花の刺繍が施された白いワンピースの首元に青いリボンを結んでいたシエルは、その上にあの黒いローブをまとった。
ハリトのほうは鍔広の帽子をかぶり、さっきまでシエルが弾いていたバコラをケースに戻し、やはりそれを背負っていくようだ。出かけるとき、置いて行くということは絶対にしないのだろう。
「……本当に大丈夫?」
扉を開けようとするハリトに、シエルはおずおずと声をかけた。
そして肩越しに振り向いた彼の右目を見たとき、ようやく「あっ……」と思い出した。
この人と一緒にフィニアンを探しに行った、あの日のことを。
まるで時計の針が巻き戻っていくようだった。
あの日のように、ガルガンチュアの扉を開けて外に出る。広場にはあのときよりも大勢の人がひしめいていて、雪の重みでつぶれてしまっていたテントも元通りに修理されており、そこらじゅうで明るい笑い声が弾けている。時々どっと大きな笑い声、驚きの悲鳴も上がる。そんな中、広場の片隅に物々しく鎮座する〝機械の家〟に興味を引かれて見物している人々の間をすり抜けるようにして、ハリトは悠々と歩いていく。
シエルは彼から離れないように、そのあとについていく。
そんな二人に、誰も見向きもしない。
「ねえハリト。……」
シエルは意を決し、彼に小声で問いかけた。
「あなたも魔法が使えるの?」
広場を抜け、たくさんの人でにぎわうアルチザン通りを歩きながら。
大真面目に問われたハリトは右目を丸くして、小さく吹き出すように笑った。
『魔法じゃない。人に気づかれないのは、ただの特技のようなものだよ』
――それを魔法というのではないだろうか、とシエルは思った。
いずれにしても不思議な魔法をかけられたように、目立つ白髪と星の瞳を持った少女は誰にも気づかれることなく大通りの雑踏を抜けていく。
途中、あの焼き菓子店の前を通った。店にはお客さんが入っていて、あの老婦人が薔薇色の笑顔でお菓子を売っている姿が見えた。
母親らしき人に手を引かれ、リボンを結んだ袋を手にして嬉しそうに歩いてくる子供の姿を見た。教会では子供たちに祝祭のお菓子を配っているらしい、とハリトが教えてくれた。
通りのそこかしこに青い花が咲いている。街角に佇む天使像の頭に、エルフィリアを編んだ花冠が飾られていた。
どこで摘んできたのか、両手いっぱいのエルフィリアを持って楽しげに駆けていく小さな兄弟もいた。
祝祭の町がこんなふうになったのは、きっと初めてのことに違いない。
今、彼が本当に教会に戻ってきているのだとしたら、どんな思いでこの光景を見つめているのだろう。
シエルの胸はどきどきと高鳴り続ける。教会へ続く丘の坂道を上っていく人、お祈りを終えて下りてくる人。そんな人々の中にまぎれこみ、はぐれてしまわないようにハリトの服の裾をつかんで歩いていたシエルは、ようやく前方に見えてきた正門を見上げた。
そして――そこでずっと自分を待っていたかのような人影を、見つけた。
「ようこそ、聖エルフィーヌ教会へ」
こんなにたくさんの人が行きかう中で、誰にも気づかれないはずの二人の姿をまっすぐに見つめて。
穏やかな陽光の下でカラスのように真っ黒な服を着た彼は、美しい薄青色の目を細めて微笑んだ。
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――――――――…………
あくる日、セレームの町では事件が起こった。
未明に発覚した火事により、エヴァンゼール伯爵邸が全焼したのだ。
周辺の森に延焼の被害はあったが、幸いにも大きく燃え広がることはなく、屋敷を燃やし尽くして鎮火した。
焼け跡の捜索にあたった人々が語るところによれば、犠牲者は二人。――と、その他複数。
恐ろしい事実に誰もが口をつぐんだ。出火の原因はおそらく付け火と思われるが、犯人らしき人物は見つからなかった。
怪しげな疑惑の証拠もろとも灰となり、ローラン・ド・エヴァンゼール伯爵は死んだ。隣に寄り添った、身元不明の遺骸と共に。
――町がそのことを知って騒然となる、数時間前。
すべての〝後始末〟を終えた道化師は、深更の静寂に包まれた町が目覚める前に黒鉄の馬車に戻ってくると、もう眠っているだろう二人の気配を二階に感じながら運転室へ入った。
『終わったのか』
と、頭の中に彼が語りかけてきた。
物音を聞いて、当然のように目を覚ましていたらしい。
道化師はにこやかに答えた。
「ええ、つつがなく。今のうちに出立してしまいましょう。……シエルさんは眠っていますか?」
『ああ、よく眠っているから起こすなよ』
「それは無理な相談です」
ガコン、と馬車全体が大きく振動する。
動力機関を始動したことにより、第五元素石を燃料とする炉が赤熱し、低い轟音を響かせ始める。
近隣住民には大変迷惑なことだ。振れ始めた計器の数値を確認しながら、道化師は他人事のように笑って呟いた。
「まったく、とんだ災難でしたネ」
煙突から蒸気を上げて、黒鉄馬車は怪物のように動き出す。
進路を塞いでいた大小の設置物を最小限の犠牲として、西の大門を目指して、ガタガタと異様な振動音を響かせながら。
うつらうつらしていた門番を驚愕させながら、制止の声を無視してセレームの町を後にする。
きたときは南。今度は西。
長い長い街道が続く先。
また、次の町へと。
END




