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石造りの町に夕刻を告げる鐘の音が鳴り響く。
頭上に低く広がる空は暗澹とした鈍色の雲に覆われ、白く凍りついた石畳には新しい雪が降り積もり始めていた。
「――ほら、今日はこんなに寒いから。ケルシーも冒険をあきらめたのかもしれないし」
町の広場に続く大通りの片隅。辺りはひっそりと静まり返っており、深く幌を下ろした馬車がただ一台、ガタガタと不格好な車輪の音を立ててゆく。
使いの用事を済ませたらしい女はどこか不安げな面持ちで暗い空を見上げ、長い睫毛に雪粒の化粧を施しながら家路を急ぐ。背中を丸めた老人はぶるりと身を震わせてコートの襟をかきよせる。
頭の上では青銅製の古いガス灯が、ガラスの火屋の中でジジと静かに瞬いていた。
「早く帰らないとシスターに叱られるよ。この前の風邪だって、やっと治ったばかりなのに」
ちらつく雪の中、青年は隣で膝を抱えている彼にそっと話しかける。彼はすがるような目で青年のほうを見た。
「けど、もしどこかで動けなくなっていたら?」
「だいじょうぶ。きっと帰ってくるよ」
「帰ってこれるかな……」
「そんなに悲しい顔をしないで」
柔らかな栗色の髪を丁寧に横分けした小さな頭をぽんと撫で、冷えた頬をこすってやる。青年が彼を見つけたのは二時間ほど前のことで、彼はいなくなってしまった猫を探していたのだった。いつの頃からか庭に居ついていたあのクリーム色のメス猫は彼によってケルシーと名づけられ、彼の友達となった。しかし昨日、彼が庭に置いた皿の中の餌は一口も食べられることなく傷んでしまっていたのだという。
元々、居たり居なかったりする気ままな猫だ。しかしいつもは綺麗に食べられている餌がそのまま残っているのを見て、彼は居ても立ってもいられなくなってしまったのだろう。
もしかしたらこの雪の中、道に迷って帰れなくなってしまったあの猫が、どこかで悲しげに鳴いているかもしれないから。
「ねえラセル。人生には悲しい出来事のほうが多いかもしれないけれど、信じたことが本当になったり、思いもしなかった奇跡が起きることだってあるよ。たとえば今日、僕が偶然通りがかってきみを見つけることができたみたいに。だからケルシーだってきっと大丈夫。あの子はちゃんときみのところに帰ってくるから、もう泣かないで」
「泣いてないよ」
道行く人々は二人のことなど気に留めない。誰も彼もが口を閉ざして沈黙を守り、足早に歩き去ってゆく。
まるで、何かに怯えているかのように。
青年は白い息を一つ吐き、町に重たくのしかかる雪空を見上げた。
トランバニア王国最北の町・セレーム――長い冬の間中ずっと融けることのない雪と氷に閉ざされる灰色の町は今、冬の最も厳しい寒さの中にあった。
ふと視線を感じた気がしてそちらに目を向けると、通りの一角には白灰色の石像が二人を見つめるように佇んでいた。両手を胸の前で組み合わせて空を仰ぎ、背中に大きな翼を広げている、可憐な少女の像だ。
聖エルフィーヌ、と人々は呼んでいる。
この国の春を司る優しき〝天使様〟の眼差しは、心細さに震える少年をそっと見守ってくれているかのようだった。
「フィニアンは」
「うん?」
ぽつり、と彼が口を開いた。
「なんで僕がここにいるってわかったの」
青年は笑った。
「たまたま通りがかっただけだよ。きみがいなくなってみんな心配しているだろうから、早く帰らないと」
辺りはだんだんと暗くなってゆく。
通りの両側に建ち並ぶ石造りの家々はどこも窓を閉めきり、街灯以外の明かりが路上に漏れ出ることはない。こんなにも暗いのはそのためで、このところ日が落ちてから表を出歩く住民はほとんどいなくなっていた。
「帰ろう、ラセル」
青年は立ち上がり、彼の手を引いた。
うそ寒い静寂に押し包まれた大通りを足早に抜けると、道は町の中心から少し外れた丘の上へと続いてゆく。凍りついた小川にかかる橋を渡り、勾配のゆるやかな坂道をのぼってゆけば、その先に彼らが帰るべき家がある。
聖エルフィーヌ教会。
子供たちを冬の寒さと孤独から守ってくださる〝天使様〟――翼の聖女エルフィーヌに捧げて建てられた、この国で最も古いあの教会には今、様々な事情により家族を亡くした子供たちが身を寄せている。数え六つになったばかりの彼もその一人だった。
「あっ」
と、前庭の古ぼけたアーチが見えてきたところで、彼が飛び跳ねるように声を上げた。
うずたかく雪を積もらせた灌木の茂みの陰に、夜目にも鮮やかなクリーム色の毛並みを見つけたからだ。猫は丘を上ってきた二人の姿を認めると、しなやかな伸びをしてから「みゃあ」と細く高い声で鳴いた。
「ケルシー!」
ぱっと笑顔を広げ、彼は喜んで猫のもとへと駆け寄ってゆく。猫はしきりにみゃあみゃあと鳴き続け、そんな彼の足元にすり寄っていったかと思うと――不意に小さな体を翻し、一直線に駆け出した。
灌木の道を外れたその奥へ。
「ま、待ってよケルシー。どこ行くの」
彼は猫を追ってゆく。丘の裏側。そこにあるのは凍った木々が林立する道なき森だ。青年は慌てて彼を追いかけた。
進むにつれて、不思議な予感があった。
何かが彼を呼んでいる。
そして吐息も凍りつく冬の森の中で、二人は見つけたのだった。
「フィニアン、あれって」
彼がふるえる手で指さしたそれは地面に積もった雪と同化して見えるほど白く、はじめは雪のかたまりが偶然、そのように見える形を作り出したようにも思えた。けれどよく目を凝らしながら近づいてゆくと、明らかに雪ではない。
ほっそりとした手足のシルエット。
雪上に広がっている、真っ白な髪の毛。雪のように白い肌の色。
人だ。
――人が、倒れていたのだ。
まるで、壊れた人形のように。
「……知らせてくれてありがとう、ケルシー」
にゃあ。
青年が礼を言うと、案内の役を終えた猫はひょんと尻尾を揺らして彼の肩の上に飛び乗った。青年はそんな猫と目配せをするようにし、呆然としている様子の彼に言った。
「ラセルはケルシーと一緒に先に戻って、このことを神父様に伝えておいてくれる?」
「う、うん、わかった」
彼は青ざめた顔でこくこくと頷き、その場から逃げるように駆けだした。彼は聡明な少年だ。青年が何も言わずとも、状況を理解してしまったのだろう。
雪は、いつの間にか止んでいた。
青年は着ていたコートを脱ぎ、半ば雪に埋もれかけている少女の身体を慎重に抱き起こした。
長く伸びた白髪。痩せた手足。はじめは老女かとも思ったが、まだ子供だった。
体格からすると年齢はおそらく十二、三歳前後だろう。この寒さだというのに身に着けているのは膝丈の薄いワンピース一枚で、上着はおろか靴さえ履いておらず、裸足だ。まるで暖かいベッドの中からそのまま抜け出してきたとでもいうような恰好で――眠るように目を閉じた少女は、既に息をしていなかった。
(……かわいそうに)
あの猫が知らせてくれなければ、この子は春がくるまで誰にも知られることなくこの雪の下に埋もれてしまっていたことだろう。それは珍しいことではなかった。冬が訪れるたびに、この町では多くの人が命を落とす。それは長い冬と共に生きることを選んだこの町の人々が背負う宿命――あるいは、呪いのようなものだから。
せめて、あたたかに眠ることができる場所を――……
青年は氷のように冷たくなった少女の亡骸をコートでくるみ、慎重に抱き上げようとした。その拍子にちゃりと小さな音が鳴り、少女のこわばった手指から何かがこぼれ落ちる。
それは金色の細い鎖で、その先は雪の下に埋まっていた。少女を抱えたまま、片手を伸ばして軽く探ってみると、指先に硬い金属の感触が伝わってきた。形はなめらかな丸みを帯び、ちょうど女性の手の平に載るくらいの大きさで、ずしりと重い。
時計だった。
しかも目を瞠るほど精緻な彫刻がほどこされた、金細工の懐中時計。それはおよそこの年頃の少女にはあまり似つかわしくない――王都に暮らす金持ちの貴族が身に着ける宝飾品の類で、とても高価な品である。青年は思わずまじまじと少女の身なりを見直した。なぜ、この子はこんな物を?
「――――――」
そのとき、少女の凍った睫毛がふるえたのを、青年は見た。
白い目蓋がのろのろと持ち上がり、光を失ったはずの瞳が虚ろな視線をさまよわせ、驚く青年の顔をとらえた。
しばし呼吸するのも忘れ、青年は茫洋とひらかれた少女の瞳を凝視した。
はたしてこの世に、こんな目を持つ生き物がいるのだろうか。
人間の眼球としてあるべき白目と黒目の境目もなく、まるで内側に無数の傷を抱えた宝石か、金色とも銀色ともつかない夜空の星葛をそのまま眼窩に嵌め込んでいるいるかのような――見たこともない、二つの目。
吸いこまれるように魅入られたのも束の間、色をなくした唇がかすかに動く。しかし声はあまりに細くて聞こえず、その口元に耳を寄せようとした青年は、すぐにはっとした。時計だ。なぜか咄嗟にそう思い、先程拾い上げた時計を少女の目の前にかざして見せた。
「大丈夫、きみの時計ならここにあるよ。もう大丈夫だから」
そう言うと、コートにくるまれた彼女の身体は凍てつく寒さを思い出したように震え始めた。異常なほどに呼吸の間隔が狭く、このままでは本当に息絶えてしまう。早く暖かい建物の中に運んでやらなければいけない。わかっているのに――青年は動き出すことができなかった。
こぼれ落ちそうなくらい大きく見開かれた彼女の目が、食い入るように青年の顔を見つめていたからだ。
そこに、何か恐ろしいものを見つけてしまったかのように。
「――……っ……ア……」
目を見開き、凍っていたはずの喉からしぼりだされたのは、人の声とは思えない音。
時間が止まったかと錯覚した。
いや。
時間はちゃんと動いていた。
音が聞こえた。
規則的に時を刻む音が。
「………………た」
ふっと糸が切れた人形のように、彼女の体から力が抜けた。
我に返った青年は、再び意識を失った彼女が雪の上に倒れこむ寸前でその身体を抱きとめた。一体何が起きたのかすぐに理解することは難しく、青年はしばらくの間、腕の中で寝息を立て始めた少女の顔をただ見下ろしていた。
自分は今、夢でも見ていたのだろうか。
気づけば辺りにはまた雪が降り始めていた。
まるで今まで――彼女の鼓動が止まっていた間だけ、時が動くのを忘れていたかのように。




