第1話 死神失格
刈るはずだった。
名簿の行に朱線を引き、砂時計の砂が尽きた瞬間、鎌を入れる——それだけのことのはずだった。
少女は石段の下で膝を抱え、泣いていた。薄い春の雨。境内の欅が濡れ、屋根の端から滴る雫が線を引く。世界の音が遠のき、私は足音を残さず降りていった。
肩が震えるたび、彼女の息は細くなる。砂時計は、もう最後の一粒を残していた。
私は見えてはいけない。触れてはいけない。声をかけることなど、もってのほか。
それでも、雨の匂いのなかで、彼女の掌が小さく開いて、濡れた飴玉をそっと乗せるみたいに空気に置かれたのを見た瞬間、私は「刈る」手を止めてしまった。
鎌先が、わずかに震えた。
私は身を屈め、声にならない声で言った——逃げろ、と。
世界が、戻った。
少女は顔を上げ、誰もいない空間へぎこちなく頷くと、石段を転がるように駆け下りた。砂時計の砂は、あろうことか、上に逆流した。
規定違反。
任務不履行。
死神は、死を運ぶだけの歯車であり、選んではならない。私は選んでしまった。
黒い鐘が鳴った。誰も聞かない。死者と死神だけが知る鐘の音。
私は呼び出され、帳場の奥へ連れていかれた。そこは始まりも終わりも並ぶ長い長い廊で、あらゆる名が硝子に刻まれている。
帳方は、顔のない存在だ。無数の手だけが灯の中で動き、書き、数え、黙っている。
「お前は、やさしすぎる」
声は、紙を裂く音に似ていた。
「やさしさは欠陥か」私は問うた。
「ここではな」
手が宙を撫でる。硝子の名簿の私の項に、黒い印がついた。
「罰を与える。刈る側から、刈られる側へ。お前は人間に生まれよ」
落ちる。
天蓋のない井戸に頭から落ちる。
私は、誰かの喉の奥に向かって吸い込まれた。狭い。熱い。濁った光。水に似たものと血の匂い。
押し出される瞬間、私は初めて、息というものを知った。肺が自分のもののように痛み、喉が燃えた。
泣いた。私が、だ。
泣き声は空気を震わせ、世界の輪郭が涙でにじんだ。
誰かが、私を抱いた。柔らかい。湿った髪。鼓動。
「よく来たね」
母の声。
私の名は、そこで与えられた。「ナギ」と呼ばれた。波が凪ぐように、静かに生きてほしいと。
死神だった私に、人間としての始まりが与えられた。
その夜、家は雨の匂いで満ちていた。隙間風が鳴く小さな土壁の家。藁の寝台。炉の火。
私は飢えというものを知った。
それは鎌の重さとは違う、内側からくる鋭い痛みで、泣き声に勝手に形を与える。
温かいものが唇に触れ、甘い味が舌に落ちた。私は学ぶ——飲む、ということを。
満たされると、瞼は重くなる。暗闇は、もう恐怖ではなく、布団の裏地のように私に覆いかぶさった。
眠りの縁で、私は思い出す。石段の少女。逆流した砂。
「お前は、やさしすぎる」
帳方の声が、火のはぜる音に紛れて消えた。
季節がいくつか巡った。
私はまだ歩けない。けれど、床を這うことを覚えた。
土間の冷たさ。干した柿の甘い香り。父の靴に残る畑の泥。
世界は、触れて知るものだった。
父は無口な人で、額に深い線が一本ある。耕した畝の影みたいに、季節によって濃くなったり薄くなったりする。
母はよく笑い、よく歌った。歌は麦の穂の色をしていた。
私には姉がいた。三つ年上。名はスミレ。
彼女は私の小さな手を掴んで庭へ連れ出す。枇杷の木の下、落ち葉の上。
「ナギ、これ、土の匂いだよ」
小さな指で土をさすり、鼻先に寄せる。
私は土の匂いを知る。湿りと温みのまじる匂い。
私はかつて、死の匂いしか知らなかった。腐敗する肉の匂いではない。砂が尽き、音が止んだ後の、空の匂いだ。
土の匂いは、空とは正反対に、埋め戻される匂いだった。そこに芽が出る。
やがて私は立った。立つ、というのは奇跡だ。
細い足首が震え、膝が笑い、骨が自分の重さを受け止め損ねる。
それでも、姉が前で両手を広げて待っているから、私は一歩を出した。
転ぶ。泣く。立つ。
私は生きるという作業の面倒くささに、初めてほっとした。
面倒は、続くということだ。続くから、変わるということだ。
春、村の外れの谷に雪が残っていた。
父は鍬を肩に担ぎ、私の頭を撫でるふりをして、わざと手を泥で汚した。
姉が笑い、母が「こら」と笑った。
そのとき、私は見た。
父の肩越しに、薄い煙のようなものが立ちのぼるのを。
それは、死神の目にしか見えない靄——死期の影だった。
私は瞬きをする。靄は消えない。父の肩に絡みつき、遠い先のほうで細く尖っている。今すぐではない。けれど、いずれ。
私は息を呑んだ。
死は、どこにでもある。私はそれを知っていた。だが、父の背にそれを見つけたとき、私は初めて、胸の奥で何かが掴まれたように痛んだ。
守りたい、と思った。
それは規則違反ではない。人間は皆、そう思って生きる。
私は人間として、守りたいと思った。
夏。
村の子らは川で遊ぶ。
私は姉の手を引いて浅瀬に入る。石はぬるぬるして滑る。
笑い声。水飛沫。陽の匂い。
急に、姉の手が抜けた。
体がふわりと傾ぐ。
浅瀬の境目。流れが一段強くなるところに、姉の小さな脚が絡まった。
私は手を伸ばす。間に合わない。
視界が白くはじけ、耳の奥で鐘が鳴った。
砂時計——。
私は、世界の端で、それを見た。姉の砂時計の砂が、いつもより速く落ちている。
私は叫ぶ。水に、風に、誰かに。
私の喉は、強い声を持たない。けれど、私の内側はまだ死神で、鎌を持つ代わりに、“呼ぶ”術を知っていた。
止まれ、と。
砂は、ほんの一瞬だけ、ためらった。
私は姉の腕を掴む。
足場を失った石の上で、二人して転んだ。水が背中を叩く。
姉の顔が近い。目が見開かれ、恐怖と涙で濡れている。
「大丈夫」
私は言う。自分にも言う。
岸に引き上げると、姉は咳をし、胸を押さえてから、私にしがみついて泣いた。
私は背を撫でる。
砂は、また落ち始めていた。さっきよりもふつうの速度で——つまり、生の速度で。
その晩、私は眠れなかった。
屋根裏から風が鳴く。隙間から月の白が差す。
私は布団の上で目を開け、暗闇に浮かぶ見えない何かと向き合う。
止めたのだ、私は。
また、止めてしまった。
私は死神失格だ。——けれど、もう帳場には戻れない。私は人間だ。
人間のやることは、名簿に線を引くことではない。手を伸ばすことだ。
私は小さな拳を握る。骨と腱の感触。これが、私の武器になる。
守る。
姉を。父を。母を。
そして、あの日石段で逃げた少女と同じように、誰かの背を押すために。
秋が来た。
村に病が流れた。
咳と熱。喉の腫れ。幼い子から床に伏せ、次に年寄りが倒れた。
薬師は山向こうに住んでいて、雨で道が崩れ、呼びに行けない。
私は、家に座っているだけができなかった。
死期の靄は、村中に薄く漂っている。だが、不思議なことに、その濃さは人によって違う。
私は、その濃淡を読むことができた。
——誰から先に水を飲ませるべきか。
——誰の胸を叩くべきか。
——誰を外へ出し、誰を火の近くに寝かせるべきか。
母は私の言う通りに動いた。父も、無口なまま頷いてくれた。
姉は冷たい布を替え続け、小さな歌を歌って患者の額に手を置いた。あの麦の穂の色の歌だ。
夜が明けるころ、最初の子が熱の峠を越えた。
私は土間にへたり込み、空になった桶を見つめた。
私の内側で、何かが確かに変わっていた。
刈るために見るのではない。救うために見るのだ、と。
病が去った後、村の人々は私を見る目を少しだけ変えた。
前は「気の利く子」だったのが、今は「不思議な子」になった。
私の年では持て余す視線の重さが、肩に乗る。
けれど、私は逃げなかった。
ひとりの老人が、私の手を取って言った。
「お前さんの目は、冬の川の色だねぇ。冷たいけれど、底が見える」
私は笑うことができなかった。ただ、頷いた。
底が見える。
ならば、そこから人を引き上げる橋になればいい。
冬至。
村の社で火を焚く。
炭の匂い。雪の匂い。
私は火を見つめ、闇の向こうに何かがいるのを感じた。
帳場の手に似た影。
私は立ち上がる。
影は社殿の柱の影から抜け、形を持たないまま、私の足元に冷気を流し込んだ。
「戻れ」
声は、煤けた天井から降ってくるようだった。
私は首を振る。
「戻らない。私は人間だ」
「やさしすぎる」
「それが、ここでの答えだ」
影は黙った。火がはぜ、外で風が唸る。
しばらくして、影は薄くなり、雪の暗闇に散った。
私は肩から力が抜け、膝が落ちるのを感じた。
姉が駆け寄ってきて、私の手を握る。
「ナギ?」
「なんでもない」私は笑った。「寒かっただけ」
姉の手は温かかった。
私はその温かさに、火よりも深い救いを見た。
春、私は十になった。
父の鍬は重く、柄には指の跡が刻まれている。
私は初めてそれを両手で持ち、畝を切った。土が裂け、土の匂いが立ちのぼる。
遠くの道のほうから、足音がした。
見知らぬ旅人が二人、村へ入ってくる。外套の裾に泥。靴に砂。腰の剣の柄に、黒い糸。
私は、知っていた。
あれは、向こう側の匂いだ。
ひとりは、生者の足取りを真似している。もうひとりは、ただの人間。
火のほうへ行けば鍋。南の畑を抜ければ牛小屋。彼らは迷わず社のほうへ向かった。
私は鍬を置き、手を拭きながら二人の背を追う。
社の前で、男たちは立ち止まった。
生者のふりをしているほうが、僅かに首を傾げて私を見た。目が、笑っていない。
「ナギ」
私は呼ばれた。名を。
ここでは、まだ誰も、私を名簿の名で呼ばない。
けれど、向こう側は知っている。
私は足を止め、深く息を吸った。
肺が伸びる。胸が熱くなる。
私は、人間として、返事をした。
「なんの用?」
男は、笑った。口角だけが動いた。
「お迎えにあがりました」
言葉は丁寧だった。中身は氷だった。
私は首を振る。
「帰れ」
「帰れないのは、あなたのほうだ」
風が、社の榊を揺らした。清めの鈴が鳴った。
私は、姉の笑い声、父の沈黙、母の歌、村人の息を思った。
「私はここで生きる」
男の肩が、ほんの少し落ちた。
「やはり、やさしすぎる」
「繰り返すけれど——それが答えだ」
私が鎌を持っていた頃の姿は、もうどこにもなかった。代わりに、土の匂いが私を満たしていた。
男はしばらく無言で私を見、やがて踵を返した。もうひとりの旅人も続く。
ふたりの背中に、私は言った。
「ここにいる誰も、私が見てきた“底”には落とさない」
振り向かずに、男は手を挙げた。
「見ていよう」
彼らの影が道に溶ける。
私は息を吐いた。
社の鈴が、遅れてもう一度だけ鳴った。
その夜、私は竹林を歩いた。
風が笹をすり合わせ、さざ波みたいな音が眠っている村にかすかに触れる。
月は薄かった。
私は指で、土をつまんで落とした。粒が音もなく崩れる。
「生の砂時計は、音がしない」
私は独り言を言う。
「だからこそ、よく見ていないといけない」
刈るためではなく、守るために。
闇は深いが、暗闇のほうが星は見える。
私は空を仰ぎ、言葉にならない誓いを、胸の奥に押し込んだ。
この村で、私は人間として生きる。
やさしすぎる、と言われ続けたってかまわない。
やさしさで、刃よりも先に届くものがある。私はそれを信じる。
翌朝、村の外れで狼の痕跡が見つかった。
畑の端の畝が踏まれ、小屋の戸に爪の跡。
男たちが集まり、槍を持った。
私は父の横に並んだ。
父は私の手に、古い木の棒を握らせた。
私の手は、鍬よりも軽いそれを握り、震えなかった。
見える。
狼の走る線が。
死期の靄ではない。生の勢いだ。
私の目に映る世界は、以前よりも、少しだけ色が増えている。
私は棒の先を下げ、息を整え、仲間の息づかいに耳を澄ませた。
守るために、私は前へ出る。
死神だった俺が、人間として初めて取った一歩は、刈るためではなく、抱えるための一歩だった。
やさしさは、盾にもなる。
それを、これから証明しよう。