第2話 生の影と死の影
狼の痕跡は、村の空気をひやりとさせた。
槍を持った男たちの目には緊張があり、私の父も眉間に深い線を刻んでいた。
私は木の棒を握りながら、胸の奥にざらつく感覚を抱えていた。
靄だ。
死期の靄が、森の奥に集まっている。狼はただの獣だ。けれど、群れの一部に“異質”な気配が混じっていた。
その夜、私は眠れなかった。
寝床で瞼を閉じても、黒い煙のような影が視界に焼きついて消えない。
父母の寝息、姉の柔らかな寝息。その響きの下に、遠い森でうなる低音が聞こえる気がした。
私は布団を抜け出し、外に出た。
月が雲に隠れ、村はほとんど闇に沈んでいる。
私の目には、遠くで蠢く灰色の筋が見えた。狼たちの命の光と、その間に漂う黒い糸。
あれは——人間だ。
死神だった頃の経験が告げている。獣の中に、人の死が混じっている。
翌朝、村の男たちが集まった。
「森に入るぞ」
父の声は低く、だがはっきりとしていた。
私は木の棒を持ったまま、父の横に立った。
周囲の大人たちは、子供が混じっていることに眉をひそめたが、父は私を制さなかった。
きっと、知っているのだ。私がただの子供ではないことを。
森の中は湿っていた。
朝露に濡れた葉が服を撫で、土の匂いが濃い。
鳥の声は途絶え、代わりに獣の足跡と荒い息の残り香が漂っていた。
進むたび、靄が濃くなる。
ついに、開けた場所で彼らは現れた。
狼が三匹。
その背後に、黒い布をまとった男が立っていた。
目は笑っていない。
昨日、社で私を「お迎えにあがりました」と言った男だった。
「やはり来ましたね、ナギ」
彼の声は、森の湿り気と同じ重さを持っていた。
狼が牙を剥く。村の男たちが槍を構える。
私は前に出た。木の棒を握る手に汗がにじむ。
「何をしに来た」
「あなたを迎えに。死神は、死神の場所に戻るべきだ」
男の口角がわずかに動く。その笑みは寒さしかなかった。
「俺は戻らない」
「人間になりきれると?」
「なれる。いや、なるんだ」
狼が飛んだ。
私は反射的に前へ出た。
死神だった頃の記憶が、筋肉の動きを導く。
木の棒を斜めに振る。
鈍い衝撃。獣の体が弾かれ、地面に転がる。
靄が散る。狼の死期はまだ先だ。生き延びる。
私は吐き捨てるように言った。
「守るためなら、刈ることもする」
男は肩をすくめた。
「やはり、やさしすぎる」
「それが、俺の答えだ」
森を抜けたとき、朝日が昇り始めていた。
村人たちは胸をなで下ろし、父は黙って私の肩を叩いた。
その重みが、私を人間の世界へつなぎとめていた。
夜、姉が布団の端に腰を下ろした。
「ナギ、怖くなかった?」
「怖かったさ」
私は正直に言った。
けれど、姉の手が温かいことを確かめた瞬間、その怖さは少し和らいだ。
——死神は、命を刈るだけ。
だが、人間は違う。怖くても、震えても、守りたいと思える。
その思いがある限り、私は人間として歩ける。




