土曜日
慣れない音のアラームが響き渡る
ぼんやりとしたまま起き上ると広く感じる部屋を見渡す
ふと思い出したことが慌てて飛び起きる
洗濯機も持っていくのだが中に洗濯物がはいっているのだ
慌てて洗濯機を回すしかない
洗濯物は乾くはずがないからコインランドリーで乾燥だけさせればいいと判断したからだ
今日が終わるころにはリュック以外は何も部屋に戻るだろう
そんなことを思いながら冷蔵庫から缶コーヒーを取り出しカップにあける
レンジで少しぬるくしてから飲みたかった
昨夜に買ってあったパンを取り出し机に置いておく
どういうわけだか体が重い
まさかこの部屋への未練が今になって出てきたわけではないだろう
そんなことを思っていたらレンジが機械音を鳴らした
扉を明けぬるくなったコーヒーを取り出す
実はコーヒーの味はよくわからないが気が付けばよく飲むようになっていただけでしかない
それなのにコーヒーを飲むと落ち着くのだからやはり不思議なものだとぼんやり思う
パンとコーヒーという変わり映えしない朝食を終える
少ししてから洗濯機が機械音を鳴らして洗濯が終わったことを告げてくる
スマホで時刻を確認すれば7:23と表示されている
洗濯物を取り出してビニール袋へ入れる
このままコインランドリーへ行くよりなかった
ドアのカギを締める――あと数回ほどカギを使ったらこの部屋を出ていくのかといよいよ引っ越しをリアルに感じた
日は昇り始めたばかりで土曜日の朝だからかものすごく静かで鳥たちのさえずりさえ聞こえない
通いなれた道の一つを歩いていく――この道を通ることはもうないだろうと思いながらそれに対しては特に悲しいともお世話になったとも感じることはないのだが……
コインランドリーは朝の6時から開けてくれていてもちろん機械だけしか置いていないから稼働時間を長くすることも難しくはないのだろう
(24時間営業ではないのだがそれは近隣住民への配慮の一つなのかもしれない)
誰もいないコインランドリー
乾燥機に先ほどの洗濯物を放り込み100円玉を2枚入れた
待っている間に置かれている雑誌を適当に眺めることにした
オーナーの趣味なのか誰かが置いていくのかはわからないがファッション雑誌と車雑誌がメインでどちらにも興味がないのだがファッション雑誌を手に取る
時々掲載される一人暮らしの部屋はやたらとこだわりが強い印象だったのだが手にした雑誌にもやはりそのような部屋が掲載されていた
それだけ思い入れのある部屋になっているのだろう
僕のように必要に迫られて数少ない選択肢で決めたわけではなさそうだと改めて思う
それ以外は興味がないからなのか別段ひかれる記事もなく適当にぱらぱらとめくり元の場所に戻した
乾燥機の数字が7を表示している
このままぼんやりと待てばいいのだろうと思いそうすることにした
今日は引っ越し業者が来る
新しい部屋へは明日に届くのだから今日はこのままでも構わないのだろう
それとも新しい部屋へ行ってしまい必要なものを買いだして置くのも悪くはないとも考えたが明日の午前中に買いだせば間に合うことに気づきやはりこのまま過ごすことに決めた
乾燥機が機械音を鳴らす
扉を開けると少しだけ熱気を感じた
そのまま衣類を取り出すと無理やり乾かしたような熱さが伝わってきた
備え付けのテーブルでたたんでいく――雨が続いた後にはよく行っていたこの行動も今日で最後になるのかと思ったが引っ越しても洗濯はするのだからやはりコインランドリーの場所を変えるだけだろうと思う
どうやら引っ越しに対しての感覚が必要以上に鈍くなっている気がするがむしろ繊細になりすぎているだけなのかもしれない
通いなれた場所を失うことがたとえコインランドリーだったとしても少しさみしく思うのはなぜだろう?
或いはそれはコインランドリーというどちらかというと生活に寄り添うような場所だからこそそう感じたのかもしれない
自動扉が開き僕は外に出る――誰にでもなく「お世話になりました」と心の中でつぶやいた
今日は引っ越し業者が来る
ごみ袋を玄関に寄せる
どういうわけだか処分するものをまとめておいたら90Lのごみ袋が4袋にもなってしまった
買うときには何も考えなくても処分するときにこれだけ大変だとは思わなかったが捨てなければ仕方ない
2袋を持ちごみ捨て場へ持っていく
静かな土曜日の朝だった
何事もなく2袋をごみ捨て場に置き部屋へ引き返す
もう一度2袋を持ちそれも同じようにごみ捨て場においてきた
なじまないスマホで時刻を確認すれば9:43と表示されている
約束の時刻が10:30だからそれまでにできることをやっておこうと思い部屋を見渡す
テーブルはたたんで寄せておけばいい
「荷物は玄関に寄せたほうが良いのだろうか?」などと思ったりもしたが考えてもわからないので寄せたままにしておいた
洗濯機のふたを閉めずっとさしっぱなしのコンセントとケーブルを抜く
動かしようがないからそのままにしておく
冷蔵庫の中を確認する
飲みかけのペットボトルが入っていたので取り出して電源を切る
少しだけできた霜も少しすれば溶けるだろう
何もなくなる――それは借りる前の部屋に戻るだけのはずなのにどうしてそこに思い出が見えてしまうのだろう?
少しの時間が空白になっていく
その時間でリュックにしまった小説を読むことにした
もし読み切ってしまったならば駅前の本屋で一冊くらい小説を買えばいいだけの話だ
導入の上手さとキャラクターの設定が魅力的なのか気が付けば小説の世界に入り込んでいた
玄関のチャイムが鳴ったところで現実に引き戻される
インターホンで応じると間違いなく引っ越し業者が来ていた
(どういうわけだかこの部屋で生活を始めたころには宗教の勧誘や新聞の勧誘などが定期的に来ていてそれらにうんざりしてからはインターホンをとることもなくなっていった)
「本日はよろしくお願いします」と近隣への配慮か静かながらに力強い声で業者の方が頭を下げる
「こちらこそよろしくお願いします」と僕も頭を下げる
「それでは早速ですが」と業者の方が部屋へ入ってきた
部屋に入りダンボールとキャリーケースを見つけると「こちらですか?」と確認したうえで手早くそれらを運び出していった
最後に洗濯機を運びだしすべてが運び出された
残ったリュックだけがどこか所在なさげに置かれていた
料金を支払いサインを済ませる
「明日のお届けはこちらの住所でよろしいですか?」と確認をされ引っ越し先の住所であることを確認すると「間違いありませんので明日もよろしくお願いします」と答えた
すっからかんという表現がふさわしい部屋で慣れないスマホで再度時刻を確認する
11:45と表示されている
一人暮らしの引っ越しの時間がどれほどなのかは知らないがあっけなく終了したことには変わりないだろう――どうしてかそこに寂しさを感じていたのも事実だ
部屋を出て通いなれた道を歩いていく
少し早いが昼食をとるためだ
通いなれた道の途中になる通いなれたわけではないカフェに入る
食べなれたセットを注文する
料金を支払いトレーを受け取る
「お祭りは当日よりも前日の方が楽しい」と昔誰かが言っていたことを思い出す
引っ越しも当日よりも前日の方が楽しいのだろうか?
実家を出る時には間違いなくなかった感情が僕を支配する
たとえ妥協があったとしても自分で決めたという事実があるからこそ最後にはこのような感情が起こるのだろうか?
それならばこの感情もつれていけばいい――「いつか過去の笑い話として誰かに話せる日が来る」そんな当てのないネタの一つくらい増えたところで困ることはないだろうから
通いなれた道を少しふらふらして色々と通いなれたスーパーを遠目に眺める
当たり前だがそこにはいつもの土曜日が広がっているだけだろう
途中入ったことのない誰もいない公園に入りベンチに腰掛ける
そこから見える景色だけは初めての景色だった
空を見上げる
日はそこまで高くならない一日のようだ
「お世話になりました」と誰にでもなく町に対して心の中でつぶやいた
散策も終わり部屋に戻る
当たり前だがリュック以外には何もない
ぼんやりと考える
何もない部屋――明日には出ていく部屋
空白の時間――きっとこれからは求めていくであろう時間
倒産する会社――最後までお世話になりました
離れ行く同期――ありがとう
ビジネスを始める同期――もう二度と会わなくて済みますように
僕自身の過去――暗かったからこそ今があるのだろうか?
僕自身の未来――明るくしていこう
無くなった愛犬――もう少し遊んであげればよかった
結婚した友人――おめでとう僕のことは忘れてください
新しい最寄駅――綺麗すぎたからなじめるか不安
新しい部屋――どんな生活が始まるのか不安と期待が入り混じる部屋
新しい生活――きっとそこまで大きな変化のない生活
新しい出会い――期待したいし少し意識して過ごすべきこと
変わらぬ関係――まずは見直そうそして改めて大切にしていこう
幸せ――探すよりも気付いていこう
分かれた人――ありがとう
忘れられない人――忘れることにしますがどうかお元気で
どうしてだろう?
絵具のようにそれぞれは綺麗でも混ぜすぎると汚い灰色になるように僕の中にある感謝という綺麗なものが混ざり過ぎて何かないまぜになってしまうこの感覚
少しだけ苦しい――まだ痛みを感じるほどに鈍くはなりきっていなかったようだ
いつか――この感覚を失った時はどうなってしまうのだろう?
色々な不安が僕に押し寄せてくる――違う色々な不安は僕自身が生み出しているものでしかない
「はっ」と部屋を見渡す
借りたときには間違いなく何もなかった
生活を続けるにつれ色々なものが押し寄せてきた
それらを全て捨てられるようにきっと感情も捨てていけるだろう
この町に恨みはない――だからこそどこかで町に対する情があったのかもしれない
そんな見えないものでさえも僕に押し寄せてきたものの一つになるのだろう
空白の時間をさっそく大切にしようと昼寝をすることにした
少しだけ寝心地の悪い寝袋にくるまり目を閉じる
夢を見た
具体的ではないけど懐かしい場所に僕はいて
目の前には誰だか思い出せないけどいつも僕を安心させてくれた人がいる
僕らは見つめ合う
なんだか澄んだ水の中にいるような感覚だけど苦しくはない
何かに包まれているようだけど身動きは自由にとれる
目の前の人が懐かしい声を出しながら笑っている
誰なのかはわからないけど僕を安心させてくれた声
僕もつられて笑う
この世界で生きていくために必要なものはそこまで多くはないはずなのに……
どうしてか僕は気が付けば多くを求めてしまっていた……
そして気が付けば大事なものを全て失っていたのかもしれない
目の前で懐かしい女性が笑っている
顔がないから誰なのかはわからない
自然と僕らはキスをする
しばらくはそのままでいる
やわらかい感触が僕の中に入ってくる
唇を離すと僕らは抱きしめあう
やわらかい感触が僕にふれてくる
僕は幸せで包み込まれる
君は包み込まれているのだろうか?
肩をつかんだまま僕らはまた見つめ合う
君は声を出さずに微笑んでいる
僕も微笑み返す
しばらくはそのままでいる
「どうして?」と僕は尋ねる
君と出会うことはもう叶わないと思っていたから
君は何も言わずに微笑んでいる
しばらくそのままの状態で時間が過ぎていく
次第に意識がぼんやりとしてくる
僕は聞く
「また会えるの?」と
彼女は言う
「ダメ」といたずらっぽい笑みを浮かべながら
「どうして?」と僕は返す
「私のことは忘れたほうが良いからよ」と笑みを浮かべたまま答えた
「どうして?」と先ほどよりも強い口調で問いただす
「どうしてもよ」と笑みを消しうつむきながら答える
2粒の水滴が地面を濡らした
はっと目を覚ます
どこか生々しい夢だったと思いながらも寝袋から抜け出し起き上る
だいぶ使い勝手のわかってきたスマホで時刻を確認すると14:23と表示されていた
呼吸が乱れている
シャツは汗でびっしょりと濡れている
どうして忘れていたのだろうと激しい自己嫌悪が僕を襲う
空を見上げれば雲行きが怪しい
最近は天候が安定していなかったからこのままだときっとまた雨が降るだろう
構わないと僕はカギを閉めると走り出した
どうしてか忘れていたのだ――遠い昔に亡くした恋人のことを
見慣れた景色も走れば流れるように過ぎていく
景色の一部だったはずの信号が赤を表示するたびにイラつきが僕を襲う
交通量の多い交差点だからかすべての信号が赤を表示してこちらの信号が再度青になるその瞬間さえ長く感じてしまう
やっとのことで青を確認すると僕はまた走り出した
ただひたすらに走り続ける――駅まではこんなにも遠かったのだろうかと感じるほどに
駅前に着く鼓動が早く気持ち悪くなる
もともとびっしょり濡れていたシャツは余計にびっしょりと濡れていた
汗が止まらない
歩きながら呼吸を整える
彼女の眠る場所まではアクセスが悪く乗り換え回数がかさむだろうが仕方ない
待てば列車は来るのだがその待ち時間が長く感じる
焦れば焦るほどにいつもどおりが鈍く感じてしまう
「どうしたの?」という声で我に返った
振り返ればこの町でできた友人が驚いたようにこちらを見ている
「えっとあの」とたじろいでしまう
まさか昔に恋人をなくしたことがあって急に夢に出てきたからあわててお墓参りに行くなどとは言えるはずもなく冷静になればそんなことをする理由など自分でも見当たらないのだから
なんだか馬鹿らしくはなったがお墓参りは行こうと思い
「昼寝してたら約束の時間に遅れそうになって慌てて走ってきたもんだから」とごまかすと
「なんだよそれ」と笑いながらも「珍しいこともあるんだね」と言われた
僕が時間に遅れることが珍しいことなのかはよくわからないが「僕もこんなの久しぶりだよ」と苦笑いで答えておいた
落ち着けば何事もないのだ
急いだところで彼女はもう帰ってこないのだから……
雲行きがどんどん怪しくなっていく
僕は少しだけ遠くへ向かっていく
これでよかったのだと思う――誰かへのさよならは誰かへの初めましてになるのだから
乗り換え回数がかさめばかさむほどに接続がうまくいかないことも多くる
距離にすれば大したことがなくても時間だけがいたずらに流れていった
やっとの思いで目的の駅に着く
改札を抜けると久しぶりに感じる風景が目の前にあった
あの日以来忘れていたのだろうか――不意に思い出す
彼女とは高校生のころに付き合っていた
僕自身が付き合ってきた女性は3人になる
夏の終わりに初めての彼女と別れしばらくしてから出会った
活発だが優しくてどうして僕と付き合うことになったのかは今はもう思い出せない
彼女は本を読むような人間ではなかったし教科書も好きではなかったはずだが学校は好きだと言っていた
僕は国語の教科書だけは好きだが学校を好きになることはなかった
駅からはバスに乗るしかない
時刻表を確認して15分後にバスが来ることを知る
駅前にあるコンビニへ入る
ペットボトルのコーヒーとビニール傘を買う
にわか雨は避けられないだろうと判断したからだ
停車時間を長くとっているのかバスは8分前に到着していた
乗客は少ない
後ろの方の2人掛けの席に座る
数時間前の夢を思い出す――もともとがぼんやりしていたからなのか内容が鮮明に思い出せないが忘れてほしいと言ってきた
そんなことを言われたら余計に気になってしまうのに……
君を思い出す
とにかく元気だった
共通の友人がいなければ僕らは出会わなかったと思う
「彼はね本が好きなんだよ」と友人は僕を紹介した
「すごくないですか」と驚いていた
本が好きなことの何がすごいのかは当時の僕は理解できなかった
僕はと言えば君の元気をすごいと思っていた気がする
どういうわけだかあの頃を思い出せない
どうして僕らは仲良くなれたのかもその後に付き合うようになった出来事さえも
そして君の匂いや温度や感触も僕は忘れてしまった
「お待たせしました発車します」とバスの運転手が告げ静かにロータリーから動き出した
確かここから15分くらいで到着するはずだと思いながら窓の外を眺める
不思議なもので一緒にいた時間は何一つ思い出せない
「まさか本当に記憶を失ってしまったのだろうか?」と思うがそれさえもわかるわけもなく考えることをやめた
窓に水滴がぽつぽつと当たり始めるのが見えた
水滴の数が多くなるにつれて僕の中に引き返したいという感情が生まれてくる
「ここまで来たのに」と「ここからならまだ」が入り混じる
結局バスは目的地に着くと僕は花屋を探し始めていた
近くにあったはずの花屋はやはり今も健在でそこに顔を出す
「あら久しぶりね」とだいぶ老けたが間違いなく高校生のころにも働いていた女性が声をかけてくれる
「あれから15年以上もたっているのに覚えてるんですか?」と人違いを期待したが
「忘れられないというのが本音かしらね……ああいう場合には特に」と言葉を濁した
「そうですよね」と僕はバケツに入った花を指さして千円札を2枚渡した
「あれからご無沙汰してしまったけど久々に時間ができたから」と言い訳めいたことを言いながら花を受け取りそそくさと後にする
「忘れられない」の一言が頭にこびりつくような感覚に襲われる
彼女の場合は交通事故だった
道路にいた子猫を助けようとしていた時だった
子猫はけがもしておらずおとなしく震えていた
何事もなく終わるはずだったのに右折してきた車がそのまま彼女に当たった
猫をかばおうとしたのか彼女は打ち所が悪く救急車で運ばれそのまま目を覚ますことはなかった
子猫は幸いにして無事だったそうでたまたま通りかかった同級生に保護された
その後はそのまま同級生が引き取ったとは聞いた
共通の友人は普段はへらへらしているような奴だった
真面目な人間も不良とも仲良くなれない僕にはへらへらしていて分け隔てなく接してくれるような人間が一番安心して付き合えた
そんな友人から夜に電話が来て「死んだよ」とだけ言われた
誰が死んだのかさえ一瞬わからなかったがすぐに彼女のことだとわかり「嘘だろ」と聞き返した
お互い怒鳴り声をあげるタイプではなかった
彼の「本当だよ」の答えと僕の「どうすればいい」の声が震えていた――それだけが事実を静かに告げてきた
僕は彼女の家の連絡先は知らずにやけになり彼女の携帯へ電話した
呼び出し音がなっている
「どうか嘘であってくれ」と願いながらもだれか出てくれと思う
「もしもし」と男の日との声が聞こえる
なんだやっぱりドッキリでここで彼がネタばらしをするのだろうと思っていたが
「娘が生前はお世話になっていたそうで……」と言葉を詰まらせながら話したのは彼女の父親だった
雨が強く降り出してくる
左手に花を持ち右手に傘を持ったまま歩き続ける
記憶だけを頼りに彼女の墓石を探す
その後はどのような会話になったのかは覚えていない
気が付くと机の上にあった数学のノートに通夜の開始時刻と会場をメモしていた
迷うこともなく墓石を見つける――刻まれた名前と一番下の日付が目に焼き付いてくる
雨が一段と強くなり空も暗さが増したように感じる
傘を静かに開き静かに花束を供える
肩と首で傘をはさみ両手を合わせる
「どうしてかお前を忘れていたよごめんな」と心の中でつぶやく
雨が顔に当たる
「お前は俺のことをちゃんと忘れてくれたのか?」と聞いてみる
合わせた両手をほどき傘を左手に持ちなおす
「俺はどうなるかわからないけどお前はちゃんと俺を忘れてくれ」と心の中でつぶやき墓石を後にした
引き返そうと歩き出した時に事務所から住職が出てきた
「久しぶりだね」と驚きながら僕に声をかけてくる
「覚えてくれているんですか」と僕は聞き返す
「忘れたほうが君のためだったのかもしれないけどね」と住職は静かに言う
「この雨の中にくるなんて」とぼやきながら「少し雨宿りをしていきなさい」と事務所に促された
部屋に入ると汗と雨でぬれたシャツが気持ち悪く感じるが仕方ない
住職とは彼女のことに触れずにお茶をいただきながら世間話をに終始した
雨が少し弱まったところで「雨も弱まったよ」と住職が言ってくれた
どうやら本当に雨宿りだけをさせていただけたようだ
帰りのバスはすぐに来た
駅までもすんなりたどり着く
この道はこれからは通いなれた道にしていかなければならないのかもしれないと思っていた
乗り換えの回数は変わらぬままにやはり接続がうまくいかなかったりして時間だけが過ぎていった
乗換駅で途中下車をして洋服屋を探す
駅ビルの中にチェーンのファストファッションのお店が入っていた
下着にパンツにシャツを購入してタグを全てとってもらい駅ビルのトイレで着替える
気持ち悪さだけは回避できたがまた荷物が増えてしまったと思いながらも帰宅することにした
最寄駅に着いた時には19:23になっていた
途中で夕飯を済ませようと普段は右折する場所を左折した
少し歩くとそこにコインランドリーが開店していた
どうやらこの町はいつでも優しいのかもしれない――そんなことを出ていく直前に気付いても遅いのだけれど
コインランドリーで洗濯と乾燥のコースを選び100円玉を5枚ほど入れる
40の文字が表示されていた
コインランドリーを出て個人経営の定食屋へ入る
「いらっしゃいませ」と静かな声で言われる
繁盛よりも固定客を大切にしていきそうな雰囲気のお店に入る
僕も初めてだが向こうも僕は初めてだ
慣れない口調でメニューを手渡してくるあたりその通りなのだろう
ありきたりなものでいいと生姜焼き定食を注文する
作りなれているのか5分くらいで運ばれてきた
天井近くに設置されたテレビから「明日もにわか雨にはご注意ください」と流れてくる
遠くに行かずとも天気予報は変わるものなのだろうか?
食べ終えるころを見計らったかのように温かいお茶が運ばれてくる
一口飲みテレビをちらりと見るとドキュメント番組に変わっていた
「お兄さんは最近こちらへいらしたの?」と聞かれる
数年間はこの町にいたが方向が違うから出会わなかっただけなのだが正直に打ち明けるのも気が引けたので「今日は仕事の下見で来たんですよ」とごまかしておいた
「そうでしたか」と疑われることもなかった
お茶を半分ほど飲んだところで
「美味しかったですご馳走様でした」と伝票と千円札を渡す
お釣りを受け取り店を出た
コインランドリーへ戻る
どうやら乾燥まで進んだようだとやはり置かれている雑誌を手に取る
こちらもオーナーの趣味なのか歴史に関する本と車に関する雑誌が多い
歴史の気分ではないから車の雑誌を手に取った
そういえば昔から車に興味を持つことはなかった
免許は大学生のころに取得していたがそれは大学以外に通う場所があるという事実に惹かれただけで対して面白くもなく何より年齢がバラバラなことに戸惑うだけでしかなかった
ペーパー試験も意地悪な問題ばかりで2回ほど落ちた記憶がある
「取得させる気があるのだろうか?」と思うような共感もいたのだが向こうも商売ならば余計に講習を受けさせる方が都合がよかったのだろう
取得してからは乗ることもなく車が欲しいと思うこともなく過ごしてきた
中には無理やりなローンを組んでまで購入した友人もいたがそれよりもレンタカーを借りたほうが安上がりなのではと思うような乗り方しかできていなかった気がする
やはり気を惹くような記事はあまりなくぱらぱらとめくり元の場所に戻した
機械音がなる
扉を開けると無理やり乾かしたような熱さを感じることがなく少し湿っていた
仕方ないと乾燥機に移し替え再度100円玉を2枚ほど投入する
デジタルで20と表示されていた
静かに今日という日を思い出す
朝もコインランドリーへ行ってきた
引っ越し業者が来てすべてを持って行ってくれた
昼寝をして失った人を思い出し慌ててお墓参りへ行く
途中で知り合いに会うも別れの挨拶は出来なかった
(連絡先さえも知らないからもう会うことはできないだろうし以前に聞いた話では突然いなくなる人もいてある日を境に察することができると言っていたから僕もいつかは出ていったと察してもらえる日が来るのだろうと思うしもしかしたらその日の前に忘れてくれるかもしれない)
そしてこの町最後の夜に新しい出会いをした
(大それた話しではなくとも一期一会というのは身近にあると感じた)
そっかと気付く――今夜はこの町での最後の夜になるんだと
実家にいたときには帰省することもあるとそんなことは少しも感じることはなかった
いくら退去の立ち合いが残っているとはいえきっとこの町にくることはあと少ししかないだろうしもしかしたら退去の時が人生最後になるのかもしれないと妙に湿っぽく考えてしまう
自分で決めたとはいえ手放すというのは――たとえ何であれそういうことになってしまうのだろう
乾燥機が機械音を鳴らす
扉を開ける熱気を頬に受けながら衣類を取り出すと無理やり乾燥させたような熱さがシャツにはあってすべてが乾いていたからそれをたたむと袋に詰め込み店を出る
どうやら雨は上がったようだ
スマホで時刻を確認すれば20:35と表示されている
最後の夜ではあるが特に思い残すことはない
そのまま部屋へ戻ることにした
何もない部屋へ戻る
本当に今日一日の出来事に少しばかりの戸惑いと混乱が改めて生まれた気もするがそれでもかまわない
綺麗にすべてを捨てて町を出ていくことはできないのだから
朝になれば僕はこの町を出ていく
そして数日後にもう一度だけこの部屋へ帰ってくる――その時に本当のさよならをすればいい
今はただ「お世話になりました」の言葉を胸の中にとどめておけばいい
タオルを残すことを忘れていた僕はシャワーをあびることが出来なかった
これもまた時間の経過とともに笑い話の一つにすればいいのだから
諦めて寝袋に入る
疲れが出てきたのかすぐに眠ることができた