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『「つべこべ言わずにやれ」と無能上司が言うので、言われた通りに会社を崩壊させることにしました【一話完結・短編集】  作者: じょな


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昭和のアルハラと、青天井の命令書

 金曜日の夕暮れ。

 営業部のフロアには、週末の浮足立った空気と、月末の締め切りに追われる焦燥感が入り混じっていた。


「おい桐生! 店の予約は取れたんだろうな!」


 フロア中に響き渡る怒号。

 営業部長の権藤だ。

 彼はデスクに座ったまま、まだ日も落ちていないというのに顔を赤らめている。昼の「ランチミーティング」と称して飲んできたのだろう。酒臭さがここまで漂ってくるようだ。


「はい、部長。ご指定通り、西麻布の『グラン・クリュ』を押さえました」

「グラン・クリュ? 聞いたことねえ名前だな。ちゃんと高い店なんだろうな? 今日の相手は西園寺会長だぞ。失敗は許されん」


 権藤が私のネクタイを乱暴に掴み、引き寄せた。

 強烈なアルコールの臭気と、安っぽい整髪料の匂い。私は反射的に息を止めそうになるのを堪え、ポーカーフェイスを維持した。


「ミシュラン二つ星のフレンチです。ワインリストの充実度は都内でも指折りかと」

「ワインだぁ? ケッ、気取った店だな。俺は焼酎の方が好きなんだが……まあいい。会長の好みがそれなら仕方ねえ」


 権藤は興味なさそうに手を離した。

 この男にとって、酒の味などどうでもいいのだ。

 彼にあるのは「高い店で接待した」という事実と、「俺がその場の王様である」というマウントを取りたい欲求だけ。


「いいか桐生。今日の接待は、今期の売り上げを左右する天王山だ。俺の流儀はわかってるな?」


 わかっている。嫌というほど。

 この男の流儀、それは「飲ませて、潰して、契約書にハンコを押させる」という、昭和初期の暴力的な営業スタイルだ。


「**『飲みニケーション』**こそが最強の営業ツールだ。腹を割って話すには、肝臓を酷使するしかねえんだよ」


 権藤は自説を得意げに語り始めた。


「最近の若いやつは、すぐ『アルハラ』だのなんだの騒ぐがな、あれは甘えだ。**『俺の酒が飲めないのか』**と言われて、無理してでも飲む。その根性を客は見ているんだ」


 それは根性ではない。ただの服従テストだ。

 だが、この男に正論は通じない。


「今日の作戦を伝える。俺が会長と話している間、お前は黒子に徹しろ。とにかく酒を切らすな。**『グラスを空けるな』**。一口飲んだらすぐ注げ。わんこそばみたいにな」

「……ワインでそれをやるのですか? 泥酔して味もわからなくなりますよ」

「味がどうとか関係ねえんだよ! 酔わせて判断能力を鈍らせるのが目的なんだから!」


 権藤が唾を飛ばして叫んだ。

 最低だ。

 ソムリエとしての私の魂が、静かに怒りで震える。

 酒は人と人を繋ぐ潤滑油であり、人生を豊かにする芸術品だ。それを、判断力を奪うための薬物として扱うなど、言語道断。


「それに部長、西園寺会長はご高齢です。無理な飲酒は健康に関わります」

「うるせえ! 相手が倒れたらこっちの勝ちだ! ……ああ、そうだ。お前、どうせ気の利いた会話なんてできねえだろ? 図体だけでくばかりで」


 権藤は私を鼻で笑った。

 私は社内では「無口で地味な社員」として通している。元ソムリエという経歴も、フランス語が堪能であることも隠している。目立てば、この男のような人間に利用されるだけだと知っているからだ。


「お前はひたすら高い酒を注文しろ。メニューの一番上から順に持ってこさせろ。ビビって安いハウスワインなんて頼んだら、その場でクビにするからな」


 権藤は、太い指で机をバンバンと叩いた。


「いいか、今日は会社の経費だ。**『金に糸目はつけるな』**。会長を唸らせるような、とびきり高いやつを持ってこい。俺の顔を立てるためにな!」


 金に糸目はつけない。

 一番高い酒。

 私は心の中で、その言葉を反芻した。


「本当に、よろしいのですか? 上限額の設定もなしで」

「しつけえな! 俺が許可するって言ってるんだ! 俺は営業部長だぞ? 接待費の決裁権限くらい持ってるわ!」


 権藤は顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。

 周囲の社員たちが、憐れむような目で私を見ている。

 また桐生が貧乏くじを引いた、と思っているのだろう。

 だが、彼らは気づいていない。

 私が今、必死で「笑い」を堪えていることに。


 グラン・クリュ。

 そこは、私が日本に帰国してから三年間、チーフソムリエとして働いていた店だ。

 オーナーシェフも、現役のスタッフも、全員が私の元同僚であり、戦友だ。

 そして、その店の地下セラーには、一般のメニューには載らない「裏リスト」が存在する。

 一桁、いや、二桁違う怪物が眠っていることを、私は知っている。


「承知いたしました、権藤部長」


 私は深く頭を下げた。


「部長の顔を立てるため、私が責任を持って、店で一番素晴らしい……そして、一番高価なお酒を選ばせていただきます」

「おう、そうしろ! あと、俺の分も忘れずにな。俺はザルだからな、いくらでも飲めるぞ! 今日は**『無礼講だ』**!」


 無礼講。

 結構。

 その言葉、契約書代わりとして受け取りました。


 私は給湯室に向かうふりをして、廊下の隅でスマートフォンを取り出した。

 電話帳から『グラン・クリュ オーナー』の名前を探し出し、コールする。


「……あ、シェフ? 久しぶり。桐生だ」


 電話の向こうから、懐かしい声が聞こえる。

 私は声を潜め、しかし楽しげに告げた。


「今夜の予約の件なんだけど、オーダーを変更したい。うん、予算は青天井アンリミテッドだ。……ああ、そう。セラーの奥で眠っている『彼』を起こしてほしい。……ええ、そう。一九四五年の、あれだ」


 電話を切った後、私は窓ガラスに映る自分の顔を見た。

 そこには、地味な平社員の顔ではなく、獲物を前にした狩人の冷徹な笑みが浮かんでいた。


 さあ、準備は整った。

 権藤部長。貴方が望む通り、最高の夜にしましょう。

 明日の朝、請求書を見た貴方の心臓が止まらなければいいのですが。


 午後七時。西麻布の裏路地にひっそりと佇むグラン・クリュ。

 重厚なオーク材の扉を開けると、そこは別世界だった。

 足音を吸い込む深紅の絨毯。計算し尽くされた間接照明。そして、微かに漂う熟成したチーズと黒トリュフの香り。

 客たちは皆、低いトーンで会話を楽しみ、銀食器が触れ合う軽やかな音だけがBGMのように流れている。


 その静寂を、下品な濁声が切り裂いた。


「おい! ここだここ! 案内しろ!」


 権藤部長が、ズカズカと店内に入り込む。

 ノーネクタイで襟元を緩め、ジャケットを肩に引っ掛けたその姿は、この洗練された空間において異物以外の何物でもなかった。


 出迎えたメートル・ドテル(給仕長)が一瞬、眉をひそめたのが見えた。

 だが、すぐに私の顔を見て、その表情をプロフェッショナルの柔和な笑みへと変える。


「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」


 給仕長が私に向かって、ほんの数ミリだけ顎を引いた。

 それは「おかえりなさいませ、シェフ・ソムリエ」という、かつての仲間への敬意の合図だ。

 私は目線だけで「頼む」と返し、権藤の後ろに続いた。


 案内されたのは、店の奥にある半個室の特等席だ。

 すでに取引先の西園寺会長は到着しており、ミネラルウォーターを飲みながら静かにメニューを眺めていた。

 白髪の上品な老紳士。その仕草一つ一つに教養が滲み出ている。


「おう、待たせたな会長! いやあ、道が混んでてよ!」


 権藤が謝罪もそこそこに、ドカッと上座の対面に座り込んだ。

 西園寺会長がゆっくりと顔を上げる。


「……こんばんは、権藤さん。素敵なお店ですね」

「だろ? 俺が選んだんだよ。まあ、ちょっと気取った店だけどな」


 選んだのは私だ。

 私は無言で下座に座り、権藤の隣に控えた。

 すぐにソムリエが近づいてくる。黒いタブリエを身につけた彼は、かつて私の後輩だったジャンだ。緊張した面持ちでリストを差し出す。


「お飲み物はいかがなさいますか?」

「とりあえずビールだ! 瓶ビール! 冷えてるやつな!」


 権藤が大声で叫ぶ。

 ジャンが困惑したように私を見た。

 この店に、居酒屋にあるような大瓶のビールなど置いていない。

 西園寺会長が、呆れたようにため息をつく。


「権藤さん。ここはフレンチですよ。まずはシャンパーニュで乾杯といきませんか」

「あ? ああ、そうか。じゃあそれでいいや。おい、シャンパン持ってこい! なるはやで!」


 権藤が手を振って追い払うような仕草をする。

 ジャンが恭しく一礼して下がった。


 乾杯のシャンパーニュが注がれる間も、権藤の独演会は止まらなかった。

 自社の売り上げ自慢、ゴルフのスコア自慢、そして部下への悪口。

 西園寺会長は愛想笑いを浮かべているが、その目が笑っていないことに、権藤だけが気づいていない。


「で、こいつが桐生ですわ。見ての通り、図体がデカいだけで気の利かない奴でしてねえ」


 権藤が私を指差して笑う。

 会長が私を一瞥し、興味深そうに目を細めた。


「……ほう。桐生さん、ですか。姿勢が良いですね」

「はっ、姿勢だけですよ! 中身は空っぽですわ!」


 権藤が自分のグラスを一気に煽った。

 繊細な泡立ちを楽しむ高級シャンパーニュを、まるで風呂上がりの炭酸水のように喉に流し込む。


「ぷはーっ! やっぱ薄いな! おい桐生、次だ次! ワインだ!」


 権藤が空になったグラスをテーブルに叩きつけた。

 壊れそうなほどの音が響く。

 西園寺会長が眉間の皺を深くする。


「権藤さん、少しペースが早いのでは……」

「何言ってるんですか会長! 今日は無礼講ですよ! ガンガン飲んでください!」


 権藤は私の肩を力任せに叩いた。


「おい桐生! さっき言ったよな? 一番いい酒を持ってこいって! 会長に恥かかせんなよ!」

「はい。もちろんです」


 私は静かに立ち上がり、ソムリエのジャンを呼んだ。

 ジャンが分厚い革張りのワインリストを持ってくる。

 権藤がそれを横からひったくった。


「どれどれ……ちっ、横文字ばっかりで読めねえな。値段も書いてねえし」

「こちらのリストは、時価の希少なワインが多いため、価格は記載しておりません」


 ジャンが冷静に答える。

 権藤は鼻で笑い、リストを放り投げた。


「けっ、ぼったくりバーかよ。まあいい、今日は会社の金だ。金に糸目はつけねえ」


 権藤は、店中に響くような大声で宣言した。


「おい店員! この店で一番高い赤ワインを持ってこい! 一番だぞ! 中途半端なもん持ってきたら承知しねえからな!」


 店内が静まり返る。

 他のテーブルの客たちが、不快そうにこちらを見ている。

 西園寺会長が、恥ずかしそうに顔を伏せた。


 だが、私はその瞬間を待っていた。

 私はジャンに向かって、フランス語で短く、しかし明確に告げた。


「Le Roi, s'il vous plaît.(王をお願いする)」


 ジャンの背筋が伸びた。

 彼は私の意図を完全に理解し、深く、深く一礼した。


「Oui, Monsieur.(かしこまりました)」


 十分後。

 ジャンが銀色のトレイに乗せて運んできたのは、一本の古びたボトルだった。

 ラベルは薄汚れ、カビが生えたように変色している。

 一見すれば、ゴミ捨て場から拾ってきた空き瓶のようだ。


 だが、西園寺会長だけは違った。

 ボトルを見た瞬間、目を見開き、眼鏡の位置を直した。


「おいおい、なんだその汚い瓶は。ちゃんと拭いてから持ってこいよ」


 権藤が不満そうに言う。

 無知とは、これほどまでに罪深いものか。

 私は内心で憐れみながら、静かに解説を加えた。


「部長。こちらはヴィンテージワインのため、おりを沈めるために慎重に扱われております。この汚れこそが、長い眠りの証明なのです」

「はんっ、御託はいいんだよ。高いんだろうな?」

「ええ。間違いなく、この店で……いいえ、日本中を探しても、これ以上の値がつく一本はないでしょう」


 ジャンが震える手で、慎重にコルクを抜く。

 ポン、という音はなく、シュッという吐息のような音がした。

 その瞬間。

 個室の中に、爆発的な香りが広がった。


 湿った森の下草、枯れた薔薇、なめし革、そして妖艶な果実の香り。

 たった一本のボトルから放たれた芳香が、空調の流れに乗って部屋全体を支配する。


「……っ!」


 西園寺会長が息を呑んだ。

 ジャンが、まずはホスト役である権藤のグラスに、微量を注ぐ。

 テイスティングだ。

 赤黒く、しかし光にかざすと宝石のような輝きを放つ液体。


「どうぞ、部長。お味見を」

「おう」


 権藤はグラスを回しもしない。香りも嗅がない。

 いきなり口に含み、ゴクリと飲み込んだ。

 そして、顔をしかめた。


「……なんだこれ。酸っぺえな! 古漬けみたいな味がするぞ」


 神への冒涜。

 数千万円の液体を、古漬けと言い放った。

 だが、権藤はニヤリと笑った。


「まあいい、高いんなら文句はねえ! おい、会長にも注げ! 並々とな!」

「……では、失礼いたします」


 ジャンが会長のグラスに注ぐ。

 会長は、まるで聖杯を受け取る信徒のように、両手でグラスの脚を持った。

 震える手でグラスを回し、香りを胸いっぱいに吸い込む。

 その目には、涙すら浮かんでいた。


「……信じられない。この香りは……まさか」


 会長が私を見た。

 私は無言で頷き、ボトルのラベルを正面に向けた。

 そこには、消えかけた文字で、こう記されていた。


 『Romanée-Conti 1945』


 ロマネ・コンティ。

 ブルゴーニュの宝石にして、世界で最も高価なワイン。

 中でも一九四五年産は、フィロキセラ害虫による植え替え前の「最後の純血種」であり、世界でたった六百本しか生産されなかった、伝説中の伝説だ。

 市場に出れば、一本数千万円は下らない。いや、金を出しても買えない「幻」だ。


 オーナーが私個人のために隠し持っていた、店の守り神。

 それを今、権藤部長が開けさせたのだ。

 「金に糸目はつけない」と豪語して。


「おっ、なんだ会長、気に入りましたか? どんどん飲んでくださいよ! 俺が全部払いますから!」


 権藤が自分のグラスに手酌で注ぎ足し、また一気に飲み干した。

 グビグビと音を立てて。

 会長が、悲鳴を上げそうな顔でそれを見ている。


「ご、権藤さん……本当に、これを貴方が……?」

「当たり前でしょ! 俺の奢りです! いやー、酸っぱいけど、飲んでると結構イケますねこれ!」


 権藤はすでに顔を真っ赤にし、呂律が回り始めていた。

 アルコール度数ではない。この場の「異常な空気」に酔い始めているのだ。


「桐生! お前も飲め! 今日は無礼講だ!」

「いえ、私は勤務中ですので」

「ノリが悪い奴だなあ! じゃあ俺が飲む! もったいねえからな!」


 権藤はボトルの首を掴み、自分のグラスにドボドボと注いだ。

 貴重な澱が舞い上がり、液体が濁る。

 西園寺会長が、耐えきれずに目を背けた。


 私は静かに、その光景を見守った。

 飲め。飲むがいい。

 その一杯が、貴方の年収分だ。

 その一口が、貴方の退職金だ。


 一滴残らず胃袋に収めた時、貴方の人生という名のコース料理は、最悪のデザート(請求書)と共に幕を閉じることになる。


「っぷはー! 空いたぞ! 次だ次! もっと高いの持ってこい!」


 空になったボトルを、権藤がテーブルに無造作に置いた。

 一九四五年の至宝が、ただの空き瓶になった瞬間だった。


 私はジャンに目配せをした。

 ジャンは青ざめた顔で頷き、伝票の準備に入った。


 さあ、チェックの時間だ。

 権藤部長、貴方の「飲みニケーション」の代償、支払っていただきましょうか。


「おい、会計だ! 店員!」


 権藤がふんぞり返ったまま、汚い手で指を鳴らした。

 空になったロマネ・コンティのボトルが、テーブルの上で悲しげに転がっている。


 給仕長のジャンが、銀色のトレイに載った黒革のビルホルダーを恭しく運んできた。

 その足取りは、死刑執行人のように静かで、重々しい。


「お会計でございます」

「おう、置いとけ。……ったく、酸っぱいワインだったな。次はもっと甘いやつを頼むか」


 権藤は、西園寺会長の方を向き、ニヤニヤと笑いかけた。


「会長、どうです? 高い酒ってのは、案外大したことないでしょ? 結局はビールのほうが美味いんですわ!」


 西園寺会長は答えない。

 ただ、ハンカチで額の汗を拭いながら、憐れむような目で権藤を見つめていた。

 それは、これから屠殺される家畜を見る目に似ていた。


「よし、払うか。桐生、カード出せ。法人カードだ」


 権藤が顎でしゃくる。

 私は内ポケットから、会社のゴールドカードを取り出した。

 限度額は三百万円。

 通常の中小企業の接待なら十分な額だ。通常なら。


「部長。カードを切る前に、金額のご確認をお願いします。経理規定のルールですので」

「あ? いちいち細かいな。いくらだよ。十万か? 二十万か?」


 権藤は面倒くさそうにビルホルダーを開いた。


 ペラッ。


 その瞬間、権藤の動きが止まった。

 時が止まったかのように、微動だにしない。

 赤ら顔だった頬から、サーッと血の気が引いていくのが目に見えてわかった。

 代わりに、額からどっと脂汗が噴き出す。


「……は?」


 乾いた声が漏れた。

 権藤は目をこすり、もう一度伝票を覗き込む。

 そして、ビルホルダーを顔に近づけ、桁を指で数え始めた。


「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……じゅうまん、ひゃくまん……いっせん……?」


 ガタガタと、テーブルが揺れた。

 権藤の膝が震えているのだ。


「お、おい! 店員! どうなってんだこれ! 間違ってるぞ!」


 権藤が裏返った声で叫んだ。


「三千八百万円って書いてあるぞ! ゼロが二つ多いんだよ!」


 三千八百万円。

 都内の新築マンションが買える金額だ。

 店内に、再び静寂が訪れる。

 ジャンは眉一つ動かさず、冷徹に答えた。


「いいえ、間違いございません。ロマネ・コンティ一九四五年。世界で最も希少なヴィンテージであり、当店のセラーで五十年間管理されてきた至宝でございます。時価で三千八百万円。サービス料を含めますと、四千百八十万円になります」


「よ、四千……ッ!?」


 権藤が泡を吹いて椅子から転げ落ちそうになった。


「ふ、ふざけるな! ぼったくりだ! 警察を呼ぶぞ! たかが酒一本でそんな値段があるわけねえだろ!」

「ございますよ、権藤さん」


 静かな、しかし威厳のある声が響いた。

 西園寺会長だ。


「一九四五年のロマネ・コンティ。先の大戦を生き延び、フィロキセラ禍の前にボトリングされた奇跡の六百本。オークションに出れば、五千万円の値がつくこともあります。むしろ、この店の価格は良心的だ」

「ご、ごせんまん……?」


 権藤がパクパクと口を開閉させる。

 現実を受け入れられない脳が、ショート寸前の火花を散らしているようだ。


「そ、そんな……だって、桐生が……」


 権藤が、縋るような目で私を見た。


「お前、知ってたのか!? これがそんなにするって!」

「はい、存じておりました」


 私は無表情で答えた。


「ですから確認しました。『一番高い酒でいいのか』『金に糸目はつけないのか』と。部長は仰いましたね。『俺が許可する』『予算は青天井だ』と」

「だ、だからって限度があるだろ! 普通は数十万の話だと思うだろ!」

「部長は『俺の顔を立てろ』とも仰いました。中途半端な額のワインでは、西園寺会長をお迎えするのに失礼にあたると判断しました」


 私はさらに追い打ちをかけるように、スマホの画面を見せた。

 そこには、昨夜のやり取りを録音した音声波形が表示されている。


 ――金に糸目はつけるな!

 ――一番高いやつを持ってこい!

 ――無礼講だ!


「証拠もあります。部長の明確な業務命令として、このワインを発注しました」

「き、貴様ぁ……ハメやがったな!」


 権藤が私に掴みかかろうとした。

 だが、酒と恐怖で腰が抜けており、その手は空を切った。


「さあ、お支払いを。法人カードの限度額は三百万円ですから、残りの三千八百八十万円は、部長個人のカードか、あるいは誓約書へのサインで対応いただくことになります」

「払えるわけねえだろ! 俺の年収の何倍だと思ってるんだ!」


 権藤が泣き叫ぶ。

 見苦しい。あまりにも見苦しい。

 一流の店で、一流の酒を飲み、三流の振る舞いをする。

 西園寺会長が、深いため息をついて立ち上がった。


「……幻滅しました」


 その一言で、権藤が凍りついた。


「権藤さん。貴方は、人類の遺産とも呼ぶべき芸術品を、ただのアルコールとして喉に流し込んだ。味もわからず、価値も知らず、ただ見栄のためだけに」

「か、会長、違うんです、これは……」

「取引の話は白紙に戻します。このような野蛮な感性の持ち主と、美しい街づくりなどできるはずがない」


 西園寺会長はナプキンをテーブルに置き、私の方を向いた。

 その表情は、打って変わって穏やかだった。


「桐生さん。素晴らしいワインでした。私の人生で、これほどの逸品に出会えるとは思いませんでした。……香りだけで、十分に楽しませていただきましたよ」

「恐縮です。本来なら、もっとゆっくりと味わっていただきたかったのですが」

「いいえ、良いものを見せていただきました。……ところで」


 会長が懐から名刺を取り出し、私に差し出した。


「もし今の会社に未練がないなら、うちに来ませんか? 貴方のような、本物の価値がわかる人材が欲しい」

「……!」

「貴方の所作、ワインの注ぎ方、そして店員との阿吽の呼吸。ただの営業マンではありませんね? 元同業者とお見受けしますが」


 バレていたか。

 私は苦笑し、名刺を両手で受け取った。


「光栄なお誘いです。前向きに検討させていただきます」


 会長は満足げに頷き、出口へと歩き出した。

 取り残されたのは、私とジャン、そして絶望の底に沈んだ権藤だけだ。


「ま、待ってください会長! 契約は! 金は! この請求書はどうするんですかああああ!」


 権藤が床を這いずって追いかけようとするが、屈強なギャルソンたちに前を塞がれた。


「お客様。お支払いがまだです」

「知らねえよ! 俺は払わねえぞ! 会社の経費だ! 社長に言え!」

「部長」


 私は冷ややかに見下ろした。


「この金額、経理が通すと思いますか? 稟議もなしに四千万円の接待費。間違いなく、特別背任で訴えられますよ。刑務所行きですね」

「ひっ……」

「店側も警察を呼ぶ準備をしています。無銭飲食は現行犯逮捕です」


 サイレンの音が、遠くから聞こえてくるような気がした。

 権藤の目から光が消える。

 彼は震える手で、胸ポケットから自分の財布を取り出した。中に入っているのは、数枚のクレジットカードと、なけなしの現金数万円だけ。

 四千万円という巨壁の前では、塵のような額だ。


「桐生……頼む、助けてくれ……。俺には、家のローンも、娘の学費も……」


 鼻水を垂らして懇願する上司。

 私はその姿を見ても、何の感情も湧かなかった。

 ただ、胸ポケットから一通の封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。


「退職願です」

「え……?」

「この会社では、本物の仕事ができないと悟りましたので。あとの処理は、部長の『飲みニケーション』力でなんとかしてください。腹を割って警察と話せば、きっとわかってくれますよ」


 私は権藤の肩をポンと叩いた。


「お酒は、身の丈に合ったものを楽しむのが一番ですよ。……それでは」


 私は踵を返し、出口へと向かった。

 背後で、権藤の絶叫と、何かが砕け散る音が聞こえた気がしたが、振り返らなかった。


 店の外に出ると、夜風が心地よかった。

 西麻布の街灯が、いつもより明るく見える。

 スマホを取り出し、先ほど貰った名刺の番号を登録する。


 次の職場では、美味しいワインを、本当に価値のわかる人たちと楽しめそうだ。

 私は夜空を見上げ、小さく乾杯の仕草をした。


 Santé(乾杯)。

 私の、新しい人生に。


学生の皆さんへ、

社会人の皆さんへ、


こんなことは普通あり得ませんので。


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