昭和のアルハラと、青天井の命令書
金曜日の夕暮れ。
営業部のフロアには、週末の浮足立った空気と、月末の締め切りに追われる焦燥感が入り混じっていた。
「おい桐生! 店の予約は取れたんだろうな!」
フロア中に響き渡る怒号。
営業部長の権藤だ。
彼はデスクに座ったまま、まだ日も落ちていないというのに顔を赤らめている。昼の「ランチミーティング」と称して飲んできたのだろう。酒臭さがここまで漂ってくるようだ。
「はい、部長。ご指定通り、西麻布の『グラン・クリュ』を押さえました」
「グラン・クリュ? 聞いたことねえ名前だな。ちゃんと高い店なんだろうな? 今日の相手は西園寺会長だぞ。失敗は許されん」
権藤が私のネクタイを乱暴に掴み、引き寄せた。
強烈なアルコールの臭気と、安っぽい整髪料の匂い。私は反射的に息を止めそうになるのを堪え、ポーカーフェイスを維持した。
「ミシュラン二つ星のフレンチです。ワインリストの充実度は都内でも指折りかと」
「ワインだぁ? ケッ、気取った店だな。俺は焼酎の方が好きなんだが……まあいい。会長の好みがそれなら仕方ねえ」
権藤は興味なさそうに手を離した。
この男にとって、酒の味などどうでもいいのだ。
彼にあるのは「高い店で接待した」という事実と、「俺がその場の王様である」というマウントを取りたい欲求だけ。
「いいか桐生。今日の接待は、今期の売り上げを左右する天王山だ。俺の流儀はわかってるな?」
わかっている。嫌というほど。
この男の流儀、それは「飲ませて、潰して、契約書にハンコを押させる」という、昭和初期の暴力的な営業スタイルだ。
「**『飲みニケーション』**こそが最強の営業ツールだ。腹を割って話すには、肝臓を酷使するしかねえんだよ」
権藤は自説を得意げに語り始めた。
「最近の若いやつは、すぐ『アルハラ』だのなんだの騒ぐがな、あれは甘えだ。**『俺の酒が飲めないのか』**と言われて、無理してでも飲む。その根性を客は見ているんだ」
それは根性ではない。ただの服従テストだ。
だが、この男に正論は通じない。
「今日の作戦を伝える。俺が会長と話している間、お前は黒子に徹しろ。とにかく酒を切らすな。**『グラスを空けるな』**。一口飲んだらすぐ注げ。わんこそばみたいにな」
「……ワインでそれをやるのですか? 泥酔して味もわからなくなりますよ」
「味がどうとか関係ねえんだよ! 酔わせて判断能力を鈍らせるのが目的なんだから!」
権藤が唾を飛ばして叫んだ。
最低だ。
ソムリエとしての私の魂が、静かに怒りで震える。
酒は人と人を繋ぐ潤滑油であり、人生を豊かにする芸術品だ。それを、判断力を奪うための薬物として扱うなど、言語道断。
「それに部長、西園寺会長はご高齢です。無理な飲酒は健康に関わります」
「うるせえ! 相手が倒れたらこっちの勝ちだ! ……ああ、そうだ。お前、どうせ気の利いた会話なんてできねえだろ? 図体だけでくばかりで」
権藤は私を鼻で笑った。
私は社内では「無口で地味な社員」として通している。元ソムリエという経歴も、フランス語が堪能であることも隠している。目立てば、この男のような人間に利用されるだけだと知っているからだ。
「お前はひたすら高い酒を注文しろ。メニューの一番上から順に持ってこさせろ。ビビって安いハウスワインなんて頼んだら、その場でクビにするからな」
権藤は、太い指で机をバンバンと叩いた。
「いいか、今日は会社の経費だ。**『金に糸目はつけるな』**。会長を唸らせるような、とびきり高いやつを持ってこい。俺の顔を立てるためにな!」
金に糸目はつけない。
一番高い酒。
私は心の中で、その言葉を反芻した。
「本当に、よろしいのですか? 上限額の設定もなしで」
「しつけえな! 俺が許可するって言ってるんだ! 俺は営業部長だぞ? 接待費の決裁権限くらい持ってるわ!」
権藤は顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
周囲の社員たちが、憐れむような目で私を見ている。
また桐生が貧乏くじを引いた、と思っているのだろう。
だが、彼らは気づいていない。
私が今、必死で「笑い」を堪えていることに。
グラン・クリュ。
そこは、私が日本に帰国してから三年間、チーフソムリエとして働いていた店だ。
オーナーシェフも、現役のスタッフも、全員が私の元同僚であり、戦友だ。
そして、その店の地下セラーには、一般のメニューには載らない「裏リスト」が存在する。
一桁、いや、二桁違う怪物が眠っていることを、私は知っている。
「承知いたしました、権藤部長」
私は深く頭を下げた。
「部長の顔を立てるため、私が責任を持って、店で一番素晴らしい……そして、一番高価なお酒を選ばせていただきます」
「おう、そうしろ! あと、俺の分も忘れずにな。俺はザルだからな、いくらでも飲めるぞ! 今日は**『無礼講だ』**!」
無礼講。
結構。
その言葉、契約書代わりとして受け取りました。
私は給湯室に向かうふりをして、廊下の隅でスマートフォンを取り出した。
電話帳から『グラン・クリュ オーナー』の名前を探し出し、コールする。
「……あ、シェフ? 久しぶり。桐生だ」
電話の向こうから、懐かしい声が聞こえる。
私は声を潜め、しかし楽しげに告げた。
「今夜の予約の件なんだけど、オーダーを変更したい。うん、予算は青天井だ。……ああ、そう。セラーの奥で眠っている『彼』を起こしてほしい。……ええ、そう。一九四五年の、あれだ」
電話を切った後、私は窓ガラスに映る自分の顔を見た。
そこには、地味な平社員の顔ではなく、獲物を前にした狩人の冷徹な笑みが浮かんでいた。
さあ、準備は整った。
権藤部長。貴方が望む通り、最高の夜にしましょう。
明日の朝、請求書を見た貴方の心臓が止まらなければいいのですが。
午後七時。西麻布の裏路地にひっそりと佇むグラン・クリュ。
重厚なオーク材の扉を開けると、そこは別世界だった。
足音を吸い込む深紅の絨毯。計算し尽くされた間接照明。そして、微かに漂う熟成したチーズと黒トリュフの香り。
客たちは皆、低いトーンで会話を楽しみ、銀食器が触れ合う軽やかな音だけがBGMのように流れている。
その静寂を、下品な濁声が切り裂いた。
「おい! ここだここ! 案内しろ!」
権藤部長が、ズカズカと店内に入り込む。
ノーネクタイで襟元を緩め、ジャケットを肩に引っ掛けたその姿は、この洗練された空間において異物以外の何物でもなかった。
出迎えたメートル・ドテル(給仕長)が一瞬、眉をひそめたのが見えた。
だが、すぐに私の顔を見て、その表情をプロフェッショナルの柔和な笑みへと変える。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
給仕長が私に向かって、ほんの数ミリだけ顎を引いた。
それは「おかえりなさいませ、シェフ・ソムリエ」という、かつての仲間への敬意の合図だ。
私は目線だけで「頼む」と返し、権藤の後ろに続いた。
案内されたのは、店の奥にある半個室の特等席だ。
すでに取引先の西園寺会長は到着しており、ミネラルウォーターを飲みながら静かにメニューを眺めていた。
白髪の上品な老紳士。その仕草一つ一つに教養が滲み出ている。
「おう、待たせたな会長! いやあ、道が混んでてよ!」
権藤が謝罪もそこそこに、ドカッと上座の対面に座り込んだ。
西園寺会長がゆっくりと顔を上げる。
「……こんばんは、権藤さん。素敵なお店ですね」
「だろ? 俺が選んだんだよ。まあ、ちょっと気取った店だけどな」
選んだのは私だ。
私は無言で下座に座り、権藤の隣に控えた。
すぐにソムリエが近づいてくる。黒いタブリエを身につけた彼は、かつて私の後輩だったジャンだ。緊張した面持ちでリストを差し出す。
「お飲み物はいかがなさいますか?」
「とりあえずビールだ! 瓶ビール! 冷えてるやつな!」
権藤が大声で叫ぶ。
ジャンが困惑したように私を見た。
この店に、居酒屋にあるような大瓶のビールなど置いていない。
西園寺会長が、呆れたようにため息をつく。
「権藤さん。ここはフレンチですよ。まずはシャンパーニュで乾杯といきませんか」
「あ? ああ、そうか。じゃあそれでいいや。おい、シャンパン持ってこい! なるはやで!」
権藤が手を振って追い払うような仕草をする。
ジャンが恭しく一礼して下がった。
乾杯のシャンパーニュが注がれる間も、権藤の独演会は止まらなかった。
自社の売り上げ自慢、ゴルフのスコア自慢、そして部下への悪口。
西園寺会長は愛想笑いを浮かべているが、その目が笑っていないことに、権藤だけが気づいていない。
「で、こいつが桐生ですわ。見ての通り、図体がデカいだけで気の利かない奴でしてねえ」
権藤が私を指差して笑う。
会長が私を一瞥し、興味深そうに目を細めた。
「……ほう。桐生さん、ですか。姿勢が良いですね」
「はっ、姿勢だけですよ! 中身は空っぽですわ!」
権藤が自分のグラスを一気に煽った。
繊細な泡立ちを楽しむ高級シャンパーニュを、まるで風呂上がりの炭酸水のように喉に流し込む。
「ぷはーっ! やっぱ薄いな! おい桐生、次だ次! ワインだ!」
権藤が空になったグラスをテーブルに叩きつけた。
壊れそうなほどの音が響く。
西園寺会長が眉間の皺を深くする。
「権藤さん、少しペースが早いのでは……」
「何言ってるんですか会長! 今日は無礼講ですよ! ガンガン飲んでください!」
権藤は私の肩を力任せに叩いた。
「おい桐生! さっき言ったよな? 一番いい酒を持ってこいって! 会長に恥かかせんなよ!」
「はい。もちろんです」
私は静かに立ち上がり、ソムリエのジャンを呼んだ。
ジャンが分厚い革張りのワインリストを持ってくる。
権藤がそれを横からひったくった。
「どれどれ……ちっ、横文字ばっかりで読めねえな。値段も書いてねえし」
「こちらのリストは、時価の希少なワインが多いため、価格は記載しておりません」
ジャンが冷静に答える。
権藤は鼻で笑い、リストを放り投げた。
「けっ、ぼったくりバーかよ。まあいい、今日は会社の金だ。金に糸目はつけねえ」
権藤は、店中に響くような大声で宣言した。
「おい店員! この店で一番高い赤ワインを持ってこい! 一番だぞ! 中途半端なもん持ってきたら承知しねえからな!」
店内が静まり返る。
他のテーブルの客たちが、不快そうにこちらを見ている。
西園寺会長が、恥ずかしそうに顔を伏せた。
だが、私はその瞬間を待っていた。
私はジャンに向かって、フランス語で短く、しかし明確に告げた。
「Le Roi, s'il vous plaît.(王をお願いする)」
ジャンの背筋が伸びた。
彼は私の意図を完全に理解し、深く、深く一礼した。
「Oui, Monsieur.(かしこまりました)」
十分後。
ジャンが銀色のトレイに乗せて運んできたのは、一本の古びたボトルだった。
ラベルは薄汚れ、カビが生えたように変色している。
一見すれば、ゴミ捨て場から拾ってきた空き瓶のようだ。
だが、西園寺会長だけは違った。
ボトルを見た瞬間、目を見開き、眼鏡の位置を直した。
「おいおい、なんだその汚い瓶は。ちゃんと拭いてから持ってこいよ」
権藤が不満そうに言う。
無知とは、これほどまでに罪深いものか。
私は内心で憐れみながら、静かに解説を加えた。
「部長。こちらはヴィンテージワインのため、澱を沈めるために慎重に扱われております。この汚れこそが、長い眠りの証明なのです」
「はんっ、御託はいいんだよ。高いんだろうな?」
「ええ。間違いなく、この店で……いいえ、日本中を探しても、これ以上の値がつく一本はないでしょう」
ジャンが震える手で、慎重にコルクを抜く。
ポン、という音はなく、シュッという吐息のような音がした。
その瞬間。
個室の中に、爆発的な香りが広がった。
湿った森の下草、枯れた薔薇、なめし革、そして妖艶な果実の香り。
たった一本のボトルから放たれた芳香が、空調の流れに乗って部屋全体を支配する。
「……っ!」
西園寺会長が息を呑んだ。
ジャンが、まずはホスト役である権藤のグラスに、微量を注ぐ。
テイスティングだ。
赤黒く、しかし光にかざすと宝石のような輝きを放つ液体。
「どうぞ、部長。お味見を」
「おう」
権藤はグラスを回しもしない。香りも嗅がない。
いきなり口に含み、ゴクリと飲み込んだ。
そして、顔をしかめた。
「……なんだこれ。酸っぺえな! 古漬けみたいな味がするぞ」
神への冒涜。
数千万円の液体を、古漬けと言い放った。
だが、権藤はニヤリと笑った。
「まあいい、高いんなら文句はねえ! おい、会長にも注げ! 並々とな!」
「……では、失礼いたします」
ジャンが会長のグラスに注ぐ。
会長は、まるで聖杯を受け取る信徒のように、両手でグラスの脚を持った。
震える手でグラスを回し、香りを胸いっぱいに吸い込む。
その目には、涙すら浮かんでいた。
「……信じられない。この香りは……まさか」
会長が私を見た。
私は無言で頷き、ボトルのラベルを正面に向けた。
そこには、消えかけた文字で、こう記されていた。
『Romanée-Conti 1945』
ロマネ・コンティ。
ブルゴーニュの宝石にして、世界で最も高価なワイン。
中でも一九四五年産は、フィロキセラ害虫による植え替え前の「最後の純血種」であり、世界でたった六百本しか生産されなかった、伝説中の伝説だ。
市場に出れば、一本数千万円は下らない。いや、金を出しても買えない「幻」だ。
オーナーが私個人のために隠し持っていた、店の守り神。
それを今、権藤部長が開けさせたのだ。
「金に糸目はつけない」と豪語して。
「おっ、なんだ会長、気に入りましたか? どんどん飲んでくださいよ! 俺が全部払いますから!」
権藤が自分のグラスに手酌で注ぎ足し、また一気に飲み干した。
グビグビと音を立てて。
会長が、悲鳴を上げそうな顔でそれを見ている。
「ご、権藤さん……本当に、これを貴方が……?」
「当たり前でしょ! 俺の奢りです! いやー、酸っぱいけど、飲んでると結構イケますねこれ!」
権藤はすでに顔を真っ赤にし、呂律が回り始めていた。
アルコール度数ではない。この場の「異常な空気」に酔い始めているのだ。
「桐生! お前も飲め! 今日は無礼講だ!」
「いえ、私は勤務中ですので」
「ノリが悪い奴だなあ! じゃあ俺が飲む! もったいねえからな!」
権藤はボトルの首を掴み、自分のグラスにドボドボと注いだ。
貴重な澱が舞い上がり、液体が濁る。
西園寺会長が、耐えきれずに目を背けた。
私は静かに、その光景を見守った。
飲め。飲むがいい。
その一杯が、貴方の年収分だ。
その一口が、貴方の退職金だ。
一滴残らず胃袋に収めた時、貴方の人生という名のコース料理は、最悪のデザート(請求書)と共に幕を閉じることになる。
「っぷはー! 空いたぞ! 次だ次! もっと高いの持ってこい!」
空になったボトルを、権藤がテーブルに無造作に置いた。
一九四五年の至宝が、ただの空き瓶になった瞬間だった。
私はジャンに目配せをした。
ジャンは青ざめた顔で頷き、伝票の準備に入った。
さあ、チェックの時間だ。
権藤部長、貴方の「飲みニケーション」の代償、支払っていただきましょうか。
「おい、会計だ! 店員!」
権藤がふんぞり返ったまま、汚い手で指を鳴らした。
空になったロマネ・コンティのボトルが、テーブルの上で悲しげに転がっている。
給仕長のジャンが、銀色のトレイに載った黒革のビルホルダーを恭しく運んできた。
その足取りは、死刑執行人のように静かで、重々しい。
「お会計でございます」
「おう、置いとけ。……ったく、酸っぱいワインだったな。次はもっと甘いやつを頼むか」
権藤は、西園寺会長の方を向き、ニヤニヤと笑いかけた。
「会長、どうです? 高い酒ってのは、案外大したことないでしょ? 結局はビールのほうが美味いんですわ!」
西園寺会長は答えない。
ただ、ハンカチで額の汗を拭いながら、憐れむような目で権藤を見つめていた。
それは、これから屠殺される家畜を見る目に似ていた。
「よし、払うか。桐生、カード出せ。法人カードだ」
権藤が顎でしゃくる。
私は内ポケットから、会社のゴールドカードを取り出した。
限度額は三百万円。
通常の中小企業の接待なら十分な額だ。通常なら。
「部長。カードを切る前に、金額のご確認をお願いします。経理規定のルールですので」
「あ? いちいち細かいな。いくらだよ。十万か? 二十万か?」
権藤は面倒くさそうにビルホルダーを開いた。
ペラッ。
その瞬間、権藤の動きが止まった。
時が止まったかのように、微動だにしない。
赤ら顔だった頬から、サーッと血の気が引いていくのが目に見えてわかった。
代わりに、額からどっと脂汗が噴き出す。
「……は?」
乾いた声が漏れた。
権藤は目をこすり、もう一度伝票を覗き込む。
そして、ビルホルダーを顔に近づけ、桁を指で数え始めた。
「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……じゅうまん、ひゃくまん……いっせん……?」
ガタガタと、テーブルが揺れた。
権藤の膝が震えているのだ。
「お、おい! 店員! どうなってんだこれ! 間違ってるぞ!」
権藤が裏返った声で叫んだ。
「三千八百万円って書いてあるぞ! ゼロが二つ多いんだよ!」
三千八百万円。
都内の新築マンションが買える金額だ。
店内に、再び静寂が訪れる。
ジャンは眉一つ動かさず、冷徹に答えた。
「いいえ、間違いございません。ロマネ・コンティ一九四五年。世界で最も希少なヴィンテージであり、当店のセラーで五十年間管理されてきた至宝でございます。時価で三千八百万円。サービス料を含めますと、四千百八十万円になります」
「よ、四千……ッ!?」
権藤が泡を吹いて椅子から転げ落ちそうになった。
「ふ、ふざけるな! ぼったくりだ! 警察を呼ぶぞ! たかが酒一本でそんな値段があるわけねえだろ!」
「ございますよ、権藤さん」
静かな、しかし威厳のある声が響いた。
西園寺会長だ。
「一九四五年のロマネ・コンティ。先の大戦を生き延び、フィロキセラ禍の前にボトリングされた奇跡の六百本。オークションに出れば、五千万円の値がつくこともあります。むしろ、この店の価格は良心的だ」
「ご、ごせんまん……?」
権藤がパクパクと口を開閉させる。
現実を受け入れられない脳が、ショート寸前の火花を散らしているようだ。
「そ、そんな……だって、桐生が……」
権藤が、縋るような目で私を見た。
「お前、知ってたのか!? これがそんなにするって!」
「はい、存じておりました」
私は無表情で答えた。
「ですから確認しました。『一番高い酒でいいのか』『金に糸目はつけないのか』と。部長は仰いましたね。『俺が許可する』『予算は青天井だ』と」
「だ、だからって限度があるだろ! 普通は数十万の話だと思うだろ!」
「部長は『俺の顔を立てろ』とも仰いました。中途半端な額のワインでは、西園寺会長をお迎えするのに失礼にあたると判断しました」
私はさらに追い打ちをかけるように、スマホの画面を見せた。
そこには、昨夜のやり取りを録音した音声波形が表示されている。
――金に糸目はつけるな!
――一番高いやつを持ってこい!
――無礼講だ!
「証拠もあります。部長の明確な業務命令として、このワインを発注しました」
「き、貴様ぁ……ハメやがったな!」
権藤が私に掴みかかろうとした。
だが、酒と恐怖で腰が抜けており、その手は空を切った。
「さあ、お支払いを。法人カードの限度額は三百万円ですから、残りの三千八百八十万円は、部長個人のカードか、あるいは誓約書へのサインで対応いただくことになります」
「払えるわけねえだろ! 俺の年収の何倍だと思ってるんだ!」
権藤が泣き叫ぶ。
見苦しい。あまりにも見苦しい。
一流の店で、一流の酒を飲み、三流の振る舞いをする。
西園寺会長が、深いため息をついて立ち上がった。
「……幻滅しました」
その一言で、権藤が凍りついた。
「権藤さん。貴方は、人類の遺産とも呼ぶべき芸術品を、ただのアルコールとして喉に流し込んだ。味もわからず、価値も知らず、ただ見栄のためだけに」
「か、会長、違うんです、これは……」
「取引の話は白紙に戻します。このような野蛮な感性の持ち主と、美しい街づくりなどできるはずがない」
西園寺会長はナプキンをテーブルに置き、私の方を向いた。
その表情は、打って変わって穏やかだった。
「桐生さん。素晴らしいワインでした。私の人生で、これほどの逸品に出会えるとは思いませんでした。……香りだけで、十分に楽しませていただきましたよ」
「恐縮です。本来なら、もっとゆっくりと味わっていただきたかったのですが」
「いいえ、良いものを見せていただきました。……ところで」
会長が懐から名刺を取り出し、私に差し出した。
「もし今の会社に未練がないなら、うちに来ませんか? 貴方のような、本物の価値がわかる人材が欲しい」
「……!」
「貴方の所作、ワインの注ぎ方、そして店員との阿吽の呼吸。ただの営業マンではありませんね? 元同業者とお見受けしますが」
バレていたか。
私は苦笑し、名刺を両手で受け取った。
「光栄なお誘いです。前向きに検討させていただきます」
会長は満足げに頷き、出口へと歩き出した。
取り残されたのは、私とジャン、そして絶望の底に沈んだ権藤だけだ。
「ま、待ってください会長! 契約は! 金は! この請求書はどうするんですかああああ!」
権藤が床を這いずって追いかけようとするが、屈強なギャルソンたちに前を塞がれた。
「お客様。お支払いがまだです」
「知らねえよ! 俺は払わねえぞ! 会社の経費だ! 社長に言え!」
「部長」
私は冷ややかに見下ろした。
「この金額、経理が通すと思いますか? 稟議もなしに四千万円の接待費。間違いなく、特別背任で訴えられますよ。刑務所行きですね」
「ひっ……」
「店側も警察を呼ぶ準備をしています。無銭飲食は現行犯逮捕です」
サイレンの音が、遠くから聞こえてくるような気がした。
権藤の目から光が消える。
彼は震える手で、胸ポケットから自分の財布を取り出した。中に入っているのは、数枚のクレジットカードと、なけなしの現金数万円だけ。
四千万円という巨壁の前では、塵のような額だ。
「桐生……頼む、助けてくれ……。俺には、家のローンも、娘の学費も……」
鼻水を垂らして懇願する上司。
私はその姿を見ても、何の感情も湧かなかった。
ただ、胸ポケットから一通の封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。
「退職願です」
「え……?」
「この会社では、本物の仕事ができないと悟りましたので。あとの処理は、部長の『飲みニケーション』力でなんとかしてください。腹を割って警察と話せば、きっとわかってくれますよ」
私は権藤の肩をポンと叩いた。
「お酒は、身の丈に合ったものを楽しむのが一番ですよ。……それでは」
私は踵を返し、出口へと向かった。
背後で、権藤の絶叫と、何かが砕け散る音が聞こえた気がしたが、振り返らなかった。
店の外に出ると、夜風が心地よかった。
西麻布の街灯が、いつもより明るく見える。
スマホを取り出し、先ほど貰った名刺の番号を登録する。
次の職場では、美味しいワインを、本当に価値のわかる人たちと楽しめそうだ。
私は夜空を見上げ、小さく乾杯の仕草をした。
Santé(乾杯)。
私の、新しい人生に。
学生の皆さんへ、
社会人の皆さんへ、
こんなことは普通あり得ませんので。




