紙こそが信頼の証!何でも私に承認印をもらいに来なさい」とお局様が言うので
帝都商事の総務部には、独特の匂いがある。
古びた紙の酸化した匂い、朱肉の油臭さ、そして、澱んだ人間関係が発酵したような湿った空気。
ここだけ、昭和から時計の針が止まっているようだ。
私は、自分のデスクでノートパソコンを開いていた。
画面には、新しく導入予定の「クラウド経費精算システム」の管理画面が映っている。
「……桂木さん」
背後から、氷点下の声が降ってきた。
カツ、カツ、カツ。
ヒールの音ではない。健康サンダルを引きずる独特の足音だ。
振り返ると、そこには「女帝」が立っていた。
毒島マツ子。勤続三十年。この総務部の絶対権力者であり、DXの最大の障壁である。
彼女は分厚い老眼鏡の奥から、汚物を見るような目で私のパソコンを睨みつけていた。
「おはようございます、毒島さん」
「挨拶はいいわ。……あなた、また勝手なことしてるの?」
毒島の手には、私が昨日提出した「備品管理のデジタル化提案書」が握られている。
彼女はそれを、私の目の前でビリビリと破り捨てた。
紙吹雪が舞う。
「あ」
「『あ』じゃないわよ。何度言ったらわかるの? うちは老舗なの。そんなチャラチャラしたデジタルなんて、信用できないって言ってるでしょ」
毒島は破り捨てた紙屑を、私のキーボードの上に撒き散らした。
「でも毒島さん、現行の台帳管理では、在庫のズレが月に十万円以上発生しています。それに、社員がいちいち総務まで来てハンコをもらう時間は、全社的な損失です」
「損失? 何を言ってるの」
毒島が鼻で笑った。
「わざわざ足を運んで、顔を見て、『お願いします』と頭を下げる。それが仕事の基本でしょう? ボタン一つで済ませようなんて、**『心がこもっていない』**のよ」
心。
また出た。非効率を正当化するための最強の盾。
在庫管理に必要なのは心ではなく、正確な数値だ。
「それにね、**『これだから派遣さんは』**困るのよ。会社の伝統も知らないで、好き勝手いじくり回して。壊れたら誰が責任取るの?」
「システム会社が保守しますが」
「信用できないわよ! サーバー? クラウド? そんな雲みたいな場所に大事なデータを置けるわけないじゃない!」
毒島は自分のデスクを指差した。
そこには、地震が来たら圧死確実なほどのファイル棚がそびえ立っている。
「紙こそが正義。紙こそが信頼。そして、そこに押されたハンコこそが責任の重さなの。……あなた、まさかハンコの重みを知らないわけじゃないわよね?」
「存じております。日本の伝統文化ですね」
「わかってるなら、余計な機械を使わないでちょうだい。**『手抜きしないで』**、ちゃんと汗をかきなさい」
彼女にとって、効率化は「手抜き」と同義らしい。
毒島は、朱肉で汚れた人差し指を私の鼻先に突きつけた。
「いい? 今後、一切のデジタル化は禁止します。備品の購入、出庫、伝票処理、すべて今まで通り『紙』で出しなさい」
「……すべて、ですか?」
「ええ、すべてよ。鉛筆一本、コピー用紙一枚に至るまで、管理台帳に記入して、私のところに持ってきなさい。私が中身を確認して、承認印を押す。それがルールよ」
毒島は胸を張り、得意げに宣言した。
「**『何でも私に承認印をもらいに来なさい』**。私が総務の責任者なんだから、すべての物の動きを把握する必要があるの。勝手な判断は許さないわよ」
私の思考回路の中で、カチリ、とスイッチが切り替わる音がした。
彼女は今、言った。
「すべて」と。
「何でも」と。
それはつまり、業務のボトルネックをすべて自分自身に集約させるという宣言だ。
通常なら自殺行為だが、彼女は自分の処理能力と、総務の業務量を正しく理解していないらしい。
「承知いたしました。毒島さんの方針に、全面的に従います」
私は深く頭を下げた。
顔を伏せたまま、口元だけで笑う。
「では、今後は決して自己判断せず、どんな些細なことでも毒島さんの決裁を仰ぐように徹底いたします」
「ふん、わかればいいのよ。……まったく、**『最近の若い子は』**、言われないとわからないんだから」
毒島は満足げに頷き、自分の城へと戻っていった。
ドスン、と椅子に座り、煎餅を齧りながらワイドショーの話を隣のパート社員にし始める。
彼女は知らない。
自分が今、パンドラの箱を開けたことを。
私はスマホを取り出し、本当の雇用主――コンサルティングファームの上司にメッセージを送った。
『ターゲットの言質確保。プランB、徹底的な遵法闘争に移行します』
私は引き出しから、帝都商事の「物品管理規定(昭和六十年制定)」を引っ張り出した。
埃を被ったその古い規定書には、実に細かく、そして現代では到底実行不可能なほど厳格なルールが記されている。
・消耗品の出庫は、一単位ごとに「出庫伝票」を作成すること。
・伝票には、使用目的、使用予定者、管理責任者の捺印を要する。
・一万円未満の購入であっても、三社以上の相見積もりを取り、決裁者の承認を得ること。
これまでは、現場の判断でなあなあに済ませていた形骸化したルール。
だが、毒島は言った。「ルールを守れ」と。
ならば守ろう。
死ぬほど厳密に。
私はエクセルを開き、マクロを組み始めた。
効率化のためのマクロではない。
「大量の申請書」を、一瞬で爆発的に生成するための、悪魔のプログラムだ。
翌朝。
総務部の空気が変わった。
私のデスクの横には、うず高く積まれたA4用紙の山脈ができていた。
その高さ、約一メートル。
枚数にして、一万枚。
出社してきた毒島が、その白い塔を見て目を丸くした。
「な、なによこれ。嫌がらせ?」
「おはようございます、毒島さん。本日の朝一番の『承認申請』です」
私は爽やかに挨拶し、最初の一束――厚さ五センチほどの書類の束を手に取り、彼女のデスクへ運んだ。
ズシリ、と重い音が響く。
「各部署から要望のあった、本日の消耗品出庫依頼です。毒島さんの仰る通り、一つも漏らさず、全て紙に起こしました」
「はあ? こんなにあるわけないでしょ!」
「ありますよ。例えばこれ」
私は一番上の紙を指差した。
『品名:ゼムクリップ(小) 数量:1個 用途:営業部資料作成のため』
「……は?」
「クリップ一箱ではありません。一個です。在庫管理を厳密にするなら、個数単位で管理すべきですよね? 営業部にはクリップが五百個必要だそうなので、伝票も五百枚あります」
毒島の目が点になった。
「ば、馬鹿じゃないの!? 一箱で申請すればいいじゃない!」
「いいえ、規定書第4条には『最小使用単位で管理すること』とあります。それに毒島さんは仰いましたよね。『鉛筆一本まで管理しろ』と」
私は次の束を積み上げた。
「こちらはコピー用紙です。一枚ごとの申請書になります。本日は全社で五千枚の使用予定がありますので、これでもまだ午前中の分だけですが」
「ご、五千枚……!?」
「さあ、毒島さん。お願いします」
私は彼女の愛用している象牙の高級ハンコを、彼女の手に握らせた。
「ハンコは責任の重さ、でしたよね? 社員の皆さんが、貴女の承認を待って仕事が止まっています。心を込めて、一枚ずつ、しっかりと確認して押してください」
毒島の手が震えている。
五千枚。
一秒に一回押したとしても、一時間半はずっとハンコを押し続けなければならない。
しかも、中身を確認しろと言ったのは彼女自身だ。
「さあ、早く。手抜きしないでくださいね?」
私の冷徹な声と共に、総務部での「ハンコ地獄」の幕が上がった。




