『「もっとインパクトを出せ」と部長が言うので、言われた通り全フォントを「極太明朝体」にして、背景を虹色に発光させておきました ~クライアントの前で恥をかくのは私ではありません~』
深夜二時のクリエイティブ局。
私のデスクにある二十七インチの4Kモニターには、一つの「静寂」が映し出されていた。
漆黒の背景。
中央に浮かび上がる、銀色の機械式時計。
そして、余白を贅沢に使って配置された、極細の明朝体によるキャッチコピー。
――時を、鎮める。
完璧だ。
私はマウスから手を離し、熱を持った目頭を指で揉んだ。
今回担当するのは、創業百五十年を誇る最高級時計ブランド『如月』の国内キャンペーンポスターだ。
クライアントである如月社長の要望はただ一つ。「格式」である。
流行りの派手な装飾を嫌い、引き算の美学を愛する老舗。その哲学を体現するために、私は三週間かけて、一ミリ単位のレイアウト調整を行ってきた。
静かで、重厚で、美しい。
これなら勝てる。
そう確信して、保存のショートカットキーを押そうとした時だった。
「おーう、一ノ瀬ちゃん。やってるねえ」
背後から、独特の甘ったるい香水の匂いと、タバコの不快な臭いが漂ってきた。
心臓が嫌な音を立てる。
振り返らなくてもわかる。この深夜に、こんな軽薄な足音で近づいてくる人間は一人しかいない。
クリエイティブ局長、大御所剛。
バブル時代にたまたま一本のCMを当てただけで、その地位に居座り続けている過去の遺物だ。
「お疲れ様です、大御所部長。如月案件のデザイン、最終調整が終わりました」
私は極力感情を殺した声で報告し、画面を示した。
大御所は脂ぎった顔を画面に近づけ、フンフンと鼻を鳴らす。
その視線が、私が心血を注いだ「余白」の上を滑っていく。
嫌な予感がした。
この男は、余白を「手抜き」と認識するタイプの人間だ。
「うーん……一ノ瀬ちゃんさあ」
大御所が、ねっとりとした声で言った。
「これ、寂しくない?」
来た。
私は奥歯を強く噛み締めた。
「寂しい、とは?」
「なんかさあ、スカスカじゃん。黒いし。お葬式? これじゃあ消費者のマインドにフックしないよ」
大御所は画面を指でペタペタと触りながら、信じられない言葉を吐いた。
「もっとさ、こう、**『インパクト』**が欲しいんだよね。ガツンと来るやつ」
インパクト。
広告業界で最も無能な人間が好んで使う、魔法の言葉。
具体性はゼロ。ただ「俺の好みに合わせろ」という意味だ。
「部長。今回のクライアントは『如月』様です。静謐さと高級感を求めておられます。インパクト重視の派手なデザインは、ブランドイメージを損ないます」
「だからぁ、それが古いんだって。一ノ瀬ちゃんは真面目すぎるのよ」
大御所は私の肩に馴れ馴れしく手を置いた。生理的な嫌悪感で鳥肌が立つ。
「今は令和だよ? SNSでバズってなんぼの世界じゃん。こんな地味な画像、誰も拡散しないよ。もっと**『エモい』**感じにしないと」
伝統工芸品のような時計に、エモさなど必要ない。
だが、大御所の瞳は、自分の思いついた浅はかなアイデアに酔いしれて輝いている。
「文字、もっと大きくしよっか。読めないよこれじゃ」
「このフォントサイズは、時計の盤面との黄金比で決めています。これ以上大きくするとバランスが崩れます」
「バランスなんていいのよ! お客さんに伝わらなきゃ意味ないでしょ! 文字は今の三倍……いや、五倍だ!」
五倍。
それでは時計が隠れてしまう。
「それとさ、このフォント。細くて弱々しいなぁ。もっと力強いやつないの? 極太のゴシック体とかさ。筆文字とかでもいいかもね! 和風だし!」
絶句した。
洗練されたセリフ体を、極太ゴシックに。あまつさえ筆文字に。
それはもはや、高級時計の広告ではない。居酒屋のランチメニューだ。
「部長、それは本気でおっしゃっていますか」
「大本気だよ。俺の長年の勘がそう言ってる。**『素人の意見も大事だよ』**、一ノ瀬ちゃん」
プロの技術への冒涜。
視界が怒りで赤く染まりそうになるのを、必死で堪える。
だが、大御所の暴走は止まらない。彼は私のマウスを勝手に奪い取り、カーソルを動かし始めた。
「あと、この黒い背景。暗いよー。もっとハッピーな感じにしようよ。虹色とかどう? グラデーションかけてさ」
「……虹色、ですか」
「そう! 多様性の時代だしね! レインボー! そこに金色の文字でドーンと商品名を入れる。うん、それがいい。それが**『刺さるクリエイティブ』**ってやつだよ」
私はこめかみに激痛を感じた。
漆黒の宇宙に浮かぶ星のようなデザインを、極彩色のネオン街に変えろと言っているのだ。
それはデザインではない。テロだ。
「大御所部長。明日のプレゼン、如月社長も出席されます。そんなデザインを出せば、契約打ち切りもあり得ます」
「大丈夫だって! 俺と如月の先代社長はマブダチだったんだから! 俺の言う通りにすれば間違いないの!」
根拠のない自信。過去の栄光へのすがりつき。
この男の頭の中では、まだ三十年前のバブルが弾けていないらしい。
「ほら、やってみてよ。**『シュッとして』**るけど**『グッとくる』**感じでさ。あと**『遊び心』**も忘れずにね!」
大御所は言いたいことだけ言うと、「期待してるよ」と捨て台詞を吐いて、自身の個室へと戻っていった。
残されたのは、私と、静寂なモニター。
そして、耳に残る呪いの言葉たち。
――インパクト。
――五倍の文字サイズ。
――虹色の背景。
――筆文字。
――遊び心。
私は深い溜息をつき、引き出しから頭痛薬を取り出して飲み込んだ。
戦うか?
いや、無駄だ。
先週も、別の案件で彼の指示に逆らった後輩が、「協調性がない」という理由でプロジェクトから外された。この会社では、クリエイティブ局長の言葉は絶対なのだ。
私が徹夜で守り抜いた美学は、彼の気まぐれ一つでゴミ箱行きになる。
悔しさが涙となって滲みそうになる。
だが、その時。
ふと、大御所が去り際に言った言葉が脳裏をよぎった。
『俺の言う通りにすれば間違いないの!』
……そうか。
言う通りにすれば、いいのか。
私の心の中にあった熱い怒りが、急速に冷却されていくのを感じた。
代わりに湧き上がってきたのは、氷のように冷徹な好奇心だ。
彼が望むものを、一〇〇パーセント、いや、一二〇パーセントの純度で再現したら、どうなるだろうか。
彼の言う「インパクト」とやらを、私の持てるすべての技術を使って、文字通り具現化してみせたら?
私はスマートフォンを取り出し、ボイスレコーダーアプリを確認した。
録音時間は十分。大御所の指示は、一言一句漏らさず記録されている。
さらに、私は新規メールを作成した。
宛先は、制作チーム全員。そしてCCには、営業部長と大御所本人を入れる。
件名:【重要】大御所部長による最終修正指示の共有について
私はキーボードを叩き始めた。
指先が軽い。
まるでピアノを弾くように、破滅への旋律を紡いでいく。
『お疲れ様です。一ノ瀬です。
先ほど大御所部長より、明日のプレゼンに向けた画期的なディレクションを頂きました。
従来の常識を覆す、非常に斬新なアイデアです。
つきましては、以下の指示をすべて忠実に反映させた最終稿を作成いたします。』
・文字サイズを現在の五倍に変更
・フォントを極太の筆文字に変更
・背景を単色黒から、虹色のグラデーションに変更
・「遊び心」を追加するため、時計の針をキャラクター化する
私は送信ボタンを押した。
一秒も経たずに、送信完了の通知が出る。
これで、証拠は残った。
誰も止められない。止めさせない。
私はモニターに向き直った。
さようなら、私の愛した静寂。
そしてようこそ、極彩色の地獄。
私はフォトショップのレイヤーをすべて統合し、躊躇なく「彩度」のスライダーを最大まで引き上げた。
画面が毒々しい色に染まる。
美しい時計が、安っぽいおもちゃのように歪んでいく。
心が痛まないわけではない。
だが、それ以上に楽しみだった。
明日のプレゼン。
格式を重んじる如月社長が、この「傑作」を見た時。
そして、それを自信満々で披露する大御所部長の顔が、どんな色に染まるのか。
きっと、この虹色の背景よりも、鮮やかな土色になるに違いない。
私は口角を吊り上げ、ペンタブレットを握りしめた。
さあ、仕事の時間だ。
最高に「インパクト」のあるゴミを作ろう。
午前四時。
クリエイティブ局の静寂は、私のマウスをクリックする乾いた音だけが支配していた。
カチッ、カチッ、カチッ。
その音は、時限爆弾のタイマーのようにも、狂った時計の針の音のようにも聞こえる。
私の目の前にあるモニターは、数時間前とは完全に別の次元へと変貌を遂げていた。
かつて漆黒の宇宙だった背景は、いまや原色の虹色グラデーションで埋め尽くされている。
赤、黄、緑、青、紫。
彩度を限界まで引き上げたその配色は、長時間直視していると網膜が焼け付きそうなほどの攻撃性を放っていた。
高級感など微塵もない。あるのは、深夜のドン・キホーテのポップのような、騒々しい安っぽさだけだ。
私は無表情のまま、レイヤーパネルを操作する。
次はフォントだ。
大御所部長の指示通り、繊細な明朝体を削除し、極太の筆文字フォント『闘魂体』を選択する。
キャッチコピーの「時を、鎮める。」という静謐な言葉が、まるでプロレスの興行ポスターのように猛々しく画面中央に鎮座した。
さらに、私は禁断の加工に手を染める。
文字の周囲に太い白フチを付け、さらにその外側に金色のドロップシャドウを落とす。
デザイナーの教科書があるならば、最初のページで禁じられているような「ダサさ」のフルコース。
だが、私の手は止まらない。
――遊び心も忘れずにね!
脳裏にこびりついた大御所の声を反芻する。
遊び心。
格式高い如月の時計に、遊び心。
私はフリー素材サイトを開き、一つのイラストをダウンロードした。
サングラスをかけたファンキーな太陽のキャラクターが、親指を立てて「イイネ!」をしているイラストだ。
これを、時計の盤面の真横に配置する。
そして、そのキャラクターに吹き出しをつけ、こう言わせた。
『マジ最高!』
吐き気がした。
物理的に、胃液が逆流しかけた。
創業百五十年、皇室献上品にも選ばれた至高の工芸品に対し、これほどの冒涜があるだろうか。
これはデザインではない。暴力だ。
だが、これは私の作品ではない。大御所剛という男の脳内にある「理想」を、忠実にこの世に顕現させただけのものだ。
「……先輩、何してるんですか?」
背後から、怯えたような声がした。
徹夜組の後輩デザイナー、木下が、幽霊でも見るような目で私のモニターを凝視している。
「一ノ瀬先輩、それ、バグですか? データが破損したんじゃ……」
「いいえ、正常よ。これが最終稿」
「は……?」
木下の口がポカンと開く。
彼は私の過去の作品を尊敬してくれている優秀な後輩だ。だからこそ、目の前の光景が信じられないのだろう。
瞳孔が揺れている。
「先輩、疲れてるんですね。少し休んだ方がいいです。そんな、パチンコ屋のチラシみたいな画像を如月さんに出すなんて、正気じゃありません」
「木下君。これは大御所部長の直接指示なの」
「え?」
「文字は五倍。背景は虹色。遊び心を入れてインパクトを出せと。すべて指示通りよ」
私は淡々と告げた。
木下の顔色が、青を通り越して土気色に変わる。
「で、でも! これじゃ先輩のキャリアに傷がつきます! こんなの出したら、デザイナーとして終わっちゃいますよ!」
「大丈夫。ちゃんと名前は入れてあるから」
私は画像の右下を拡大して見せた。
そこには、通常なら小さく入れるクレジットが、極太ゴシック体で堂々と記されていた。
Creative Director: T.OGOSHO
「私の名前は消したわ。これは純度一〇〇パーセント、大御所部長の作品よ」
「……先輩、まさか」
木下は何かを察したのか、ゴクリと喉を鳴らした。
私は唇に人差し指を当てる。
「静かに。あと三時間で部長が出社してくる。それまでに、これを最高画質で出力してパネルに貼るわよ」
午前九時。
オフィスのドアが開き、大御所が上機嫌で入ってきた。
手にはスタバのカップ。昨夜の酒が残っているのか、顔は少し赤い。
「おっはよー! どう、一ノ瀬ちゃん。できた?」
私はデスクの上の、布をかけて隠しておいたA2サイズのプレゼンパネルを指差した。
「おはようございます。ご指示通り、修正完了しております」
「おっ、仕事が早いねえ! どれどれ、俺の魂のディレクションがどう具現化されたか、見せてもらおうか」
大御所が布を勢いよくめくった。
バサッ。
その瞬間、周囲の空気が一変した。
通りがかった営業部の社員が足を止め、二度見し、そして恐怖に顔を引きつらせて去っていく。
蛍光灯の光を反射し、虹色の悪魔が鎮座している。
中央でサングラスをかけた太陽が「マジ最高!」と叫んでいるその異様さは、神聖な静寂に包まれた朝のオフィスにおいて、核廃棄物のような存在感を放っていた。
沈黙。
大御所が、口を開けたまま固まっている。
やったか?
さすがに彼も、視覚を持った人間だ。これを見れば自分の指示の愚かさに気づき、「元に戻せ」と言うかもしれない。
そうなれば、私の復讐は失敗だ。単なる徹夜損で終わる。
心臓が早鐘を打つ。
どうだ。どう反応する。
数秒後。
大御所の顔が、満面の笑みでくしゃりと歪んだ。
「これだよ!!」
バンッ、とパネルを叩く音。
私は耳を疑いそうになったが、表情筋を総動員して無表情を維持した。
「いやあ、素晴らしい! これぞ俺が求めていたインパクトだ! 見てよこの躍動感! やっぱり俺の目は間違ってなかったなあ!」
本気か。
この男の美的感覚は、とうの昔に壊死しているとは知っていたが、ここまでとは。
腐敗臭すら漂ってきそうなデザインを見て、彼は恍惚の表情を浮かべている。
「一ノ瀬ちゃんさあ、最初からこれを出してよ。昨日のあのお通夜みたいな写真、今思うとゾッとするね」
「……お気に召して光栄です」
「最高だよ。特にこのサングラスのキャラ! これ、ハズしが効いてていいよねえ。若者への訴求力バツグンだよ」
「はい。部長の仰った『遊び心』を最優先に解釈いたしました」
大御所はパネルを愛おしそうに撫で回している。
もはや、つける薬はない。
私は引き出しから一枚の書類を取り出した。
「部長。では、このデザインで本日のプレゼンに臨むということで、最終承認のサインをお願いします」
「ん? ああ、いつものやつね」
『クリエイティブ最終確認書』。
制作物がクライアントに提出される前に、責任者が内容を保証するための書類だ。
ここにサインがなされた瞬間、このデザインに関する全責任は、法的に彼のものとなる。
「はいはい、っと」
大御所は中身を読みもせず、ミミズがのたうち回ったような字で署名した。
ペンのインクが紙に染み込む。
それは、彼自身のキャリアが終わる音に聞こえた。
「ありがとうございます。では、私はデータの準備をしてまいります」
「頼むよ! いやあ、今日のプレゼンは盛り上がるぞお。如月の社長、腰抜かすんじゃないか?」
ええ、抜かすでしょうね。
腰どころか、怒りで血管の二、三本は切れるかもしれません。
午後一時。
私たちは、如月本社の重厚な会議室にいた。
樹齢数百年の一枚板で作られたテーブル。壁には歴代当主の肖像画。
空調の音すら聞こえないほどの静寂。
その上座に、和服を着た白髪の老紳士――如月社長が座っている。
隣には、切れ者と噂される経営企画室長も控えている。
空気は張り詰めていた。
この場にいるだけで背筋が伸びるような、本物の品格。
だが、私の隣に座る大御所だけは、貧乏ゆすりをしながらニヤニヤしていた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
大御所が立ち上がり、大げさな身振りで話し始めた。
「御社の新しい百年を切り拓く、革新的なクリエイティブをお持ちしました。これまでの古い殻を破り、若者の心を鷲掴みにする……まさに『イノベーション』です」
如月社長が、静かに眉を動かした。
古い殻。その言葉に微かな不快感を示したのが見て取れたが、大御所は気づかない。
「では、ご覧ください。これが、令和の如月です!」
大御所が高らかに宣言し、手元のリモコンを押した。
プロジェクターが光を放つ。
壁一面のスクリーンに、あの『虹色の悪夢』が映し出された。
ドォォォォン……。
会議室の空気が、凍りついたのではない。
死んだ。
原色の光が、伝統ある会議室の壁を汚染していく。
サングラスをかけた太陽が、巨大なスクリーンで「マジ最高!」と、社長を見下ろしている。
……しん、とした静寂。
誰も言葉を発しない。
呼吸音さえ消えた。
大御所だけが、その沈黙を「感動による絶句」だと勘違いし、ドヤ顔でスクリーンを指差した。
「どうです社長! このインパクト! 文字も読みやすいでしょう? これならSNSでバズること間違いなしです! これこそが、私の提唱するシナジー効果で……」
カチャリ。
湯呑みが置かれる音が、銃声のように響いた。
如月社長の手元だ。
陶器がソーサーに当たっただけの音が、これほど恐ろしく響くとは。
大御所がようやく言葉を止め、社長の方を見る。
社長は、画面を一切見ていなかった。
ただ、目を閉じて、深く、深く息を吐いていた。
「……大御所くん」
社長が口を開いた。
その声は、地底から響くような低音だった。
「はい! いかがでしょうか!」
「帰れ」
「……へ?」
「今すぐこの薄汚い画像を消して、私の目の前から消え失せろと言っているんだ」
社長が目を開けた。
その瞳には、侮蔑と激怒の炎が、青白く燃え盛っていた。
隣にいた経営企画室長が、氷のような声で補足する。
「当社のブランドイメージを、ここまで愚弄されたのは百五十年の歴史で初めてです。これは提案ではありません。宣戦布告と受け取ってよろしいですね?」
大御所の顔から、サーッと血の気が引いていく。
虹色のスクリーンに照らされた彼の顔は、まるで道化師のように滑稽で、そして死人のように蒼白だった。
「あ、いや、え? あの、これは、若者向けに……インパクトを……」
「インパクト?」
室長が冷笑した。
「確かにインパクトは絶大ですね。我々に対する、これ以上ない侮辱という意味で」
さあ、ショータイムの始まりだ。
私は手元のノートPCを閉じ、静かに姿勢を正した。
大御所が、縋るような目で私を見てくる。
「なんとかしろ」と目で訴えている。
ええ、なんとかしますよ。
貴方にとどめを刺す準備は、すでに万端ですから。
「……これは、何かの間違いです!」
大御所部長の裏返った声が、凍りついた会議室に響いた。
彼はガタガタと震えながら、救いを求めるように私を指差した。
「そ、そうです! これは私の指示ではありません! この一ノ瀬が! 部下の彼女が勝手に暴走したんです! 私はもっとシックにしろと言ったのに、彼女が若者向けだと勘違いして!」
予想通りの反応だ。
窮地に陥った瞬間、部下を盾にする。この男の行動パターンは、三流の脚本よりも読みやすい。
如月社長の視線が、鋭い刃のように私に向けられた。
「……ほう。君がやったのか?」
「いえ、滅相もございません」
私はゆっくりと立ち上がり、一礼した。
そして、手元の資料の束から一枚の書類を取り出し、テーブルの上を滑らせて社長の前に差し出した。
「社長。そちらをご覧ください」
「なんだこれは」
「『クリエイティブ最終確認書』です。本日のプレゼンに使用するデザイン案について、全ての責任と権限を持つディレクターが署名したものです」
如月社長が書類を拾い上げる。
大御所が「あッ」と声を上げ、書類を奪おうと手を伸ばしたが、経営企画室長に遮られた。
「署名欄には……大御所剛、とあるな」
社長が低い声で読み上げる。
「さらに、備考欄も興味深い。『文字サイズ五倍』『背景は虹色』『キャラ追加』……すべて、大御所氏の直筆チェックが入っている」
大御所の顔色が、虹色から完全な白へと変わった。
呼吸が荒くなり、脂汗が滝のように床へ滴り落ちている。
「ち、違うんです! それは、その、流れ作業でつい……中身をよく見ずに……」
「自社の看板となるクリエイティブを、よく見ずに承認したと言うのかね?」
社長の声には、もはや怒りを通り越した呆れが滲んでいた。
「君の仕事に対する姿勢はよくわかった。これ以上、話すことはない」
社長が手元のリモコンに手を伸ばし、プロジェクターの電源を切ろうとした。
このままでは、商談自体が決裂する。
大御所が死ぬのは勝手だが、会社の利益まで損なうわけにはいかない。
ここだ。
私が動くべきタイミングは。
「社長。恐れ入りますが、もう一枚だけ、スライドをご覧いただけないでしょうか」
私の言葉に、社長の手が止まった。
「まだ何かあるのか? これ以上、私の目を汚そうというのではあるまいな」
「いいえ。大御所部長のディレクションが入る前、私が最初に提案しようとしていた『原案』がございます」
私は大御所からプレゼン用PCのマウスを奪い取った。
彼は抵抗する気力もなく、魂の抜けた人形のように椅子にへたり込んでいる。
私はキーボードを叩き、隠しフォルダに保存しておいたファイルを開いた。
「ご覧ください。これが、私が解釈した『如月』の姿です」
エンターキーを押す。
一瞬の暗転の後、スクリーンに光が戻った。
――静寂。
そこには、あの「虹色の悪夢」とは対極の世界が広がっていた。
深淵のような漆黒の背景。
その闇の中に、一筋の光を受けて鈍く輝く、銀色の機械式時計。
余計な装飾は一切ない。
ただ、圧倒的な製品の美しさだけが、そこにあった。
文字は、極細の明朝体で、小さく、しかし力強く添えられているだけ。
『時を、鎮める。』
部屋の空気が変わった。
先ほどまでの不快な騒音が消え去り、凛とした冷たい空気が流れ込んでくるようだ。
網膜を突き刺すような刺激はない。代わりに、心の奥底に染み入るような静けさがある。
社長が、身を乗り出した。
その瞳が、スクリーンの時計に釘付けになっている。
「……美しい」
その一言が、すべてだった。
隣の室長も、感嘆の息を漏らしている。
「これだ……。私が求めていたのは、この『重み』だ。百五十年という時間の重み。それを、この黒い余白が見事に表現している」
社長が震える声で言った。
そして、ゆっくりと私の方を向き、深く頷いた。
「お嬢さん。名前は?」
「一ノ瀬玲と申します」
「一ノ瀬さん。君は、我々の時計の音を聞いたことがあるのかね?」
「はい。祖父の形見が、如月の時計でした。あの静かで正確な秒針の音こそが、御社の魂だと思い、このデザインに込めました」
嘘ではない。
だからこそ、あの大御所の「騒音」のようなデザインが許せなかったのだ。
「そうか……。よく理解してくれている」
社長は満足げに微笑み、そして視線を大御所へと移した。
その瞬間、瞳の温度が氷点下まで下がった。
「さて、大御所くん」
「は、はい……!」
「君の部下は、これほど素晴らしい感性を持っている。それを君は、あの下品な色と文字で塗りつぶそうとしたわけだ」
「あ、いや、それは、時代のニーズに合わせて……」
「黙りたまえ」
社長が一喝した。
「君には美学がない。それどころか、部下の才能を潰し、顧客のブランドを毀損することに何の躊躇いもない。……我が社は今後、電脳堂とは取引を続けるつもりだ。この一ノ瀬さんのデザインを使いたいからな」
大御所の顔に、希望の色が浮かんだ。首の皮一枚繋がったと思ったのだろう。
だが、次の言葉がトドメを刺した。
「ただし、条件がある。今後、我が社の案件に君が一切関わらないこと。いや、君の顔を二度と見なくて済むようにしていただきたい」
「え……」
「室長、今の発言を電脳堂の役員に伝えておくれ。『担当を変えるか、契約を切るか』とな」
室長が冷ややかに「承知いたしました」と頷き、その場で電話を取り出した。
大御所が何かを叫ぼうとしたが、言葉にならない。
口をパクパクとさせ、椅子から崩れ落ち、四つん這いになった。
その姿は、あまりにも小さく、そしてみっともなかった。
自分のセンスに溺れ、他人の声を無視し続けた男の末路。
虹色に輝くはずだった彼の未来は、今、完全に色を失った。
***
プレゼンを終え、会社に戻るタクシーの中。
隣の席は空席だ。
大御所は「体調が悪い」と言って、そのままどこかへ消えた。おそらく、自分のデスクに戻って荷物をまとめる気力もないだろう。
私のスマートフォンが震えた。
後輩の木下からだ。
『先輩! 大変です! さっき人事部長が来て、大御所部長のPCを押収していきました! なんか関連会社への出向が決まったって噂です! 行き先は倉庫管理だとか……』
私は小さく息を吐き、窓の外を流れる東京の街並みを眺めた。
倉庫管理。
クリエイティブとは無縁の世界だ。
だが、彼にはお似合いかもしれない。そこなら誰の邪魔もせず、ダンボール箱の積み方で思う存分「インパクト」とやらを追求できるだろう。
ポケットから、あのボイスレコーダーを取り出す。
ここにはまだ、彼のパワハラの証拠がたくさん眠っている。
もし彼が抵抗するようなら、これを人事部に送りつけるつもりだったが、その必要もなくなったらしい。
私はレコーダーのデータを全消去した。
もう、彼の汚い声を聞く必要はない。
これからは、私が作る。
誰にも邪魔されず、静かで、美しいデザインを。
タクシーがトンネルに入った。
暗闇の中で、私の指先だけが微かに銀色に光って見えた気がした。
心地よい疲れと共に、私は深くシートに身を沈めた。
明日の朝は、久しぶりに美味しいコーヒーが飲めそうだ。




